赤光

月の光が赤い夜。    一度、死に損なった。

 そして今夜も月の色は赤かった。
 木場はふと立ち止まると、赤い月を見上げた。その背には酔いつぶれた青木がくたりと眠り込んでいる。
顔を上げた拍子に、背から青木がずり落ちそうになるのを苦笑して背負い直すと、またゆっくりと家路をたどる。



 月は大きく赤い。
 今日一日何事もなく、青木を誘って一献行こうか、と青木の姿を探し見回すと、刑事部屋の中には見あたらなかった。
却説、どこに行ったのやら、と取り合えづ部屋から出てみると、微昏い階段の上に見える踊り場に、青木が窓を見上げて佇んでいた。
 何だこんな処にいやぁがったのか、と近づいていった木場は、青木に声をかけようとして、掛けあぐねてしまった。青木の眸は半ば虚ろで、そしてたまらなく淋しそうな瞳をしていた。けれども、とても厳かで、強い目だった。その瞳は、月の光が映り込んでいて、赤かった。だから、声をかけるのに木場は躊躇した。緩慢と、青木が木場の方に目を見遣る。不可思議な瞳のままで。
「・・・・先輩・・・?」
 その聲に弾かれるように、木場は心持ち急いて云った。
「お・・・おお、青木。今日・・・一杯どうだ?」
 にっこりと青木は微笑うと、快諾して軽やかに降りてきた。
「はいっ。御供します。」
 その容貌、その眸は、いつもの生真面目そうな青木だった。

「手前、今なにしてやがったんだ?」
 部屋に戻りしな、木場は何気なく尋ねる。すると今までにこやかに木場を見上げていた青木はふい、と下を向いてしまうと、靜かに、云った。
「月・・・・を観ていたんです。」
「ツキ・・・・ぃ?・・・・月、か?」
 慥かに上窓の外には月しか無い。
「今日、月が赤かったから・・・・。」
 云われて、階段の方を見遣った木場は、窓から降りかかる月光が、さぁっ、と赤く鮮やかに遷った。
「ああ・・・そういやぁ、今日は赤ェな・・・・。」
 だから青木の瞳が赤かったのは、その爲であったか、と木場は思うに至った。部屋に戻った青木はいつも通りで、だから木場も先刻のことは気に留めなかった。

 けれど、今宵の青木の酒の進みは何時もよりも早く、そしてヤケに陽気だったのは否めなかった。

 頬を朱を差したように真っ赤に火照らせた青木が、くてんと眠り込んでしまう。これも何時ものことだ。
 ぐいっ、と残りの酒をあおいでしまうと、木場は苦笑しながら、一旦机に突っ伏した青木を抱き上げて椅子に坐らせ、軽く青木の頬をぺちぺちとはたく。
「おら、大丈夫か?」
 ふ・・・ぅん・・・・。鼻にかかった聲で鳴きながら、青木は、ふらふらと揺れている。
「だぁい・・・じょぶ、です・・・・っ。」
「大丈夫、じゃねェじゃぁ無ェか・・・・・。」
 ふらふら揺れる青木の頭を片手で留めて、呑み屋の親父に聲を掛ける。
「おい、親父、御愛想だ。」
手間のかかる餓鬼だな、と悪態をつきながら木場は屈む。
「おら。」
 ぱふん、と青木が倒れかかる。そのまま其れを背負って、木場は喧噪の呑み屋から出た。
 ここからは己の下宿の方が近い。そう思うとゆっくり歩き出した。


