入れ子

 加賀乙彦「砂上」その後。


  去っていく通訳の後ろ姿を、ただ暫く見ていた。
 ぼくの言葉に目を丸くして驚いた通訳は、眉を潜めて困ったような変な笑顔で肩をすくめて両手を広げた。それがとてもきざったらしい外国人のような、ミスターSつまりE国人じみていて、つまり日本人のようでなく、ぼくの胸をちりりとした不快感が掠めていって、黙ったままただ片眉を上げた。
「きみ。とりあえず今日は、寝る。ゆっくり寝て、それで考えるんだね」
 この話を終わらせようと、通訳は僕に言い聞かせるようにその拙い日本語で笑いかけて、片手をあげて軽く振りながら軍服の裾を翻して欠伸をしながら帰っていった。どこまでも日本人らしくない、歪な気がした。それがいいだの悪いだのは別として。
 だんだんと小さくなってゆくE国の軍服は、ぼくの目を細めさせた。溜め息をひとつ吐いた。
 月は既に上がっている。あと数時間、朝になったらとにかく辞意を告げなければ。メイドにもコックにも、ミスKに言っても仕様のないことだ。いや、ここを去る意志を告げて自由を表明することには意味はあるだろうが、解雇や雇用に関してはメイドもコックも同じ立場の使用人なのだし、ミスKに至ってはぼくの存在自体を空気のように捉えているので、だから意味がない。だからぼくは明日、他の大使館員を捕まえて事務手続きをしなければならない。それは館員と話をする、それだけでも考えただけで煩雑な気がして厭な気持ちになったが、《外》へ行くことへ意味もなく渇望したぼくはそれもまた仕方がないと、自嘲の笑みを浮かべ肩をすくめて自室へと足を運んだ。自分でも外国人じみた仕草してるじゃないか、と少し可笑しくなって口角を上げた。

 海に入ってベタ付いていた髪をシャワーで洗い流し、どうせこのまま出ていくのだ、と開襟と黒のズボンを穿いて外出するような格好になった。しかし、髪など乾かすのもおっくうなままにしていた。それは日記を書いていた間にだいぶ乾いてはいたが、完全には乾いていなかった。日記を放り出してベッドに寝転んだ。すこし伸びてしまった髪と頭皮の間にすぐ熱がこもって、それは大変不快だったが、そのままにしておいた。
 不思議と眠気はなかったが、気怠い。相変わらず聞こえるメイド達の囁き声は、目は閉じることは出来ても耳は出来ないので容赦なく入ってくる。白んだ空に符合するように、幽かに鳥の鳴き声が聞こえた。
 と、そこに全く異質の音が入り込んでぼくはその不調和に聞き耳を立てた。それは、革靴の音だ。大きな男の。始めそれはメイドのところから帰るミスターSかと思ったが、扉が開いた音もないしそうではない。第一その靴音は遠ざかるのではなく近づいている。確認をするほど好奇心も湧かなかったし、ともかく自分とは関係のないことだとそのまま寝ていたら、近づいた足音はぴったりぼくの室の前で止まったらしい。だしぬけにダンダンダン!と扉を乱雑にノックされたのだ。

