LITTLE PUPPET.

 朝方から、どこかしら蝉の声が聞こえる。朝方から、今日も暑い。朝と言っても今はもう、9時を回った頃であるが。
 益田はゆっくりと、少しひんやりとするビルヂングの階段を殊更ゆっくりと上った。そこで涼を求めるように。そしていつものように、磨り硝子に大書してある『薔薇十字探偵社』の文字を認めると、その扉を開ける。カラン、と鐘が鳴る。
「おはよう御座いま・・・・。」
 清々しい朝の光差し込むその部屋には。誰もいなかった。この時間帯、榎木津は大抵夢の中である。だから彼がいないことにはさして何も驚くに値しないのだが。いつもなら、まめまめしく榎木津の散らかした後を片しながら、働いているはずの和寅がいない。自室の和室にでもいるのだろうか。
 代わりに、ラジオから小さな音量で音楽が流れていた。どこかで聞いたことはあるのだが、益田は失念して思い出せなかった。
 しかしそれより何よりも。一目見る。それだけで益田は昨晩――正確には益田が探偵社を辞去してから今またここに参上仕まつるまで――この現場で何が起こったかを、把握するのに十分な物的資料と憶測を掴んだ。検証するまでもない。部屋が、無惨にも大荒れに荒れている。
 机やソファの位置がなんだか違う。ここまでは別の疑惑――物取りかなにか――も連想させるが。ワイン瓶や一升瓶が何本も転がっている。食べ散らかしたお摘みも辛うじて机の上に乗っかっている。
 酒盛りだ。
 それも被疑者は、榎木津と木場ぐらいのモノだろう。見てもいないのにありありと想像出来るのが不思議な程、豊かに想像力が広がる。
「これはこれは・・・・。」
 思わず呟くほどに、物凄い呈を奏していた。とりあえづ、ソファの位置ぐらいは直しておこうと、散乱する酒瓶や何やらを寄せながらソファに近づくと。
「・・・おやおや。」
 些か青ざめた顔をした、和寅が横になって静かな寝息を立てながら眠っていた。
 どうやら、一番の被害者はこの和寅らしい。昨晩の奮闘の所為なのか、着物もよれよれになっている。草履も履いたままだ。お猪口を胸に抱えながら寝てしまっている様は、なんだか可愛く見えて。益田は苦笑しつつも少し同情した。とりあえづ、和寅の草履だけは脱がせてやろうと、そっと白足袋に包まれた小作りな足に触れる。やけに、白足袋のその白が窓からの光を受けて目に滲みた。益田はソファの傍らに草履を並べておき、ソファの前に座ると、それに肘をついて何となく和寅を眺めた。
 そういえば、いつか和寅の身の上話を聞いたことがあるのを思い出した。とは言っても、そんな詳しく詳細を聞き出したわけではないのだが。現在のこの薔薇十字探偵社で榎木津専属のお守りをする前までは、榎木津の実家、お屋敷にいたらしい。おそらく、生まれたその時から、榎木津の傍らにいたのだろう。
 それはお気の毒なことだ、と益田は以前そう思ったに過ぎなかった。
 けれど、それだけなら。
 なぜ、今、和寅の寝顔は微笑んでいるのだろう。
 益田は知らず、ゆっくりと和寅の頬に手を伸ばし、触れる。静かな吐息を付いていた和寅の、その特徴的な太い眉が、ぴくん、と動いたが、やがてまたもとの柔らかい笑みに
戻っていった。紅い朱唇から、静かな吐息が漏れる。
 ラジオの音楽は、ピアノ主体で甘くゆったりとした音色が流れてる。



