冬の日

 穏やかに晴れた、でも底寒い乾いた木枯らしが時折吹く、そんな良く晴れた冬の或る日。
 聞き込みでとある街に出る。木枯らしに首をすくませて、丁度顔の下に大きな結び目が来るように巻いたマフラーに顔を埋める青木を、木場は可笑しそうに、手前の田舎はもっと寒みいんだろうが、と揶揄かう。そんな木場を見上げた青木は、でもやっぱり寒いもんは寒いですよ、と寒さの所為か、鮮やかに紅潮した頬でにっこり柔らかく微笑んだ。
 フン、小智恵のついた学生みてぇな口叩きやがる、と悪態を付いた木場だったが、気分は悪くなく、唯何とはなしに気恥ずかしくて、陽に乱反射して光る真っ直ぐ綺麗な黒髪を掻き混ぜるように、青木の頭をくしゃくしゃと撫でてやった。照れくさそうに微笑んで青木が手を頭の方にやる。そんな拍子に触れた、少し大きめのダッフルコートの袖から出た青木のその手は、暖かかった。

 木場が街中で見つけた参考人に通りの片隅で話を聞いている途中、相棒の青木はたまたま通りがかった、無茶と言う程を越えてしまっている超過搭載量の大八車が坂を上りきるまで後を押してやりに行っていた。たいして重要な情報を聞き取れなかった木場が、つまらなさそうに青木を待つ。頬を撫でる風は冷たかったけれど、妙に心地よかった。銜え煙草の紫煙が、冬の空に薄く広がる。
 あの坂を登り切るだけにしちゃあ、少しばかり遅いな。そう思った木場は、大儀そうに煙を吐き出すと坂の方に歩いていった。
 なんだかんだ言っても気にはなる。
 それでもそんな自分を、自分さえもが気付くのはとても気恥ずかしく、少し大仰に木場は吸い込んだ煙を吐き出した。
 坂を少し上ったところで顔を上げると、息せき切って駆けてくる青木が見えた。青木は木場を認めるとにっこり微笑みながら駆け寄ってくる。その途中で、木場は青木の様相が少しばかり違うのに気が付いた。様相と言っても、容貌ではなくその服裝だ。先程までふわりと首に巻かれたマフラーが無かったのだ。
「すみません、先輩。遅くなりました。」
 にこやかに笑って駆け寄ってきた青木を、おう、と片手をあげて返答する。
「あの大八車、野菜に、果物、それに缶詰積んでるんですって。道理で重かったなぁ。MPさんのPXに卸す途中だそうですよ。」
 坂を下りてそのままゆっくり闊歩しながら話す。
「ほぉ・・・。あれ全部か。そりゃ豪勢なこったな。」
 缶詰。食料。舶来品。MPマートは何でも揃っている。もと大きな時計店であった場所だ。ただ、今は占領軍の家族の為の店舗で日本人は利用できないが。そのすぐ横で、ヤミ市が青空市場のように開かれているのが何とも滑稽だ。青木は顔を上げずに続けた。
「ええ。・・・・・オヤジさん、言ってました。MPさんの所の野菜は、日付が経って売れ残ってちまったらすぐに廃棄処分だ、ッて。その廃棄処分した野菜を、ヤミ市で水団やバクダンにして売るんだ、ッて。」
「ああ・・・物ってモノぁ、余るとこは余って、無いとこにはとことん無いんだろうよ・・・・・・。」
 いくら戦後4・5年はたっているとはいえ、まだまだインフレも続いて、ヤミ市は健在だ。物資を手に入れるには俗に、軍・官・顔・闇と言われている。旧軍部の倉庫には戦時中ため込んだ膨大な物資が存在し、それを管理している役人だって横流しが可能だ。そしてそれに連なるコネクションは暗躍する。しかしながら、何のコネも持たない大多数の庶民に残されたのは、出先かどこかさえも明らかにできない闇から集めたヤミ市しかない。ただそれは、極めて危険であることは変わらない。けれども、そこしかないのだから、そこへ行って食料や物資を入手するしかないのだ。正規の配給品では餓死してしまうことは実証済みな世の中なのだから。そして占領した側にまず、物資がまわるのも世の常なのだ。すぐ横で窮乏していようとも。それは変わり様のない現実の事実。
 そんなモノなのだ。
 とてもそんな、ごときでは片づけられない事態が、今はもうそんなモノ、程度なのだ。そして木場達官憲は、その捨てられる余った食料で切り盛りするヤミ市を検挙する側なのだ。それが違法、と言う法外のモノであるが故に。それで食いつないでいる者はどれだけいるのか、と言うことは分かり切っているのに。どうもやりきれない。
 今多分、青木もそんな気分なのだろう。木場はなんだかまったりした気分を払拭しようと、青木のあらわになった細い白い首を指して尋ねる。
「おい、首んとこ。」
 何気なく訊いたのだったが、それに反して青木はとまどい、両の指を胸の前で合わせながら、上目遣いで木場を伺い見た。そしてあからさまに作り笑いを浮かべながら、ぎごちなく答えたのだった。
「え…っと。さっき走ってたら、どっかいっちゃいました。」
「…おまえ、もうちょっとマトモにごまかせるようになれな?」
 少し脱力しながら木場はアドバイスを送る。
すると青木は、暫くの逡巡の後、意外にもさらりと答えた。
「ホントは、あげちゃったんです。」
 明るく屈託のない声で、しかし青木は木場の顔を見ない。あらぬほうを見つめたままに言う。
「あ…ん?あげたァ?」
 思わず反復で繰り返してしまった。
「えっと。坂の上登り切って、おじさんと別れた後に、さァ帰ろうッて振り向いたんです。そしたら、横道の細い路地の前に、兄妹…なのかな…男の子と女の子がいたんです。この寒いのに薄着で…。」
 そこで青木は言葉を濁した。
「だから、あげちゃったんです。」
 そう言って、黙った。
 とてもやりきれない、淋しい顔で。おそらく、その兄妹(であろう二人)は浮浪児か、或いはそれに準ずる子供だ。それは青木が言葉を濁したことからも推察できる。戦災孤児だ。
 かつて、持っていたものをなくした子供達。木場は溜息をひとつ吐いた。
 やるせない。

