境界

「あれ…なんだろ?」
 青木は、本棚の隅に落ちていた黒い物体を取り上げた。


 やばい。
 木下は、脂汗がたらりと背中を滴って行くのを確かに感じた。


 今日も今日とて、粉骨砕身、東京市中の平和安全のため、木下たち公僕は警察業務に励む。都会の迷彩服・スーツに見を固め、警察官の証である警察手帳を胸に抱いて、彼ら刑事課捜査員は今日も操作に励む。
 …はずだったのだが。
 その警察官の証、警察手帳が、ない。

 朝からの聴き込み・事情聴取を重ね、お昼近くになってようやく外回りを終えた木下は、腕に掛けていた上着を刑事課入ってすぐの本棚に掛け、なにはともあれ大島課長へ簡単な報告を行い、午後からの書類作成に些かウンザリしながら、御不浄へ立った。
 ちょうど廊下に出た時、四課の先輩刑事が上機嫌で、些か凶悪な強面に満面の笑みと若干の照れたような赤らめた頬で以って、こちらに向かってくるところだった。
「あ…朝倉さん、お疲れ様ッス。」
 内心驚いたものの、取り合えづ挨拶をしておいた。
「お、おう、木下。」
 朝倉も声を掛けられたことによるのか、それ以外での要因でなのか、ビクッと驚きつつも、挨拶を返す。
 見ると、菓子折を大事そうに抱えている。どうやら、自分と同じく今、捜査から帰ってきたところだろう。何気なく見た視線を感じ取ったのか、先輩刑事は少し言いにくそうに、早口で言った。
「お前ェンとこの景気はどうだ?」
「そうッスね…ボチボチですよ。今ンところは厄介な事件も無いし。一課は今ンところ暇ですよ。」
「あぁそうか。そりゃ何よりだな…。ッて事は、青木…も今いるよな?」
 青木。そうか。この強面の四課捜査員刑事のお目当てを、木下は確信した。よく他課の人間がする常套手段だ。
 警視庁内でも、捜査一課員・青木文蔵の評判はすこぶる良い。それは優秀な捜査員、と言うよりももっと別な面で、と言うのが本音だ。屈強な若手捜査員の中で、ひときわ童顔小柄な青木は目立つ。
 しかし、その生真面目でひたむきな勤務態度、学生のような初々しい言動に、加えて先輩上司をへの忠実でまっすぐな思慕の表現は、警視庁内の好評判を沸き起こすのに異論は無い。ただ最後の点については、先輩上司と言うのが特に一人にだけ突出しているだけに、一部の署員関係者の鞘当てを巻き起こしていることに、青木本人は知る由も無い。
 そして、今の先輩もそれに相当しているのだ。食い物で子犬を釣ろうとするのは、一番簡単な方法だ。
「や…俺も今帰ってきた所なんスけど、部屋ン中に青木見てないッスね。」
「んだと?どこ行ったんだ!」
「し、知らないッスよ!」

 そんなのは、俺が一番知りたいよ!
 俺だって、俺だって!
 帰ってきて一番にデスク見たら、青木の姿が見えなくて、「お帰り、圀」なんて何気ない言葉を掛けてくれるのを期待したのに、ガックリショボーンだったんだぞ!
 木下はのど元にまでその言葉を詰まらせながら、詰問調になって怒鳴ってくる朝倉を避けるのに必死だった。
「あ、なにしてんですか?」
 丁度、資料室の扉が開いて、人が出てきた。
 その良く聞き知った馴染みの声、それどころか夢にまで出てくる声の主の方向へ、木下は慌てて振り向いた。渦中の人、青木が重そうな書類の束を抱えて出てきたのだ。
「あ…青木…」
「お、青木じゃないか!」
 一転、満面の笑みになって朝倉は胸倉を掴んでいた木下をほっぽり出すと、持っていた菓子折を持ち上げた。
「いや、今外出てきたんでな、これ青木に土産。」
「わぁ!ありがとうございます!なんですか?」
「上野行ってきたんだけどな、たまたま通ったんで買ってきたんだ。うさぎ屋のドラ焼き。前、好きッて行ってただろ?」
 木下は知っている。
 上野に行ってきたことは、恐らく事実だ。上野にある「組」の若いもんがパシリとなって買ってきたのだ。この先輩は都内周辺の極道のおにいさん方から恐れられている猛者だ。
「ホントですか?わー!嬉しいな!」
 木下の生暖かい視線に気付いたのか、朝倉は木下に向かって鋭い一瞥を与えると、青木に向かい相好を崩した笑顔で以って話す。少し泣きそうになった木下だった。
「喜んで貰えて何よりだ。俺はもう少し、外出て行かなきゃなんねェから。またな、青木。」
「はい。いってらっしゃい。」
 背を向け、かつかつ、と靴音を響かせ去って行く朝倉であったが。木下は知っている。今、朝倉の顔はとても見せられないほど蕩けた笑顔であることを。
「木下。」
「あ…ッ?」
 いきなり呼ばれ木下は、ビクッとしてしまった。朝倉の一瞥効果の名残である。
「これ。食べよう?」
「もうちょっとしたら昼だぞ?」
「…むー。」
「3時のオヤツな。」
「ん〜。」
 すこし名残惜しそうな顔がたまらない…。木下も朝倉の事を言えない程の末期患者である。
「…そういえば、木下どこか行く途中?」
 当初の目的は既に忘却の彼方だった。
 
