記憶と夏休みと七夕と。

「はい、どうぞ。」
 ことり、と熱いほうじ茶の入った湯飲みを木場さんのデスクに置く。その音で、漸く僕の存在に気付いた木場さんはバキボキ骨を鳴らして伸びをしながら、がたり、と椅子ごと此方を向く。
「ん、すまねェな。」
 しもやけになりそうなほど、冷え切ってしまった手に息をかけつつ、木枯らしの吹く寒い歳末の外回りから帰ってくると、僕より先に帰っていた木場さんが珍しく、溜まっていた書類書きと格闘していた。なんだか感心に思えて僕は陣中見舞いにと、その足でお茶を淹れに言ったのだ。
 ハァ〜、と溜息を一つ落とし、木場さんはズズっとほうじ茶を啜った。
「先輩、ちょっとは休んだ方が良くないですか?先輩伸びたとき、凄い音しましたね、バキボキって。」
 僕はお盆を胸の前で抱え直すと、一寸苦笑しながらお伺いを立てた。机に向かってガシガシと書類に向かって奮闘する木場先輩の図は、なんだかとっても可笑しかったのだ。
「バカヤロ、今休んじまったらよ、やっと取れた年末年始の休暇取り上げられちまうだろうが。」
 木場さんは苦笑しながら、湯飲みを持っていない空いた方の手で、僕のおでこをビシッと小突いた。
「あたっ!ん…でもそうですね。去年なんて警務課に借り出されちゃったおかげで、除夜の鐘に初詣、勤務中に済ましちゃい
ましたもんねェ。」
 僕も隣の椅子に腰掛けると、頬杖をついて同調した。去年、僕らは年末年始の休暇を返上して参詣者ごった返す神社の警備応援に駆り出されていたのだった。それなりに楽しかったのだけれど、それなりに一月の終わりに休暇を戴いたのだけれど、やっぱりお休みは年末年始の定石通りに戴きたいものだ。今年は休暇希望の用紙が、去年よりも早い順番で廻ってきたので、僕らは無事に年末年始に休暇が取れたのだった。
「ああ、そうだ!そうそう、おい青木。年末年始といえばよ。」
 木場さんはコトリと湯飲みを置くと、思い出したように僕の方へ話を振ってきた。
「なんです?」
 僕は疑問符を出す。
 木場さんは身を乗り出して背を丸め、膝に肘を置いてから話を切りだした。
「おうよ、お前この休みにはまだ実家に帰らねェんだろ?あのな、先刻神田の方に寄って行ったらよ、道でバッタリ京極堂の奴に会ってな。」
「へぇ、こんな寒いのに外出することも珍しそうな中禅寺さんが。」
「おうよ。神田にゃ件の馬鹿探偵のねぐらもあるし、古本屋街のとこで逢ったんで、そりゃそれはそれで納得したんだがよ。」
 木場さんはそう言うと、一呼吸置いてからまた続けた。
「なんでもな、京極んとこの神社よ、来年の年始にはどうやら特別の儀式だか祭礼だかがあるってとかでよ、人手が欲しいん
だってよ。神籤とか神札とか売るんだってよ。大晦日と正月三ヶ日、京極の所に泊まりがけで。どうだ?一応俺も行かにゃなるまいが、ご苦労だけどよ、頼まれてやっちゃくんねぇか?」
「そりゃ構いませんが…。」
 ちょっと。内心悪戯心。意味ありげに僕は木場さんを上目遣いで見てみる。
「そうか、すまねぇな。…なんだ?」
 僕の視線に、発言中に気付いた木場さんは、一寸不思議に見返す。僕はお盆を抱えると立ち上がり、にっこり笑いながら木場さんに提案する。
「残りの休暇中、ずっと遊んでくださいね。」

 その日の帰り、外回りから直帰と言うことにして僕らは早めに警視庁を退出した。そしてその足で中野に行き、詳細をお伺いに行こうという理由からだ。年末の底冷えのする夕暮れ、だらだら坂を登り切ると京極堂があった。
「邪魔するぜ。」
 そう言いい乍ら、店の方の扉を開けて入ってゆく木場さんの後を、ごめんください、と元気よく挨拶して付いてゆく。
「おや。お揃いで。」
 番台の向こうで火鉢を掻き混ぜながら本を読んでいた古書肆は、本から顔も上げずに挨拶をした。
「おう、昼に言ってた件な、こいつも構わねェってんでよ、その話を詳しく聞くために連れてきたんでェ。」
 そう木場さんが告げると、漸く中禅寺さんは本から顔を上げると、相も変わらないその恐ろしいまでの仏頂面でじろりと僕らを見ると、火鉢の炭を傍らの手桶に移しながら僕らに告げた。
「そうかい、そりゃありがたい。ここで話すのも何だから、奥へ行こう。ああ、君達申し訳ないが、そこの戸締まりをして呉れ給え。」

