汝、日常を愛せよ

―――だから厭だったのだ。
 私はこの時、今日この日で幾度目か知れぬ、しかし一番重く激しい後悔にとらわれていた。
 何で・・・・こんな所に僕がいなくちゃならないんだ・・・・・・。
 
 確かに、小さい頃から勉強すること、学ぶことは好きだった。それは解らないことが解けて行く知的好奇心の他にも、『勉強は独りで出來る』物だったからと言うのに他ならない。だから私は、尋常小学校に上がる前から、それこそ優等生の鑑のように、外で悪友と悪さをして遊び回ることもなく、物静かに本を読んだりしているような、勉学に殆ど専念してきた、良い子だった。
 そのお陰か、尋常小学校、中学校と好成績を収めてきていた。それも、必要最低限以下と思われる程の人間関係を保って。
 そんな私を周囲は思いの外、奇異に扱うこともなく、ごく普通に扱ってくれていたのは有り難く思っている。友達も親も教師も。少し引っ込み思案な子供、として扱ってくれていた。それは私が余りにも外界を接することを積極的にしていないと言うことが丸判りだったのだからだろう。あまりに違いすぎてしまえば、子供だってそのように扱って呉れる。かえって、集団から何時もはぐれてしまう私が還ってこられるようなスペースを空けて置いてくれるなど、良い待遇を施してさえ呉れていたのだ。
 私は、思えば恵まれた環境にいたのだ。そしてそれは、だから故に私が私の人格を形成するのに、さながら純粋培養されたシャーレの中にいるような物だった。
 しかし、それもやがて終わりが来ると言うことを私は痛感した。

 より高等教育を受けるために、上級学校へ行かねばならない。それは私もやがて来ることだとは心の隅に置いていた。私が受験する学校は、天下の最高学府の予備教育機関である第一高等学校、一高なのだ。一年程前に進路指導の教師に、一校へ進め、と言われたときには正直複雑だった。
 勉強を続けてゆけることは嬉しい。それはとても、恵まれていると言うことだ。けれど、それより何よりも。私はそこに行けば迫られるであろう、寄宿舎制の集団行動が厭なのだ。
 しかし、そんなことは言えるはずもなく。
  私は『厭』という感覚しか確固とした意見もなく、そのまま十分高学歴だと思うような教師である親の師範学校よりも高い学校へとの希望とも相まって、流されてしまった、訳でもないのだが胡乱な気持ちのままに時を過ごして――
――今、一高の入学試験会場にいる。
 なんだか泣きそうになってきた。

 「じゃ、関口。しっかりやれよ?大丈夫じゃなくなったら、ちゃんと試験監督に云うんだぞ?」
 同じ中学からの友人は皆違う棟で受験をする。そして、試験中の個人的行動は禁じられているのだ。
 なんだかんだでいつも世話を焼いて呉れる中学の級長や友人達の心配そうな声に送り出され、私はふらふらと胡乱な足取りで階段を上り―――滑って落ちた。一番上の段で。
 したたか打った足腰も痛いが。他の受験生の目が痛い。
 私はもう、自分で苦笑いを浮かべながら、とぼとぼと定められた会場に入っていった。案の定、試験会場では無駄話をする者は殆どと言っていいほど少ない。ときたま、余裕なのか捨て鉢なのかは解らないが、せっぱ詰まったこんな時にでも騒いでいる奴もいる。ああいった者の方が直前まで問題集と睨み合いをしている者を差し置いて、試験は受かってしまうこともある。私にはとてもそんなことは出来もしない話だが。そんな輩に閉口すると共に、ちょっぴり羨ましくもあったりした。どちらにしても、騒ぎ立てるほど気力も必要もないし、問題集を開いて最後の丸暗記をするような気力も余裕もない。私は、ここへ来るだけでも、切羽詰まっていたのだ。
 こんな人だかり・・・・。こんな雰囲気・・・・・。
 どうしよう。何がなんだかわからない・・・・。
 緩慢とした動作で、筆箱を取り出し鉛筆を並べて、受験票を確認の上、机の上に置く。取り合えづ教室まで来たものの、なにがなんだか何故僕はここにいるのかもう訳が分からなくなってきたところで。
 気持ちが悪くなった。
 こんなところ、やっぱり来るんじゃなかった。
 体を机の上に寝かせようとしたところで。やはり私は運が悪いのだ。並べて置いてあった筆箱鉛筆、受験票の一切合切を腕にぶち当て落としてしまった。あああ。溜め息をついてそれらを拾い上げようと腰を浮かせたとき。前の受験生が立ち上がるとさっさと筆箱鉛筆受験票のひと揃えを素早く広い上げてくれた。
 あまりに突然のことに私はまだ一本しか拾っていなかった鉛筆を握りしめて、その受験生を見た。
 が。
 侘びや礼の言葉が私は絞り出せなかった。
 何故ならば。その受験生はいかにも不機嫌そうに眉間にしわを寄せてこちらを不思議そうに見ていたからだった。
・・・・・・・・・怖い。
「どうしたんだい?座るならさっさと座り給えよ。もう、他には落ちてはいないはずだせ?・・・関口君。」
 私はそう言われ、慌てて席に座った。
 が、疑問が湧く。何故、この男は私の名を知っているんだ?こんな怖い同年輩、私の知り合いには断じていない。ふう、と溜め息をついて自分も座ろうとしているその受験生におそるおそる尋ねてみる。
「あ・・・・あの・・・・っ。」
「なんだい?」 
「どうして・・・・・僕の・・・・名前・・・・」
 みなを言わさずに、彼はこちら側に向かって座り直しながら答えた。
「どうしって、って君、今さっき君の受験票を拾ってやったことを忘れたかい?」
「あ・・・・。あ、ありがとう・・・・。」
 そういえばそうだったが。取り合えづ、私はぎごちなく礼を言った。
「そんなことは礼を言われるまでもないがね。・・・・ときに君、顔色がだいぶ悪いが、どうしたかい?」
 言われて、私は気持ち悪い気分が急激に戻ってきた。
「あ・・・・・うん・・・・。気持ち・・・・悪・・・・・。」
 緊張ではないが、大勢の人並みに酔ったような気分だ。
 するとその受験生は、やおら立ち上がると私の腕を掴み立たせた。
「え・・・・?なに・・・?」
 突然のことに私は戸惑う。そんな私を見ると彼は半ば呆れ顔で言った。
「何って君、気分が悪いのだろう。まだ幸い試験開始までにはちょっと時間がある。かといって保健室送りは
後々の受験に響くだろうから、どこか適当な場所にでも行って一休みしなきゃぁいけないと思うがね。」
 そういわれて私はやっとわかった。
「あ・・・・そう、か・・・・。あ、ありがとう・・・・。」
「まったく、試験中に後ろで呻かれてもたまらないからね。」
 そうして私は彼に半ば引きずられるようにして受験会場の教室をあとにした。