「ん・・・・・。」
 もぞ、と身じろぎする気配が背中で、した。
「おぅ。起きたか?」
 まだ半ば醒めやらぬ青木を軽く揺すりながら声を掛ける。
「・・・あ・・・・・・はい・・・。ごめ・・・・んなさい・・・。」
「ああ、いいからよ。温和しく負ぶわれてろ。・・・・それにしたってぇ、何だな。青木、 今日は手前にしちゃあ、隨分と呑んだもんだなオイ。」
 酒精(アルコォル)の所為で殊更緩慢に、それでも木場の背から降りようとする青木を木場は留(とど)め、苦笑しながら話す。
「――――――――。」
木場に負ぶさり絡められた青木の腕に、ぴくり、と力が入った。
「・・・・・・何でェ。何か・・・あったってェのか?」
 木場は尚もゆっくりと歩きながら、青木の顔を見ずに問うた。それから、青木が言を紡ぐのには少しのタイムラグがあった。
「――赤い月の夜に、僕は一度 死に損なったんです。」
 木場は足を止めると、振り向いた。
「・・・・・・あ・・・?どういう、事だ?」
 木場に縋り付いたままに、青木は答える。
「僕・・・・は、海軍だった、てこと言ったことありましたよね・・・・?」
「あぁ・・・・手前は・・・・その、特攻崩れ、だったな。」
 何となく息苦しく感じた木場は、喉から言葉を絞り出すように答えると、再び歩を進めた。
 青木はゆっくりと、話し始める。



 昭和は弐拾、六の月。僕は、台北にいた。

 その二年前、僕はまだそれでも學生で、生まれてからこちら、間接的にではあったけれども 、何も彼もが戦争という枠組みの中での出來事で縊ることが多くなって、否、それが凡てになった今を どこかやりきれない感情で、生きてきた。
 戦争なんて争いは、愚かしいと思う。
 でも、それしか知らずに、それが供に生まれ生きてきた僕らの中では、一概に切り離して考えることなぞ、それは出来なかった。生まれたときから、そうな風潮で生きてきたから、こういってはなんだけれども、当たり前の ような感情さえ、あった。それが良いとか惡いとかは別次元の問題ではあるが。
 従兄弟は、去年戦死した。
 彼は言っていた。
「今起こっていることは何であるのか、と考えてみた。確かに戦争はいかんことだ。けどな、その起こったこと――について御託を並べているよりも、今起こっていることに対して、どうしたらいいのか、一番身近な判断を……俺はしただけだ。―――戦争がある。これは動かすことのできない事実だ。一番変えなきゃならないモノが、一番動かせない。動かせないのを前提に大切なモノを守るためには、戦争に征って、勝たなきゃ、ならない。だから、俺は征くよ。」
 彼は陸軍の幼年学校から士官学校を出た将校だった。僕は納得したモノの、なんだか腑に落ちなかったのを覺えている。小さい頃のことだけど、漠然とした不満が残った。
  ―――死ぬのは、怖いのに?
 彼と最后に会った日も、そう思っていた。
 そして白い布に包まれた小さな匣と、柄の処が血で赤黒く固まった軍刀を見たとき、それが確たるモノとなった。彼の言っていたのは消極的な正しいことだ。でも、僕は思う。その動かせない事実をどうにかしようとしなければならないんじゃあないのか?

 世の中は文字通りに激変し壟(うね)って行く。學生さえもが戦地に赴くことになった。帝大の學生さん達は本を銃剣に持ち替えて雨の中を征ったという。それが故に、僕らの学年、―高校の三年であったけれども、それはおそらく私立であったためだろう―でさえも、九月に繰り上げ卒業という形で戦争へと刈り出されることとなった。衝撃だった。でも、同時に、哄笑がこみ上げてきた。
 そんなことは、出来ないのだ。
 かつて、従兄弟の死に対して憤った青臭い感情が、脳裏を掠めたのだ。動かせない事実を、どう動かすのだ。彼が言っていたことは「正しかった」わけだ。大切なモノを守るために、戦う。僕は可笑しさで腹が痛くなりながら、紙片にペンを走らせた。其を、入隊志願書と言う。
 ―――もう、すでにたたかいがあるから、たたかうんだ。

 僕は第一三期海軍飛行予備學生として、三重航空隊へと入った。
[サイヨウヨテイ]と書かれた通知が來たのは入隊指定日の一週間前を切ったところで、僕にはその通知が合図であったかのように、卒業と言うことで東京の学生寮から持ち帰ってきていた参考書や教科書を実家の倉の奥深くに、しまい込んだ。多分、もう使うことなんかないのだ、と思いながら。
 四箇月の基礎教程、三十分づつ十八回の離着陸と九時間の飛行教程。そして三十時間の単独飛行教程が終わると、次はすぐに零戦だった。飛行隊長や兵学校での上官からは、十数人揃って勝手なことを怒鳴られては厭になるほど叩かれる。おそらく、後になってから思えば、追いつめる意味での心理作戦なのだろうと思う。僕ら予備學生は泣きながら、操縦桿を握った。