 ふわりと暖かい感覚が、冷えた僕の鼻っ面を擽った。座敷の火鉢は赤く燃えていて、とても暖かだった。中禅寺さんはそこへ店の火鉢から持ってきた炭を加えて、馴らしながら
定位置に座った。僕らも各々座布団をしいて座卓を囲んだ。
「で?どういうもんなんだ?その仕事ッてのはよ。神籤だか札だかを売りゃあいいんだろ?」
 木場さんが口火を開く。
「ああ、社頭奉仕と言うんだ。それに木場、神社では『売る』とは言わない。授与と言え。」
「お…おお。」
「まぁ、平たく言ってしまえばそう言うことなんだがね。今年は66年ぶりの儀礼があってね、例年よりも忙しくなりそうなんでね。それで僕は儀式の方を優先でやるので、君らで神札授与奉仕をして貰いたいんだよ。」
 中禅寺さんはそう言うと傍らの覚え書き帳を取り寄せた。
「で、そのときは白衣と白袴をつけて貰うんだが、身長を言って貰えるかい?」
 僕らは各々身長を告げ、白衣と袴を用意して貰うことになった。


 「青木さぁ、年末年始どうする?」
 木下がお茶を持ってきてくれたとき、尋ねられた。
「あ、ありがと。うんと、木場先輩と中禅寺さんの所の神社で手伝いすることになってるんだ。」
「へぇ。っていうか、中禅寺さんの所の神社って、何だ?」
「知らなかった?中禅寺さん、あの人神主なんだよ。」
「はァ〜。そうなんだ。」
「木下は?…あ。ごめんごめん。」
「青木ぃ〜。お前らが休むから、俺達が出勤なんじゃないか。」
「あはは、感謝します。おかげで今年は仕事から離れられます。」
「全くだ。ま、仕事帰りにでも陣中見舞いに行くよ。中禅寺さんとこ、中野だったっけ?」



「わはは!なんだ、下駄に小芥子に鳥までもうち揃って、神である僕の下僕を志願しに来たのカッ?!」
 木場さんが玄関を開けると、素っ頓狂な声が廊下の向こうから振ってきた。驚いて声の発生源の方を見やると、白衣と白袴をつけた榎木津さんが廊下の向こうからやって来た。
「誰が下駄だよ!この素っ頓狂野郎!!しかも手前の下僕になんざぁなりに来てねェってんだよ馬鹿探偵!」
 早くも喧々囂々と罵声の挨拶が応酬される。
 …っていうか、小芥子って…。
「…あの、僕…小芥子なんですかぁ?」
 力無く僕がつぶやくと、ぎゃんぎゃん喚き合い、木場さんに胸倉までひっ掴まれていた榎木津さんが、くるりと僕の方を向いて僕の頭をわしゃわしゃ掻き回しながら笑った。
「あはは、小芥子だね小芥子小芥子。いいじゃあないか小芥子結構!だって可愛いからじゃないか!可愛い可愛い!」
「てめぇ、相手が違うだろうがッ!」
 木場さんが助けてくれたのか何なのか、真意はわかりかねるけども、調子に乗る榎木津さんを引き剥がし、乱闘再開。
「………あぅ〜…。」
 なんだかなぁ。なんだか気も削がれてくしゃくしゃになった頭を直していると、にやにやと鳥口君が顔をのぞき込んでつっこむ。
「大丈夫ッすか?青木さん、顔真っ赤。」
「あ〜、先生!せっかく着付けたのにもうぐしゃぐしゃにしちゃって!まったくもう…。」
 この騒ぎを聞きつけたのか、いつの間にか座敷の方からパタパタと、気苦労の絶えなさそうな困り顔の安和寅吉君が慌てて駆け寄って来た。彼も白衣に白袴と言ったいでたちだった。 「あらあらまぁまぁ」とか何とかぶつくさ言いながら榎木津さんを木場さんから引き剥がし、ちゃっちゃと着物の乱れを直してゆく。あの榎木津さんを素直に大人しくさせるには、実になれた手腕だ、と鳥口君共々感心していると、すこぶる不機嫌な声が此方に投げつけられてきた。
「玄関先で騒々しい。いい加減に中に入って来くらいしたらどうだ。」
 その声に見やると、座敷の障子に縋ってこちらを心配そうに見やる関口さんと、声の主・中禅寺さんが亜細亜どころか世界中が転覆しかねないような怖ろしい仏頂面で此方を睨んでいた。
「あ〜中禅寺さん、お邪魔してます。」
 鳥口君と僕は揃って中禅寺さんに挨拶する。木場さんも片手をあげて挨拶を交わした。そんな僕らは、中禅寺さんに尚も仏頂面を崩さず、奥に引っ込みつつ「早く入って来給え。」と怒られたので素直にお邪魔することにした。

