シンドローム

 マーメイド・シンドローム。
 場所を異にしながらも異口同音に診断を下した、眼鏡の青年心理捜査官と猫目の女主人は、揃って二人とも俺に優しく微笑んだ。

 今日、飲みにいかないか。
 たったそれだけの言葉をあいつに伝えるのに俺は、ありったけの勇気を搾り出す。それなのに、あいつはいとも気軽に俺を誘う。
「ねえ木下。今日、空いてる?飲みにいかないか?」
 小首を傾げ、俺の顔を覗きこむ。子供のような童顔の顔にすこし翳りを見せて、遠慮がちに言っているのに、俺には絶対的で魅惑的な誘惑の顔に見える。
「あ…ああ。」
 俺は肯定の一言しか、ない。
「良かったぁ。あのさ、聞いて欲しい事があるんだ。」





 まあ、わかっている。
 俺にだけ話す、青木の聞いて欲しい事。
 望んでいた青木と俺だけの関係は、俺が決して望まなかった事柄から、発生した。
 それでも。
 例え俺を見ていなくたって。青木が俺に微笑んでくれれば。ちょっとでも俺に勘違いを起こさせてくれる、甘い拷問。
 それでも、いい。青木が傍にいれば、良い。
 青木がいつも、笑顔を向けて見つめているのは俺じゃない。
 望みのないことだ。そんな事は判っていた。
 青木が警視庁に配属されてきた日から、俺は青木を眼で追っていた。けれど、青木は所轄から一緒に配属された先輩上司を追っていたのだ。
 それは変わらず、今に至っている。
 俺はいろいろと世話をしてやり、同僚として友人としての位置を固めていった。時々、友人としての微笑を俺に向けてくれれば。少しでも、俺のことを頼ってくれれば。それ以上のラインは超えまいとして。
 否、超えられない。俺にそんな勇気は、ない。

 いつだったか、俺の家で酒を飲んでいたとき、ほろ酔いの青木は嬉しそうに恥かしそうに、俺に向かって残酷で情けのない告白を聞かせてくれた。お互い明日は非番で休みだった事もあり、珍しく青木も深酒だった。
 木下は僕の大切な親友だから、言っちゃう。笑うなよ。本気なんだから。
 僕、木場先輩に憧れてたんだけど、なんだか最近好き…みたい。でもそんな事、木場先輩には言えないの。言えないよなァ。木場さんが僕にやさしくしてくれるたび、期待しちゃう。
 でもそんな気がないって僕だって、判ってる。けれど、その時だけでも、誤解させてもらっちゃっても良いよね。
 どうせ判ってんだから。そんな瞬間が、少しでもあれば、って期待してるんだ。
 卑怯だろ、僕って。
 俺は確か、笑わなかった。
 かわりに泣きもせずに、つらくなったらいつでも俺に言えよ。と、言葉が出た。なんだか俺の言葉じゃなかった、と感じたのを覚えている。
 卑怯なのは、俺だ。心の中で、呟いた。
 青木は俺の言葉を聞くと、今まで眠たそうだった節目を丸く見開き、驚いた顔をした。そして、なんだか夢から覚めたような泣き出しそうな、不思議な表情を見せ、極上の微笑で俺を見つめると、俺の胸にぽすんと顔をうずめて呟いた。
 木下って優しいよな。
 そして、肩を震わせて泣いた。
 俺は青木が泣き疲れて眠りにつくまで、誤解する瞬間を味わい、布団に運んでやって俺も眠りについた。
 床のなかで、カーテンから漏れる月明かりに淡く浮かぶ青木の泣き顔にそっと、俺にとってのありったけの勇気を持って口付けた。
 甘く、少ししょっぱい涙の味が、した。まどろんで行く瞬間、同床異夢、と言う言葉が浮かんで胸に刻まれた。


 朝、まどろみの中で腕の中の温もりをそっと抱いていた。
 いまだけの、大切な、大切な俺の宝物。
 そんな言葉が浮かんで、胸の奥に沈んだ。
 優しい親友、それでもいい。俺は青木の中で俺の位置がある、と言う事だけでも満足せねばならない。
 本当はそれだけでは嫌なのは、わかっている。けれど、そう思い込まねばならなかった。
 そう、思っていた。
 さらさらの黒髪に、朝の光が当たって、とても綺麗で、俺はゆっくり丁寧に梳いた。