 日当たりの良い渡り廊下。このあたりは誰もいなく、ただ冬の弱い光がひとところに集まっている。
「さ、座り給えよ。」
 彼がひときわ暖かそうな日溜まりに私を座らせてくれた。
 そして私と彼は渡り廊下の日溜まりに並んで座った。
「あ・・・ありがとう・・・。」
 私は彼に会ってから3度目の礼をぎごちなく言った。すると彼は苦笑して私に話しかけた。
「なんだね君は。感謝の意を表すると言うことは確かに良いことではあるが、だからといっても、あんまりのべつまくなしにそう言って良いようなことではないもんだぜ?」
「う・・・・ん。ごめん・・・・。」
 私は取り合えづ謝ってみた。
「謝る事じゃあないだろうよ。しかし、君のその胡乱な物言いはどうだい?もう少し、はきはきと喋れやしないのかい?」
 言われて私はちょっとムッときた。幾分ふてくされたように私は答えた。
「そんなこと言われたって、これが僕の話し方だし、だから僕はこんなところに向いちゃあいないんだ・・・・。」
「どういうことだい?」
 問われて私は、素直に今までのことを話してしまった。初対面の人間にここまで何かを話せたこと自体が驚きだ。
「僕は・・・、こんなとこ来たくなかったんだ。静かに一人でずっといたかったのに。ヒトとあんまり関わり合いたくないのに、何でだか僕は今こんなところにいて、受験なんかしなきゃあならない。確かに勉強を続けられるのは嬉しいけれど、僕はこんなの望んでないんだ。なのに、気づいたらこんなとこに僕は、いるんだ。」
 私の話を初め彼は呆気にとられたように聞いていたが、私が話を一区切りさせると、彼は静かな声で私に問うた。
「じゃあ、君の望んでいたこととは違うんだ。」
「あ・・・ああ。でも、僕は言い出せなかった。変えようと出来なかった。厭だけど、厭だって言えなかった。
何で、ッて言われても、言い様がないんだもの。そんな心の中で確かにあるんだけれど口に出しちゃうとよくわかんなくなっちゃうようなあやふやな気持ち、言えるもんか。」
 半ば殆ど私は、自分自身に対しての嫌気のままに言葉を紡いでいた。
 厭ならば、放り出せばいい。だけど出来ない。
そんなどっちつかずの、寧ろいい加減な気持ちで今まで生きてきたというのか。