 座敷には、中禅寺さん、関口さんの他に益田君がおり、彼は前髪を掻きあげて挨拶した。最近とみに前髪が長くなったようだ。皆揃って白衣と白袴と言うことは、皆揃ってお手伝いと言うことなのだろうか。只、中禅寺さんの袴は水色だったけれど。
「ああ、早速だけれども鳥口君と青木君は、これに着替えてくれ給え。着方は、そうだね、ご苦労だが和寅君と益田君、手伝ってやってくれないかね?ああ、すまんね。関口君に頼むと説明自体が曖昧模糊としているのに加えて、実演なんぞさせようものなら、まごまごして目も当てられないだろうから。そこで高いびきを掻いて転がっている名探偵の御大の宿直をして貰おう。木場、すまないが一寸この本の束を向こうの倉に入れるのを先に手伝ってくれないか?」
 てきぱきと、関口さんを愚弄することも忘れず、的確に指示をする中禅寺さんから、僕たちは部屋の片隅にあった行李を僕たちに手渡し、本の束を持った木場さんと座敷を出ていった。
 とりあえづ着替えましょうや、袴つけるの、お手伝いいたしますよぅ、と和寅君が促してくれたので、鳥口君と僕は着替え始めることにした。
 まず最初に足袋をはく。行李を開けて上に重ねてあった方のたとうを開ける。身長に見合った糊の良くきいている白衣が入っていた。久しぶりの和装で、いつもと違う様相をすることは、なんだか一寸わくわくしたようなくすぐったいような気分だ。この前和装をしたのは、夏の盆、木場さんと一緒に僕の実家に行った時、旧暦七夕祭りに着た浴衣だったっけ。
 ああ、そういえば妹、文ちゃんも確かこの冬は学校のクラブの都合で実家に帰らず、東京の友達のうちに泊まっているんだった。それで文ちゃんも目白の神社で巫女さんやってるっていっていたな。一応僕が年末年始ここの神社にいることも彼女には言ってあるし、文ちゃんのとこの神社も、手すきになったら言ってみようかな。
 そんなことをつらつら思い浮かべながら、腰紐を締めて帯を締め。袴を出そうと、たとうを開けてみると。
 真っ赤な緋の袴が入っていた。
「………中…禅寺、さん…?」
 思わず疑問形。これは、間違い。多分。あはははは。乾いた笑いだなぁ自分。そんな軽い混乱の僕にめざとく気付いた益田君が、僕とその視線の先である緋の袴を見やり、驚いたような、でもなんだか気になる笑顔で僕に話しかけてきた。
「やぁ、青木さん、これ着てくれるんですか?ささ、どうぞ!僕が着させて差し上げますんで!」
 けけけ、と笑う、でも半分真剣に訊いてくる益田君に気付いて、皆が僕に問う。
「なんだい?青木君、どうかしたのかい?」
 いままで所在なげにしていた関口さんが問う。
「いえ…どうしたもなにも…。」
 僕は困り顔で緋の袴を見せる。
「ありゃりゃ…。」
 和寅君が苦笑して僕の方を見る。
「わぁ、師匠の場合、これがマジなんだか冗談なんだか一瞥できませんね。」
 鳥口君は酷く真面目な顔して言うので、僕もなんだか怖くなって、小さな声で言ってみる。
「…で、も、やっぱり…間違い、ですよね…。あ…ははは…は。」
「やっぱ…そう、かな。」
 関口さんが同調してくれた。
「そ、そうですよね、ちょっと中禅寺さんに伺ってきてみます!」
 僕はとりあえづ緋の袴を持って座敷を飛び出し、中禅寺さんを探した。
 悪い冗談だ。もう。

