中国語版「姑獲鳥之夏」(時報出版と獨歩文化出版の比較)

■こないだやっと手に入れました。
台湾の獨立文化出版から出てる『姑獲鳥之夏』林哲逸・訳(以下、林訳と表記)
てか、原作日本語が何故か手元にないー。探したらやっとみつけた。

表紙はこんな感じ。
 

そんで裏表紙はこれ。中国人画家による姑獲鳥が怖い。

なんだろう、こう…力強い意思を感じさせる顔立ちの姑獲鳥。

文庫版の表紙が準拠となっているみたい。撮影は大学近くのモス。不気味な客です。
中身はと言うと、上下二段になっててノベルズに近いんだけどね。

初めに『序』として京極さんに関してのガイドが1篇、姑獲鳥の作品推薦として2篇も文章を寄せているところが、ここの出版社のミステリ好き度が判るという物。
ちなみに本編の後には、笠井潔氏(またこの人選が渋いなあオイ)の文章翻訳と、台湾の人の批評(て言うか感想?)を掲載。

■ここから、以前入手した同じ台湾の別の出版社(時報出版)の姚拓梅・訳『姑獲鳥的夏天』(以下、姚訳と表記)、と比較して書いて行くこともあり。これは1998年4月28日発行のもの。
同じ本の翻訳でも、やっぱり翻訳者の個性が出ていておもろいです。

「願本書讀者諸君 得受到玫瑰十字之祝福-」(林訳)
しっかり書いてありました。「本書を手にされた方々に、薔薇十字の祝福のあらんことを」。やたら凝ってます。

冒頭の「母樣」のページは黒地に白文字。

最後の母様の訳なんですが、林訳では『母親』、姚訳では『媽媽』となっています。
うーん…確かに「媽媽」はちょっとくだけてて(ママ!って感じ。かあさん・カーチャンは「娘」だし)、「母親」は硬い表現だけど、微妙…。だからといって【母親大人】とまでは行かないから(母上様!って感じ)なのでやっぱり『母親』なんだろうか。

■全体的な訳のこと。
例を和寅初登場(むしろ榎さん初登場の場面と言え)のところと、青木君登場のところ(久遠寺家に赴くため、警察のジープに京極が乗り込むところ)で例を出してみる。
場面選択が私らしい。

姚訳は直接的な表現が多い(結構、直訳が多い)けど、日本的な表現を柔らかく中国人にわかりやすいように意訳しているところもあって、日本文化や戦後の日本状況をそれほど知らない人でも、雰囲気がつかめやすいように訳している。

例えば、関口が藤牧先輩と噂の妊婦の関連性に気付かずに、京極が呆れながら説明する一節。
「(中略)彼が久遠寺の娘を見初めたんだ」(原作)
→『他對久遠寺的千金一見鐘情。』(姚訳)
このなかの『千金』って言うのが「お嬢さん」という意味なので、より彼女の状況がわかりやすい訳で。
→『他對久遠寺家的女児一見鐘情。』(林訳)
こっちは『女児』なのでただの「娘」ですが、「久遠寺家の娘」と言う意味では原作に忠実。
■全体的な訳のこと。
例を和寅初登場(むしろ榎さん初登場の場面と言え)のところと、青木君登場のところ(久遠寺家に赴くため、警察のジープに京極が乗り込むところ)で例を出してみる。
場面選択が私らしい。

姚訳は直接的な表現が多い(結構、直訳が多い)けど、日本的な表現を柔らかく中国人にわかりやすいように意訳しているところもあって、日本文化や戦後の日本状況をそれほど知らない人でも、雰囲気がつかめやすいように訳している。

例えば、関口が藤牧先輩と噂の妊婦の関連性に気付かずに、京極が呆れながら説明する一節。
「(中略)彼が久遠寺の娘を見初めたんだ」(原作)
→『他對久遠寺的千金一見鐘情。』(姚訳)
このなかの『千金』って言うのが「お嬢さん」という意味なので、より彼女の状況がわかりやすい訳で。
→『他對久遠寺家的女児一見鐘情。』(林訳)
こっちは『女児』なのでただの「娘」ですが、「久遠寺家の娘」と言う意味では原作に忠実。

更に例えば、関口がまだ寝てる榎さんの部屋に行った時の文章。
「(中略)まるで遊郭に遊ぶ旗本の次男坊のような風体である」(原作)
→『那風采簡直就像到妓院耍的遊侠二少爺』(姚訳)
旗本という意味の単語はないが、「遊郭で遊んでる、遊び人の次男坊のおぼっちゃま」と訳してある。
→『彷彿像個終日在酒家放蕩的旗本家次男』(林訳)
これだと「朝から晩まで終日お座敷で放蕩三昧している旗本の次男を彷彿とさせる」という意味になり、実際には『旗本』に註釈がそのページの後ろにしてあって、原作の日本的な雰囲気を忠実に描き、註で補強する形になっている。