 誰だ、面倒くさい。
 ぼくは酷く驚いたことを誰に隠そうとする訳でもなく、かわりに非常に不快な顔になった。そして、その嵐のように続くノックを一度やり過ごそうと思ったが、変わらず叩き続けられるので厭になって身を起こした。すこし、身体が軋んで、まるで筋肉痛のようだ。誰か解らないが、可能性があるとすれば通訳かも知れない。
 黙ってぼくは鍵の掛けていなかった扉を開ける。相手が扉を開けなかったことが不思議なくらいだ。そこには息を荒げて怒ったように顔が真っ赤になったGが立っていた。まるで本当に、オラン・ウータンだ。ぼくはこれがぼくの微睡みの見せる夢なのかと首を傾げたが、馴染んでしまったその幽かな相手の体臭が、ぼくを現実だと引き戻す。
 ぼくは解らないなりにも、通訳から先程の話を聞いたのだろうかと茫洋とした頭で、未だ無言で僕を見下ろすGを訝しげに見上げた。意思が通じていない、オラン・ウータン−そう動物のような、いや、ぼくという動物を見るような目だった。いずれにしても、Gとぼくとの間には大きな断絶があってお互いの意思を理解し得ていない現状なのは確かだ。彼が怒っているのかとぼくは判断したが、なにもGに怒られる謂われはないと心の片隅で思ったので黙ったままにしていた。そのとき遅ればせながら、常に微笑みを絶やさない自分の約束事を思い出して後悔し掛けたが、もうここを出ていくのだと言うことを思いだして、そのままにしておいた。
ややあって、一息溜め息のような深呼吸をした後にGは少し屈んでぼくと目線に合わせるようにしてから、大変掠れた声で囁いた。
「ここを、出ていくのか?」
 囁かれた声は反して非常に心配したような声音であり、ぼくはすこしながら意外であったけれども、それでも何か言葉を交わすのは億劫な気がして、一度瞳を伏せた。視界にぼくの長い睫毛がすだれを作った。そして困惑混じりの、自分で考え得る限りの素敵な微笑みで顔を上げ、ぼくは言葉がわからない偽装を見せてやった。
 すると一瞬の後に今度こそGの眉根が寄った。小さな目が細くなって更に見えなくなる。大きな口が盛大にへの字を見せた。そして噛みつくようにGはぼくの顔にずいと、その顔を寄せて少し苛立ちを見せながらも敢えて苦労して押さえ込んであろう苦々しい口調で僕に訴える。こんな顔は見たことがなかったので、少なからず驚いた。彼は一度言った言葉を打ち消してから、改めて言った。
「その微笑みは…いや。きみが英語を理解した上で、解らない振りをしているのは解っている」
 おや、解っていたのか。ぼくは非常に客観的な感想をもって目を瞬かせた。
 その微笑みって、これがなんだって言うんだ。心の中で少し詼りながらも、おくびには出さず。もっともその詼りは、Gに向けてではないことははっきりと自覚していた。
 そして、ぼくは掠れ気味の小さな声で拙い英語を返した。
「解ってたんですか」
 はじめてぼくは意志を持ってGと会話をした。そのことにGはその小さな目を精一杯大きくして驚きを表した後に、少し亢奮気味の口早な口調で呟いた。
「はじめて、俺に言葉を返したな…」
 なんでこんなにこの男はそんなことに拘泥しているのだ。普通E国人は、むしろぼくのような日本人の存在さえ認めないのではなかったのだろうか。思えば、Gはいつだってぼくにしつこい。稚児あつかいにしている相手、だけにしては度が過ぎている気がしたが、けだし子供がオモチャに持つような所有欲なのかも知れない。そんなことを思ったが、まるでなにか憑かれたようだとさえ思う。結局よくわからない。
 いずれにせよ、ぼくはGの真意がわからなくて、首を傾げた。その意味をGは「なぜぼくの演技を看破出来たのか疑問だ」と取ったのだろう、少し不機嫌そうにその大きな口から言葉を零す。
「当たり前だ。俺はきみを見てたんだから」
 益々持って意味がわからない。何を見ていたというのだ。
「わかりません」
 こんどこそ解らない、とぼくは本当に困惑した顔でGを見つめた。それをみてGは姿勢を元に戻して溜め息をついてから、ぼくを遠慮がちに見下ろしつつ言う。
「…入っていいか?」
「どうぞ」
 本当はこの時点でも余り話をしたくなかったし、する話もなかった。だが億劫ではなくなっていたので、その請いを受けてぼくはGを招き入れた。

