君は誰

 夕暮れで、疲れていたのかもしれない。
 青木は省線電車を降り、逢魔刻のプラットフォームに降り立つと、ひとつ小さなため息を吐いた。


 韮山の事件後、減俸の上に派出所勤務であった青木だったが、半年を待たず無事に本庁へ復帰することが出来た。降格処分先の勤務先の樹ノ本派出所は、存外居心地が良く、青木の訓令を知ると我がことのように喜んでくれ、また別れを惜しんでくれて『復帰祝賀歓送会』まで開いてくれた。その勢いで、派出所で同僚だった香椎や匂坂を本庁案内する約束までさせられたが、これもひとつの思い出である、と思えば青木の顔に笑みが今でも零れる。

 本庁に帰ると、半年前まで使っていた青木の机は元のまま、机の上は綺麗に拭かれてあった。それは警部のはからいと、木下の気遣いによるもので、青木はそれぞれに礼を言った。さりげなく流しながら、警部は青木の少し大きな頭を撫ぜて「おう」だか「ああ」だか云った相槌を打って擽ったそうに自分の席に戻り、目を丸くして驚いた木下は気恥ずかしかったのかモゴモゴと「いいいや…」などと要領を得ない返事をし、真っ赤になって無意味に傍らの書類を弄っていた。
 それでも変わっていたことはあった。
 数人の人員の入れ替えと、木場がまだいないこと。麻布からまだ帰ってきていないらしい。青木は少なからず落胆したが、それでも麻布でも暴れているであろう木場を思い浮かべて、木下と共に苦笑し合った。



 木下と二手に分かれていた青木は、待ち合わせの駅へと向かう。もう夕暮れで、周辺は茜色に染まっていた。
 プラットフォームに街の喧噪が聞こえている。汽笛の音が聞こえた。
 がたん、と大仰な音と共に電車が到着する。ここから三駅だ。車内は夕暮れの退社時間にもかかわらず、何故かほどほどに空いていた。
 青木は夕日のまぶしさを避けて、太陽を背に座る。連日、派出所勤務時代とは違い、歩きっぱなしである。そのリズムにまだ戻っていないらしく、青木は少し疲労感を、座ってから感じた。
 ふと、向かい側の客を見た。
 中年の男女、勤め人、学生などが少しずつ間隔を空けて座っている。ちょうど青木の真ん前に座って寝ている男、彼に青木は少し驚いた。
 向かいに座った男が知った顔に見えた。
 木場、修太郎。先輩。
 …いや、違ったか。
 目を凝らしてみてみるが、それは他人らしい。
 軽挙して話し掛けずに良かった、と思うが、見るほどにどうも木場の顔に見えて来る。短く刈り込んだ頭、角張った顔、ゆるんだネクタイに草臥た背広、太い眉に閉じられた瞳、組んだ太い腕。木場のようだ。木場に見える。
 いや、頭では木場本人ではなく同じような特徴を持った別人であると言うことには気付いている。けれど、その頭の片隅で、どこか網膜に結ぶ映像と木場の文字を結びつけるのだ。
 青木は自分でもそんな思考が可笑しく感じられて、ひとり薄く笑った。
 かたん、かたんと規則正しく線路が脈動した。

 先輩も、電車の中で寝ちゃったりしてるのかな。
 そんな風に考えてみた。
 何度か逢瀬したとは言え、所轄も配属種も違う木場と青木は、そうそう会える機会も減った。最後に互いの非番の日に会って、一ヶ月半たっただろうか。電話もあるが特に連絡し合う事でもも柄でもなく、していない。本庁に復帰したその日の夜に短く電話で会話しただけである。木場は喜んで呉れ「俺ぁもちっと麻布だな」と苦笑していた。自分だけ、と言う負い目もあって青木は手早く用件を済ませ、切った。
 そのくせ酷い不安感に駆られるのは青木なのだが。
 車窓は刻々と変化していくが、青木はそれを見ることはなかった。
 見ないようにしていた。
 だから、特に見るとも無しに向かいの男の寝姿を眺めていたが、ふと青木はきらりと光るものを認めた。その男の左手に指輪の輝きを見つけたのだ。
 夕日の茜色にひと際光っていた。

 多分疲れていたのだと思う。
 目の前の男と知った顔の境目がわからなくなって、青木は酷く不安になった。
 なにもかもが、わからない。
 目の前の男が木場のように感じられて、自分を置き去りにして変わっていってしまったかのような不安。
 かわって、なにも変わらないまま置いてけぼりの自分。
 電車のこちら側と向こう側に座っているように、それが男と自分とではなく、木場と自分の間に大きな溝が空いているような感覚に、青木は戸惑う。
 けれど、あれは木場でも何でもない他人だと云うことは百も承知だ。それなのになぜかそんな不安感に纏わりつかれる。なにもかもが、判らなくなって混沌と茜色に塗り潰される。
 わからないまま、車窓の景色は変わっていってしまう。
 日没の逢魔刻、後を引くような夕焼けの赤が、青木自身を包む。

 電車の揺れと共に涙がひとつ溢れそうになり、慌てて青木はぎゅう、と目を瞑ってやり過ごした。さりげなく、にじみ出た涙を袖で拭いた。
 それは涙に入らない。
 心の中で、青木は強がりを呟いた。

 駅についた。男は頭を掻きながら怠そうに降りて行った。
 残された青木は、次の駅に着くまで目を閉じて、電車の揺れと線路の音と、夕日の熱を感じる事だけに専念していた。
 駅に着くまで、とても長かった気がした。
 やけに線路の音が響いて、青木は少しだけ苛立った。
 
 プラットフォームに降り立つ。ひとつ、小さなため息を吐いた。
 ひとつの舞台が終わったような、そんな寂しく空っぽな気分になった。




 駅改札では、木下が待っている。
 青木は時計を確認し、出口階段の方へと歩いていった。





蛇足
(一応、上の文でお仕舞いなのですが、
続きがあっても良い、と言う方に)

    きば          きのした  


(どちらか選択して下さい。話の分岐点で、それぞれ別の結末です)


                                                              next→

Afterword

えーと、乙女倍増な文蔵。
なんか似てるんだけど、別人だって判ってるんだけど、そんなこと考えてたらなんだか良くわかんなくなっちゃった。頭では別人だってわかってんのになぁ。みたいな。そんで、物凄い壁を自覚するの。うーん切な系。
蛇足はいちお、どっちとっても甘甘。









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