いろいろあったけど、それでも僕は元気です。

 韮山のあの事件の後、僕と先輩は服務規程違反のために、降格処分と相成った訳で。
 そして、慌ただしくその日のうちに異動となり、配属先の署から配属先の派出所へと挨拶に行ってしまったので、僕と木場さんはお互いにどこへ行ってしまったのかさえ、わからなかった。しかしまぁ、お互いの自宅や連絡先は知り合っている訳だし。
 だから、そんなにどうこう、という訳でもなかったのだけれど。けれど、心にどこか欠けてしまった孔を持っている、と言うような気分はやり過ごせないほど、僕の気持ちを常に揺さぶってくる。韮山のあの事件の前に感じた、「果敢無い」という感情よりも…より実体化となってしまっているモノだ、と僕は確信している。
 木下は、自分のことのようにおろおろと気遣ってくれた。 長門さんは、何事も人生経験、と笑ってポンと肩を叩いてくれた。捜査一課にあった僕の机は、そのままにしておいてくれると大島課長は言って呉れた。また戻ってこい、と言う餞別代わりなのだろう、と思うのは僕の独りよがりだろうか。
 僕は久しぶりに袖を通した、制服のごわごわとする感触がなんだか新鮮に感じて、今現在、僕が置かれた状況からはとても似つかわしくない感覚だと思い直し、苦笑した。
 今日から派出所勤務である。僕は、うん、と背伸びをした。


 派出所の部長さんと、派出所までパトカーで同行する。ここの槇野部長さんはなんだか「お父さん」というに相応しいような人だった。ひどく僕のことを気遣ってくれている。僕にはちょっと、むず痒いような持て余してしまうような、そんな心持ちで部長の説明や世間話を拝聴していた。すると、部長はそんな僕を察したらしく、「大丈夫だ、普通に扱うから。」と笑いかけて呉れた。

「今日付けで、ここに配属になりました、青木文蔵巡査です。宜しくお願いします。」
 ぺこり、と挨拶する。
「此方こそ、どうぞ宜しく。ま、堅くならないでッ。楽に行きましょ、楽に。」
 僕と同年輩くらいの若い巡査が進み出て、にっこりと笑いかけてくれた。そしてその巡査の先導で、自己紹介をされる。先導を買った巡査は、名を香椎と言った。机に向かい、書類を書いていたどこか役人のような巡査は、黒縁眼鏡をくい、と直しながら辻だ、と挨拶をし、今年新人配属になったという若い巡査は張りきって匂坂ですッ!と名乗り、体格の実に宜しい巡査長が栗原だ、宜しくな、とトリを締めた。
 そのまま僕と香椎さん、そして匂坂くんが当直勤務に入ることになり、部長さんと栗原さん、そして辻さんが帰っていった。
「青木君、今度日を改めて歓迎会をやろうな!」
「はい、有り難うございますッ!」
 栗原さんに頭をぐしゃぐしゃと掻き回されながら、僕は返答する。
 そんな僕に、元来無表情なのか、辻さんがむすっとしたまま無言で先ほどまで書いていた書類を僕に渡してくれた。
「あの…これ?」
「ここの警邏の地図と、その際の注意地点。それから、その他留意点。」
「え…あ、有り難うございます…。」
 お礼を言い終わる前に辻さんは行ってしまった。
「あ〜、こりゃ実に詳細だ。辻さんね、昔海軍の諜報機関にいたんだって。だからお手の物なんだよ、こういうの造るの。凄いなぁ…これ、良く逃げ出す犬とかお年寄りだけの家とか留意すべき点、全部書き出してあるよ。」
 ひょいと、僕の肩越しから香椎さんが書類をのぞき込み、感嘆の声を上げた。
「はぁ…。」
「辻さんさ、なんか役人ッて感じでぶっきらぼうだけど、結構いい人だよ。」
 一寸これ見せて、と香椎さんの方が書類に夢中になってしまったので、そのまま書類を渡すと、待っていたように熱いお茶の入った湯飲みが差し出された。
「はいッどうぞ。」
「あ、ありがとう。匂坂…君。」
 勧められた椅子に座りながら、僕は答えた。
「やだな先輩、匂坂で良いですよ。それよりッ!」
 にこやかに匂坂君は笑うと、勢い込んで僕に尋ねた。
「青木さん、刑事だったんですよね?しかも本庁一課!」
「え…。えぇ…。」
「ぁ…!バカ匂!」
 木場さんの顔がふっと脳裏をよぎり、僕が躊躇した返事をするのと、香椎さんが怒鳴るのとはほぼ同時だった。その声に吃驚した僕は、香椎さんが匂坂君の首をぐっと腕で締めて制裁を加えたのを黙ってみているしかなかった。
「バカ匂!青木さんだって青木さんの色々辛い事情があって降格されたんだろうから、そんなこと訊くなよッて、先刻皆で決めた
ばっかじゃねぇか!?」
「ぅあ…ごめんなさいッ!忘れてましたッ!僕、刑事希望だから色々訊きたかったんでス〜ッ!」
 制裁を加える香椎さんと、加えられる匂坂君、そして渦中の人である僕。
 ふと目があった。訳もなく気まずい。
「……訊いてた…?」
「……訊いてた…。」
 幾秒かの沈黙の後、ぷっ、と僕は吹き出してしまった。
 いい人ばかりだ。ここは。一寸した気遣い。そんなことがとても嬉しくて。
「…青木、さん?怒った…?」
 ドキドキとした表情で香椎さんと匂坂君が、此方を伺う。
「あ…ごめんなさい。いえ、怒ってなんかないです。いいんですよ、気にしないで下さい。僕、ただの服務規程違反なんですから。」
「服務規程違反〜?…あ、なんだそうだったんですか…。ああッ…と、失礼。」
 香椎さんが幾分脱力しながら僕に尋ねた。
「あ、いいえ構いませんよ。ちょっと、元の上司というか先輩と、ある事件から繋がった事で暴走しちゃって。」
「ああ…。てっきり、なんかもっと本庁ぐるみや果ては政界にまで絡んだ生存競争に敗れた上の苦難の末の都落ち、とかそんなのかと思ってたもんで…。」
 照れくさそうに、香椎さんは鼻を掻きながら手近の椅子に座る。
「すみません、ありきたりで。」
 僕も苦笑してしまった。
 ここの派出所で、仲良くやってゆけそうな気がした。

