レトロ

 夏は暑い。解りきった事だが、暑い。日本の夏は蒸し暑い。

 太陽の熱が肌を刺す午後、木場修太郎は警視庁の刑事部屋で書類を読みながら首筋を掻いた。生暖かい風が時折吹いては来るが、直射日光に当たっていない分、まだマシであるというだけの暑さである。昨日は熱帯夜で寝苦しい夜を送ったと見えて、あちらこちらで生欠伸の声が聞こえる。
「…先輩?」
向かいの机で書類を書いている青木がその手を止め、小首をかしげながら木場に声をかける。
「なんだ?」
 その声に気付き、木場は尚も首を書きながら青木を見た。
「蚊ですか?」
「あ?蚊だァ?」
「だって先輩、さっきからずっと首のところ、掻いてるじゃないですか。」
 言われて気付いた。
 木場は掻く手を一旦止め、今度は撫ぜながら話し出した。
「あ…ああ、知らねぇけどよ、朝からなんか痒ぃいんだよ。」
「首だけですか?」
「いや、首もだけどよ、背中とか、ここらもだ。」
 胸の上あたりを広く指しながら、木場は口を経の字に曲げながら不思議そうに言った。
「湿疹ですかね。」
 青木は首を傾げると、なにか思いついたように立ちあがり、机を何個も並べた島をぐるりと廻って木場の傍に来た。
「先輩、ちょっと良いですか。」
 と言いつつ、青木は木場のネクタイを緩め、カッターシャツの釦を数個外し始めた。
「わ、お、おい青木…?!」
 良いですか?と言われ、反射的に生返事をした木場だったが、青木がこんな行動に出るとは思っていなかったのだ。
 その木場の狼狽した声で、刑事課の職員らの注目を集める事になったとは声の本人達は気付いていなかったが。
「ぶぶぶぶぶぶ文さんッ?!」
 木場と青木がその声の方向へ視線を向けると、向かいの青木の机の隣、木下圀治27歳が、狼狽した声を発して愕然とした目つきでこちらを見ている。木場と青木の会話を聞くとも無くと言うのは些か語弊があるほど耳を欹てて訊き、青木を気にしていたのだが。素っ頓狂な声を木場が出したので、何事?と顔を上げてみたら、青木が木場の手が木場の服を脱がせていたのだから、たまげた。
 ぶぶぶぶぶ文さん!そんな大胆な!つーか、相手木場かよ、ヤッパ木場なんだ…!なんて脳内で叫び声を上げながらの驚きである。
「あんだよ?」
「なに?」
 2人の不思議そうな疑問の声に、疑問で返す。
「あ、いや青木…なにしてんだ?」
それしか言えなかった。
「なにって…木場さんが痒いって言ってるから、診てあげようと思って。」
どうかしたの?とキョトンとした顔で返され、木下は脱力し、ねぇ?と同意を求めるように見られた木場も、密かに脱力してしまったことは秘密だ。
「わ…先輩これ、汗疹ですよ〜。」
 木場の背中を優しく撫ぜながら青木は言った。
「あぁ、昨日寝苦しくてよ、メッチャ汗掻いたしなぁ…。」
 木場は思い当たる節を思い出した。
「それに先輩、今日も午前中ずっと外回りで蒸したでしょう。先輩掻いたから、酷くなっちゃうかもしれないじゃないですか。あんまり掻いちゃダメですよ。」
「餓鬼じゃあるめぇし…って言うかよ、餓鬼に餓鬼見てェな小言言われちまった。」
「もう先輩!」
 それでも木場は内心嬉しかったのだが。


「先輩!今日、行っても良いですか?」
 定時少し前、たたた、と青木が子犬のようにやってきた。
「あ?ああ、いいぜ。」
 殆ど慣例になっているのに、わざわざちゃんとお伺いを立てる青木が初々しく、それが嬉しい木場も、すこし照れくさく、ぶっきらぼうに返してしまう。
「じゃ、帰る支度して来ます!」
そう言うと青木は走っていった。