 十九年の十二月末頃に、転出命令が出た。台北の基地に行くという。当時の台北は南方への中継点として使われていたけれど、陸軍では特攻隊員が、台北だけでなく台湾中に蝟集していると聞いた。これはそう遠くない未来、台湾からそう遠くないところで大作戦が展開されると言うことだな――と僕らは囁きあった。
 転出命令を受けた夜、官舎を歩いていると一人の上官が僕に声を掛けてきた。慌てて敬礼を返すと、其れはいつも目を凄ませて僕らに鉄拳を下すのが仕事であるかの様な上官の一人だった。
「貴様、台北に転出だそうだな・・・・。」
 いつもと声の調子が違っていた。穏やかで、靜かな声だった。月明かりでその上官――古賀大尉の徽章さえもがハッキリと見え、彼の幾分細面の貌と対峙する。僕は、鬼と思っていた上官でもこのような声はするのだ、と不思議に思いながら返答する。
「はい。僕ら、明日の昼に飛行命令が出ました。」
 言って、僕はしまったと気づく。この上官は僕の青臭い言葉遣いを、一番叩いてきた上官だ。また殴られる、そう思って僕は目をつむり、顎の力を抜いた。無理に食いしばろうとすると逆に危ないのだ。
「そう・・・か。」
 意外なことだった。上官は僕の頭に軽ろく手を置くと、ぽんぽんと、軽く叩いた。不思議に思って薄く目を開けると、いつもの凄んだ目ではなく穏やかな真っ直ぐな、そして優しいけどどこか、悲しそうな目だった。
「・・・・古賀大尉・・・?」
 僕は何がなにやら解らないまま、聞き返していた。
「・・・南方じゃあ、大変なことになってきているらしい。」
 続けて彼は僕に言った。
「おまえも・・・・仕方がない・・・・・が、生きろ、よ。」
 ああ、大変なことになってきているんだ・・・・。僕は客観的につぶやいた僕の声を、僕自身の嗚咽の声の合間に掻き消されながらも、かすかに聞いたような氣がした。

 台北に來て、三箇月ほど過ぎた頃、謝って事故を起こし二週間ほどの負傷をした。すぐさま入院させられたのだが、何か、病院内の空氣が違っていることに僕は気づいた。確かに、ここ台北も本土と比べれば格段にぴりぴりとした空氣が張っている。しかし、ここの病院は違うのだ。ドヤドヤと人の出入りがやたらに多く、何かしら騒がしい。どう見たって病人には見えないような兵らが病院では出してはいけない筈の大声を発しながら廊下を行き交い、こういったらおかしいが、活気があった。
 なんだろう?
 隣のベッドの、一緒に事故を起こしたもう一人の当事者、実方と僕は訝しんでいた。実方廉(さねかた・れん)は僕の高校時代からの友人だ。僕は生来丈夫なのか、三日ほどで起きられるようになると、いろいろと偵察した。僕はやっと真相が分かり、まだ起きあがれない実方に報告した。
「わかった、あの人達は特攻隊員だよ。この病院、温泉があるだろ?だからここ、保養所になってるらしいよ。」
 翌日から、無理矢理己の体をベッドから引き剥がした実方と共に、温泉に入りに毎日やってくる彼らの話を聞いた。みんな明るく、サバサバしていた。ある時には、文字通り一戦一戦をくぐり抜けてきていた、雷撃という夜戦隊の一団が來た。不思議なことに、帰還率は五機に一機という、死に等しい特攻と同じような―むしろこちらは帰還したら幾度でも
出撃があるという意味では上なのかもしれない―戦いのもとにいる人たちほど、 驚くほど靜かな人が多かった。
 原隊に復帰した僕らは、同期にこの話をした。僕らの同期、というのか少なくともここの小隊はどうも六:四の割合で勇み足な者と旺盛でない者との混成部隊で、其れを聞いて各々がおのおの考えを持つに至った。