 穏やかな日が、幾日も経った。
 道を尋ねられれば道案内に行き、散歩のような警邏をして、近所の子供らと友達になり、近くの神社で遊んだり、香椎さんがベーゴマでムキになったり、そこの神主のおじいさんと茶飲み友達になったり、歓迎会という名の飲み会で自分が少し飲んだら寝ちゃうと言うことも忘れて寝てしまい、全員が心配して下宿まで送ってくれたり、いろいろと穏やかな日々が続いた。
 僕は、刑事時代のあの殺伐とした忙しさを、どこか遠くに置いてきたような、そんな気分だった。ひと月も経っていないと言うのに。木場さんは、どこに配属されたのだろうか。
 今度、会いに行ってみようか。


 それはちょうど、派出所が六人、そして交代要員が三人揃っていた昼下がりだった。
 リンリン。電話が鳴り、歓談は一旦中止される。
「はーい、樹ノ本派出所でッす…え、あ、はハッ!承知しました!…はい、は…。…しょ、承知しましたッ!では、早急に参りますッ!」
 長閑に電話を受けた香椎さんは、急に居住まいを正すと神妙に電話を切った。
「どうした?」
 部長さんが訊く。
「はい。署からで、隣町の公園横の長屋、隣の派出所の管轄内なんですけども、そこで死体2体が発見されたようです。それで、人員が他の方に廻っているから、出てこられるだけ応援に来いッて、招集かかりましたッ。」
「そうか。じゃあ、今来た君ら、そのままここに入っていてくれ。それから、香椎と青木、君らは自転車で先に行っていてくれ。他は後から走っていくぞ。」
「はッ!」
 僕等は挙手の礼をすると、香椎さんと一緒に自転車置き場へ廻った。
 二台あった自転車のうち、一台へ急いで跨った。が。
「あれ…?」
「青木さん?どうした?」
「……パンクしてる。」
「え…ぇ?あああ。そう言えばこないだ、栗原さんが釘踏んでパンクさせたんだっけ…。ったく、修理だしとけよッ!もう、青木さん、後ろ乗って!」
「え?でも、二人乗りは…ッ?!」
 僕が抗議する間もなく、自転車の後ろに載せられ、香椎さんは張り切って発進した。
 …僕が乗っているのはアレです、書類入れです…。痛…。