 夏の夕暮、下町の商店街は朱色に染まっている。
「あ、先輩。ちょっと待っててください。」
 とりとめも無い、たわいもない世間話をしながら木場と並んで歩いていた青木は、ある店に小走りで入っていった。
「あ…おう。」
 返事をしつつ、見てみると、そこは小さな薬局であった。こまごまとした薬品や雑貨を眺めながら、青木の後を追って薬局へ入る。青木は白衣を着た薬剤師に、なにかを出してもらっていたところだった。黒っぽい丸型の缶で、なにか女性と子供が書かれてあった。
「先輩。これ後で付けておきましょう。」
 青木はにっこり笑って戻ってきた。
 俺の汗疹の薬を買いに行っていたのか、と木場は合点がいった。
 その気遣いに、嬉しくなってしまった。
「お、おう。ありがとよ、ボウヤ。しかし…塗り薬じゃねぇんだな。」
「ええ、そんなに酷く無さそうだからシッカロールにしました。」
 と言って、青木は夕日に融けてしまいそうな微笑を木場に向けた。
 シッカロール。
 その響きに馴染みがなかった木場だが、どこかで聴いたことがあったような、そんな気が、心の隅をふっと過ぎった。


 日が暮れて、夜風がさやかに吹いてきた。昨日の熱帯夜と違い、涼しい夜である。青木は、ほんのちょっとだけ酒を呑んで火照った頬を、夜風に晒して冷ましていた。
「先輩、お風呂入って良いみたいですよ。」
 階下から、風呂から上がったとの家主の声がした。
 くい、と酒をあおった木場は階下に声を上げて返事すると、上機嫌に青木に答えた。
「青木、先に行ってこいよ。」
 すると青木は、えへへ、と子供のような顔を綻ばせ、ほんのりばら色の頬で微笑んだ。
「先輩。一緒に入っても、いいですか?」

 家庭用とは言え、やはり二人ではいるには少し狭い風呂で、青木は上機嫌だった。それは、酒の所為だけでもないようで。
「先輩、今も痒いですか?」
 木場の背中を力を入れずに優しく洗いながら、青木は尋ねる。
「いや、今は良い。」
 しかし久し振りに汗疹なんて出た。子供の頃は良く出ていたものだが。木場は昔、母親に手当てしてもらったことを思い出した。あの時も確か、朱色丸い缶を持った母が動き回る修太郎を呼んだものだった。
 あれはなんと言うんだったろう。
「んん…!」
「ほら、逃げんな。ちゃんと耳の後ろ出せクソガキ。」
 ほろ酔いの上機嫌な青木の耳元を木場が洗ってやると、擽ったいのだろう、クスクス笑いながら鼻の頭に泡をつけて、するりと逃げる。まるで子供だ。人と風呂に入る、と言うのも小さい頃を思い出す。昔、泥まみれになり夕暮れまで友人と遊んだ。榎木津と風呂に入ると、暴れ合うので、湯が湯船の半分になってしまい、よく怒られたものだった。
 そんな擽ったいような少年の頃の記憶を、ふと思い出した木場の機嫌も、悪くない。