 部屋の蒸し暑さにGは顔を顰めて、寝台へ深く腰掛けた。大きく軋んでベッドが啼いた。それを聞きながら、ぼくはすぐ傍らの机の椅子を引いた。少し耳障りな音を立てた。気怠くて、ぼくは背もたれに身体の左側を凭れさせるようにだらしなく腰掛けた。そんなぼくを見て、Gはふっと笑った。いや、ぼくが座って顔を上げたら笑っていたのだが、いかつい身体のいかつい顔にくっついたその小さな目がなんだかとっても優しそうな気がして、いままで子供じみたような気がしていた彼(それは彼だけでなく彼を含めた大人全員が、なのだけれど!)が年相応−ぼくより年上の男−に、きちんと感じられた。ぼくは初めて動揺してしまい、慌てて凭れさせた身体を離した。
「…通訳が、きみがここを辞めると聞いた、って言ってたが本当か?」
 言葉を選びながら、というような風で彼は遠慮がちに聞いてきた。これが元々の本題なのだろう。なんだか切迫したような顔をしている。まるで自分が何かを辞めるような顔である。ぼくはあくまで淡淡と返す。
「ええ。今日辞めるつもりです」
「なぜだ?」
 短い応酬の後、ぼくはすこしためらった後にGから視線を外して、口を開く。
「外に…出たかったから」
 言って後悔した。別に適当な理由をつけて誤魔化せば良かった。バツの悪い顔でぼくは顔を上げると、彼は何とも奇妙な顔でぼくを見ていた。
 そうだろう、理解不能だろう。どこか開き直ったかのように、ぼくは半目で相手を見つめた。
 さあわからないんなら放っておいて帰ってくれ。そっと目を逸らして、背もたれに頬杖を着いてぼくは小さく溜め息をついた。しかし思考は彼の笑いによって引き裂かれた。
 酷く乾いた笑いだった。
 ビクリとしてぼくは顔を上げ、そして相手を睨もうとしたが、Gのその無味乾燥の笑いに戸惑いを覚えるしかなかった。なんだろう、その笑いは。
 ひとしきり笑ったGが困惑と不快とが混ざったぼくの顔を見て、気の抜けた笑みを見せた。それはとても老人じみて見えた。
「外って、出たってそこはまた…中なんだぞ」
 一言言ってから可笑しそうに自嘲気味の笑みを肩揺らして零し、それからぼくには正確には判らない単語をまくしたてられた。
「なんです…なんなんですか」
 笑われるのが好きな性質ではない。ぼくは不機嫌な感情を隠さないまま、迸る単語を止めようとした。すると笑いは止んだ。Gはその大きな手で顔を一度拭った後、右半分を覆ってまるで悲しむような懐かしむような、憎むような哀れむような、よくわからない左半分の顔を見せながら、今度はゆっくりと言った。ぼくにもわかるような言葉を選んだのだろう。
「どこまで行ったって、どこを出たってそこは次の《中》でしかない。出るなんて無理さ」
 訥訥とした口調で紡いだ言葉は、どこか諦めにも似た響きがあった。
 この男は、ぼくが何を持って《外》に出たいと言っていることを解った上で、言っているんだ。お前なんかになんでそんなことがわかる。
「なんで…なんでそんなことが、貴方わかるんですか」
 ついイラッとして声を荒げた。じっと強く睨んだ。このとき僕は、Gに対して他のE国人とは一線を画した反応を彼だけに見せているとは意識していなかった。しかしこれだけはわかっていた。彼には一度も微笑みかけたことはないし、もうする必要もない。それは−ぼくがここを辞めてしまうから、という理由ではないことを。
「出られたら、俺はこんな生活していない」
 吐き捨てるようにGは呟いた後、小さく溜め息をついた。そして全てを諦観したような深く昏い眼を持って、ぼくを見つめた。
 ああ。もしかして。
 ぼくは気付いて、無意識に開襟の胸辺りを握った。
 …子供じみて見えたのは、子供じみたことをしていたからか。
 いちどきに、ぼくの視界がぐわんと音を立てて広がった。非常に奇妙な現象で、僕は目眩にも似た脳への変化と、吐き気にも似た腹への変化に冷や汗を止められなかった。
「解らなければやってみるといい…と言いたいがそれは俺が困る」
 無言のままだったぼくが、自分の言っていることを理解していないのだろうとGは思ったのか、優しく微笑みつつ言った。そして、恥ずかしそうに頭を掻いた。
「なぜ貴方が困るんです」
 訝しげになってしまった自分の声を客観的に聞きながら、ぼくは問うた。
「きみは昼、泣いてただろう」
 いきなり話題を変えられて面食らった。そして、昼間の情景を思い出してぼくの頬はカッと熱くなる。魯鈍な亀はただただ不器用に、何度も連れ戻されても前に這うだけの亀。ぼくは確かに涙が溢れた。そうして波に向かってぶつかり、そして浜へと引き戻された。そのぼくを、このGは黙って見ていた。動物園の中にいる、動物という異種のオラン・ウータンみたいだと、Gのことを見た。
「見えてたのか…」
 ぼくは知らず日本語で呟いた。Gには通じない言葉を選んだ訳ではなく、無意識に呟いたものだった。
「俺はきみが泣いていたことに気付いてたから、見ていた。初めてきみを見たときから、気になってたんだ。だからあのときも俺は見てた」
 小さな目はぼくをそのまま縫いつけて捉える。そして気付いた。
 ああ、動物園の違う種類だから、わかったんだな。
 オラン・ウータンの彼は檻越しに見える、ぼくの同類だったんだ。種類が千差万別だけど、ぼくもまた彼と同じ動物のひとつで−疥癬だらけの犬だ。
「きみは酷く大人びて−いや、大人びてるなんてものじゃないもっと−酷く遠い顔で、アンバランスな感じがした。なんだか自分が目を逸らしてるものを、まっすぐきみは見て疲弊しているようなそんな気がした」
 脳裏で通訳の言葉と、ある記憶を思い出した。
 Gは南方実戦の経験があって、日本兵を憎んでいる。そして、初めてドライブに連れて行って貰ったときの酷く荒れた運転、傷病兵に自らぶつかっていったのではないかという疑惑、無言で立ち去った傷病兵に大笑いし、そして萎れたような普通の運転に戻ったGの手は、握手をしたときに酷く汗で濡れていた。
 彼は享楽に目を逸らし、そして自ら破壊に行くものの遂行出来なかった。だから、ただただ静かにぐづぐづと腐ってゆくぼくを、見たいのだろう。代償行為だ。
「…それで、貴方の代わりに見てた、こんな滑稽なぼくがいなくなるのは自分で見なきゃならなくなるから、厭なんでしょう」
 なんの感情もなく、口から言葉が滑り出た。べつにGに対して怒っても悲しんでもいなかった。