 きょろきょろと、本だらけのこの家を探す。幸い、すぐに中禅寺さんは見つかった。どうやら収納するための本を点検しているところだったようで、相変わらずの仏頂面で本とにらめっこしていた。
「あの…すみません。」
 一寸躊躇しながらも僕は声を掛けた。中禅寺さんは本から目を離さないままに応答した。
「青木君か。なんだい?」
「あの、この袴…多分違うと思うんですが…。」
 中禅寺さんは漸く顔を上げてくれたが、僕の顔に一瞬一瞥をくれただけでその視線はまた本に戻り、言った。
「それだよ。」
「えぇ?…あの、でも、この袴、赤ですよ?これって巫女さん…女の人のじゃないんですかぁ?」
 思わずびっくりして聞き返す。
 すると中禅寺さんは神妙な面もちでぱたりと本を閉じ、こう僕に言い聞かせた。
「今年は神社奉仕に来てくれた人数が多くてね、白袴の本数が一本足りなかったんだよ。しかし、人手は多い程良い。だからといって平服での奉仕は避けたい。幸いにして君は、連中の中で一番身長が低い。よって、これでの奉仕もやぶさかではない、と。こう言う訳だ。」
 え。
 一瞬、それしか反応が出なかった。
「ちょちょ一寸待ってくださいよ!ぼ、僕、男ですよッ?!」
「青木君、外見がどうであれ、君は君だ。君、君そっくりの妹さんも確か神社奉仕をしているんだったろう?」
「え?あ、はぁ…。」
 そう言う問題ではないような気もする。しかし、僕は中禅寺さんに文ちゃんが巫女さんやっていると言ったことはあったっけな、と疑問が残ったが、この際それは問題ではない。
「君とそっくりならば、大丈夫だ。十分いけるよ。神もカモジ(付け毛)をつけて菊金具もつけるから十分巫女でいける。」
 しかしながらそれはどうかと思う。そんな問題ではないと思う。
 っていうか、女装!!
 にやり、と中禅寺さんが顎をさすりながら笑うのと、カラリと障子が開いて支度の終わった一同が報告に来たのは殆ど同時だった。

「京極堂、鳥口君着替えたよ。」
 関口さんだ。
「ああ、ならとりあえづ、君達は神社の方に行こうか。じゃ、すまないが和寅、青木君の着付けを頼んでいいかい?着付けたら、今木場が着替えに行っているんで木場と一緒に神社の方へ来てくれ給え。」
 取り残された。
 そんな心持ちでいっぱいの僕に、和寅君が声を掛ける。
「青木さん、矢っ張りこれでしたかい?」
「はぁ…。」
「多分、うちの先生がご自分は何にも手伝わないくせに、着たがったりしたから足りなくなったんだと思うんですよう。」
「はぁ…。」
 榎木津さん、一寸本気で恨みます。
「大丈夫ですよ、似合いますって。」
「…それはちょっと…慰めになってませんよ…。」
「あはは…とりあえづ、ここで袴つけちゃいましょか。」
「…はぁ。」
しゅるしゅる、と紐の擦れる音。
「女物って、ただ巻く形の、形だけの袴なんですねぇ。」
 和寅君が意外というように言う。言ったとおり、この袴はちょうど巻きスカートの要領だ。後ろの袴の紐を前に持ってきて蝶々結び、そして垂れた紐の先の方を前に出して結び目を隠すようにする。
「ハイ、出来上がり。」
「あ、ありがとう。」
「わ…。青木さん、冗談抜きでお似合いですよう。」
 心底びっくりしたような声を和寅があげる。そう言われても。複雑だ。と言うか。先輩が見たら。次の瞬間、僕は顔が真っ赤になるのを感じた。あわてて俯き、答える。
「え、あッ…ん、ありがと…って言うか、僕と同じ顔の妹も巫女やってるんで、似合ってていいんだかなんだかだよ。」
 二人で苦笑し合う。
 そして神社へ行こうとしたが、木場さんと、時計を座敷に忘れたことに気付いて、和寅君に先に玄関で待っていて貰うことにし、僕は座敷に向かった。
 障子越しに、声を掛ける。
「…先輩?」
 どきどきする。なんだか、僕が僕でないような、不思議なくすぐったい気分。服装が、緋の袴が、僕の何かを揺さぶる。
 僕を見て、木場さんはなんて言うんだろ。怒られるかな。笑われるかな。呆れるかな。でも、しょうがないじゃないか。雇い主の命令は絶対なんだもの。
 半ば強引に思考を開き直させたのは一瞬のことだったらしく、こう思った瞬間に木場さんの声が帰ってきた。
「おう、青木か?入れよ。」
 カラリ。
 ほんの少し、顔をひょっこり出すぶんだけ、細く開けてみる。木場さんは袴をつけているところだった。
「なんだよ?どうした、寒ぃだろ。早く入ってこい。」
 不思議そうに僕を見て言う。
「先輩。」
「あん?なんだよ?」
「もう…見てくださいよ。」
 からり、僕は苦笑しながら、僕の体全部が見えるように大きく障子を開けてみる。
「あんだ………?」
 何気なく顔を上げた木場さんの手から、しゅるりと袴の紐が落ちた。
 そして数秒間の沈黙。
 あはははは。苦笑。そりゃそうだろう。部下の女装なんだから。僕はまた、どこか開き直ったように、心の中で苦笑する。
「な…手前、なんて格好してやがんだ?!」
 いち早く立ち直った木場さんは、顔を真っ赤にさせてどなった。
「なんか、白い袴がないから、ッて中禅寺さんがこれ着せたんですよぉ。やっぱり、女装ですよね、これ。」
 僕は困惑したように眉根を寄せ、苦笑する。緋の袴をつまんで広げてみせる。
「はぁぁ…?」
 素っ頓狂な声を出す木場さん。矢っ張り変なんだろう。
「…やっぱり、変ですよねぇ。あはは中禅寺さんも冗談が過ぎます…よ。」
 台詞は最後まで言えなかった。木場さんが無言で、僕の手を引き、そのまま木場さんの胸に強く抱きしめられたからだった。
「…馬鹿野郎。本当ならこう言うのは、俺だけに見せろよ…。」
 小さな、本当に小さな低い声で、囁かれたその声は、とても照れくさそうで、その言葉に僕の顔は火がついたように紅潮する。
「せ、せんぱ…。」
「京極の野郎…、何の魂胆だかなぁ…。」
 木場さんは独り言のように呟くと、そっと僕の体を離し、ちゃっちゃと袴を紐を結び直してどすどすと座敷から出てゆこうとする。
「おら、早ええところ行くぞ!」
 僕の顔を見ないままに出てゆく木場さんの背中に、ぼくは笑みが零れるのを堪えられずに急いで時計を懐に入れつつ、木場さんの後を追った。