 そして。よく晴れた四月の春、教練が終わった後、僕ら飛行部隊は揃って、講堂に集められた。
「長男と、妻子のある者、親がどちらでも亡くなった者は、かえってよろしい。」
 僕は次男だし、妻子もあるはずが無く、両親も健在だ。不思議に思いつつ、これもまた同じ実方と共に不思議がっていたら、重々しい声が、僕らに向かって 宣告された。
「どうしたって?」
 前に返された黒田が意気込んで尋ねてくる。僕はゆっくりと、下を向いて話した。同様を押さえ込もうとして曇った声になった。
「特攻、だよ。」
 近くにいた者すべてが動かなくなった。つなげて実方が話した。
「『参加志願者は申し出ろ。これは命令でなく、海軍としてのこころからの依頼である。』だとよ。」
 皆、何も言わなかった。皆、わかっていたから。その真意が。
 結局、通達を受けた、僕を含む全員が志願した。その対応はまちまちで、いち早く志願して胸を張っていた者や、逡巡の後に申し出た者。僕らは准尉に、なった。特攻准尉。

 同期の一人が、いち早く逝った。
「仕方がないさ。」
 それだけを殘して。そう、ほかに仕方が、ないのだ。
 その夜、予備學生出身の士官が首を吊った。学生服を軍服に着替えてきたような快活な人だったのに。けれど、僕の感情はどう変化していたのだろうか、僕はもう、そんなことを聞いた夕方のことはすっかり忘れ果て、皆とわいわい騒ぎ、上官に怒鳴られたりしたことを怒ったりしている。そして其れは僕らみんな同じ事なのだった。

 そして六月の朝、と言うよりは暁三時に、僕は先輩少尉に呼び起こされた。
「青木、頼む。」
 僕は一瞬にして眠気が覚めた。
「今日の、夕刻。」
 人事係であるその少尉は、すまんな、と言い残して高い背を丸めて暗闇の中を帰っていった。色んな事が頭を巡っては消えていった。あ、これが走馬燈、なんだ。気づくのに相当な時間を僕は要した。
 もそもそと僕が寢床から這い出したのは、八時を巡回った頃だった。実方が洗面所にいた。
「あ、青木。どうした?」
 快活に問う。僕はゆっくりと、そして言った。どうか、笑って言えますように。
「今日、だって。」
 実方の顔が強張ったのがわかった。そして僕の顔も不自然に歪んでいるのも。
「・・・・こいよ。」
 実方が口火を切った。
「・・・・・ぇ?」
 実方が僕の手をつかんで引いて行く。
「な、なに??」
「爪が伸びてる。切ってやるよ。」
 死ぬのに爪を切る必要があるのだろうか、と、ふと僕はそんなことを考えたりした。

 ぱちん、ぱちん、と音が鳴る。
 爪が弾ぜるその音を聞きながら僕は、この手もこの足も凡てが僕の僕のモノで、其れ凡てを使って、僕が生きてきた凡てを―――。舌で己の口腔を探ってみる。一カ所、でこぼこっとした傷がある。多分、其れは一生消えないだろう。ふわりと、其れをつけた人、古賀大尉のことが脳裏に浮かんだ。月明かりの廊下に佇み僕を注視ていたあの目。多分、彼は僕らがどうなるのか、知っていたのだろう。元元死ぬように教育していた立場の人間も、ああいうことがあるのだな、と僕は悲しくなった。
 其れは、あまりにも辛く淋しいことだ。そういう仕事が、ではなくて、ふと、自責だか後悔だか領らないが、そういった感情にからめ取られてしまうことが。いっそ、何も思わなくなってしまえば、其れは其れでいいのに。
「ほい、お終い。」
 実方が顔を上げぬまま、続ける。
「・・・怖い、か・・・?」
 僕は首を横に振った。
「・・・・ううん。」
「なら・・・今、どんなこと思ってるんだ?」
 ふわり、と海風が薫った。
「いたいんだろな、って。」
 実方は顔を上げると、苦笑した。そして僕の背後に座り直して僕の肩に腕を回し、引き寄せた。
「そ、っか。嫌だな。」
 僕はひどく穏やかな氣持ちのままに言う。
「厭だ、ね。」

