螺旋

 ノックの音がした。
 とんとん、とん。すこし遠慮がちなノックの音。下宿の螺旋階段を上がってやって来た待ち人。

 待ち人来たる益田は、知らず八重歯を見せて笑った。

「お邪魔、しますよう。」
 ほんのりと薔薇色に頬を染めて、照れくさそうにドアの向こうから顔を出したのは、待たれた本人、安和寅吉だった。
「いらっしゃい。」
 そう言うのももどかしく、益田は立ち上がった。
「ちょっと買い込んできちゃって、遅くなっちまいましたよう。」
 そう言いながら和寅は大きな買い物篭を運びながら、部屋に入った。
「遅かったから、迎えにいこうかと思ってたんですよ。」
 さりげなく買い物篭を持ってやりながら、益田は迎い入れる。
 どうせ男の1人暮し、まともな食材なんてないと思いましてね。はにかみながら和寅は、益田を見上げた。
「酷いなァ…と言いたいとこですが、まあ3食だいたい探偵社でお御馳走してもらってますからね、ご察しの通りに寂れたもんですよ。うちの台所。」
「やっぱり。」
 二人で、笑いあう。
 ふ、と笑いが収まる。今度はなんだか、気恥ずかしくなる二人である。
「…あ、の。え…っと。」
「あ…その…。」
「…わ、私、お茶入れますよう!」
「え…いい、いいですよ、僕が入れますから!和寅さんは座っててください!」
 わたわたと益田は台所に向かう。見慣れない1人暮しの、益田の家。居間に残された和寅は、ふう、と溜息をついた。その息は、熱い。


 昨日の夜の事だった。
 夕飯は餃子で、益田も例によって慣例のごとく御相伴に預かった。ご飯の後の食器洗いを益田に手伝ってもらい、いつもより早く終えた和寅は、ガス台周りを清掃しようと気合を入れた。
「益田君、ここはもいいですよう。ありがとう。向こうで先生のお相手しててください。」
「和寅さんは?」
「私ぁガス台周りを綺麗にしてから、そっちに行きますよう。」
「はーい。」
 そう言うと一旦益田は向こうに行きかけた。が、くるりと和寅の方をむく。なんだろう、と和寅が思う前に益田は、素早く和寅の唇に口付ける。
「ま、ままま…!」
 しっ、っと益田は和寅の口をふさいだ。
「こんな時じゃないと、出来やしない。」
 そう言うと、八重歯を見せて笑った。その顔がホンノリ照れたように赤いのは見間違いではないと和寅は感じた。
「榎木津さーん、お酒って足りてますかー?」
 と能天気な調子で益田は向こうに行ってしまった。
 がしがし、と和寅は、いつもよりガス台を磨く手に力が入ってしまった。