「違う…!」
 思いの外大きな声で言葉を遮られ、ぼくは目を丸くして声の主を見つめた。彼はぼくの視線に気付いて、恥ずかしげに顔を逸らした。グローブに毛を植え付けたような大きな彼の手が、遠慮がちにぼくの痩せぎすで細い手首を掴んだ。大きくて熱い感触は、やっぱり湿り気を帯びていたが、ぼくは不思議にそれを不愉快に思わなかったし、それどころかその感触に全身包まれてしまいたいとさえ思った。そして、彼の相貌に似合わない優しい力で、ぼくを招くように引かれたので、ぼくは立ち上がって彼の前に立った。
「貴方が気になるのは、ぼくが元日本兵だったからじゃないですか」
「兵隊?…きみが?」
 無味乾燥な声でぼくが囁くように言えば、彼はそのいかめしい顔を不思議そうにして小首をかしげた。なんだかひどく幼く見えて、この容貌魁偉な異人が非常に滑稽に見えたが、その感情のなかに全く侮蔑的な色はなかったことは確かだ。
 彼がぼくの前半生を知っていようが知らまいが、たぶんそれを感じたのだ、と思った。だからそれをはっきり言ってやらねばなるまい、と思った。ここで心の底でどこか、彼を嘲笑うような感情がざらりとぬめった。
 だってぼくは、あの傷病兵と同じで、憎まれる対象で、だからあんたは今度こそ憎いぼくらを轢き××ばいい。そうしたら、つじつまが合うだろう。
 彼はぼくの年齢と見比べて考えているようだった。
「少年兵で、そういう学校に行ってたんです。…Ecole de Cadet」
 幼年学校は、英語でなんというのか解らないので、フランス語だ。
「ああ…。エリートなんだな、きみは」
 他国人でも軍人であるGは同じ職業柄、意味がすぐわかったらしい。小さく数度首を縦に振りながら、感心したような口調でぼくに確かめつつこちらを見るので、すこし可笑しかった。
「元、だった、です」
 噛んで言い含めるようにぼくが言えば、彼は肩をすくめてから怒ったような不機嫌なような哀しいような、どうどでもとれるようなへの字口になってから眉間に深く皺を刻んで、一度下を向いた。そして、ひとり考えるように無言になり、ぼくは握られたままの手にもう少し力が入るのに気付くまで、どこか手持ちぶさたな気分で、朝の白い空をぼんやり見ていた。
 彼の手に力が籠もる。こり、という骨の動く音がぼくの体内に響いた。そのままつぶされてしまいたい気にもなったが、彼はぼくが痛いと思う手前で止めてしまった。少し残念だった。
「そうか…。でも、かもしれないだけで、直結にはなってないだろうな。それがわかっただけだ」
 顔を上げた彼はむしろ自分に納得させるような言い方で、ぼくに語りかけた。ぼくは同意のしようがないので黙っていたが、そこからどうにも進まないので間抜けた声を出してしまった。
「なんです、それ」
「自分でも解らない。…判らないままで良い」
 そう言って彼は、空いている手で短く刈り込んで逆立った金色の頭を掻いた。彼の髪はミスKと同じ色だと気付いて、ぼくは触りたい−いや、愛撫して自分の肌に沿わせたいような欲求に駆られた。思っただけで、実際にはしないのだが。彼の言葉はなぜか今のぼくに、酷く響いていた。Gは再び口を開き、少し不機嫌そうにでも酷く真面目に言った。
「それでも、俺はきみを離したくないってのは確かなんだ。壊れそうな、いや壊れてるのか−きみを見ていると、俺は変わっちまうんだ。どうしようもないくらいに悲しくて苛立って憎らしくて、俺自身を晒け出されるような気になって、でも目がそらせなくて癖になるくらい懐かしくて嬉しい気持ちにな−−」
 余りの言葉にぼくは目を丸くして息も忘れていた。始めは訥訥と、それから火がついたように畳み掛ける口調で言葉を迸らせていたGが、途中で我に返ったように口を閉ざしてから数秒経ってから、何を言われたのかようやく頭に言葉が染み入って来たとき、彼がぼくの手を離してその大きな両手で顔を覆って両膝に肘をついて嘆くような格好になった。
「ああ…何を言ってるんだ俺は…!」
 大きな体躯を曲げて、小さくなって悔恨している姿はつまり、照れているのだ。ぼくはその時それを見て、なぜだか有頂天になってしまった。それは可笑しかったのと、嬉しかったのと、そして気付いたからだ。
 ああ、ぼくの《外》はGなんだ。
 だからぼくは、結局いつだってこのGを気にして見ていたのだ。いまそれを改めて思えば、彼が見るようにぼくも見ていたんだ。けれどそれを認めてしまえなくて、ぼくは彼にすげなくしていたのかも知れない。
 そう思うと今更ながら恥ずかしくなってぼくの胸が躍り、内部がむずがゆいような鳴動が起こる。