 世の中は肩書きというモノがある。
 この役職に就いているので、この仕事をする。この役割があるので、こうやって生きる。そんな、見えない綾織の様に、益田を含め社会的人間は生きている。
 それが悪いわけではない。
 けれど、この『薔薇十字探偵社』の主はどこかしら破天荒だ。綾織りではなく、綾として生きている。それは、自由であるというと言うことの前に、とてつもなく確固とした自立という名の自信が必要だ。
 益田は警察を辞めて、探偵になった。それは矢張り、綾織りの糸を自ら選んで断ち切った事になるのだろう。でも後悔はしない。自らが選んだことだ。
 しかし、迷いは、確かにある。韮山の事件で、益田は真っ暗な空間をひたすらもがくような焦燥感の無限螺旋に迷い込み、そして事件自体は終焉を迎えたはずが、少なくとも益田は未だ霧が晴れないような、そんな気がしている。そんなもどかしさは、そっくりそのまま今の自分自身ではないのか、とふと気付いた。無力な自分を見つめる自分。自分に出来得ることが判らなくなる自分。そしてそれを受け入れる自分。
 果たして、霧は晴れるのだろうか。
 多分、和寅は肩書きや役職が無くなっても、変わらず榎木津の世話をし続けるのだろう。それは、榎木津がどんなときにでも榎木津であるように。和寅にとっての霧は、晴れているのだから。
 だから、和寅は今、笑っているのだろう。

 和寅の吐息が、益田の手を擽る。朝と言うには遅いが、明るい光が開け放たれた窓から和寅の顔にも差し込み、辺りにも光が溢れている。ラジオから流れる音楽は、辺りを甘くゆっくりと、たゆたう。
 益田は、何を考えたわけでもない。
 至極自然に。
 ゆっくりと体をいざり、柔らかな笑みをたたえたその和寅の朱唇へと、己の唇を寄せ。
 接吻けを。


「こらァ!馬鹿オロカ!おいたはそこまでだぞ!」
 バァン、と磨り硝子の扉が蹴り開けられるのと、カラン、と扉の鐘が鳴るのと、その怒声が聞こえたのは、殆ど同時だった。益田は、その三重奏にたまげて、慌てて振り向く。
「ええええ榎木津さんッ・・・・?!」
 奥の部屋で夢の中だと思っていた榎木津が、戸口の前でこちらを睨んでいる。しかも片手には氷の塊が入った盥を抱え、片手にはかち割りにした氷片の入った大きな湯飲み、ついでに網に入ったスイカまで担いでいる。
「神のいない間に、ちゃっかり手をつけようなんて、そうは問屋が貸し渋りだ!」
 訳の分からないことをわめきながら湯飲みとスイカを机の上に置くと、盥を滑らすように益田に鉄槌を喰らわせる。いつもの位置よりだいぶんずれているソファは、最前、益田が閉め忘れていた扉からよく見える位置だったのだ。
「あだッ!!っっ痛うううう!!え、榎木津さぁん・・・!」
 瘤が出来そうなほどの激痛に、益田は頭を抱えて榎木津を伺い見る。
「フン!当然の罰だ!!」
 仁王立ちしてふんぞり返っている。
「・・・・んぅ・・・・?ありゃ・・・先生、起きてらしたんですか・・・?」
 ようやく、和寅が目を覚まし、目を擦りながら上体を起こした。
「か、和寅君・・・・。」
 ばつが悪い。益田はなんだか情けない声を上げてしまった。
「あらら、益田君じゃないか。どうしたんです?そんなとこに座って?」
 いやちょっとね、ムニャムニャ、と誤魔化す益田を遮り、榎木津が怒鳴る。
「この馬鹿オロカは僕においたを見付けられてしまったのだ!」
 そして憮然と、湯飲みの中の氷を囓っている。
「へ?なんです??」
 きょとんとしている和寅に、誤魔化すように慌てて話題を逸らす。
「いやなんでもないんですよ!ええ!!それより和寅君、この惨状は何なの?」
 それを聞いて和寅は眉根を寄せ、大儀そうに語りだした。
「いやもう昨日ですね、益田君が帰った後に入れ違いで木場の旦那がお着きになりましてね、それでお二人で飲む飲む、飲む。それだけならまだしも、暴れるんですからねぇ・・・。それだけじゃない、私も捕まって御相伴に預かるわお酌をさせられるわ。挙げ句の果てには寝るなって起こされて、どんどんとことん飲まされて・・・・。」
「ああ・・・やっぱり・・・。」
 思った通りだ。
 そんな狂乱の酒宴の後でも、榎木津はピンピンしている。どうせ木場だってここにいないと言うことは、大丈夫であろう。そんな酒宴につき合った和寅は或る意味偉い。何とも言えない複雑な心境の二人である。
「ははらはんは、はっへひてはっはははいは!!」
 突然榎木津が氷を加えたままに発言をする。そして、和寅の近くに来ると、未だ和寅が握っていたお猪口を取って机の上に置き、氷の入った湯飲みを持たせ。
 有無を言わさず和寅の顎を捉えると。きょとんとしている和寅を後目に。銜えていたその氷を口移しで、和寅に含ませる。
 益田は目の前で繰り広げられた光景を、口を開けて見てしまった。
 それはどこか官能的で。
 から・・・、と氷の音がした。
 その音に益田はドキリとする。含ませるだけにしては、やけに長い時間だと、益田は感じてしまったが。