 ガンガン、一拍置いてガンガンガン、と特徴的な叩き方で玄関の扉が叩かれた。
 この叩き方で客は誰かわかっている。
 俺は居留守を決めこみたかったが、昨日の夜に無駄話を交わしてしまったこともありアリバイが崩れている。
 大そう布団と青木の温もりが名残惜しく、俺は小さく舌打すると、青木の腕を解いて布団の外に出た。大気が、少し冷たかった。
「…ん」
 俺が動いた所為で、青木が薄目を開けた。
「いい。まだ寝てろ。」
 すこしばかり声を顰めて、布団をかぶせてやる。
 寝ぼけなまこの青木は、ん…と小さく頷いて、とろとろとまた眠りに落ちた。
 昨日の酒が、まだ残っているのだろう。
 
「…なんだよ。」
 思ったとおり、隣室の住人・東條だった。
 東條と俺は、同業者だ。奴は警視庁科学捜査研究所心理セクションに所属しており、嘘発見器やらなにやらの開発まで担当している。このアパートの管理人は元警察関係で、その伝も合って、店子は警察官が多い。近所では警察寮とまで呼ばれている。
「昨日渡しそびれちゃってさァ。回覧版。」
 あっけらかんとした笑顔で、眼鏡をずりあげながら、俺に回覧版を渡す。
 隣室同士・同い年と言う事もあり、親しくなった。
「ああ…。」
「なに、どったのさー。」
「別に…なんでもねぇよ。」
「なんでもなくねえなァ。昨日なんかあっただろ。…これ?」
 と、俺の部屋の玄関先においてある、青木の靴を指差してニヤリとした。
 何故かコイツには嘘が通用しない。
 俺の微妙な変化を読みとって、御丁寧に診断、批評してくださるのだ。
 だから、俺が青木と言う同僚の、一挙手一投足が気になって仕方がなく、それに翻弄されているという事も、コイツは俺の言動や俺からの供述で把握している。
「こないださァ、署の玄関のとこで文蔵ちゃんと木場さん見たぜ。木場さんに小突かれて、すっげえ幸せそうにはにかんでんの。4課の朝倉さん、ちょうど一緒にいたんだけどさ、へこんでたよなぁ」
 挑発するように、東條は笑った。ここで俺が頭に血を登らせて怒る事は、ない。いや、出来ないのだ。それを見越して、俺を吐かせようとして、こう言う態度をする。
「親友だ…って言われた。親友だから話すって。木場先輩の事、好きだってよ。
でも向こうにそんな気がねえから、その時だけでも、誤解出来るような事を期待してんだってよ。」
 改めて、自分の口にすると、嫌でも自覚せざるを得なくなる。俺は、項垂れて、自分の足元を見ながら、呟いた。
 同じだ。俺だって、独り誤解してしまうような甘い瞬間に微かな期待をしている。
「それって、さ。お前も同じだろ?」
 顔を、上げる。
 酷く真面目な、瞳が眼鏡の奥から俺を覗いた。
 でも。違う。
 青木は真っ直ぐに、木場さんを見詰めて、そして走って行く。なにかと理由をつけて「親友だから」なんて言い訳をしている俺とは違う。
「同じだけど、違う…。」
 俺は、言葉を喉から搾り出す。
 違う。
「ああ、違うな。青木さんはともかく、お前は完璧なマーメイドシンドロームだな。」
「まー…め?」
 横文字は、よくわかんねぇ。
 眉を寄せて疑問符を飛び出させた俺を、東條は優しく笑った。
「それも楽かもしんねえけどな、傷口ってのは中から直さねえと、膿むぞ。」
 そう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「なあ、青木さんはお前を頼ってるって意味、ちゃんと考えてみろよ。」
 少しぐらい、思いあがっても良くねえ?
 東條は、俺にそんな言葉を残して、出勤していった。

 回覧版を持って部屋に戻ると、青木が布団を被ってぼんやりこっちを見ていた。多分、話は聞かれていないはず。それでも俺は、訳もなく胸がどきりとした。
「…だれ?」
「隣の奴が回覧版持って来た。」
「そう。」
 ふわりと、青木が笑い、俺もそれにつられて、へらりと笑う。
「なあ、メシ食うか?」
「ん、作ってくれるの?」
「ありあわせのもんだけどな。」
 そんな会話をする間、俺はこれで良かったのだ、と思う事にした。
 親友だろうがなんだろうが、青木が俺を頼ってくれるだけでも御の字だ。思いあがるような勇気は、俺にはない。