 ガス磨きに熱中してしまった。
 手を洗い一息ついて、2人の方へ行くと。そこには不機嫌そうな榎木津と、嬉しそうな益田が酒を飲んでいた。やってくる和寅に気付いた榎木津は無言のまま、和寅を手で呼んで招いた。
「なんですよう。」
 と、笑いながら近づくと。和寅は榎木津の腕の中だった。
「わわわ?せ、先生?!」
 和寅には答えず、榎木津は向かいの益田に向かって不機嫌な声で言った。
「貸してはやるが、これは僕のなんだからな。」
「せ、先生?貸すって…なんですよう?」
「このオロカ者が、お前を貸せと行って聞かないのだ。」
「きょーこそ、言ったんですよ!」
 …完全に、酔っぱらっている。気が大きくなっているのだ。
「僕ぁね、一度で良いんですよ。朝起きたら味噌汁の匂いがする、炊きたての御飯に燒き魚、卵焼きは少しだけ砂糖を入れたほんのり甘いの、味噌汁は三つ葉。と、そこに和寅さんがお玉持って『朝ですよう』なんてにっこり笑って、起こされてみたいじゃないですか!」
「な、なんですかそりゃ。」
「和寅は僕のだぞ、と言ってやったらこうなったのだ。」
 どうやら2人の言い分を統合すると、先刻の台所の一部始終を益田は榎木津先生に視られてしまった。
 それで、榎木津はキツク釘を差した。が、酒も入った益田、やおらもう一杯煽ると、和寅を貸せと来たらしい。酔っぱらいの思考は怖ろしい。和寅の意向を一切無視したこの話に、呆れて溜息が出た。
「何馬鹿なこといってんですかい。私ぁ先生のお世話するために、ここにおいてもらってんですよ。」
「そうだろう!…でも、断るわけにもいかんから、面白くないのだ!」
 榎木津は不機嫌そうに鼻を鳴らして腕の中の和寅を見つめた。
「…へ?」
 断るとお前が泣くだろう。
 そう言って榎木津は、ぺしりと和寅の額を叩いた。
「いた!」
 多分、視たのだ。
 益田の接吻に、照れながら微笑んだ自分を、榎木津は。榎木津の傍にいることが当然の和寅が、言った言葉は本心からだ。でも、益田の申し出を断られると、悲しいのも和寅の本心。
 さわ、と衣擦れの音をたてて、和寅は座りなおした。


「益田くーん。ちょっといいかい?」
 台所から呼ぶ声がする。
「はいはい。」
「この味、どうかな?」
「いいんじゃないですか。美味しい。」
「ん、ありがと。」
 ことことと、美味しい匂いがする幸せ。
 そんなキャッチフレーズみたいな言葉が、益田の胸に浮かんでほんのり暖かい。

「ごちそうさまでしたー」
「はい、おそまつさまですよ」
今日の後片付けは益田が受け持った。
「…。」
 なんか。一息ついて、和寅は周囲を見渡す。益田の家。なんだか気恥ずかしくなって、ドキドキする。
「…わあ」
「どうかしたんですか?」
 何時の間にか、益田が来ていた。
「わわ!な、なんでもないですよう!って益田君っ!?」
 必要以上に驚いた和寅を、益田は横抱きにして、自分の膝に降ろした。
「今日くらいは…良いじゃないですか。」
 思ったよりも、落ち着いた声。
 ぴたりと。和寅は大人しくなった。
 それに満足したような益田はけけけ、と可笑しそうに笑った。
「な…なんですよう。」
「いえね、通い妻みたいだなって。」
「なに言ってんですかい。今日は特別ですよ。わたしゃ先生のお世話があるんですからね!通いません!」
「どっちかって言うと、榎木津のオジサンの奥さんみたいですもんね。和寅さん。じゃあ…僕ぁ間男で、人妻不倫の危ない情事、みたいな?」
 あまりにもあっけらかんと言われたのでは、和寅も怒る気も失せる。
 黙られてしまい、益田は内心焦った。軽い冗談のつもりだったのだ。いや、本当は軽い、どころではなかったのだが。
 どうしようもない自分の嫉妬心を逆に傷付ける様にして、軽口を叩いた。だから、そんな軽口は笑い飛ばして欲しかったのだ。
 なにを下らない事を、と。そうしてもらえたら、自分の醜い嫉妬心も風に消えるから。
 しかし、和寅は黙ってしまった。
 以前にも軽口で和寅を泣かせてしまったことがある。
 ああ、馬鹿だ。
 益田は唇を噛んだ。唇に、八重歯が当たった。
 きゅ、と唇を噛んだ益田を、和寅は目を細めて見つめた。
 わかっている。益田の言いたいことも、何故言うか、も。だから、微笑んだ。
 わかってますよう。それが答え。

 その笑みを。その笑みの答えを。
 益田は感じた。
 そんな事は言う必要なかったのだ。
 馬鹿だ。
 でも、馬鹿なのが益田なのだからして。
 えへら。と益田も笑った。
 