 可笑しかったのは、大の男の照れた様。このオラン・ウータンみたいな男が、可愛いと思うなんて可笑しい。
 気付いたのは、どこまで逃げても外はないけれど、気付けばすぐそこにあるのだと言うこと。
 そして嬉しかったのは、解らない。本当のことはもう話せない。ただ、ぼくのこころが粟立ったのは確かなのだ。
 解らないことにしておく。でもそうしても良いのなら。そう言うことを思うこと自体が出来るのなら。
 ぼくは《外》に出られるのかも知れない。
 そう思ったとき、ぼくのなかで色んな感情−怒りだの哀しみだの憎しみだの嫌悪だの喜びだの嬉しさだの切なさだの−が一度に沸き立ち、大小無数の煌めきを持つ水のあぶくとなって微笑むぼくを勢いよく包んだ。一瞬のうちに翻弄されてぼくは、ぼろぼろと人より大きな双の瞳から感情と涙をこぼしながら、意識とは無関係に酷くなってゆく嗚咽を抑えようともしなく、彼に顔を向けた。
 その顔は、たぶん少なくとも彼に一度も見せたことがない。
「…初めて見た」
 ぼくの突然の変化に、面食らいながらもオロオロと心配げに見やっていた彼は、向けられたその顔を見て一瞬驚いたように目を見開いた。そして安心と言うよりも、なにかとても良い物を見つけたように、小さな眼を細めて些か亢奮気味の、嬉しそうな笑顔で笑いかけた後、ぼくをその長くて太い腕であくまで優しく引き寄せた。なんでいつだってこの男は優しいのだろう。大木のような彼に捕まえられるとぼくは途端に力が抜けて、ずるずるとしがみつくようになりながら膝をついたが、構うことなくこの不可思議な激情とGに身を任せた。子供のように。

「外に行きたいなら、出られるなら行けばいい。けど、俺は…見ているよ」
 頭が痺れるよう。ぐったりと大人しくなったぼくの脳に、染み入るような彼の呟きが聞こえてきた。ひどく真面目で、低く抑えられた少し震えているような声。Gの言葉にぼくはぞくりと震えたが、怖くなんてなかった。
 そしてぼくは、声もなく彼の熱く広い胸板に頭突きするように何度も繰り返し頷くあいだに、今更ながら酷い疲労感を唐突に感じ、生温く暗い眠気の中に落ちたところで記憶は途絶えた。


この日、ぼくは初めて欠勤した。
 誰かの話し声に気がついて、自分がいつの間にかベッドに入っているのに気付いた。眠さで開きにくい目を開けながら耳を澄ませば、丁度メイドとGが話しているところだった。何事か話しているのを息を殺してみていれば、メイドは足音高く白いフリルエプロンを翻して遠ざかっていく。扉を閉めてGが振り向き、こちらに近づいてきた。
 なんだか酷く恥ずかしくなったものの、逃げる訳にも行かず枕に顔を埋めていれば、こちらが目覚めたのに気付いたGが、笑いながらぼくの頭を撫でた。茫洋として、眠気が酷かった。
「今、きみが今日一日休むって言っておいた」
 そして出ていこうとするので、ぼくは慌てて飛び起きて思わず彼の軍服の端を握ってしまった。ぼくが何も言う前に、Gはそんなぼくに気付いて言葉に詰まった。ぼくも同様で、Gの袖を掴んでしまったものの、今更手を離す訳にもいかないような、話した方がいいのかのタイミングを全く失い、かと言ってなにか言葉にするのもとても癪で、ただ恥ずかしさの余り頬に熱が集まった。
「…俺も、有給休暇の届け、出してくるから」
 すぐ戻ってくるから。
 訥訥とどこかぎごちなく引っかかるように呟くGも、俯向いているが耳が赤いことに気付いてしまい、ぼくは更に赤くなりながら、手を離した。恥ずかしくて俯向いた。
 