 それから青木は、木場先輩への想いが溢れそうになるとき、俺に助けを
求めるようになった。
 青木が俺を必要としている、と勘違いさせてくれる瞬間。
 甘くて残酷な、嬉しい拷問。
 俺は、それでも良かったのだ。
 それすらも求める事が出来ない苦痛に比べれば。
 それでも、欲しかったのだ。




「青木、辛いんなら…今でもいいぞ?」
 本当は聞きたくないくせに、どの口で俺は言うのか。
「ごめんな…木下。」
 淋しそうに微笑む顔は、子供のような幼さなのに、とても綺麗で。俺は黙って今、人気のない宿直室に連れていった。
 用心の為に、使用中、の札を出し、一応中から鍵をかけておく。俺に、そんな勇気は、ないのだから。知らず、ため息が出る。振り向くと、畳の上で所在なげにポツリと座っている青木が、いた。
 なんだか今にも融けて行ってしまいそうな、そんな淡い存在だった。
 だから俺は、気が急いて、青木の元へ駆け寄った。そして知らず青木の肩に手を置く。薄い肩の感触と、俺の手が振れた時に青木に起こった震えが、実在の実感を確信した。
 その方の手を、なるべく自然に動かして、青木の背広を脱がしてやる。青木はされるがままに大人しくしていた。瞬間、そのまま全て青木の纏うものを剥いでしまいたい衝動に刈られたが、それに気付かない振りをして、やり過ごした。腹の底が熱を帯びて、重苦しく感じた。
 しわにならないように背広をハンガーにかけ、俺のも掛ける。そして、青木の前に座り、俯いた青木の顔を覗きこんだ。
 青木と、目が合う。
 途端、ぼろぼろっと青木の大きくて澄んだ瞳から涙が零れ、子供のような顔が哀しみに歪んだ。
「…あ!…わ、あああ…っ!」
 俺に取りすがると、青木は子供のように泣きじゃくった。
 いつも、そうさせている。
 哀しみは、まず発散させた方が、良い。
 いつものように、俺は胸に零れて濡れる涙の熱さで、火傷をしてしまう錯覚に陥る。俺の胸には、火傷の跡が無数にある。俺は、薄灰白い漆喰の天井を見上げた。
 なにも、なかった。
 泣いた後のしゃっくりも、ようやく収まった。
 その間俺は、ひく、ひく、と痙攣する青木の小さな背中を擦り、抱いた。呼吸が収まっても、青木は長い間、俺の胸から頬を離さなかった。
「ごめ…」
 蚊の泣くような、消えてしまいそうな青木の声がした。
「ごめん、な。落ち着いた。やっぱ、後で話すよ」
 青木が言いたくなければ、それで良い。俺としても、聞きたくない。俺には、青木の不幸を願い、俺の元へと走ってくるような空想すら、容易に出来るものではなく、とても勇気のいる事だったのだ。
 青木が、笑っていてさえくれれば、良い。辛い現実を嘘で塗り固めていると、その境がよくわからなくなってくる。

 宿直室から出た青木は、いささかサッパリとした顔であったが、少しでも発散できたようで、俺は安心した。仕事が終わり、どこで飲もうか、と言う話になった。
「静かなところが、良い。」
 そう言う青木の要望に、俺は猫目洞はどうか?と持ち出した。青木は少し考えると、真っ赤になって俯くと、言った。
「猫目洞行った後、木下んちに…泊めて、くれる?」
 俺はああ、と答えるしかなかった。甘い命令に、俺は絡め取られているのだ。



 相変わらず、年中休業と言った風体の猫目洞はほの暗い明かりの元、
女主人が煙草を吹かせているだけだった。
「あら、いらっしゃい。珍しいのねェ。二人も客がある。」
「お邪魔します。」
「はいどうぞ。…青木ちゃんに、そっちは木下ちゃんだっけ。」