 刑事課に戻ると青木の姿は、また見えなかった。木下は何気なく、本立ての上にほっぽり出していた自分の上着を掴んだ。
 その時、木下は違和感を感じたのだ。彼は縦に二つ折りにして畳んだ、スーツの真中当たりを掴んだ。丁度、内ポケットの辺りである。何時もならば、警察手帳の固い感触がある。
 しかし、ふりゃりと布だけの感触しか伝わらなかったのだ。木下は急いで内ポケットを探る。 
 内ポケットには内蓋がついている。警察手帳は、外部での公務中に必要に応じ、手帳を提示するのが義務だ。出し入れが激しいため、木下は何時も蓋の釦は閉めていない。
 警察手帳には紐がついている。普通、紐で上着とくっつけてあるのだ。今日に限ってスーツを換えたので、木下は紐を結んでいなかった。

 な い 。

 警察手帳がなければ、公務が出来ない。

 しかも木下は、腐っても本庁勤務の花形部署・捜査一課の若手捜査員なのだ。警察の面目丸つぶれだ。ポケットと言うポケットを改めた。木下は、上着のあった周辺を他の同僚に気付かれないように、鋭く見渡した。本棚の隙間も見た。床に這いつくばって見た。
「あ?木下?なにやってんだよ。」
 丁度、新聞から目を話した木場と目が合った。
「へぁえ!?な、何でも無いッス!ちょっと小銭落としちゃって!」
 狼狽しきり、裏返った木下の答え。訝しげに木場は睨んだが、煙草の紫煙を吐き出した。
「…まぁ、いいけどよ。」
 どうでも良いなら、訊くなよ呼ぶなよ!なんてことは、思っても言えない。
 とりあえづ、吹き出る脂汗を震える腕でぬぐい、自分の席についた。最後の職質で、ちゃんとポケットに入れたことは覚えている。省線電車を下りたときにも、確かに入っていた感触があった。警視庁に入ったときにも…あっただろうか。記憶があやふやで、考えれば考えるほど混乱してきた。ガンガンとこめかみが痛い。握ったこぶしが震えてきて、寒気までして来た。
「木下ッ。」
「うわぁああッ!」
 ぽん、と肩を叩かれ、神経綱渡り状態の木下は、酷く狼狽して思わず、勢い良く立ち上がってしまった。
「うおお!んだよ、びびらせんなっつの!うるせぇぞ木下ァ!」
 他の同僚からの罵倒なぞ、木下には通じていなかった。
「わ…びっくりした。」
 大きな瞳を、更に大きく広げ、驚いた表情の青木がいた。
「あ…青木。」
「そんなに吃驚した?なにか、考え事でもしてた?」
ばさ、と重そうな書類を隣のデスクに置きながら、青木は屈託無い笑顔で訊いた。
「や…あの、なんでも…」
 誤魔化そうとしても、あまりの事にうまく言葉が搾り出せない。
「だって、なんか…しまったーどうしよーって顔してたぞ?」