 遠慮がちにGの手がぼくの頬に触れた。不思議に思って顔を上げると、額に口付けられた。
「…Good Boy」
面食らっていれば、はにかんだ顔で言われた、笑みを含むGの言葉にイラッとして、ぼくは乱暴に布団を引っ被って寝転んだ。なぜなら、その笑みはぼくを愚弄した訳でなく、Gが安心したような笑みで、それがとてもぼくに恥ずかしかったからだ。だからぼくは勝手に赤くなって熱を持ってしまうこの顔を、絶対Gに見せたくなかったのだ。
 彼が出て行ってしまうとぼくは自分の脳が、痺れたような熱にゆだってしまったような感覚になった。
 E国の軍というのは、届け出一本で休めるデモクラシィの民主的な軍隊なのか。ふとどうでも良いことを考えていれば、僕の耳にはもう蝉の声がする−彼らが生まれた頃と土の中から出てきた現在とが分断されたイメージが広がる。−それでも蝉の鳴き声は変わらない。そんなことを思ったら、また眠くなった。
「…あら、起きちゃったんだね」
 扉が開く音に目を開ければ、コックがちょうど入ってきたところだった。お盆に何かを乗せている。ぼくは布団を跳ね上げて、寝転んだまま首だけ巡らして彼女を見た。熱くて仕方なかったからだ。
「とりあえずご飯食べなきゃあ、持たないよ。明日に差し支えるからね」
 のろのろと起き上がるぼくがキチンと座り直すのを待ってから、膝の上にお盆を置いてくれた。どうやらメイド経由でぼくが体調不良だと聞いたらしい。だからお粥を作ってきてくれたのか。礼を言うと、彼女は笑って明日こき使ってやる、といいながら出ていった。
 彼女の言う『明日』という言葉が、ぼくのなかでひどく静かにゆっくりと沈降していった。粥の米の白さがヤケに目に沁みて、ぼくはしばらくずっと見ていた。
 どれだけ経ったのか解らない。
 早かったのか、時間が経っていたのか。ドンドン、というノックにぼくは酷く驚いて、膝の上の粥をこぼすところであった。
「起きたのか。…食べてないのか?」
 入ってきたGは、粥に手をつけていないぼくを少し心配そうに見てからベッドサイドに腰掛けた。なにかコックが持ってきたことを承知済みなような口調であることに気付いた。
「…貴方こそ、どうなんです」
 思わず拗ねたような口調になってしまったぼくに、宿舎で適当に食べてきたと笑った彼は興味深そうに粥を見ながら匙を手に取る。缶詰のことと言い、つくづく食べる男だ。
「これは…ポリッジか?」
 訊ねた訳でもなさそうなその独り言を訊いた。そもそもポリッジとやらがわからない。黙っていると、彼は手にした匙でひとすくい粥をとれば、ごく自然な仕草でぼくの口元へと運んだ。そのあまりにも普通に行われた動作に、ぼくは疑問さえも湧かずごく自然に口を開けて食べてしまった。少し温かさが残っていたお粥の薄い塩の味にやっと今の行動が理解出来て、恥ずかしくなった。だけれど不可解で不愉快なことに、ぼくは繰り返し無言で繰り返されるひと匙ごとの粥を、大人しく何も言えずに平らげさせられるのを甘受してしまった。この不愉快さと言ったら、なんと落ち着かなくて顔が熱いったらない。でも不快じゃない。

 食べ終えた盆を彼が立ち上がって、机の上に置いているのを見ながらぼくは湧き上がってくる感情に我ながら驚いていた。
 …なんかさっき、終わらなきゃいいのにとか思わなかったか?ぼくは。
 自己の思考に愕然としたぼくは、がくりと頭を垂れた。
「眠いなら、きちんとベッドに入って」
 ぼくがうたた寝をしていると思ったのか、彼はくしゃりと大きな手でぼくの髪を掻き混ぜながらすこし笑みを含んだ声で囁けば、その手を離して今度は大きな欠伸を抑えていた。
 自分の顔が、熱を持つのを自覚した。だからぼくは慌ててベッドに潜り込んで彼に背を向けた。だって、見つかったら癪だからだ。彼がもう一度ベッドサイドに座る気配がした。少し躊躇したが、どこか開き直ったような気分になりながら、彼の名を呼んだ。
「貴方も寝ていないのなら、身体が持ちませんよ」
 言い訳のようにぼくは早口で言い、ベッドの端まで自分の身体を寄せた。
「…狭いですけど、寝れますよね」
 ぼくの言葉を理解したGは、ああだかううだかよく判らない呻きを上げて立ち上がれば、一度深呼吸してから軍服のネクタイが滑るシュッと言う音の後、ベルトを外す金属音がした。その音にぼくは予想外にビクリとした。
 なにを驚いてるんだ。いまさら−。自分で自分に吐き捨てるように叱咤する。本当に今更のくせに。そう思っているくせに、外されたそれらが机に置かれる音さえ、ぼくは聞き漏らすまいとした。彼が入ってくる気配がした。やはりシングルのベッドは狭くて、彼に身体が触れたとき、身が固くなる。それは彼も同じだったらしく、二重の驚きが激しい鼓動の合間を縫って駆け抜ける。
 なんで、だよ。自分に叱咤するも、恥ずかしさは止まらない。
 溜め息をひとつ着いてから、ぼくは身を捩って彼の方へと顔を向け、彼の肩口に頭を寄せてやった。自分でもよく判る、渋い顔の開き直った風で。すると彼は、そっとぼくの首の下に太い腕を差し入れてくれたのでぼくは今度こそ、このあたたかい温度に身を包まれて目を閉じた。気温は既に暑く、彼の体温で暑さが増したのは確かだが、それ以上ぼくは動くことはなかったしGも動かなかった。
 たぶん、Gと今まで通りには出来ないだろうと言うことを自覚しながら。