 青木はあえて、例の話は切り出さなかった。俺も、しなかった。お互いの郷里の話、青木の兄弟の話、そんな他愛もない話をしていると、まだ1・2杯ぐらいしか飲んでいない青木がくたりと眠ってしまった。
「あらぁ…青木ちゃん寝ちゃった。疲れてんの?」
「ええ…。」
 言葉を濁すと、お潤さんはふーん、と生返事をして、酒瓶を出すと、無造作にグラスに注いで、一つを俺の前に置く。
「おごり。青木ちゃんのお守は一旦休業して、妾にちょっと付き合ってよ。」
「はぁ…。」
 隣で、青木はすやすやと寝息を立てている。青木が脱いだ背広を、肩にかけてやる。
「あんたさあ、相当イカレてるわね。」
 お潤さんはグイ、と一口酒を煽り、俺にそう言った。
「ヘ?」
「青木ちゃんによ。思いっきり甘やかしてんじゃない。」
 ぶう、と俺は綺麗な虹を作ってしまった。琥珀色の暗い照明に、煌いた。
「あらヤダ、なにやってんのよ。」
 固く絞ったお絞りを投げつけられる。
「おお…お潤さん!」
 口を拭い、テーブルを吹きながら、俺は真っ赤になって抗議した。
「まるわかりよ。」
 ため息を軽くつきながら、お潤さんは物憂そうに、俺にグラスへ酒を継ぎ足す。
「…そんなに、ですか。」
「そんなによ。不器用ねえ。」
 返す刀で切り返され、俺は居心地が悪くなって、むやみにグラスの氷を鳴らした。
「でも、青木ちゃんにちゃんと言った事ないんでしょう。」
「はあ…。」
 いきなり図星である。
 俺は、今までの青木との顛末を、ぼそぼそと語り、こう結んだ。
「俺…臆病で卑怯で…。そんな奴なんか…俺はある事件で、青木に怪我させてしまったことがあるんです。あの時俺がしっかりしてたら…俺、怖いんです。またあの二の舞になっちまうんじゃないかって。そんなんだから、言えません。それに青木は木場先輩に惚れてんです。決して俺じゃないんです。いっつも青木は木場先輩を見つめてて、先輩の為に笑ってて…。わかってるから…拒否されちまってなんにも無しになるよりも、親友だって言う繋がりに縋ってたほうが良いんです。俺、卑怯なんです。
 俺、青木には笑っていて欲しいんです。偽善だと思います。でも、哀しい顔よりあいつが幸せそうに笑ってさえいれば、俺がそばにいなくたって良いんです。そう思いこんで自分に納得させようとして、だんだん本当にそう思ってきました。
俺に振り向いていない青木を奪ったって何の意味もないし。欺瞞です。だから俺は青木が辛くなると、幾らかでも和らげるように、泣いてる青木を抱きしめてやる事しか出来ないけれど、それでも青木が微笑んでくれたら。
 それに…青木が一瞬でも頼ってくれるようなそんな自分の今の位置だと、青木が俺を必要としている、って勘違いさせてくれる瞬間が見つかるんです。なにもなくなってしまうより、こっちの方がいいんです。」
 俺は一息に吐いてしまうと、ぐいと琥珀の液体を喉に流した。焼けつくような酒が、逆に気持ちが良かった。
 そんな俺をお潤さんは目を細めて見ていた。
「あんたも、ややこしいわねえ。」
 呆れられているのかと思っていただけに、思いのほか、優しい声音だった。優しく俺に微笑んだお潤さんは、ふう、と一息ついて話し始めた。
「アンタが自信ないってんのはさ、結局それは甘えてるだけよ。アンタ昔、青木ちゃんに怪我させて凄く嫌だったわけでしょ?それはなに?青木ちゃんを守れなかったから、って言うのはみっともないから?逃げ出しちゃう?二の舞になったら嫌だから、放棄しちゃう?」
「い、いいえ!」
 俺は即座に否定した。
「違うでしょ?」
 にっこり微笑んだお潤さんは、続けた。
「守れなかった自分が嫌だからこそ、守りたいって言う気持ちがあるんでしょ?悲しみを知ってる人間ってのは、強くなるものよ。そう思いなさいな。だから、守りたいって思う限り大丈夫よ。それはアンタの気持ち次第。」
「は…ァ。」
 俺はただ、頷くしかなかった。あの苦しみを二度と味わいたくはない。俺は殆ど毎日青木の看病に俺は走った。情けなくて申し訳なくて。
「それにさ、青木ちゃんだって男よ。自分の始末ぐらい守ってもらわなくても自分で覚悟出来てるわよ。それよりも、あんたはあんたの方法で青木ちゃん守ってんじゃないの。それも相当甘やかして。」
「へ…?」
 俺の方法?良く分からなくて、俺は間抜けな声が出た。
「青木ちゃんが泣きつくのは、アンタのその分厚い胸なんでしょ?」
 すう、とお潤さんの指が伸び、カウンター越しに俺の胸をつんと押した。
 指の赤いネイルが、柔らかな琥珀色の灯りに妖しく鮮やかに見えた。
「…え、はあ…。」
 それでもこの女主人の意図が分からず、俺は歯切れの悪い返答しかできない。俺の樣子に、お潤さんは、ぷっ、と吹き出してひとしきり愉快そうに笑った。
「な、なんですかぁ?」
 置いてけぼりの俺。
「あーどうして刑事って連中はこうも鈍いのかしら!」
 本当に可笑しそうに笑い転げている。
「鈍い…って」
「鈍いわよ!にぶ!…まあいいわ。あのねえ。」
 から、とかすかな音を立てて、お潤さんは喉を潤すと、にっこり俺に優しく笑った。
「木下ちゃん、あんたマーメイド・シンドロームねぇ」