  薄暮時の飛行場に着くと、薄墨を流したその中に特攻機が八機整然と並んで、エンジン音を響かせていた。 室生中尉から簡単な指示がある。
「沖縄までの視界は雲が多く大変悪いが、練習の成果を頑張って出して呉れ。目標は在泊敵艦隊。しっかりな。」
 そして参謀少将が湯飲み茶碗になみなみとついでくれ、僕は其れを一気に煽った。
 炊事係の顔馴染みが、僕に涙ぐみながら言った。
「青木、其れ呑んで寢ちゃうなよ。青い眼の奴ら引き連れて、乙姫様に会わなきゃならないんだからな。」
 そういって、ただ何も言わなかった。
 出撃。最后の敬礼をして、僕は零戦に向かった。不意に大声で呼ばれた。
「青木、また後で!」
 実方だった。
 また、あとで。そうなのだ。また、あとで、会おう。
 僕は夢中に手を振って機上に上がった。そして、馬鹿馬鹿しい程性能の良い機体と共に、僕は空に上がった。
 編隊長の合図で八機は、翼を振った。僕は座席から身を乗り出して飛行場を見ると、見送りの人たちが帽子を千切れんばかりに振っているのが見えた。僕より先に行った奴らも、これを見たんだろうか?僕らがいつまでもいつまでも帽子を振っていたのを。僕らが言い表せなくて言い表せなくて靄靄した気持ちを抑えていたのを。(其れがなんだか、未だにわからないけれど。)

 不意に、視界が悪くなったと僕は感じた。折からの強風に煽られ、雲が出てきたのだ。飛行機よりも雲の移動の方が格段に早く、雲の峰峰を縫ってさながら彷徨するように飛んでいたが、前に飛んでいた機さえも、見えなくなった。雲の中、というのは一度突っ込んだらもういけない、と教えられていたことを、ふと思い出した。すぽり、と雲上に出た。
 刹那、僕の目に映った月の色は、赤だった。僕は、覚悟を決めた。月の赤い夜は、僕の命日だ、と。
 僕は一度雲の下に出て海上に出ようとした。取り合えづ、任務を遂行しなければならない。
 生還、は許されていないから。
 けれど、おもった以上に雲量は厚い。どうしたらいいのか、混乱してきた。何處にも、身の置き場が無くなった。どうしたら・・・・。 
 混乱の頭に、レシーバーの雑音に掻き消されそうな声を認識できたことは、僕自身不思議だった。
「視界不良。特攻機、基地に帰還せよ。」
 繰り返し、三度、確かにそう言った。
 僕は戸惑った。
 助かった。帰還。けれど、本当に戻っていいのか―――。
 躊躇しながらも、僕は機を反転させた。確かに目的を果たせる状況ではなかった。だけど、だからといって、帰れといわれて帰っていっても。
 そんなことを思っているうちに、機は既に台北の飛行場上空に來てしまった。

 二五〇キロの爆弾を使うことなく、僕は用心しながら滑走路を降りた。僕の前には二機、既に帰還仲間がいた。室生中尉が駆けてきた。そのあとには実方らが續いてきていた。それを見たとき、僕のこころには脅えにも似た感情が走った。彼らは、僕をどんな目で見るのだろう。おめおめと帰ってきた自分を。僕の脚はがくがくと震えながらも、なんとか立っていることはできた。
 戻ってきてしまった。
 死にに行ったのに。
 隊の仲間は、僕をどう見るのだろう。
 がちがちの仕草で敬礼をする。
「よく、帰ってきたな。ゆっくり、休めよ。」
 室生中尉はそう言い様、きつく僕を両腕で抱いてくれた。その途端に、ぼろぼろぼろっ、と僕の両目から大粒の涙がこぼれ、脚の力が抜けた。
「泣く奴があるか。まだ、報告がすんでないぞ。」
 室生中尉に促され、僕は慌てて駆け寄った実方に支えられながら、それでも大声で報告した。
「青木文蔵准尉、特攻機視界不良のため、敵艦を発見できず、ただいま帰還しましたっ!」
「ご苦労であった。しっかり、休養せよ。」
 室生中尉は敬礼し、改めて僕に言った。
「青木・・・・。帰って、來たんだな・・・!」
 実方が、僕を支えながら、しっかりと、力強く言った。その途端、脅え、緊張していた僕のこころは一気に溶解した。みんな、先輩や同期がやさしくいたわってくれた。杞憂だったのだ。
 でも、僕の中では未だ、帰ってきて良かったのか、としこりが残った。
 