 すると、彼の静かな声が誰もいない、光で一杯の廊下に響いた。
「でも君はここにいる。」
 確かにそう言った。
「君がどうこう思おうが、現実確かに君はここに来て、ここにいる。ということは、きみはここにきて、人と交わっていくことを撰んだことになるのだよ。」
 光が一瞬曇ってまた顔を出した。
 私は彼を見つめた。
 そしてまた彼は続けた。
「だから、絶えず変わっていく現実をないがしろにするよりも、君自身が変化になればいい。」

「君自身の行動は、君自身の変化だ。何がどうあれ、そのように事が運ぶのなら、君がそのように望んだ事なんだろう。」
 そう言って、顎をさすって彼は笑った。
 僕は、自然に彼へ感謝していた。
「・・・・・・ありがとう。」
 彼はニヤリと笑うと立ち上がりながら私に向かって言った。
「そう、こういうときにこそ、感謝の意を述べていただきたいもんだね。」
「ん・・・・・。あ、そう云や、君の名前・・・・・。」
 差し出された手を取り、立ち上がりながら私は聞いてみた。
 私が立ち上がったときにはもう、教室に向かって歩き始めていた彼は私の方を向くことなく言う。
「中禅寺秋彦、だよ。早くしたまえ。時間に遅れて受験棄権なんて事になってしまったらそれこそ事だろう?」
 私はあわてて、その中禅寺についていった。

 試験は何とか、出来たように思った。
 ただ、試験監督の助手に一高生が一人来ていたのだが、ずいぶんと不思議な人だったことを覚えている。
 試験直前まで教科書に首っ引きになっていた一番前の受験生に、「試験直前の悪あがきなぞ、馬鹿のすることだっ!!君、、馬鹿になりたくなかったら即刻やめたまえっ!!」などとけしかけ、試験監督助手だというのに試験中は眠りこけていた。
 そんな行動をするとは思えない、色の白い、というか色素の薄い、ビスクドールのように整った顔の先輩だった。


 郵便受に、桜が咲いた。
 つまり、幸か不幸か、合格したというわけだ。なんだか、気が抜けたことを覚えている。今までどうなるもののかをわからずにいたのが、あっさり決まって、嬉しいやらなにやらより、正直気が抜けた。
 そういえば、中禅寺。あいつはどうなったろう。
 
 寮に入る日が来た。大きな荷物は先に運んでしまったので、鞄一つを持って行く。ドキドキしながら、門をくぐる。遠くの方であの受験のときの奇妙な先輩を中心に学生達が騒いでいた。ああいうのをストームというのだ、と受付の先輩が教えてくれた。相変わらず人ごみや集団生活は厭だけど、私がここにいるということは、私がここに来ることを望んだのだから。そう思って、思い切って来た。
 部屋は最初に一度放り込まれる12人部屋24畳。それを想像するだに少し頭が痛くなったが、堪えて、扉を開ける。不意に声がかけられた。
「部屋割りというのはどうやら受験番号で決めているらしいね。」
 驚いて顔を上げると、窓際で和綴じの本を読んでいる和装の男。中禅寺だった。
「中禅寺君?!」
 私は驚いて鞄を足の上に落とした。
「あだっ!!」
 そんな私を呆れたように見ながら中禅寺は近づき、私の鞄を持つと、言った。
「何をしているんだい、粗忽者だね君は。ほら、早く入り給え。」
 言われ、慌てて中に入る。 
 中禅寺は右手を私の前に差し出した。
「う、うん・・・・・・。って、・・・え?」
 私が戸惑っていると、中禅寺はまたもや呆れた顔で言った。
「握手だよ。それ位もわからないほどに混乱でもしているのかい?」
「あ・・・。」 
 私も慌てて右手を差し出す。初めてあったときと同じように穏やかな日の光。
 それでも確かに季節は違う。
 窓の外では、さわさわと、風に乗って桜が舞う。それは、確かに私が撰んだ道を私自身が、歩いていると言うことだ。
 私は、私の内側で変化していくものを予感した。

 中禅寺は、ニヤリと笑うと、強く私の手を握った。
 そして私もそれに答える。

「これから、よろしく。」


                                                                      end.

あとがき

目標:「ここはグリーンウッド」系「摩利と慎吾」風味。さわやか青春小説。結果:玉砕。
やっぱり文章書きさんて凄いね。うん。尊敬。永月の受験束縛解放記念てことで(笑)。春は進級の季節です。わはは。

関口中禅寺出会いはドキドキ試験場話(爆)。関口(にかかわらず)一人称って結構難しい・・・・。無理矢理榎さん入れるし・・・・・。
京極こんな性格だったか???あわわ。勝手な関口設定だし。結構恵まれてる?
たぶん、大違いだと思うのよ。設定。
とりあえづ、一高の寮は12人部屋24畳、っていうのはホント。で、確か2階もあるんだっけ。でもいつ入るかは知らない(ヲイ)。
受験番号部屋割りはグリーンウッドから忍先輩の言葉。使いたかったの!!









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