月がとっても青いから

 公務は激務だ。それはどこの仕事場も同じなのだろうけど。
 そんな中で、息抜きに飲み屋でも行くか、と木場に誘われて、退庁後の宵の口、青木は久しぶりに喧騒の居酒屋の暖簾をくぐった。

「じゃ、先輩。乾杯〜。」
「おう、…ッとこぼれるこぼれる。」
ぐうッと一気に、僕らは麦酒を煽る。
…はぁ。
「ふぁ〜。」
「坊や、ヒゲついてるぜ。」
木場先輩はニヤニヤ笑いながら、片手で僕の顎をいささか乱暴に捕らえ、人差し指のほうで顎を固定し、口元をグッと親指で拭いてくれた。
「ん…ッ。ありがとございます…でも…坊やならお酒呑めませんから。」
 僕はお礼を言うも、頬を膨らませて、軽く咎めるように睨みながら抗議をする。そんな僕を軽くいなして木場先輩は、こんな時にも律儀に礼を言ってから抗議に移る僕がおかしかったのか、くつくつと笑いながら手を振る。
「へェへェ、坊や。」
「先輩!」
 もう。僕はそんな先輩を睨みながら、ジョッキを両手で持って残りを傾けた。
「そういうとこがよ、坊やだッてんだよ。」
 そう言って、益々おかしそうに頬杖をついて、僕の顔をニヤニヤと眺める。
「…ん…でも…そうかもしれないです。」
 木場先輩の言葉に、いちいちむきになってしまう。僕は反省する。
「おいおい…だからよぉ。」
 更に輪を掛けておかしそうだ。その意味がわかりかねて、僕は不思議で小首をかしげていると、ふっとこんな思いが脳裏を、心をよぎった。こんなたわいもないことに、僕らが日常として生きていることが、とても幸せだと。とても大切なことだと。
 僕らは、なんて幸せなんだろう。
木場先輩が、僕のこんな気持ちに気づいているかどうか、僕は知らない。けれど、こんなたわいもないことが、僕らの間でなされているところを見ると、木場さんも多分、それが良いんだろう。そして、僕はこんな幸せな時間を分かちあうのに、一番木場さんが良いという事に気付いてしまったことは、僕にとっての一番大きな幸せなのかもしれない。
 だって、僕に向かって笑ってくれる木場さんの目は、限りなく優しくて、心地良い。僕は、思いなおして、えへ、とにっこり微笑みかけた。

 小首をかしげて不思議そうにしていた青木の、そんな素直な心根がおかしくて、心地よくて。俺はそのおかしさを、心地よいと感じ、こんなたわいもないことに、と苦笑した。
しかし、それも嫌じゃない。
 そんなたわいもないことに充足感を感じる。それをどこか、渇望さえしている。柄じゃねえな、と思う。しかし、事実として確かに俺は、この日常を求めている。そしてそれは、日常という名の幸せだ。
 俺がそう思っているのを、俺自身さえも驚く。
青木もそう思っているのか、俺は知らない。けれど、こんなたわいもないことが、俺らの間でなされているところを見ると、青木も多分、それが良いんだろう。
 なぜって、俺に向かって微笑む青木は、限りなく安心しているような目で、心地よい。
俺は、そんなたわいもない事を、と自嘲しつつ、そのたわいもないことに自分が翻弄されているその事実に気づき。その相手が青木であることが一番の条件だというその事実の重さに、一人気恥ずかしくなって、にっこりと微笑えんだ青木の額を軽く弾いてしまった。



「ふわぁ…さむ…」
 ほろ酔いでとろりとした目を冬の凍る空に向けて見上げた青木は、すぐに首をすくめてマフラーの中に顔を埋め込んだ。夜空は満天の星で、月が青く、青くすべてを照らしている。

「でも、いいや。」
 マフラーにうずまった青木の目が、幸せそうに、幸せそうに微笑んで木場を見た。
「…ァんだ?」
 くわえ煙草に、火を探して己のコートのあちらこちらを捜索していた木場が、その視線に気づき青木を見る。そして青木の幸せそうなその瞳とまともにぶつかる。 

 見惚れた。
 木場は、青くの瞳を、間違いなく幸せそうな瞳と感じ、そしてそれに吸い込まれたのだ。切ない程に、幸せそうで、愛しく感じた。
 静かな青い月光の優しく降り照る下、あどけない童顔の青年は微笑っている。
 それはとても、愛しい現象。

「…先輩。」
 一瞬のちなのか永い間だったのか、それさえもはっきりしない間の後、不意に青木が口を開く。
「あ…んだよ。」
 何故か、声がかすれた。手に持ったマッチ箱が、から、と中で鳴った。
「遠回りして帰りましょう。」
 きめ細かな白い肌を冷たくも優しい月光にさらして、青木は決して酒のせいだけではない、朱をさしたような鮮やかな薔薇色の頬で婉然として微笑む。



 幸せを、見つけたのは青木であり、欲していたのは木場でもあるのだ。 
 それは多分、生きているうちで、哀しみを味わったから、非日常を味わったから、だから、幸せを日常として欲するのかもしれない。この国まるごとが経験した哀しみを、彼らは知っている。そして、欲する事象を知ってしまった彼らは、いつの日か、いつ越えるとも知らぬ哀しみを凌駕するまで、欲しつづける。
 幸せという名の甘い麻薬を。



「…月がとっても青いから、か。」
 木場は苦笑して、マフラーを掛けなおした。





                                                                 end.

Afterword

月がとっても青いから。ああ…。昔の歌です。菅原都々子さんの歌。

月がとっても 青いから 遠廻りして 帰ろ
あのすずかけの 並木路は想い出の 小径よ
腕を優しく 組み合って 二人っきりで さあ帰ろう

月の雫に 濡れながら 遠廻りして 帰ろ
ふとゆきずりに 知り合った 想い出の この径
夢をいとして 抱きしめて 二人っきりで さあ帰ろう

月もあんなに うるむから 遠廻りして 帰ろ
もう今日かぎり 逢えぬとも 想い出は 捨てずに
君と誓った 並木みち 二人っきりで さあ帰ろう

清水みのる 作詞  陸奥 明 作曲


この歌、好きなんです。可愛いですよね。なんか。鼻歌歌っちゃいます(笑)。…昭和30年の歌なんですがね。近未来(京極の話は昭和28年頃…)??
青木君の描写、少女小説を目指してみたり。









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