 マーメイド・シンドローム。
 それは心理捜査官・東條に言われた言葉だ。

「お潤さん!」
「なによ。」
「そのマーメ何とかって…!」
「マーメイド・シンドローム。」
「そう、その、それって…俺、前にも言われたことあるんです。何ですか?」
「あーら。誰に言われたのよ。」
「心理捜査官の友人になんスけど…」
「あらま。」
 なんだか見透かされてるみたいで、気味が悪いというか、落ち着かない。

「木下ちゃん、人魚姫って童話知ってる世代?」
「あ…いえ、読んだかもしれないですけど…。」
「マーメイド・シンドロームってのは、人魚姫症候群って言うの。人間の王子に恋をした人魚姫は、海の魔女の魔法で人間になるのよ。魔法の為に声を失い、歩くたびに足先が痛む、けれども王子のそばにいられて、人魚姫は幸せな日々をおくるの。けど、王子は他の姫と婚約してしまう。人魚姫は王子と結婚できなければ消えてしまうのよ。助かるには、人魚姫の姉が魔女から貰った短剣で、王子の胸を刺さなくちゃいけない。でも彼女は出来なかった。王子の結婚の宴の宵に、人魚姫は人魚に戻る選択を捨てー王子を殺すって事ね、人魚姫は王子様の幸せを願って、海の泡になって消えてしまうの。」
「はぁ…。」
 あんたそっくりじゃない。
 お潤さんは酷く真面目に呟いた。
「人魚姫はね、王子を奪うことも出来たのよ。でも、もし王子を殺して海に帰れたとしてもきっと人魚姫は幸せになれなかったわ。過ぎてしまった時がもう戻らないことを人魚姫はきっとよくわかっていたからよ。
 人魚姫にとって海の泡になって消えることが幸せなままでいる唯一の方法、だったんじゃない。」
 俺は黙って聞いていた。
「そう言う風に、ある人の幸せのために身を引いてゆきます、さよなら、って言う方式に自分を当てはめるのが『マーメイド・シンドローム』って言うのよ。楽だもの。」
 俺だって、わかってる。苦しい現実を捻じ曲げて少しでも楽にしようとしてるって。それに無理矢理奪ったところで、俺は、青木は幸せなんかにならない。だからやっぱり、俺は…。
「でもあんたは、人魚姫じゃないわね。」
 きっぱりと、よく響く綺麗な声が高らかに、愚図愚図とした俺の頭の中に響いた。
「あんたは、どれだけ青木ちゃんにとって大事な存在であるのか、よ−く考える事よ。
結局、あんたの心持ち次第なのよ。殻を破んなさいな。青木ちゃんだって…。」
「あお…き、だって?」
 俺は馬鹿のように鸚鵡返しする。
 結局のところ、俺は青木にのみ反応するのか、と我ながら、可笑しかった。そんな俺に、お潤さんは子供の悪戯を見つけた母親のように苦笑した。
 でなきゃ泣きつきに行かないわ。
 そう言って、俺の額に、こつん、とグラスをくっつけた。思いの外冷たくて、俺は黙った。