 神社に着くと、社務所の前で中禅寺さんと関口さんの奥さん達が、甘酒を大きな鍋で造っていた。和寅君は早速襷掛けをしつつ、そちらの援護に向かう。本領発揮と言ったところだろう。
 こんにちわ、と挨拶をすると奥さん達はにっこり挨拶を返して呉れ、少し味身分を戴いた。僕は小杯に一杯、木場さんはお椀に一杯。甘くて熱い液体が薄着の白衣しか纏っていない冷えた体を巡り、暖めてゆく。
 はぁ〜……。
 思わずほのぼの。そこへ、中禅寺さんが懐手をしつつ出てきた。
「全く…。ああ、千鶴子。敦子はどこへ行ったか知らないか?あいつめ、買い出しの覚え書きと授与品初穂料の覚え書きを間違えて持っていったらしい。」
 憮然とした表情で、中禅寺さんは僕らに懐から出した紙片を見せた。皆の視線がそれに集まる。醤油一升。蕎麦。葱。油揚げ。山芋。エビ。タマネギ。鰯………。
「大晦日の献立ですねぇ。」
 和寅君。職業柄お見事な推理。どうやら今日の夕飯は、年越しお好み蕎麦に鰯のようだ。
「あらあら。ご正解。安和さん、お流石ですわね。でも、これはお夜食よ。」
 奥さん達がコロコロと笑い、僕らもつられて笑った。
「しかし、京極の妹も意外とよ、結構抜けてんだな。おい兄貴、今度はちゃんともってくように教育しとけよ?」
「もう教育するにはとうが立ちすぎてるよ。あの瘋癲娘は。」
 あ。
 そんな愉快でほのぼの雰囲気に飲まれていたが、僕は重大なことに気付いた。
 敦子さん。が来る。
 そりゃそうだ、ここは敦子さんの兄上の家だ。
 というか。問題は僕だ。緋い袴だ。問題だ。こんな格好。問題だ。鳥口君や益田君達相手なら冗談にもなるが、冗談じゃない。震える手で、僕は中禅寺さんの袂に縋った。
「ちゅちゅちゅちゅちゅ…」
 今の僕こそ、顔面蒼白と言う事態だろう。実際僕は動転していた。
「なんだい?鼠かい?ここらに鼠は出ないはずだし、今年は巳年、来年は馬だ。いずれもネズミなんぞ無いぜ?」
「何言ってんだよ青木。どうした。」
 木場さんに軽く額をはたかれる。
「あた!…あ、あの、ち中禅寺さん…ッ!や、矢っ張りこの袴…、堪忍してくださいよぉッ!!」
 いくら何でも敦子さんに、この格好をお見せするのは如何ともしがたい!!
「あ…ああ。京極の妹か?」
 木場さんが今気付いたように問う。僕は無言でコクコクコクッと大きく何度も頷いた。
 けれど中禅寺さんはこともなげに曰う。
「何、発想の転換だよ、青木君。例えば事件捜査の必要上、女装をしなければならない。そう言う時、君はするだろう?」
「…はぁ。そりゃ、必要なら…。」
「ならばそう思えばいい。これだって、意味もなくやらせている訳じゃない。要は袴がないからと言う必要上だ。だから、やむなくそう言う格好をしているんだ。別にそう言う趣味をけなす積もりもないが、君がそう言う趣味でないんならば、仕事の必要上として考えればいい。それなら角も立つまい。」
「そ…そんなぁ…。」
 情けない声を割れ知らず絞り出した僕に、関口さんの奥さんがにっこりと笑う。
「大丈夫ですよ、青木さん。よっくお似合いだから。ねぇ、千鶴子さん?」
「ええ、雪絵さん。ホント、可愛いですわよねぇ。かもじも付けたらよろっしくってよ。そうそう青木さん、後でお写真とっても宜しいかしらッ?」
 中禅寺さんの奥さんまで同調され、縒れた蝶々結びの結び目を直してもらいまでした。そう言えばこの奥様達、僕のこの格好を先刻見たとき、ごく普通に受け止めていたなぁ、と溜息と共に思い出された。
「ね、みなさんも太鼓判押してらっしゃいますでしょ?だから、全然お気になされること無いですよう?敦子さんだってそうおっしゃってくださると思いますよう。」
 和寅君までもがこう曰う。
 しかし、現実に『僕が女装をしている』のには代わりが無いじゃないかッ!泣きたくなるような気持ちで、最後の頼みの綱・木場さんを見上げた。木場さんは、うーん、と唸り、いささか厳かに中禅寺さんに向かってお伺いを立てた。
「…おい、その、なんだ。お前さんがつけている水色の、替わりってのはねェのかい?」
 ありがとう援護射撃!僕は木場さんに縋った。
「これは神職のだよ。潔斎した者のみのものだ。」
 撃沈。