「俺、警官に任官されてからの、初めての殺人事件なんですよ。」
 ペダルを漕ぎながら、香椎さんは話し出した。
「変な話、なんか張り切っちゃって。…はは。不謹慎な話ですね。」
「ああ…。そうなんですか…。でも、そんなもんですよね。初めてッてのは。」
「青木さん…は、久しぶりって事になるンすね。」
 さりげなく、気遣ってくれている口調。だから僕も、さりげなくそれを受け止める。
「はい…。でも、今でもアレですよ。やっぱり緊張しちゃう。」
 くすくす、と笑いながら僕はなんだか不思議な気分だった。
 前までは、それこそ頻繁に起こる事件を直接捜査していたのだけれど、今度は違った立場で事件に携わる。
 ヒトは、本当にいろんな立場になりうるものだ。そんな、僕の立場から考えたら不謹慎極まりないことを、香椎さんに掴まりながらつらつらと考えているうちに、現場に到着した。

 キッ、と自転車を止め、所轄の刑事さんらしき人へお伺いを立てる。
「あの、樹ノ本派出所から二名到着しました。後から四名此方に向かっておりますッ。」
「ああ、ご苦労さん。じゃあ現場の保存と、野次馬の押さえ、頼んだ。あっち、ホラあっちの扉空いてるところ、あそこが現場だから。」
「ハッ!」
 それから、後から追いついた部長さん達と任務に就いた。捜査は滞り無く進み、先ほどの刑事さんから、ご苦労さんもう帰って良いよ、との解散命令を戴いた。
「ひゃあ疲れた〜。野次馬のおばさん、凄い勢いでわいのわいの訊いてくるったら…。しかも何人も団体で。ご苦労様ですー…ッて青木さん、あの人達ッ!本庁の方々じゃないですか?」
「え…?」
 匂坂君の声に、何気なくその差した指の方向を見る。
 捜査員達のその向こう、鑑識達と話している初老の男性と若い男。
 長門さんと、木下。その瞬間、僕の胸中を襲ったのは、懐かしさ、嬉しさ、淋しさ、羞恥。言いようのない、感情と言うしかない感情。
 僕が目をそらす一瞬前、木下の目と交錯した。だから、逸らした視線の残像が、僕に向かって声を掛けたのだ。
「ぁ…!あお……青木ッ?!」
 その狼狽と驚愕が入り交じった声は…木下だ。