 陳腐すぎて、それを笑えないくらい縋ってる自覚のせいで涙が一筋だけ出たので、慌てて擦ってから泥のように眠った。

                                                                   end.

蛇足

 あれからぼくは結局、大使館を辞めてはいなかった。
 幾日もしないで、ミスKが例の武官と正式婚約してタイピストを辞した後、漠然と後続の新しいタイピストが来るのだろうとコックやメイドと話していたのだが、コックとメイドは大使館付きになった。ぼくはと言えば、その配置換えの際にどこでどうなったやら解らないが、通訳の助手見習雇員との肩書きを頂いて、なぜかあの通訳の手下になってしまった。なにしろぼくの口の挟むところではない。トランクに日記を入れて引っ越しした。と言っても大使館の中の小さな移動だ。
 その足のまま通訳の元に出頭した。彼に業務として付き合うのは初めてな様な気がして、なんだか不可思議だった。
 第一の業務命令は、中学校へ行けと言う。
 ぼくはその命令に面食らって、眉を寄せた。
「ああ、命令じゃない。だけどね、とにかく学校は出た方が良いからね。君、勿体ないじゃない」
 相変わらずの拙い日本語で通訳が話すことには、これまたどうしたのやら解らないが、大使館員からの許可は取ってあるから、正職員の道を開けてやるから、とにかく宙ぶらりんになっている中学卒の学歴を取って来いとのことだ。ついでに言うなら高校か外語専門もだそうだ。人ごとだと思って、適当なことを言う。
 戦後、あの学校が解散となってから元元通っていた中学に一時期行っていたのだが、春の訪れを聞く前によしてしまった。ぼくの学年には軍隊帰りも数人で、非常に微妙な位置だったのが気持ち悪かったし、なにより他の同級生、いや人間について行けなかったのだ。
 もっとも、通訳個人がしきりと薦める本当の理由は、彼個人の子飼いの手下が欲しいと言うことだろう。
 ぼくは提示された条件などどうでも良かった。興味もなかったが、頷いた。ただ、なんとなくの気まぐれだと言うことで自分を納得させた。
 転校という形を取るために、元の学校へ成績などを取り寄せたら五年に進級していた。試験など受けた記憶もないが、教師らの腫れ物に触るような態度に何となくその理由を見つけた。新年明けてからの編入までに、それまでの勉強の遅れを捕り戻さねばならなかったので、殆ど勉強が仕事だった。回ってくる仕事は、翻訳の清書だの細々したものだったから楽だ。何かの目標に向かって物事を成すのは本当にもうまっぴらだったが、それでも没頭出来るものがあるというのは無いよりましだ。
 久方ぶりに行った学校は、勿論元の中学と違う、大使館に近い学校だったけれど、前と変わったような変わっていないような微妙な感じだった。
 新しい学校へ行った。どうも少年らしい真っ直ぐで無邪気な瞳で好奇心と好意でもって接触をしてくる他の同級生たちが、やけにまぶしくてやはりぼくは、老人の笑みしかできない自分がいるのを確認した。
 春になって学校の制度自体が変わり、一旦旧制の中等学校を卒業したかたちで、そのまま新制高校の3年生になった。ぼくも別に希望はしていないが、そう言う形になった。5年間まともに勉強した年間などその半分に過ぎないのに、そんなぼくでさえ高校生になったのかと、なんだか可笑しかった。
 Gは相変わらずぼくの近辺に来ていたし、ぼくもそれは嫌ではなかった。ただ二人で何をする訳でもなく無言でいたりしたが、全然苦ではなかったし、Gもそれを続けていると言うことは、嫌ではないのだろう。そうやって気が向いたときにGの相手をしたが、彼はぼくが気の乗らないときには決して無理強いはしなかった。いつだってぼくに優しい。ぼくにとって、それは自分の感情が働いていることを知ることが出来る機会であって、またぼくが存在していることの証でもあったことに気付いてから羞恥に身を焼くと言う感情が、いつまで経っても唯一慣れない感情だとわかった。
 お陰で、彼に触れられるとお笑いぐさな事に、ぎこちなくなってしまったりするのだ。

