旧制中学・旧制高校

ここでは一般に言う、旧制中学・高校について。
しっかりした説明は他の良い文献がありまくりなので、気になったことだけ。順次増えてきます。

当時、学校群制度とか複合選抜とか、センター試験なんて便利なものは当然なかったので、受けたい学校が被ったら運が悪いと泣くしかない。


旧制中学校


・5年制で、普通は通学。寮があるところもあった。

・7年制一貫教育校の場合は、高等学校尋常科と言い、4年まで。
高校にはいると自動的に大学にも入れる建前なので、中学入学の時点でそれを決めることが出来る一貫校は人気校。受験戦争も相当なものでした。
 
・和寅は中学中退なんですよね。だから英語出来るんだよな。
 中学校は戦前、だいたい全児童の二・三割しか進学出来ない中等教育機関ですが、それは学力と言うほかにも、経済的そして社会的な理由が大きく締めていました。
 ぶっちゃけ、貧乏人は来るな。と言うか来られないです。昭和の10年代には若干それもなくなってきましたが、それでも義務教育を終えた立派な労働力をむざむざ「勉強なんてお金持ちのすること」に遊ばせておくのは惜しいし、うちの身分では贅沢だ。っつーことで、
 よくもわるくも、近代社会の中で四民平等と標榜された建前と、社会階級の存在の実態がよくわかる構図です。正直、今も基本そうですがもっと顕著です。
→この世相を描いた短編に黒島伝治「電報」があります。頭の良い小作農の子が中学受験をするのを、「分が過ぎる」「わきまえていない」として街の人がさんざん嫌味や妨害をしてくる。結局彼は、丁稚小僧として奉公に行っている。
 どんだけ和寅は果報者か、と言う話ですね。幹麿様に可愛がられすぎだろう。
 しかも自分の意志(ですよね)で辞めちゃってるし(うちでは学制改革のあった47年に旧中学五年生は新制高校三年に編入されるので、それを契機に府立六中を辞めてる設定)。
 まあでも彼は、お抱え職人として父が震災後に榎木津家に迎えられたとしてたら、普通の使用人とはちょっと立場が違ってるのかもしれないので、それもありなのかもしれないですね。でも父親に屋敷の中のもの探させるとか云ってたからそれも違うか。かもしれないばっか。

・中学入学試験問題は、国語・算術・理科・社会。時事問題から漢籍の知識、数学(明らかに今の中学卒業レベル…)まで、中学受験は今も昔も変わらない感じ。

・東京の官立中学の特色メモ。
府立一中…一中−一高−東大ライン。名門エリート進学校。制服は詰襟(ホック止め型)
府立四中…軍隊式スパルタ教育。士官学校や兵学校、1・2年次には幼年学校への入学多し。軍人の子が多い。神津恭介先生の出身校。
府立五中…リベラルで自由。他の学校とはかなり違い、独特らしい。制服がめっちゃめずらしい背広型。
府立六中…ここもスパルタ。軍事式教練と軍学校系に強い。加賀乙彦「帰らざる夏」の鹿木・鬼頭はここの出身。バンカラらしい。

旧制高校

なんつーか…もう私が言うより、木原敏江「摩利と新吾」読んで下さい…。それで雰囲気とか判ると思う。

・3年制、基本は全寮制。
普通の高等学校・7年制一環教育校の高等学校高等科・大学予科は同一の高校教育。

・寮は学校や学年などによって様々で、基本は共同生活なので二人部屋から十数人までいろいろ。でもたまに一人部屋もあったっぽい。
 一高(榎さんの一学年上辺りになる神津恭介先生の時代)の駒場寮の場合は、入学したらまず文理クラス関係なく一般部屋の16人部屋に押し込まれる。
 二年生になって部活に所属してる学生は部ごとに、それ以外はクラス別に分かれるんだそうです。
 本館玄関前に、成績がばっちり張り出される。トイレは水洗。図書館と学校、寮をつなげる地下道まであったらしい。
 あ。一高には腐的な意味での風習はなかったって、ここ出身の人が書いてますが、どうなんでしょうねえええ。東大寄宿制のT崎氏はばっちし寮部屋で同棲生活の経験ありますよ。

・クラス分けは大きく5つ。 文系 理系と二分し、第一外国語の専攻で細分化する。
 文甲(文系英語専攻)・文乙(文系ドイツ語専攻)・文丙(文系フランス語専攻)、理甲(理系英語専攻)・理乙(理系ドイツ語)
 なので、理系の研究をしていて姑獲鳥でドイツ語が読めなかった関口は自動的に理甲の英語専攻と云うことになります。