 結局、この格好のままで敦子さんに会うのか…。暗い雰囲気で社務所の奥、授与所の方へ連れられてゆくと、向こうの方から、『わぁ』だの『おおっ』だの奇声が、僕たちの方へ聞こえてきた。
「あの馬鹿野郎、こんな所でも騒いでやがるなッてんだ。」
 木場さんの溜息と共に吐き出された呟きの通り、その声の主は御神籤を引っ張り出しては面白がっている榎木津さんだった。
「榎さん…ちゃんとしまっといてくださいよ。」
 中禅寺さんの要請にも耳を貸さず、榎木津さんは困り果てた面もちの関口さんを無理矢理仲間にして、御神籤の文面に可笑しさを感じておられる様子なので、中禅寺さんは先に来ていた鳥口君達と一緒にお守りをさんぽうの上に並べるよう命を下してから出ていった。
「青木さんっ!」
 振り向くと、そこには神妙な顔をした鳥口君が立っていた。
「はい?あ、えっと…どうするんです?」
「それよりもっ。青木さん、今度その格好、写真とらせてくださいねっ!」
「はぁ…?」
 面食らう僕に、鳥口君はさらに力を入れて僕にきく。
「アメリカから、総天然色のフィルム取り寄せたんすよ!ああ、持ってて良かったッすよ!是非、その姿で一枚…ぎゃッ!!」
 最後まで言えなかったのは、木場さんが脳天に一発お見舞い申し上げたからだった。
「おい小僧、ちょっと話さねぇか…?」
 返事を訊く間もなく、木場さんはそのまま鳥口君を向こうの方へ引っ張っていってしまった。一人取り残される。
「けけけ。タイミング悪いなぁ、鳥口君は。ね、青木さんっ。」
 一人ではなかった。振り向くと、いつの間に来たのか、益田君が前髪を掻きあげながら笑っていた。
「あ…益田君。」
 益田君は僕の袴をつまむと楽しそうに言う。
「いいなぁ、巫女姿って。ね?青木さん。後で、境内で竹箒とか持ってみてくださいよ!巫女と言えば、竹箒で境内の掃除!」
「あ…あの、益田、君…?」
 訳の分からないことを言う男だ。
 いつだったか木場さんに、益田君は状況的嗜好だと言うことを訊いたことがあるけれど。
「手前もか…。その手を離せ。小僧。」
 がつん、と一発。
「あ…先輩。」
 いつの間にか帰ってきたのか、更に凶悪な面もちをした木場さんが、僕に詰め寄る益田君に鉄槌を食らわせた。その後ろでは笑いを堪える鳥口君がいた。
「ッたくどいつもこいつもよ…!おら、とっととやっちまうぞ、おいコラいったいなにをどうすんだよ?!」
 木場さんにがなり立てられて、僕らはとっととお守りを並べる作業に追い立てられた。結局、ひとしきり騒いで今度は和寅君のちょっかいに行ってしまった榎木津さんに漸く解放された関口さんは、ちっとも役に立たなかったけれど。