もうひとつ。青木君の特攻崩れの翻訳。ついでに(ついで言うな)木下の紹介から。
「(中略)木下ってでかいのが乗ってる。木下は柔の達人だし、この青木はな、ふふ、俗にいう特攻崩れだ」(原作)
→『然後座着叫木下的魁梧家伙。木下是柔道高手、這青木呢、呵呵、一般是叫特攻撃破!」(姚訳)
おもいっきり直訳。「ごつい奴」とか。でも特攻撃破…。これがいまいち判らん。
→『還有個叫做木下的壮漢。木下是柔道高手、這個青木則是原特攻隊隊員。』(林訳)
なんかえらい木下が格好良く聞こえるな。漢てw
で、原(「元」の意味)特攻隊隊員、という感じで「特攻崩れ」って言うより「もと特攻隊隊員だったんだ」みたいな説明的な文章になっているが、まあ意味の正確性は高い。でもあの木場の含み笑いがないとこが…残念。あの「ふふ」って溜めて関口に伝えるのが、文蔵と木場っちの繋がりの深さを表現してるんじゃないか!(これこそ深読みの醍醐味)
ちなみにこれに対して青木が「先輩、止してくださいよ」と照れて笑う文章。
→「學長、別再説了」(姚訳)
「學長」ってのは先輩、って言う意味。「別」は禁止の意味なので「も、もうしゃべらないで…!」って言う感じで、なんか文蔵が羞じらいながらちょっと焦って言ってるように感じてしまうorz
もしくはちょっと冷たく「先輩、マジやめてください。言わないでください。次はないですよ…?」的な。
→「前輩別提這種小事啦」(林訳)
「前輩」も先輩に同じ。でもこっちだと、なんか「ちょ…!そういうことはちょっと…言わないでくださいってば!」的な感じに感じてしまう…。眉根を顰めて苦笑い的な。まるで空気読めてない先輩に提言する感じが「這種小事(この種のこと)」って言葉に見えててならない。
でも、これはこれで「自慢の後輩を紹介してテンションが上がってしまった余りに、ちょっと恥ずかしいというか躊躇っちゃう過去を思わず言ってしまった木場」的な感じがして微笑ましいとか思っちゃう自分が一番終わってる。後で「余計な事言わないでください!(時代的に)世間様には隠してるんですから」とか微妙な説教をくらう木場とかもう、妄想が止まらないです。さいあくorz

と言う感じで、なんて言うんだろう。
林訳は注釈を採用することで、日本の異文化的な雰囲気を最大限に残しつつ言葉の意味も同時に正確に伝えることに成功。
対して姚訳では読みやすさを念頭に、それでもあまり原作を弄らない経緯みたいなのが感じられる。
あとは個人的な好みかなー。

■と、真面目な話はここまでにして(今まで真面目だったのか)。
今回の林訳で吃驚したこと。
「榎さん」「木場の旦那」「関君」「先生」(原作)
『榎兄』『木場的大爺』『小関』でした。

…榎兄って!
特に関口が「榎さん」と呼ぶ時に使われているのですが(京極→榎木津の時の「榎さん」は不明)。
いや、間違ってない。間違ってないんだが。
兄というのは血縁関係は全く関係なく、親しい年上の男性で特に学問の上下関係(いわゆる兄弟子)で使われる単語で、高校時代に先輩後輩関係で且つ今でも親しいんだから、これが正解なのだが。
なーんかこう…関口が言うと笑える。しかも榎さんにかー。
で、榎さんから関口は「小」がつくのね。これも、親しい年下の愛称としてつけるが、おなじ年下への愛称「ロ阿」でなく「小」なのがちょっと笑える(この小という言葉には、ちょっと侮りの意味も含まれている…場合もある)。
旦那に関しては、まあ大爺(旦那)なんだが、すげえ金持ちっぽそうな感じ。うーん個人的に訳すなら「木場哥」って感じなんだが、これは旦那って感じではなく「兄ちゃん」的な感じでもあるから微妙か。

あと、和寅が関口を呼ぶ「小説家の先生」は普通に『先生』。ここは残念…!
これはタダの男性敬称(英語のMr.=○○さん)なので、ぜんぜん小説家として認めてないな和寅ww
ふつうに「関口さん」って感じ。
この場合は「老師」(小説家などの敬称は別に「大師」がある。初めに京極号に関口が訊ねていった場面で、「それで、今日はなんの話でございましょうか、関口先生」と京極堂が聞いた時に「関口大師」と使ってた)が適当だと思う。一応、原作では和寅は「『小説家の』先生」って意味で読んでるから。
とすると、他の古本屋の先生とか含めて「寅吉にかかると、ほとんどの人は先生になってしまうので区別に困る」(原作)という表現から、「老師(教師などの日本で言ういわゆるセンセイ)」が好いと思う。
「古本屋の先生」は『舊書商先生』と書いてあるが、直訳すれば「古本屋さん」なのだもん。これだと、原作の意味がわからない。「和寅は殆どの人を○○さんと呼ぶ(古本屋さん・小説家さん・探偵さん)」みたいな感じ。
和寅好きとしてここはこだわりたいっww

ちなみに前の姚訳では『榎先生』『木場老爺』『関君』だった。和寅は関口を『老師』と読んでます(私はこちらを支持)。
木場の老爺は大爺に同じだが、「大」はそう呼ぶ仲間内で一番年上って意味もあるから、大爺の方がしっくり来るか。
さあ、次回の魍魎では青木君が呼ぶ「木場さん」「先輩」がどうなっているかが楽しみ。
一応『學長』(姚訳)と『前輩』(林訳)と出ているが、この場合文蔵は学生で木場の後輩じゃないから、前輩が適当かなー。
うわあ…ものっそヲタだな。この着眼点がwww

■と言う訳で。
翻訳は難しいなあ、過渡期(?)なのかも…と言うのが第一印象だが、中国的京極ワールドに浸れます。

そうだなあ…清代初期(異民族の満州族に征服されてちょっと経った感じ)の北京って感じ。
だいたいのイメージは藤田あつ子の『煌如星シリーズ』なんだ。
でも宋代・明代でも良いかも。こっちのイメージは山田風太郎『妖異金瓶梅』なんだ。まあテッキトー。






















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