 さーてもう眠いから店じまい。青木ちゃん持って帰ってね。
 欠伸をしながら、お潤さんはヒラヒラと手を振った。
「あ、すいません。…青木、起きろ。帰るぞ?」
 ん…。
 ねぼけまなこで青木は俺を見上げた。
 ほんのりと赤く染まった頬や、ぷっくりと朱唇に俺はドキリとする。
「んぅ…帰んの?…木下んち?」
「そうだ、おれんち帰るぞ。」
 すると、青木はほわりと花が咲いたような、幸せそうな笑みを俺に向けて、俺に向かい、子供がだっこをねだるように両手を広げると、言った。
「…ん、木下んちに…帰る…。」
 この笑みは、この瞬間の笑みは俺だけのもので。
 俺は切なくなって、俯いて青木を背に載せた。
 猫目洞を辞す時にお潤さんを振り向くと、意味ありげな猫目でウインクしてきた。俺には、その意味はわかっていたけれど、やはり結局自分に勇気がないのだ、それを実感させるものに過ぎなかった。


 駅まで、青木を背負って歩く。
 青木の温もりが、俺を包む。永遠にこのまま歩いていきたい。ずっとこのままであればいい、そんな感傷的な事を柄にもなく、思った。
「きのした。」
 不意に、青木が呟いた。
「うお!…起きたのか。」
 すこし驚いた。
「ん…。ホントは、ずっと起きてた。」
 俺の首筋に顔をうずめたまま囁く。少し、擽ったい。
「ずっと…って?」
 少しだけ動揺する俺。
「木下と、お潤さんの話。聞いてた。」
 知らず俺は赤面する。
「きいて、たのか。」
 うん。
 俺の心は混乱していた。聞かれてしまった。言えるはずもない俺の想い。俺の捻じ曲がった、欲望の発散。
「あのな、木下。」
「…なんだ。」
「ごめん。」
 青木は呟いた。
 俺は、青木の謝罪の言葉を《俺を受け入れる事が出来なくて、ごめん》の意味だと思ったのだ。
 だから俺は、俺は。
 鼻の奥がつんとして。
 全ての終わりを感じたのだ。

 トコロが、青木はこう続けた。
「…僕もおんなじ。ううん、もっと酷い。わがままだって、わかってる…ごめん」
 なんの、ことだ?
 けれど俺には尋ねる勇気もない。
「とりあえづ…早く帰ろう。…冷えるぞ」
 俺はそう言うしか、出来なかった。青木は返事のかわりに、俺に回された腕に、きゅ、と力を入れた。

 終電間際の電車はガラガラに空いていて、俺と青木は一言も話さなかったが、ただ青木の方から繋いできた手は、電車を下りるまで放さなかった。

 言葉少なに、俺の家に帰った。お互い、少しの言葉しか話さなかった。風呂に交代で入り、後に入った青木がだぶだぶな俺の浴衣を纏い、洗い髪をがしがし拭きながら俺の傍に来た。
「青木、こっち貸してみ」
 青木の髪を、代わって拭いてやる。髪の露が、蛍光灯に光って、俺の目に染みた。
「あのさ。」
 青木が、ポツリと話し出した。
「今日の…昼言おうと思ってた話。…聞いてくれる?」
「…ああ。」
 俺は手を休めず、応じた。

 僕、あの時どうかしてたんだ。
 昨日の夜だよ。先輩と一緒に呑んでて、何がどうなっちゃったのか、良くわからない。なんだか、自分が自分でないみたいに、頭がボーっとしたまま、言っちゃった。
 「でも僕は、後輩以上になりたいんです。」
 そしたら先輩は困ったように笑って頭を掻いたんだ。そんな仕草にも、僕はどきりとして、涙が出そうだった。
「お前は、俺の大事な後輩だよ。」
 大きな手が僕の頭をくしゃくしゃ、と撫ぜて、ぽんぽんと跳ねた。
「俺は、この位置だ。お前のその位置は、俺じゃねえ。」
 そういうと、あやすように僕を一度だけぎゅっと抱きしめてくれて、別れた。