 ドッキリ。

「い…いや…」
「そぉかあ?…先輩もそう思いま…」
「うわああ!青木!」
 コレ以上広めてたまるか!木下は焦って、青木を座っていた回転椅子ごと、自分の方に向けた。
「んだぁ?」
 木場の訝しげな声にも必死に否定する。
「なんっでもないッス!!」
「で、なんかしちゃった?」
 好奇心で瞳を輝かせた青木が、こちらを見る上目使いに、木下は眩暈さえする。普段の自分であれば、嬉しがって3杯は白米が食べられると言うのに。
「し…したっつーか…」
「うーん。失敗しちゃったのか。そうだな…職質で相手怒らせたとか。」
「違う…。」
「違う?じゃあ、所轄の人とトラブったとか。」
「いや…そうじゃない…」
 少し遠くなった。
「なんだよー。そんな顔色変えて脂汗滴るくらいに大変って事、そうだなあ、あとは警察手帳紛失だったりね。」
「…!!」
「でもなー、そんなことはないだろうね。上着と手帳、紐で結んであるしな。第一僕ら警官の証明書って事の前に、警官の誇りってやつだよね。そんな大事なもの、なくすなんて事はありえないもんねぇ。」
「…。」
 愛らしく微笑んで語る青木が、木下には霞んで見えた。
「無くしちゃったりしたら…手帳掲示が出来がないんだから公務出来ないし、手帳紛失を報告した時点で、全国の警察機関に特別手配の電報が流されちゃって、本人は…たぶん、戒告の懲戒処分だし、上司も監督責任でペナルティ出るよね。
もし手帳が悪用されたりなんかした日には、とんでもない事になっちゃうな…。ねぇ木下?…木下?」
 がくがくと、膝の上に硬く握った拳が震える。もはや、木下の体内温度は、氷点下かとさえ思われるほどに、寒気で覆われてる。
 さようなら。もういつもの日常は戻ってこない。明日から、青木の笑顔を見ることも無いだろう。
 木下は、脂汗で一杯の顔をことさら項垂れさせて溜息をついた。
「あ…あお…き。俺…」
 木下は喉の奥から、精一杯の言葉を搾り出した。目の前の、微笑む青木が滲んで見えるのは、脂汗のせいだけじゃない。
 そっと、暖かいものが木下の手の触れた。青木の手だった。
「え…?」
「僕ね、拾得物を一時保管してるんだ。」
 顔を上げる。
 青木の微笑んだ顔は、悪戯っぽく口角を上げる。そして、手に持ってかざしていたのは、見覚えのある草臥れた、小さな手帳。
 金の桜が目に染みた。
「時間は11時04分、拾得場所は東京都千代田区霞が関2丁目1番1号の、警視庁内刑事課捜査一課内にて。拾得物、黒の小型手帳一冊…」
 …。
 …なんだって?
「ああああ青木っ!?」
 勢い良く立ちあがったら、クラリと貧血が来た。
「わぁ。木下、大丈夫?」
 青木は、しゃがみ込んでしまった大柄な木下の腕を抱え上げて、椅子に戻す。それだけで、木下は別の動悸が抑えられないのだが。
「…知って、たのか…」
 漸く、それだけが木下の口から出た。
「うん。」
 なんとアッサリ。
「だってさー、さっき帰ってきたら、なんか本棚の隅に見たことあるような黒い手帳が落ちてるんだもん。しかも紐付き。」
 どうやら、本棚の上に上着を置いた際に内ポケットから零れ落ちたようだ。
「…。」
「木下。」
 俯いた木下を、少し眉根を寄せて、悪いことしちゃったかな、と言うような顔で青木は覗きこむ。
「ごめんね。ドキドキした?」
「…ああ。」
「…怒った?」
 しゅん、とさっきまでの勢いはどこへいったのか、塩らしくなってしまった青木を許さないはずがない木下である。
「や、いいよ。俺も悪いんだし…。」
 木下の心臓は、今度は違う意味で動悸が収まらない。
「ホント?良かった、木下が冗談通じる奴で。」
 …冗談にも良いのと悪いのが…。と思ったが、安心したように零した笑みの可愛らしさに、そんな考えは粉砕される。
 青木は勢い良く立ちあがると、んー、と掛け声宜しく背伸びした。そんな仕草さえも、先刻の一部始終の生き地獄を霞掛かったように、忘却の彼方へと押しやるのに十分な威力を持っている。
「ね、木下。僕、拾得者なんだよね。」
「あ、ああ。」
「遺失物法第四条『遺失物の変換を受けるものは、遺失物の価格の5%ないし20%の報労金を支払うべし』だよね?」
 良く覚えてるな。木下は四条とまで数字を覚えていない。青木の言い出す次が分からないので、ああ…とだけ答えた。
 「今日のお昼、奢ってくれる事。」
 にっこりと、悪戯っぽく嫣然と微笑んだ青木を見て、木下は自分が泥沼地獄に落ちていることを、今更ながら実感したのだ。
 この子悪魔の笑顔に、騙されて生きるのも、ひとつの幸せかもしれない。と。




 人生には、無数の境界、ボーダーラインがある。
 時にはそれを超えてしまうのも、良いのかもしれない。


                                                                 end.

Afterword

木下圀治27才、子悪魔青木に翻弄される、の巻。つーか、青木、いかんだろう。
でもそんな青木を怒れないヘタレ木下。だって木下は翻弄されるのがお好きなんだもーン(笑)。ああ青木が…。
朝倉のような仔犬を狙う警官は警視庁だけでも、わんさと居ます。ッて事で(苦笑)。それを退治できるか木下圀治!
しかし、暴力団対策の4課には『厳ついお兄さんだけど、心は素敵乙女』のイメージが何故かある永月。花とかいつも飾ってある。
警察手帳のうんぬんは、『警視正・大門寺さくら子』高橋のぼる・ビッグコミックスから。いや〜コレさくら子さん最高ですよ。
つーか、お題に無理矢理こじつけ。ダメだろう…。









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