「ふぁああぁ…あ、っと。」
 薔薇十字探偵社に間の抜けた欠伸の声が響く。重厚な革の来客用ソファに寝転がった益田が、暢気そうに新聞を放り出した。
「なんですか、だらしのない。」
 向かいのソファで榎木津の開襟から取れてしまった釦を縫っていた和寅は太い眉をひそめて同僚を窘めた。
「だって、今日は依頼もなけりゃあ、あの台風の目みたいなオジサンもいない。
せめて今日くらいは一日ゆっくり羽を伸ばしたって、罰は当たりませんよ。」
 ごろりと、和寅の方へ体を向け、片腕で頬に肘付き、益田はけけけ。と笑いながら、八重歯を見せた。
「なに言ってンだい。帰ってきたら、君、相当の覚悟しておいたほうがいいぜ。」
 ふん、と小鼻をならして和寅はすげなく答えた。
「やだなぁ和寅さん。脅さないでくださいよぅ。」
 暢気極まりのない、お幸せな益田の言葉に、和寅は一瞥すると溜息を一つ吐いて、返事の代わりとした。
「だって榎木津さん、ご実家行ってるだけでしょ。」
「行き先は良いんでさぁ。」
 そう言い、和寅は少し恥ずかしそうに顔をしかめると、釦の糸を切った。
「私がお供に付いていかなかったから、ご機嫌最悪なんですよ。」
 益田は鼻白らんで、素っ頓狂な声を出し、そして可笑しそうに笑った。
「なんです、そりゃあ。まるでオジサン大きな子供だ。けけけ。」
「…誰のためだと思ってんだか…。」
 そんな益田を少し恨めしそうな上目で睨み、呟く。
「ん?なんです?」
 腹抱えて笑うのに一生懸命で、聞いていなかったと見える。
「…!なんでもないですよ!」
 その声に、はっと気付いた和寅は、ほんのり頬を朱に染めて否定した。
「わ。吃驚した。そんな、なにも全力で否定しなくたっても良いじゃないですか、
和寅さん。…しかし、和寅さん何で一緒に行かなかったんですか?
そんな不機嫌にしておくくらいなら、お供に行ってあげりゃあよかったのに。」
 何気なく、言ったつもりだったのだが。
「…ッ!ホント、行きゃあよかったんですねッ!」
 突然ばん!と机を叩き、立ち上がった和寅は口早に怒鳴ると、席を立って自室に駆けていってしまった。
 残されたのは、縫い終わったシャツと、間抜け面のまま固まってしまった益田。
「…なんだぁ…?」
 窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。


「ばーか、ばーか。」
 部屋に駆け戻った和寅は、乱暴に扉を閉め、草履も脱がずにそのまま、畳に突っ伏してしまった。後から後から、涙が出て仕方がない。小さな声で、呟いた。
 誰のために無理を言って、主人に逆らってまでここに残ったと思ってるんだ。馬鹿、馬鹿。それなのに、なんで一緒に行かなかったか?だ。しかも行けば良かったじゃないか、なんて。よくもそんなこと。人の気持ちも知らないで、へらへらと馬鹿みたいに笑って。
 馬鹿みたいじゃないか。
 …自分が。
 和寅は、そっと溜息を吐いた。そうだ。馬鹿なのは自分。勝手に期待して、勝手に怒って。そんなことは、わかっているだけに、余計に涙が出た。

 コンコン。
 ノックの音に、和寅はビクリと身を竦ませた。
「和寅さん?」
 遠慮がちな益田の声が扉越しに聞こえた。
「和寅さん、如何したんです?僕、なんか悪いこと言いましたか?謝ります。…入りますよ和寅さん、良いですか?」
 自分の名前を呼ばれるだけでも、胸の奥がとくんと泡立つのに。
「……。」
 和寅は、そのままの姿勢で身を硬くさせた。

 返事の帰ってこない益田は、困惑した。
 いつものようにからかいながら、とりとめのない話をしているうちに、和寅を怒らせてしまった。本当は、主人に付いて行かなく、自分と共に居てくれたと言うことを聞いて、益田は嬉しかったのだ。ただ行く必要がなかったから、従順でしっかりした従僕は辞退した。そんな素っ気ない理由でも構わなかった。 二人きりの時間を過ごせることには代わりがなかった。でも、
 そんな益田の気持ちを和寅が知っているわけもないだろう。だから素っ気ないような降りで、ただ聞いてみただけだった。益田のそんな気持ちを、知っているはずもないであろうから、和寅が怒ってしまった理由が、益田には見当も付かなかった。