・教師は教授制なので、教授と呼びますよ。

・高校に入れたら、大学までの道は開けてます。大学・学部さえ選ばなきゃ、無試験で入れました。いいなあ…!
 それでも希望の大学学部にはいるため、定員かけて受験する形になります。
 大学予科に入ってる場合は進学先の大学は決定出来てるので、ちょっと安心。でも希望の学部に入るため、他大学を受けることもあり。
 と言うか、特に予科だから入りたいとかそう言うのはなくて、みんな手当たり次第に受けてたっぽい。

・学制のとこで書きましたが、一般的にはとにかく年喰ってたり留年してひとかどの男、的なバンカラこそ旧制高校生たるもの、的な雰囲気がありました。
 なので、飛び級の四修や五修制度などでやってきた15歳の高校一年生とかは、逆に若すぎて肩身が狭かったらしいです。秀才なのに…!

・おさけのこと。
 高校一年は大体17歳くらいで15歳までいるというのですが、高校生になったらもう一人前の大人と見なされていたようです。
 お酒とか…大正11年から未成年者飲酒禁止法あったんですけどねえ。酒を20歳以下に飲むな飲ませるな売るな、親権者は監督しろ。って当時から言ってるのにね…。昔は意識が低かったとは言え、やりたい放題だったっぽいです。フリーダム。

・高校名物「ストーム」のこと。
 寮や生活については、基本的に学生達の自治に任されてました。なので弾ける若さとバカさ。
 若くて体力余ってる奴らが集まると、ろくなことをやりません。集団で騒いで飲んで騒いで、破壊する行為を指します。水ぶっかけとかもあるらしい。
 特に予告もなく、時を選ばず、誰かが思い立って始めれば、いつの間にか寮中が巻き込まれ、阿鼻叫喚の酷い嵐の後のような地獄の有様になるまで、破壊行動やバカ騒ぎを繰り返す。窓ガラス40枚と戸板30枚全破壊というのを聞いたことがあります。
 また亜種として、街角で徒党を組んで気勢や奇声をあげて騒ぐ「街頭ストーム」(市電を止めて信号機折ったとか言ってましたよ…経験者が)、キャンプファイヤーみたいな大きい火を囲んで騒ぐ「ファイヤーストーム」、上級生が下級生に集団で説教に来る「説教ストーム」(いやすぎる…いじめじゃねえか)などがあるそうです。
 巻き込まれたらおしまいです。もうヤケになって自分も入らざるをえないか、ひたすら逃げるしか酒に逃げるかしかないです。
 夜明け前とか、寝込みを襲われるとかもう最悪ですね。これに抗議する哀れな被害者こそ「空気読め」って逆ギレられますので、理不尽きわまりない。

 ちゃんと言っておきますが、集団で騒ぐのは当時も今と同じで犯罪です。むしろ治安維持法のあった頃は、今よりもっと重い罪に問われます。しかも物品破損とか。こんな無法行為を学生時代の名物として繰り返しやれていたのは、ひとえに高校生が特別な存在であったからでしょう(これ、同い年の工員がやったら速逮ものですよ。集団でいるだけで検挙されるっつーの)。未来のエリートだし。
 バカ騒ぎすることでストレス発散出来、しかも人々が黙認している事実は、自分らがそう言う特権階級にいることも再確認出来て、エリートたる高校生の自尊心も満たされるわけで、最適だったわけだと思います。たぶんね。
 関口とか藤牧先輩とか死にそうだよ…。まあそうやって、社会の暴力的な理不尽を学んでいくわけですね。




 番外メモ…幼年学校
   もともと東京・仙台・名古屋・広島・熊本にあった。大正の世界的軍縮で昭和初期には東京一校しかなかったけど、昭和一二年あたりから順次復活。
   今の宝塚音楽学校タイプの受験スタイルで、中学1年か2年しか受験出来なく、一学年150人程の狭き門。自分たちをカデ(フランス語で幼年学校生カデットの略)と呼んで、中卒と区別していたらしい。
   軍事科目はまだなくて、普通の中学での教科(フランス語・ドイツ語・ロシア語・英語から学校ごとに違う)に音楽、地理の授業が多い。勿論全寮制で、上級生の模範生とが下級生の班の面倒を見る。教官は若手士官が多く(二五歳とか)、彼らが13〜15歳を教えたりとか、なんだか夢みたいなところだなあ。
 …士官学校は一高か士官学校か海軍兵学校か、と言われる程の難関。将校になるにはここに行かなきゃならなくて(学徒出陣組は別の試験がある…)、

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