  二人して、微笑んだ。二人だけの、拈華微笑。
 言わずとも心が通い合ったその瞬間は、とても温かくて。
 可笑しくて。
 益田の心の奥に眠る嫉妬心も、融けてしまう。

「そんなこと、言うもんじゃあ、ありませんよう。」
 和寅が囁いた。
「だって僕ぁ馬鹿ですからね。」
「…ばか。」
 さらりとした益田の前髪が和寅の頬に触れて揺れる。その髪の中で、益田は和寅の頬の熱さを感じ、もっと熱い唇の熱を貪った。



 朝の光が、目に染みて。
 寝ぼけなまこの益田は暖かい布団の中で寝返りを打った。
 その傍らにいるはずの人影がない。
 飛び起きて見まわす。
 いない。
 刺すような冬の朝の冷気が、ことさら寝床の温もりを引き立たせる。慌てて身支度を整え、カッターシャツを羽織っただけで寝室を飛び出すと、味噌汁のいい匂いがする。台所で、とんとんとリズミカルな包丁の音がする。
「…嫁さんがいる。」
 益田は知らず、呟いた。
「あ、おはよう益田君。」
 趣味の良い小袖に襷がけをした袴姿の青年は振り向くと、照れくさそうに微笑んだ。
「お…おはようございます…。」
「こういうのが、よかったんですかい?」
 耳まで真っ赤にして、和寅は上目遣いで呆けている益田を伺う。
 シュチュエーションにこだわりのある益田としては、朝の新妻ご飯の仕度図にノックアウトである。そしてそれ以上に大きな事がある。覚えていてくれたのだ。あの夜の益田の戯言を。
「和寅さん!」
「うわ!ま、益田君?!」
 いきなり抱き上げられ、和寅は包丁を持ったまま面食らう。
「和寅さん。」
 耳元で、囁く。
 益田の息が熱く、和寅は身震いした。
「まだ朝早くて寒いですから、もういちど布団に戻りましょう。」
 大きな目をことさら大きくさせてキョトンとした和寅は、一気にぼわっと真っ赤になった。
「…ばか。」
 恥かしくて、軽く睨む。
 でも。
「僕ぁ馬鹿ですよ。…時間もまだ早いですし。ね?」
 八重歯を見せて微笑まれちゃあ、しょうがないじゃないですかい。
 和寅は甘い溜め息をつくと、微笑んだ。
「…じゃあ、包丁そこに置いといてください。それと、味噌汁の火も消して。」
「了解しました。」
 和寅を抱いたまま、益田は器用に命令をこなす。
「もう…味噌汁冷めちまいますよう。」
「いいですよ。もういちど和寅さんにあっためてもらいますから。」
 してくれるんでしょ?
 そんな笑みで和寅の顔を覗きこむ。
「…いつでもしたげますよう。」
 そう言うと、和寅は襷を外してふわりと、床に落とした。ぱたんと扉は閉められて、後には襷が残った。



 待ち人が来る足音を期待した螺旋階段を、益田がその相手と共に降りたのは、昼も近くなってからの事だった。遅い出勤もあったものである。
 その日の最初の任務は、探偵の回収へ武蔵小金井に行く事である。


                                                                 end.

Afterword

オジサン公認の通い妻をさせてみたくって。多分月2くらいで通い妻が始まると見た(ヲイ)。
通い妻・和寅と間男・益田。どうしても益田自らに「和寅はオジサンの奥さんみたい」「僕はさしずめ間男ってとこ」と言わせたかった…!
甘甘で行ってみました。バカップルです。すれ違うけど、本質的には分かり合ってる感じ。拈華微笑って言葉が好きなんですよ。
そしてお題は全く消化し切れていません。螺旋階段…。益田の下宿は螺旋階段のある洋館。旧華族のおばあ様が管理人。(マリーさんとこみたい。おじゃる丸の)お屋敷の一室見たいな感じがいいな、と思って。
榎木津氏、木場さんちに乱入していると見た。多分夜を徹しての酒盛。文蔵は早々におねむ決定(笑)。









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