「ご飯ですよ。」
 中禅寺さんの奥さんが夕ご飯に呼んでくれたのと、鳥口君のおなかが鳴ったのはほぼ同時だった。僕等は笑い合って、ご飯の支度ができている斎務の方に向かった。夕餉のいい匂いが漂う、その向こうから陽気な声が聞こえる。
 「ご飯だご飯だ!」
  和寅君にもっとご飯を盛りつけろ、榎木津さんが嬉しそうにと騒いでいた。
「お、三馬鹿に下駄だな!ご飯だご飯だ!千鶴ちゃんと雪ちゃんと和寅のお手製だぞ!千鶴ちゃん達のは言うべくもないが、うちのゴキブリ男は炊事だけは及第点以上だからな!味は期待するぞ!」
「先生、その名前は勘弁してくださいよう。」
 和寅君がご飯をよそいながら不満を述べる。
「なんだ、だっていつも台所にいるだろう、お前。ああ、君達もたもたするんじゃあない。」
 僕らが慌てて腰を落ちつけようとしたとき、カラリと障子が開いて御味噌汁のいい匂いがあたりに漂った。
 何気なく振り向くと。
 それはにこやかに御味噌汁を持ってきて挨拶する、敦子さんだった。僕がその事態に気が付くのと、敦子さんが僕に僕の格好に気付くのとは同時だった。
「ああああ、敦子さ…!」
「あらっ、青木さん?!」
 イヤだぁぁぁぁ!こんな格好見られるのはっ!敦子さんだって驚いた顔しているし!
「青木さん、可愛いッッッ!」
 え。
「やっぱり、思った通り。ね、兄貴。絶対似合うと思ったのよねっ!」
 え。
 くつくつ、と中禅寺さんが笑いながら僕に言う。
「すまないね、青木君。そう言うことでも、あったんだよ。」
 ええ?
「袴が足りなくなったのは事実だが、その人選はそこの瘋癲娘の推薦だったんだよ。」
「は…ァ。」
 …なんてことだ。
「青木さん、後でカモジと菊金具つけたげますねッ!」
 楽しそうに敦子さんは僕に言うと、いそいそ御味噌汁を盛りつけてくれた。
「いろいろと大変ですねぇ…。」
 隣にいた益田君が笑う。けけけけけ。
ああ、けけけけけ、だともさ。
 榎木津さんの元気良い、いっただっきまーす、が挨拶。
 わいわいと和やかに談笑しながら、榎木津さんのお墨付きの夕飯をとても美味しく、戴いた。