「・・・!!へ、へんへぇ?!」
 榎木津が唇を話し、一瞬のタイムラグののち、和寅が真っ赤になりながら声を上げる。
「だからちゃんと、買ってきて遣っただろう!!」
 榎木津は、腕組みしながら高らかに言った。
「お前がさっき、飲み過ぎて頭が痛いから、冷たいモノが欲しいってのたまっただろう!!だからちゃんと買ってきて遣ったんだぞ!!」
 かり、と氷をかみ砕いて、和寅は俯き、未だ真っ赤になりながら答えた。
「そういやぁ・・・・そうでした・・・・。」
 ちゃんと、アメとムチは与えているのだ。そう言うと、榎木津はくるりと背を向け、自室の方に歩きながら命を下す。
「和寅はそれを食べたらスイカを切ること。馬鹿オロカはそこらの掃除だ!僕は寝ている!!」
「なんだい、僕が?貧乏籤だなァ。」
 殊更、戯けて言って見せたのは、何も榎木津に怒鳴られてばつが悪いからだけじゃない。
「まぁ・・・ここに来ちまったのが運の尽きと諦めて・・・。」
 苦笑しながら和寅が答える。未だ一寸、耳が赤い。益田は一息つくと、和寅にお願いをした。
「ねぇ、和寅君。一個ちょうだい。」
 あーん、と口を開ける。
 ハイハイ、と笑って和寅は益田の口腔に、氷を一欠片転がしてやる。その時の和寅の笑顔は、嫣然としていて、一寸益田は、見とれてしまったのは内緒だ。唇を掠めた和寅の指が、なんだかヤケに熱く感じた。


「さーって。片づけましょか。」
 そういって立ち上がった益田は、ラジオの音楽がいつの間にか変わっていることに気付いた。
 そして、さっきの曲の題名を思い出した。さっきの甘いピアノ曲の題名は。映画「世界残酷物語」。
 確かに、残酷だったな。益田は苦笑した。

 ラジオを消しに行く。
 今の曲は、女性の声でのボーカルの入った外国曲だ。益田はこの曲も知っていた。鍵盤楽器を習ったときに、聞いた記憶がある。線の細い、たおやかなこの曲は、オペラ「椿姫」のヴィオレッタのアリア。


Laugh,puppet,laugh
And the whole world will laugh with you
Cry,puppet,cry
And you find you cry all alone
Now yesterday's gone
Tomorrow's yet to come
So dance,laugh and be gay
Oh little puppet,live for today
live for today,live for today


 笑って そう 笑って
 誰もが一緒に笑い出すから
 泣きなさい 思い切り いつも独りで
 昨日はもう戻らない
 明日なんてまだ来やしない
 踊って 笑って 楽しげに
 今日という日に生きなさい
 きょうの為に生きるのだから


 苦笑して、益田はラジオを切った。蝉の声が、耳に届く。そして、振り向くと草履を履いている和寅に向かって莞爾と微笑み、訊ねた。
「さぁ和寅君、どこから手を着けたら、いいかな?」
 早く片づけて、スイカを食べよう。
 今日のために生きる今日は、今日も暑くなりそうだ。






                                                                 end.

Afterword

ぶふー!なんでしょう?これわ。よく意味も分かりませんしねぇ・・・(泣)。
榎木津和寅、益田和寅添え(死)。密かに好きなんですが。マイナー極まりなし。これまで読んでいただける方は、同志ですねッ(爆笑)!!
邦訳は白鳥由美子さんの『AMAZING GRACE』から。「世界残酷物語」の封切いつか知りません(ヲイ)。何で益田は2曲とも知っていたのでしょう。恐らく新しい物好きのお父様の影響でしょう(塗仏より)←言い訳。
鍵盤もやっているんだし、けっこうハイカラだろうな、と。









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