 風呂から二階へ戻り、浴衣を着た青木は、カサカサと紙袋を開けた。
「今日ね、サービスしてもらったんですよ。」
「あ?」
 がしがしと頭を拭きながら、木場は青木の方を見た。
「これです。ふわふわですよー。」
 言いつつ、フワフワと毛の付いた丸い塊を紙袋から出し、上機嫌な青木は嬉しそうに自分の頬に当てた。
「なんだァ?」
 木場にはそれがわからず、素っ頓狂な声を出した。
「パフですよ。これでぱふぱふっと。…えへへ。さ、先輩背中出してください。」
 微妙なギャグのような戯言をのたまい、一人でクスクス可笑しそうに笑った青木は、紙袋から黒い丸缶を出した。まだ完全には酒が抜けていないようだ。
 その缶を、かぱり、と青木が開けた瞬間。もわり、と白い粉煙が小さく立った。白く細かい粉、その石鹸のような甘い香りが木場の鼻腔を擽ったとき、木場の脳裏にとても懐かしい、遠い記憶がよみがえった。
 そうだ、シッカロール。
 まだ木場がほんの小さな子供だった頃、母が背中にはたいてくれた。動き回ろうとする木場少年を鉄火な口調で叱りながら、風呂上りにぽんぽんと叩いてくれた。その時に立ち上る、ふわりとした白い粉が舞い、果敢無く散っていくのを、
木場はその残り香と共に憶えていた。そして、叩いた後のほんのり白くなった肌は、触りごこちが滑らかで、いつまでも触っていたかった。
「あ…ああ、シッカロール、そうだシッカロールか。またそりゃレトロなもんを…。」
 言っている本人にしか解らぬ、妙な言葉を発しながら、木場は納得した。
 そんな木場を不思議そうに見た青木だったが、後半の言葉に笑顔で答える。
「ええ、僕も小さい頃使ってましたよ。」
「俺がちいせぇときにあったぞコレ。うちのババァに大人しくしろって怒鳴られながら風呂上りにはたかれたもんだ。」
 木場がアゴをさすりながら、感心したように、昔の馴染みを見るような目で、その黒い缶を見た。ただ、記憶の間は朱色だったような気もするが、その缶に描かれた母子の絵は、遠い記憶と同じで、あのときの自分の母と同じ、愛しげに子を見る母のままだ。
 青木はにっこり微笑むと、缶の蓋を手にとり、懐かしそうに話した。
「よく、汗疹が出来ないように、って僕も母につけてもらいました。昼寝をするときに、蚊取り線香をつけて、僕の体中にシッカロールをパタパタはたいて、それで母が横で団扇をあおいでくれていたのを、憶えてたんです。これ、汗疹が出来てからも付けておくと、早く直るんですよ。」
 ゆったりと時が流れる夏の晴れた午後、簾越しのさやかな風が座敷に入ってゆき、その中で小さな頃の青木が、幸せそうに眠るその浴衣の首もとは、ほんのり白く粉がはたいてある。あどけない寝顔を見つめながら、青木の母は団扇を仰ぐ。
 シッカロールの香りが、ふわりと香り、蚊取り線香の香と溶け合い、幼い青木はその香に誘われるように、まどろみの中にたゆたっていった。
 そんな優しい風景が、青木の脳裏に浮かんだ。
 懐かしい、優しい記憶。母という自分を大事にしてくれる愛しい人に、してもらった優しい記憶。
 だから、木場の汗疹を見て、真っ先に思いついたのは、シッカロールだった。
「でもこれ、昔の缶と色違うんですよね。なんか、もっと違ったような…。」
 青木はちょっと考えるように小首を傾げた。
「朱色だったんじゃなかったか?」
 青木はその声に、弾かれた様に木場の顔を見。
 ふたりで、同時に微笑んだ。
 幸せな、小さい頃の記憶が、重なった瞬間だったからだ。そんな記憶を持っていることの幸せと、それを思い出すことの出来る幸せ。缶の色は変わっても、その純白の粉は記憶と変わらず、昔ながらの白い輝きを持って清潔な香りを仄かに漂わせていた。
「じゃ、つけましょう。あ…あとで、僕にも首筋とか、はたいてくださいね。」
 ぱたぱた、としっとりとした粉を汗疹の背中にはたいてゆく。
 その香りや粉の舞う様は、昔ながらのレトロな風景であったが、それも厭じゃない。
そんな二人は、自然に頬が緩んだ。



 明日の朝。
 木場の汗疹はすっかり引いて、朝一番に撫ぜた青木の首筋は、寝ぼけ眼で擽ったそうに身を捩じらせたが、手に残ったその色白の白い肌はとても滑らかだった。
 


                                                                 end.

Afterword

レトロのお題にシッカロールです。こないだ買ってきて、汗疹にはたきましたから(笑)。
シッカロールは和光堂さんから明治34年から発売、明治大正昭和を経て平成の今もあるロングセラーなベビーパウダーです。永月はシッカロール・ハイ愛用。
缶の色やパッケージも色々変わってますが、昭和時代の絵柄の大元・母子像は変わってないで、戦前は朱色、昭和25年は黒地に白い線の入った缶だったそうで。今は字のみ色ついている、白地の青缶とピンク缶。
や、昔やって貰った記憶をネタに。おかんにつけてもらったもんだ。多分木場も青木も京極も、とくに汗っかきの関口先生なんかは特に使用したと見ても差し支えあるまい、と言うほど定番商品。
なんていうかー。ほのぼの。夕暮れ一緒に帰って、お酒飲んで、二人でお風呂入って、そんでもって、シッカロール。…(父子)生活馴染みてる(笑)。…35歳と27歳…。オイラはこういう幸せラヴも好きです。
こういうのも、ありってことで。わお。そして片想い木下は可哀想。









QLOOKアクセス解析