「入りますよ」
 益田は声を掛け、かたりと扉を開けた。泣いている。
 扉に背を向けた方向で、畳に突っ伏していた和寅を見て、益田は感じた。益田は傍に座ると、穿いたままの草履を脱がしてやるため、和寅の白い足袋にくるまれた、小造りな足に触れた。ぴくり、と和寅の全身が反応する。
 足に触れた感覚に、和寅はビクリと身を竦ませた。
 おそるおそる、上体をあげ、見てみる。益田が、足から草履を脱がしてくれていた。黙って、それを見ていた。心音が、とても煩い。
 こちらを向いた益田と目が合った。和寅の目は、涙でしとどに濡れていて、益田にそれはとても綺麗に見え、つくん、と心の奥が痛んだ。
「和寅さん…どうしたんですか?」
「…」
 和寅は、黙ったまま、太い眉を困ったように寄せ、目を伏せた。益田は、出来るだけ優しい声で囁いた。
「和寅さん、如何したんですか?黙ってちゃあ、わからんでしょう。…ねえ。僕ぁ馬鹿ですから、知らないうちに酷いこと言ったのなら謝りますから。」
 …馬鹿なのは私ですよ。
 和寅は、ぼろりと零れる涙を振り切るように、顔をそらした。
 益田は一息溜息を吐くと、優しく和寅の背中に手を回して撫ぜ、囁いた。
「…困ったな。和寅さん、良いですか?聞いて下さいよ。…僕ぁね、和寅さんに泣かれると困るんですよ。如何して良いのか判らなくなる。」
 その言葉に、和寅は顔をあげ、不思議そうに益田を見た。目に溢れている涙を優しく指で拭ってやった益田は、照れくさそうに前髪を掻きあげ、話した。
「本当は、榎木津さんに付いて行かなくて、良かった、と思ったんですよ、僕。今日は和寅さんと二人で居られる。鬼の居ぬ間に命の洗濯、ってね。嬉しかったんです。でもね、和寅さんはそう思ってないと格好悪いじゃないですか。だからわざと、どうして一緒に行かなかったか、聞いて見たかったんです。」
 和寅は、大きな黒い瞳を殊更大きく見開くと、真っ赤になって俯向いた。
「…益田君の、ばか。」
「僕ぁ馬鹿ですよ。だから、言って貰わないと分かんないんです。」
 そういって、優しく俯向いてしまった和寅の頬を両手で挟むと、自分の顔に向かせた。手のひらの中は、とても熱い。目が合う。とても真剣な益田の目は、今までに見たことがない。一瞬、怯えた目を見せた和寅は、ドクドクと鳴る心音に掻き消されないように、頑張って言葉を紡いだ。
「益田君と…一緒にいたかったから、ですよぅ。だから、行かなかったんですよ…。」
 これが精一杯であったが、心からの言葉。
 益田はその言葉に、八重歯を見せて笑った。そして、小柄な和寅の体に顔を埋めて抱きしめながら、優しく囁いた。
「僕も、大好きな人と、二人ッきりで過ごしたいんですよ。」


「かーずとらさんっ」
「ま、益田君、もう放しちゃ…くれません…?」
 益田の腕の中で、和寅は恥ずかしそうに身を捩らせる。
「だーめ。せっかく恋人と二人ッきりなんだし、良いじゃないですか。」
「こ…こいび、と…って。」
「あれー、そうでしょ?」
「そ…れはそうですけど…っ!…あ…ッ!」
 真っ赤になって俯向いてしまった和寅を、益田は可笑しそうに覗き込み、着物の襟から覗く白い頸筋に軽く赤い印を付けた。
「ま、ま益田君!そんなことッ!せ、先生に見つかったら…!」
 記憶を視られてしまったら、と慌てる和寅に、益田は悠然と言った。
「じゃあ、榎木津さんが嫉妬するくらい、仲良くしましょうよ。」
 そして、けけけ。と笑い、そっと和寅の襟元に手を差し入れた。


 翌日の午後、漸く帰ってきた榎木津に、半目で睨まれた益田は、不機嫌のカタマリになった榎木津から散々こき使われたのだった。
 そして、そんな二人に和寅は溜息を吐いたが、どことなく嬉しそうであったことは、和寅だけの秘密である。
 



                                                                 end.

Afterword

お題、鬼…。鬼(神)の居ぬ間に、命の洗濯。わはは。
つーか、痴話喧嘩でバカップル誕生ー。益田はラヴラヴ ★スキンシップ取りたい派とみた。なんだそりゃ。そんで恥ずかしがり屋の和寅。譲れない!(…何)
どうでも良い言葉でカチーンと来て、下らない意地張って喧嘩して、いきなり切れて泣いちゃうのものも、揺れ動く恋心、恋する乙女だからよ(笑)。
ほのかな榎木津→和寅が根底の、益田和寅が、マストラにおける理想(ヲイ)。うーん、週1くらいで和寅が益田んちに通い妻希望で。榎さんは和寅の気持ちを大切にして許してやりつつ、益田に酷く当たるのだ。大事な娘を嫁にやるような心境(笑)。









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