「ここの署に…配属だったんだな。」
 夕暮れの、近所の神社の境内。遠くに子供の笑い声が聞こえる。僕等はあの後休憩を戴き、言葉少なに場所を変えて二人、境内の石垣に並んで座っていた。木下が、木々の向こうから差し込んでくる夕陽の所為か、眉をひそめながら尋ねた。その声は、限りなく優しい声だった。
「…うん。なんやかやで決まってすぐにここに来ちゃってさ、連絡も出来なかったや。ごめん。」
「いや、いいよ。忙しかったんだろ?」
 そう言って、木下は微笑した。
「う…ん。配置換えの訓辞が出た、その日にもう派出所勤務だったし。その後も、色々覚えなきゃいけないこともあったしさ。なんやかやで雑多雑多してて。派出所勤務なんて、随分昔のことだったからどうしたらいいのか忘れちゃっててさ。だって、僕が交番勤務だったのって、まだ旧制服だったときだよ?」
「そうだよな。随分替わってるんだろうな。って、変わってなきゃ困るか。……で、そこの派出所はどうだ?慣れたか?」
「あぁ。みんないい人でね。部長さんは『お父さん』って感じだし。特にね、香椎…って、先刻僕の隣にいたヒトなんだけど、その人が何かと世話を焼いてくれてさ、色々教えてくれるし。こないだだって、歓迎会って事で飲みに行ったときさ、僕酔いつぶれちゃったんだけど、わざわざおぶって送って貰っちゃったしね。」
 そう僕が答えると、木下は何とも言えない、階段からひっくり返って落ちそうになった時みたいな表情で聞き返してきた。
「せ…わ?先刻お前にやたら親切にしてた奴か?そいつが率先して?おぶって?送った?」
「うん。…木下?それがどうかした?」
 なんだろう?僕は、買い物しようと街まで出かけたら、財布がないのに気付いたような面もちで、真剣に心配そうに訊いてくる木下を不思議に思って訊いてみる。すると、木下はどこか気まずそうな、ばつの悪い顔になり、僕から目をそらしながら返事を返した。
「いや…、いい。忘れてくれ。」
 なんなのだろう。ま、いいや。本人がそう言っているのだし。
「なんだよ?変なの。」
「……。」
 どこかで、烏の鳴き声が聞こえた。
「あぁ、もう日も暮れちまうか。」
 そう言って木下は、ヒトの高さほどの石垣からひょいと飛び降り、腕時計を見る。
「また、遊びに来るな。今日は直帰って言ってなかったから、早いとこ帰らなきゃ大島課長の雷が落ちちまうよ。」
「…そだね。」
 二人で笑い合う。二人揃って、お怒り中の大島課長殿のご尊顔を想像したのだ。
 僕も降りようと腰を浮かせたとき。
「ふぁ…?きのした?」
 ごく自然に木下の腕が伸び、抱きかかえるようにして優しく、ゆっくりと降ろしてくれた。
 すとん。
 僕は、ちょうど抱きかかえられるような格好で向き合った、木下の胸を軽くぽかぽかと叩いて抗議をする。
 苦笑混じりに。
「もう、なんだよ。子供じゃないんだから降りられるってば。…あれ…?…木下?」
 木下はその抗議を聴いているのか居ないのやら、僕を抱えたままになかなか放してくれない。
「…青木。」
 頭上から声が振る。その声は優しく、どこか暖かかった。
「…なに?」
 僕は、顔をあげる事なく返答する。
「ちゃんと、帰ってこいよ。お前の机、毎朝拭いてるんだから。」
「…うん。」
 全身がどこかほのかに温かいのは、夕焼けの日溜まりの中にいるだけじゃない、と感じた。

「ありがとな。木下、ホントにお前っていい奴だなッ!」
 僕は夕日を背に受け、にっこりと木下に笑いかける。
「…え……。」
 何気なく笑ったはずなのに。木下は意外な表情で此方を見た。
 どうしたのだろう?僕が何か気に障ることでもいったのだろうか?一寸不安になって訊いてみる。
「ん?どした?…僕、なんか悪いこといっちゃった?」
「…い、いいや…。違う。気にするな…。…うん。」
 変な木下だ。悪いものでも食べたのだろうか、今日は。
 僕等は玉砂利を踏みしめて、歩き出す。
「そお?…まいっか。」
 僕は、ぱふっ、と制帽をかぶる。
「お…おお。…そ、そうだ、青木。今度非番の時にでも、飲みに行かないか?」
「ホント?そうだね、どこ行こ…」
「うわわッ!押すなッ」
 がたたたたッ!
 僕等の歩く参道のすぐ手前、大きな灯籠の陰から、転がり出てきたモノは。
「香椎さ…匂坂君…。わ、皆さん?!」
 一番下は香椎さん、その上は匂坂君。栗原さんに部長さんまで、雪崩となって落ちてきたのだ。ただ、辻さんは一人難を逃れて、灯籠の横で眺めていたが。
「あ…。」
 僕等と目が合う。
「…皆さん、どう…したんですか?」
「い…いや。」
 パンパン、と埃を払い、立ち上がった部長さんが言葉を濁した。
「青木さん、本庁の方に連れてかれちゃったってんで…。嫌みとか嫌がらせとかされちゃてるんじゃ…って。」
 香椎さんが頭を掻きながら言う。
「いやぁ、いけ好かない奴だったらよ、一発ぶん投げてやろうかと思ってたんだけどな。いい奴じゃねぇか。」
 栗原さんは豪快に笑いながら、怖ろしいことを言う。
「すいません、出歯亀しちゃったみたいで…。」
 申し訳なさそうに、匂坂君が謝ってくれるので、僕は慌てて答える。
「え…いえ、全然。それより、僕の方こそすみません…。皆さん、心配してくれて…。」
「…良かったな、青木。いい人ばっかりみたいで。」
 そう言って笑う木下の手はポンポン、と僕の頭を軽く跳ねた。
 僕は木下に微笑んで帽子をかぶり直しながら、くすぐったいような嬉しいような、そんな暖かな灯が、胸中に点っていることを確かに実感したのだ。


