秘めごと
ちきしょう。云えやしない。こんなこと。
同僚のなにげない笑顔が、目に焼き付いて離れないなんて。その笑顔の大半は、他でもないあの人のためにだけ、向けられていて。
そんなことわかっている。
わかっているんだけれど…ついつい淡い期待をしてしまうのが自分でも哀しい。
残ったほんの僅かの割合に期待しているのだ。俺は。
そんな少ない、なにげない笑顔に俺は翻弄されている。
「あー木下だぁ。」
がちゃりと開けた宿直室。畳の上で転がってラジオを聴いているのは青木だ。寝転んだままの姿勢で、こっちに笑いかけている。
「青木、もう帰ったんじゃないのか?」
「ううん。ちょっとね。」
ちょっとね、か。
かぎりなくあり得ないのに。もしかしたら、待っててくれたのか、なんて思ったりする馬鹿な俺。
「青木、スーツに皺よるぞ。」
「ん〜。」
自分の上着をハンガーに掛けながら、俺はスーツのまま寝転ぶ青木に言う。
「めんどー。」
「後つく方がもっと面倒だって。」
「しょうがないなぁ。…木下。」
「なんだ?」
青木はようやく起きあがって座り直すと、俺に向かっていった。
「脱がして。」
なんてことだ。小首を傾げて、にっこりと。
「……。」
言われるままに俺は、青木の向かいにしゃがむと、スーツの釦を外してやる。
「あ。ホントにやってくれるの?」
「…しょうがないだろ。」
しょうがなくない。俺は自分に突っ込みを入れる。
「ほら。」
「ん。」
手を挙げさせて脱がしてやる。こんな事でも、嬉しい俺が悲しい。
「ありがと。あ。お茶入れてあげよっか。」
青木はぴょこんと半身だけ起きあがり、傍らのポットまで這っていった。
「ああ…すまんな。」
「はい。熱いよ。」
「すまん。」
「今日、検挙したんだって?」
「あ?ああ。なんとか見つかって良かったよ。」
たわいもない会話。
其れだけで満足。満足なはずだった。のに、人間の欲望はきりがない。そんな自分に呆れる自分。意気地がないから、呆れるという言葉で偽る。
そんなことはわかっているのだけれど。
俺は。
ほんのすこしだけもっている、すべての。
勇気を押し出して。
「あお…き。」
「ん?」
青木の細い肩に、俺の手が触れたその時。
「青木ー。終わったぞー!」
がちゃりと入ってきたその声の主に、青木は非常に反応を示した。
「あ!先輩!遅いですよ〜!早く御飯食べに行きましょ。」
とても嬉しそうで、とても可愛らしく微笑んで。
「しょうがねぇだろ…書類がかさんでたんだよ。…お、木下、手前宿直か?」
ちきしょう。
云えやしない。
こんな間抜けな事が。
俺の日常だなんて。
けれど、時折見えるあの笑顔が。
俺を間抜けな日常に誘う。
end.
Afterword
かわいそうな木下圀治(27)。
しかも…懲りないところがなんか哀れ。木下おいら好きですよ。ええ。