 その後、僕は再び原隊復帰となった。
 そして、八月二十三日にもう一度、実方と共に特攻の内示を受けていたのだけれど、その必要はなくなった。
 戦争に、負けたからだ。もう僕は、やり直せなくなった。間、朋友が幾人も逝った。なのに、生き残ってしまった。
 実方と2人で、復員汽車に揺られながら、泣いた。汽車の煙が目に痛い程沁みた。
 あの赤い月の夜に、ぼくは死に損なった。そのまま、僕は生きている。




「―――だから僕は、死に損なった、んです。」
 そう青木は言葉を結ぶと、黙った。木場は歩みを止めぬまま、沈黙の背に向けて言った。
「・・・・馬鹿だな、この餓鬼ァ・・・・。」
 掠れた声が、そう意味する言葉となって、青木に認識させる。青木の体が固くなったのを、木場は気づかぬ振りをして、そのまま続ける。
「でも、手前ェは、生きているじゃあ、ねェか。」
 ぴくり、と背の青木が反応したのを、木場は認めた。
 青木が、こんな話をしたのは、情けをかけて貰うためでも、優しい言葉をかけて貰いたいためでもないことは木場には解った。
 多分、青木は戸惑っている。生きてしまった事への後悔と、生きて行く事への憧憬と、生きて行かれなかった者への罪悪と。
 その三つの螺旋となって絡んだ鎖の中に、青木は繋がれたままだ。その鎖を解く鉤は、己のすぐ横にあるのにも拘らず。
 青木が欲しいのは、キィワード、だ。すぐ傍らの鉤を手に取るための。
 
 青木は掠れた冷たい言葉に、はた、と気づいた。僕は、何を。木場さんにとっては聞きたくもないような話をうだうだと話された揚句に。これ以上、木場に何をして貰いたいというのか。情けをかけて貰うためでも、優しい言葉をかけて貰いたいためでもない、ということくらいは、判っていた。
 ならば・・・・。曖昧としたモノが不鮮明に心の奥に埋もれている。

 けれど、木場には青木のキィワードなんて知る筈もない。だから、思うままに、それでも。
「確かにお前はここに生き残ってる。けどな、死んだ奴らに申し訳ねぇ、ってのが罪悪感ってんだったらな、
その罪悪と思うこと自体が、本当の罪悪じゃねえのか。」
「―――――。」
 青木が声にならない言葉を、喉から絞り出す気配がした。
「あの夏は、もう、還らねぇんだよ。どうあがいてもな。だから・・・もう、後ろを向くもんじゃ、ねェ。」
 還っては来ないあの夏のこと。
 木場は続けた。
「どういう結果だろうが、手前は今こうして生きてるんだ。だから、どうあろうと生きて行かなきゃ、ならねぇ。
小難しく考えてんじゃねえよ、この餓鬼が。」
 ゆっくりと立ち止まると、木場は靜かに、そして力強く、言った。
「お前は、生きてる。」

 木場の方頬に、ぽつり、と雫が上から落ちて來て道をつくった。ぽろぽろとそれは續いた。
「・・・・・・っ、く。」
 時折、耐えかねたように嗚咽が漏れる。
 それは、悲しいのではなく、むしろ、嬉しくて泣いているのだ、と泣いている青木自身は感じた。木場は苦笑すると、青木を背負い直して、また道を辿って行く。
 青木は、気づいた。僕は、誰かに証言して欲しかったのだ。
 己が、生きていて、生きていくことを。
 還らざる夏。あの夏は、もう二度として再びまみえることはない。
 不鮮明で曖昧だったモノが、青木の心の中で霧消した氣がした。
 赤い月は、今迄とは違った光を放って街を照らしていた。
 キィワードは、生きている。


                                                    end.

あとがき

あ〜。もう。
多分豊島時代かなんかの、出会って一寸経った頃の話。
なんか思ってたのよりも違いすぎな・・・。取り合えづ、こういうモノが書きたかったんです・・・・。
一寸幻想チックな小物出して見ちゃったりとか。
赤い月って確か、ゴビ砂漠の黄砂が空気中に飛んで風に乗って見えるんだっけ??良く知らないけど。









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