「…あ。」
 その夜の、夜勤の最中。お茶をつぎながら、僕は思い出した。
「ん?どうした?青木。」
 夜食の最中だというのに、お茶請けの羊羹を堂々とつまみ食いしている栗原さんが尋ねる。
「いえ…木下に僕の上司がどこに配属になったか、知っているか訊くのを忘れちゃったな、ッて。」
「ああ…。でも、向こうも君がここにいることをご存じなかったようだし、そちらの方も知らないんじゃないのかね?」
 部長さんが尤もな助言を下さる。
「そう…でしたね。」
 幾分、がっかりして僕は溜息を吐いてしまった。すると、ずず…ッとお茶を啜る辻さんが、目を通している書類から視線を外すことなく発言する。
「三日ほど時間を呉れれば、調べてやるよ。」
「え…?」
 周囲の空気が緊迫する。
 …なにをしでかすのだろう…。この人、元諜報機関の情報員だって言うし…。
「あさっての夕方、総務人事課に行く用事があるから、そのときにだったら警官配属名簿が見られる。…なにか?」
 さすがに奇妙な雰囲気に気付いたのか、不思議そうに辻さんは顔をあげた。一同、苦笑してしまった。
「い…いやぁ。辻さん、昔取った杵柄って言うのか、そんな感じで情報を仕入れてくるのかと一寸ドキドキしたんですよぅ。」
 あははははは、と屈託無く笑いながら、匂坂君が白状した。右に同じ。…矢っ張り、みんなそう思ったんだ…。
「…お前なぁ…。…なんだ?皆さんもですか?」
 あっはははは。ごまかし笑いの五重奏。
「あはは…そ、そうそう、青木、お前もっとちゃんと食わなきゃいかんぞ!ははは、このエビ天やるから喰え!」
「あははは、ああありがとうございまふ…ッ!」
 僕はぎごちない笑いをつくり、此方もぎごちない笑いの栗原さんが口の中に入れてくれたエビ天を食べることに専念しようと頑張る。
「…ハリボテの会話は止めておいた方がいい。」
 きゃあ。辻さんにバレてる。


「…じゃあ、調べておいてやるよ。遅くとも…明日までにはわかると思う。明日は人事の方に廻ってから、出勤するから。」
「はい。どうもすみません。」
「いや、かまわんよ。…木場、修太郎刑事、か。」
「ええ。それじゃ、宜しくお願いしますッ。」
 そう言って僕はぺこりと頭を下げた。
 本当は、電話を掛けて直接聞けば済むことなのかもしれない。幸い、木場さんと僕の家には電話が繋いであるから。
 本当は、部署が離れたぐらいでガタガタと小娘のように一喜一憂なんて、どうかとも思う。
 けれど、どうしてだろう。直接聞いてはいけないような気がした。一喜一憂してしまうほど、僕にとってかけがえのない存在であることを確認した、そんな気がする。
 だから、僕は…。
 では、と片手をあげ、辻さんは夕暮れの光溢れる街へと一歩出てゆく。
 僕はにっこり笑って手を振る。
 また明日。
 ああ、今日も一日良いお天気で良かった。
 そんなことがふとよぎり、僕は橙色の街を眺める。