「青木さん、髪の毛付けましょ。」
 僕は敦子さんに引っ張られるようにして、鏡台のある部屋に連れて来られた。ああ、敦子さん楽しそう…。
 すっ、すっ、と櫛が僕の髪を梳く。
「…ごめんなさい。」
 突然、僕の後ろから敦子さんの声が降ってきた。
「え…?」
 僕はきょとんとして聞き返す。どうしたというのだろう。
「なにが、ですか?」
 遠慮がちに敦子さんが答える。
「こんな格好させちゃって。私が、言い出しちゃったんです。本当、酷い迷惑ですよね。」
 ああ…そのことか。
「いえ…。そんなことなら構いませんけど。…それよりも、僕はこの格好を敦子さんに見られることの方をびくびくしてたんですよ。」
 僕は苦笑しながら堪えた。
「あら。そうだったんですか?でもなぜ?」
「だって、一応僕も男ですし、女装ってことになるんですよ。…やっぱり一寸、ね。」
「でも、大丈夫ですよ、似合ってます。」
 後ろの髪を一つに纏めて結わえ、かもじを付けてゆく。
「…それは嬉しがって良いんだか、悪いんだかわかりませんね。」
 僕等は笑い合った。
「僕の妹、僕とそっくりなんですよ。それでね、妹も神社で巫女さんやってるんで、似合って良いんだか悪いんだか。ね?」
「そうなんですか。でも、そっくりって、そんなに?妹さん、それはご実家の方で?」
カモジに紙を巻いてピンで留め、菊金具をつける。
「いえ、本当にそっくりでよく間違われるんですよ。困ったことに。妹は東京の学校に出てるんで、目白の方でやってます。この休みも、年末年始は汽車が込むから春休みに帰る、ッて年末年始働いているみたいです。」
「そうなんですか。いい子ですね。」
 菊金具を根本に固定し、残った紐を紙にくるんだカモジに巻き止めてゆく。
「はぁ、ま、ここが手すきにでもなったら、一遍行って働きぶりを見物してこようかな、と思ってます。」
「仲良いんですね、青木さん達。そっくりの妹さん、私も見てみたいです。でも…その格好で?」
「勘弁してくださいよぉ。」
 巻き止めた最後の紐を蝶々結びにし、もう一つ結わえて出来上がり。
 敦子さんに礼を言い、皆がたまっている斎務へ行くと、またもそこで鳥口君と益田君が訳の分からないことを曰い、木場さんが鉄槌を食らわせたり、榎木津さんがそこに入ってより混乱が生じ、榎木津さんと木場さんの些か過激な素敵すぎるじゃれ合いに巻き込まれ、関口さんが這々の体で逃れようとするも失敗し、何がなんだか判らなくなったところで中禅寺さんに怒られたりして、時が過ぎてしまった。

 そうこうしているうちに境内の方も、参拝者や氏子の人たちが集まってきており賑やかになってきた。僕等も交代制で、授与所と境内、休憩に廻ることになった。
 益田君の強い要望で箒を持って境内の掃除をやったり、甘酒を振る舞ったり、御神籤やお守りを授与したりと、そこそこ忙しくそこそこ暇に、楽しく勤務した。
 白衣の薄さには、正直参ったけれど。夜も更けて、師走の夜は寒い。授与所でお守りや破魔矢、神札御神籤の授与や初穂料に触れるたびに手が袖口から出るので、傍らの火鉢は離せない。ただ、あんまり近くに置きすぎるとなにげに袂が燃えていることもあるから注意しろ、と中禅寺さんが言っていた。それは、経験に基づく助言ですか、と訊きたかったが止めておいた。身のため。
 寒いですね、と隣にいる、授与品の補充係である関口さんと、この厳しさを分かち合う。傍らのラジオから流れる紅白歌合戦も佳境に入っているみたいだ。
「どうぞ、こちらお納め下さい、ようこそお参り下さいました。」
 すこし、人が多くなってきた気もする。時計を見ると、11時を廻っている。
「青木さん、ちょっと休んできてくださいよ、休憩交代。」
 とんとん、と肩を叩かれ振り向くと、鳥口君が交代にやってきた。
「あ、ありがとう。じゃ、お願いしますね。」
 立ち上がり、礼を言う。実は一寸足が痺れていたので、高さ調整のために座布団を四つ折りにして、その上に胡座で座っていた僕は、立ち上がったときに鳥口君に笑われた。しかし座ってみれば判る。関口さんだってやってる、これも中禅寺さんからの直伝の技だ。しかも、膝には毛布が掛けてあるので、外見上は変わらない。
「そうそう、青木さん。」
 隣の関口さんに挨拶をして、休憩所である斎務の方へ行こうと入り口をむくと、鳥口君が声を掛けた。
「ん?なんです?」
 鳥口君はにやにやと笑い、小さな声で僕に囁いた。
「先刻、木場さんに僕連れてかれましたでしょ?あれ、木場さんなんて言ったんだと思います?」
 さっき。ああ、僕の写真を撮る云々か。
「え?……さぁ?」
 鳥口君はニッカリ笑うと、答えを披露した。
「焼き増し一枚寄越せ。って。…さぁて、仕事仕事。」
 ぶんぶん、と腕を回しながら鳥口君は行ってしまった。一人入り口近くに取り残された僕は、頬が熱くなってしまうのをどうしても押さえられなく、冷えて冷たくなった手で慌てて、真っ赤になっているであろう両の頬を押さえた。
「………熱…ぅ…。」
 それはホントに熱かった。


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Intermition

文蔵、かわいそう。
まあ世間には「運命」という便利な言葉がありますし。
そして。この年越しのシーンだけのためにこの話を書いたのだが、あんまりどうって事無いな…。









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