 満州国の(首都である)新京では、小盗児市場なるものがあるという。
 そこは今日、町中でなくしてしまったものは、明日には必ず見覚えのあるものが売られている。戦後、満州から引き揚げてきた川島新造と再会した時、川島は瓦礫の向こうのヤミ市を眺めながら、実にシニカルな面持ちで呟くようにして、木場に語ったのだ。
 ああ…なくなっちまった満州国にあったもンが、今度は…内地に、東京に、あるじゃァない…かァ。
 進駐軍の豊富な物資。隣の混沌としたヤミ市。それは満州の小盗児市場。そして戦災孤児。滑らかに、それらが重なった。今日の日の糧を今日得て生き、明日へ手探りで生きていく。それは全て、この国の現状を濃縮した図がその二人だ。
 青木のマフラーを首に巻いて春を待つか、それとも明日の食料と引き替えにマフラーを外しヤミ市へ訪れるか、それは判らないし、どうでも良いことだ。

 どう、と言うことでもない。
 青木は一つの行動をしたことで、彼らに複数の選択肢を与えたに過ぎない。 それはくだらない優越感でも、薄っぺらな憐みの情でもないだろうことは判っている。あるのは只、大きな哀しみの連帯感と、無力さと、事実という名の現実だ。
 なればこそ。
 同情でもなく、憐ピンでもなく。与えたのに、逆になにかを与えられた。不可思議なバランスで成り立つ、この世間の現実という名の事実。青木は、ぎゅ、と左手を握りしめた。
「…そうか。ならァ早ェえトコよ、ホシあげちまうか。」
 不意に木場の声が掛かり、ビクリと顔を上げた。そして真意を測りかねて、不思議そうに小首を傾げていたが、やがて花が開くように、破顔した。
 与えられた仕事を精一杯、明日に繋いでゆくこと。それが現実への、生き方であり、唯一の対処法であると、青木は悟ったのだ。あの子達の現実があると共に、青木自身にも現実がある。
 生きて、行くこと。

 何故、そう声を掛けたのか。青木が、それを区切りとして認識するのならば、それで良い。次ぎに進むきっかけを、与えただけに過ぎない。どのみち、その事実に対して見定め生きていくのは本人自身だから。
 木場は、与えたとも思っていない。ただ、現実に引き戻す言葉を言っただけに過ぎない。
「はい!」
 青木の声が、大きく、強く、響く。けれど、その返事は力強く帰ってきたのだ。
 ヤケに力を入れて答え、木場の方を振り向いたその時、青木の首にフワリと柔らかいものが触れた。タバコの匂いと、木場の匂いが仄かに香った。それは木場の体温をも、青木に届ける。
「え…先ぱ…?」
 木場が今巻いていたマフラーを、青木に巻いてくれたのだった。
「んな…クソガキの生ッ白い首なんざァ、見てるこっちが空寒くなっちまわァな。」
 そして、ぽん、と青木の頭に軽く手を置き、いささか赤くなった顔をそらしながら、ぶっきらぼうに言う。
「は…はい。」
 青木は、少し驚いたが、その暖かさに笑みが零れる。
「それやるから、暖ッかくしてんだぞ。坊や。」
 くるりと背を向けて、歩き出す木場から、そんな言葉を貰う。
「坊や…ッて、先輩!」
 もう、と抗議をしに木場の方へ駆け寄ってくる青木の跫を聽きながら、木場はボソリと呟く。
「…坊やが風邪でも引かれちまッたら、困るからな。」

 良く晴れた、冬の一日。



                                                                 end.

Afterword

…どうもこうも、
「青木にマフラーを巻いてあげる木場」を描きたかっただけ…。考証?しらんしらん(ヲイ)。
坊や扱いっていいッスよね(なんだ?)









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