「あ…っ。」
「ああ、すまねえッ!」
 道に出てすぐの、辻さんと誰かの会話。相手のヒトが走っていて、ぶつかったのだろう。僕は夕日の橙がとても目に沁みて、目を細めて溜息を吐き、傍らの書類を手に取った。
 そう、まさにその時。
「あお…この餓鬼…こんなところに、いやがッて…!」
 息せき切ったその声は。
 そう、とても聞き覚えのある声。いや、僕の脳裏に染みこんで忘れることなんか考えられない、その声。振り返るのももどかしいくらいの、その一瞬。
 振り向いた僕に飛び込んできたのは、橙のまばゆく暖かな光の中の、存在を表すシルエット。それは、さながら僕の中の欠けていたモノが、隙間もなくぴったりとはめ込んだような、そんな感情が押し寄せてきたような、いわばある種の幸福感を僕に喚起させたのだ。
 そして、そのシルエットが一瞬の後に、人物としてはっきり視えたのだ。ぶっきらぼうで、少し怒っているような感じのその顔は、木場修太郎その人だ。
「き…ばさん…ッ。」
 喉から絞り出したその声は、相当に間の抜けた声であったことだろう。
 けれども、僕はそれを一笑に付すことは出来ない。それこそが、その瞬間の僕の感情そのものだから。
「ど…して…?どうして、ここが…?」
「あれ?どうしたんですか、青木さんッ?」
 背後から聞こえた香椎さんの声で、僕は手に持っていた書類が床に落ちていることに漸く気付いた。
「…え、あ、ああ、香椎さん…。な、なんでも…。」
「そうですか?…えと、そちら、どうしました?」
 香椎さんが、木場さんを交番に用事のある人だと思ったのか、普通に対応する。
「いや…。用のあるのはこいつにだ。」
 木場さんは苦笑して答えた。
「へ?」
 香椎さんはなんの事やら、と不思議な顔で僕を見る。
「えっと…香椎さん、こちら、僕の元上司で木場修太郎さんです。」
「へ…。ああああ!この人が?!ど、どうも失礼をッ!」
 香椎さんは慌てて敬礼で出迎える。木場さんも敬礼の手で返答し、答えた。
「ああ、麻布署の捜査一課強行犯係、木場修太郎だ。」
「麻布?そんなとこに行ってたんですか?」
 僕は思わず訊いてしまう。
「おう。そういうお前だって、どこに飛ばされちまったか、わかったもんじゃなかったんだぞ。」
 木場さんは憮然と言い放つ。僕が、だってしょうがないじゃないですか、と文句を啓上しようとしたとき。
「よかったな。分かって。」
 振り向くと、辻さんが居た。いつもは退出時刻を超過して、派出所の近辺にいたことはなかったのに。
「あ…あ、ええ。どうもすみませんでした。」
「ああ。俺も仕事が一つ減ったしな。…では。」
 かつかつ、と靴音を残して辻さんは夕暮れの日溜まりを帰っていった。