 季節は巡って、また暑い夏が来た。
 ミンミンと脳漿にまでも木霊する蝉の声を聞きながら、ぼくは放課後、校門近くの大きな木下で容赦なく照りつける太陽を避けていた。土曜の半ドンで、ぼくは暑さに半分うだるような気分で、そんな炎天下のグラウンドを屈託なく健康的に走り回る部活中の学生達を、空襲にも生き残った古木に背を預けて、制帽で暑い空気を顔の近くで攪拌させながら眺めていた。
 カキンと小気味いい音がして、野球部の歓声が聞こえた。そちらに目を移したときに、彼らや彼らを構成する世界が陽炎のように揺れて、ぼくは気分が遠のくその感覚に逆らわず、ずるずると落ちた。
 大きな逆らえない力で、瞼が締まりそうになるのを必死で堪えて、陽炎の向こうの世界を見ようとした。
 ばかだな。
 不意に、ぼくは思う。揺れているのはぼくの方なのにな。
 ぐい、と腕を掴まれたがぼくはそちらを確認する気力もなかった。だかえ上げられて、その匂いにGだと気付いた。
 見ていたんだろう。
 彼は毎週土曜の放課後、決まったようにジープで学校までやって来てぼくを迎えに来るのだ。それをぼく羞恥を覚えていたが、確かに、ぼくにとっての嬉しさが籠もっているのを自覚していた。そして、ぼくが気付くまで気付く素振りを見せるまで、ぼくをただ見ているのだ。ぞくぞくとした喜びがぼくの中を駆けめぐるそれは、蔑ろに出来ない魅力でもってぼくを縛っている。
 半分しか開かない眼でようやっと上を見れば、オラン・ウータンの顔があった。逆光で真っ暗だったが、確かに笑っていたはずだ。
 そしてこのときぼくは確かに、年相応のちっぽけな少年になっていたはずだ。
 なぜなら、Gに抱えられて眩しい夏の光を受けて運ばれていたときに声を掛けられてそちらを見れば、教室で馴染みのある、クラスで屈託ない少年らしい笑みでぼくに話しかけてくる同級生の一人だった。心配そうにこちらを見やる彼に、ゆるゆると手を振ってやったとき、確かにぼくは今まで通りの年老いた笑みになっていたのだから。







Afterword

加賀乙彦の短編「砂上」を読了後、抗いがたい感情にまかせてやった。
後悔はしていない。

ということで、読んでいない方にはサッパリでしょうが。
「ガタイのよろしい体育会系で少しこころにキズ有り、ちょうメロメロ魅惑されてる外人G」×「目の大きいお稚児さん的な、つれないくせに小悪魔退廃美少年のぼく」が公式カプなので、お話のその後。

うーんと、結末に関しては色々考えられると思うんですけど、一番幸せにしたかったのですよ…。二次創作ぐらいご都合でも良いじゃない。
たぶん本編の結末後は、あのまま大使館を辞めて新しい再生の旅を出発するとか、そう言うかも知れん。それが結局、変な期待感がおおはずれで泥沼になって世間を漂う主人公、とかでもあり。なんじゃないかなーとも考えたり。。

意識したら、逆にぎこちなくなって始めみたいな事が出来なくなると凄い良い。「ぼく」の精神成長的な意味でも、そのときに若人に戻るって感じで。で、彼を年相応に出来るのはGだけなのさー(妄想)。
G、「ぼく」にめろめろだからな!この「見ている」ってのがときめきポイント。だって優しい紳士だもん!でもどっかやっぱこう…なっちゃってるけどな。交通事故のくだりでうあああ…って思った。ぶつかっちゃだめー。
「ぼく」もGにつきまとわれるの、表面上素っ気ないけど、まんざらじゃないんだよなー。このバカップルめ。

一応ここでは、「ぼく」は中1で元幼年学校に受験して、合格。敗戦で三年生の時に学校が解散したため、旧制中学四年に編入、冬頃に学校サボりだして(父親は戦死、母親のみ)通訳と知り合う。開けて新年頃に通訳の仲介(母親にここで連絡済み、的な)で大使館に努め始める。その半年後が1946年夏で、本編の舞台。で、その秋に旧制中学五年に再入学、47年に学制改革で、新しく作られた新制高校の三年になる、みたいな。
戦後の辺は加賀先生の他の短編「異郷」入ってます。
戦時中の学校は、陸軍の少年戦車兵学校生かなとも思うんだが、個人的に幼年学校で行って欲しい。

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