 ぽつり、ぽつりと話す青木に、俺はどうしたらいいのか、わからなくて、なにも声を掛けられなかった。
 青木の幸せ、が俺の幸せ。
 だが、青木の望む幸せは掴めなかった。
 であれば。俺が青木を…。
 いいや、そんな事は…出来まい。
 考えてしまった事さえ、後悔する。青木に、申し訳ない。こんな状態の青木を、手に入れることは容易い。しかし、そんな大胆な勇気は俺にはない。なんて臆病な。こんな臆病な俺を、青木が望むかなんて、考えたくもない。青木が俺を拒み、全ての喪失を考えるとすれば、今のままの関係で良い。
 であれば。
「良く頑張ったな…。」
 そう言ってやる事、しか出来ない。俺は、向かい合わせに座った青木の、頭を撫ぜた。

 ずいぶん長い間無言でいた。
「…なんで、そんなに…」
 青木が、不意に言葉を零した。
 目を、合わせる。青木の顔は、怒っているような泣いているような、困っているような、そんな切ない顔だった。
「なんで…そんなに木下は、優しいんだ…?」
 ぼろり、と青木の眼から涙が零れた。
「え…?」
 驚いた。俺が?優しい?
 俺はお前をそう、利用して期待していただけなのに。
「お前、僕のこと怒らない…の?怒れよ!お前に僕、酷いことばっかしてるんだぞ!お前の気持ち知ってて、僕は…!お前が僕の事、好きだって判ってた。判ってたけど、あんなにわがままばっか言ってたんだ。お前なら、お前だったら、
どんなにしたって受け止めてくれるなんて僕が思いあがってたから。
 僕、わがまま言うのに慣れちゃって、止められなくなった。でも、いつまでたっても…お前はどこまでも優しくって…僕、最低だ。」
 そう言うと、青木はぼろぼろ涙を零した。
「あ…青木。」
 俺はどうしてよいかわからず、青木の薄い肩に手をかけた。びくり、と青木は身を震わせ、俺の手から逃れた。
「駄目。僕、最低なんだから!木場先輩に振られたのに、もうお前に甘えてる。それどころか僕、木場さんが好きなのに、好きだったのに、お前が気になってきちゃってる。いまでも木場さんのこと好きなんだ。でも僕、木下じゃないと…!こんな…駄目なのに!」
 青木はぶんぶんと、首を振って泣いた。
「青木…、俺、俺…」
 俺は今度こそ青木の肩を掴んで、つかまえる。重いが胸に詰まって、俺は言葉が出ない。バカみたいに《俺》と言う言葉を繰り返している。
「駄目!」
 青木が俺の言葉を遮った。
「駄目だ…木下。僕、こんなあやふやで…。今聞いちゃったら、僕流されちゃう。絶対木下にも申し訳ないことに…。ちゃんと、心の整理してから、それから…!」
 その時は訳もわからず、重い澱が溜まって行くような気がして。ただ青木を抱いて泣いた。せめて、その涙の分だけ、臆病な自分が消えていけたら。
 潮時なのだ。
 そう思った。



 青木の身体は薄く、それこそ泡になって融けていきそうだった。



 その次の日、青木は有給を二日取った。
 復帰後、青木は言葉すくなで、一度も笑い掛けてはくれなかった。暫くのち、俺と青木はある事件の再調査を命じられた。
 


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Afterword

えーと一応、「19.予定外の出来事」の前編ってことで。切な系木下青。
マーメイド・シンドローム、適当に作ったんですけど、あるんですか?よくわからん。
あと、木下んちの隣人・東條でオリキャラ出すし。科学捜査研究所・心理セクションとか昭和20年代にあったのかさえも不明。勤務中は眼鏡に、緩めたネクタイ+白衣。譲れない!
わがままを言う事に慣れてしまって、後に引けない青木。わがままを言われる事に慣れてしまって、それ以上望めない木下。そんな感じで。
木下ヘタレすぎ。青木を甘やかしすぎ。そして青木小悪魔!でも2人ともすれ違いでどうしようもない、ってのを書きたかった。
あと木場青で失恋。とか。木下、逆に手ェ出せなくなった。とか。もう両想いなのにギスギスした感じ!もどかし!みたいなのが。切な系で言ってみたかったんですけど、どうでしょう。
青木失恋ですぐ手が出せる木下はヘタレじゃない!(ていうか、それは嫌だ。木下じゃなくても、モニョるし、誘ってくるのももっと嫌…)とばかりに、なんだか微妙な関係になり、「予定外の出来事」に至る。という事で。あーそしたら、向こうが辻褄合わなくなってきたな。ちゅーかオチもよくわかんねぇ。

ま、木場青とはパラレルって事で。









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