「…でも、なんで僕の居るところ、分かったんです?」
 勤務上がりのそのあとで。木場さんの下宿。お風呂上がりの一杯、ちびちびとお酒をなめながら、僕は尋ねた。
 ごつ。脳天への鉄拳と共に、質問の答えが返ってくる。
「なんでってよ、コラ青木、いつも言ってただろうが。刑事はよ、足で稼げッてな。」
「っ痛たぁ……。酷いですよ、殴んなくたって…。」
 幾分恨めしげに、木場さんを上目遣いで睨んでみる。
「う…。わ、悪かったな…ッ!」
 木場さんは、僕から目を逸らしつつも、頭を撫でてくれた。まったくもう。
「でも、先輩?足で…ッて、まさかもしかして東京市中の派出所を廻る気だった、っていうか廻ったんですか?」
 この人なら、やりかねない。
 そう思って、僕は一寸ドキドキしながら訊いてみた。
「阿呆。東京派出所巡りの旅なんてェ暇こいたこと、するか呆け。…でもよ、一割ぐらいは、あたってらぁな。」
 そう言って木場さんは、ばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「え?…どういうことです?」
 僕は不思議に思い、突っ込んでみる。
「ああ…。初めはよ、アレだ。人事のとこにある警察官の名簿に載ってるかも、ッて思ってよ。総務課に行ったんだよ。」
「はい。それ、僕が辻さん…木場さんがぶつかったヒトですよ、あの人に頼んだのもその手でした。」
「ほぉ、そうなのか。矢っ張りそう考えるよな。…そんで、言ったのは良いんだけどよ。」
 そこで木場さんは一旦言葉を切った。
「…良いんだけど?」
 僕は復唱する。…なんだろう。心ならずも、僕は緊張してしまう。
 木場さんは……物ッ凄く、気まずそうな顔でこういった。
「…そこの職員のおばちゃんが凄ッげぇ怖くッてよ、個人用途の為になんざ、名簿見せちゃあ呉れなかったんだよ。」
「……はぁ。」
 脱力感。
 木場さんが言うには、そのおばさんが居ないときに総務課に行かなくてはならず、頑張って総務課参りをこっそりしていたらしい。そして漸く気の弱そうな警察職員が担当の時に、脅して許可を出させて調べたらしい。そして僕の居る樹ノ本派出所へ着く前に、三度ほど他の派出所を間違えたらしいのだ。
「…ッてことだ。これをな、聞き込みや書類作成の合間にするのは、結構な重労働だったんだぞ。…ったく。」
 僕は木場さんの言葉が終わった、数秒後のタイムラグの後、心おきなく笑わせて戴いた。
「お…ッおい、こら手前ッ!」
 真っ赤になって怒る木場さんが、涙で霞むほど、僕は笑った。
 つまり、僕は嬉しかったのだ。
「いい加減にしろよ、て……ッ、おわ!?青木ッ?!」
 木場さんが言い終える前に、僕は、パフッ、と木場さんの首に抱きついた。
「…ありがとう、ございます。」
 僕は木場さんの首筋に顔を埋めたまま、呟いた。
「嬉しい、です。でも…先輩、どして…電話で僕に聞かなかったんです?それなら一発で分かったのに。」
 木場さんの腕が、優しく僕を抱きしめてくれる。
「…なんかよ、それじゃ…いけねェって思ったんだよ。なんでだかはわかんねェけどよ…。ちゃんと自分で、手探りで探さなきゃあ、駄目になっちまうような、そんな気がしたんだよ。…くだらねェ感傷だけどよ。」
 フ…。と木場さんは薄く笑って口を閉じた。僕の体が細かく震えるのは、僕にどうしようも出来ないほどの嗚咽を、頑張って堪えているから。
「…あお、き。」
 木場さんの呼ぶ声がする。僕は、ともすれば震えて声にならなくなってしまう僕自身の思いを、懸命に言葉にする。
「…ッ、せん、ぱ…。やだ、な…思ってるこ、と…おんな、しなんだか…らッ……!」
 もうこれ以上、言葉にならない。ああ、なんて僕は果報者なのだろう。ゆっくりと、ゆっくりと、木場さんの大きな優しい手が、僕の震えてしまう背中を何度も擦って呉れる。すこしずつ、すこしずつ、呼吸が収まってくる。
「…木場さん。僕…。僕、小娘みたいにガタガタ言うな、ッて言われそうですけど、ホントに、僕…どこか欠けちゃったみたいに心許なくて…。でも、僕…僕も、木場さんを見つけなきゃ…って。でも、それは本人から訊いてしまうのは、反則、の様なそんな気がしていて。そんなこだわり、みたいのがあったんです。なんでそう思うのかさえ、はっきりとは分かっていなかったのに。…でもそれ、今日木場さんに会えて、やっと分かりました。」
 きゅ、と僕はもう少しだけ強く、縋ってみる。
 木場さんのにおいが、する。
 すう、と深呼吸した後、囁いた。
「先輩が、かけがえのない…僕に必要なヒトだから。」

 明日が非番で、良かった。
「…バカヤロ。今頃…気付きやがって……ッ。」
 照れ隠しのように毒づいた木場さんが、顔中真っ赤にさせながら無骨な指で僕のオトガイをとらえ。深く甘く、優しい接吻を施してくれるのに全てを委ねて溺れていく片隅で。
 そんなことがふとよぎり、小さく僕が苦笑したのは、なにもお酒の所為だけじゃない。



                                                                 end.

Afterword

オリジナリティ(と書いて強引性)溢れたSS。
えと、香椎さんは「かしい」、匂坂君は「さきさか」と読みます。念のため。しかし、香椎、匂坂、辻、栗原、元ネタ分かった方、凄いよ(笑)。
思いがけない再会。木下と。なんだかヘタレな感じの木下。でもこんな感じ(ヲイ)。木下v青木はやっぱり、青木が天然わがまま姫でないとッ★しかも木下の葛藤に気付かない鈍!(爆笑)
あはは、本命再開。甘甘お約束少女漫画風目指してみました(笑)。頑張って砂吐き。

それにしてもみんな、優しいなぁ(爆笑)









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