棘が刺さった。
 もう痛くはないのだけど、意識の片隅にどこか引っかかって、奇妙な気分だ。
 無名指の側面、中指と接する中途半端な位置にひとつ。黒く細い棘が刺さった。
 ぐじぐじと棘の周りを指で押さえ、押し出す努力を試みるものの、いっこうにその棘は抜ける気配すらない。
 散々弄ったせいで指が痛くなってきた。
 そこまで来ると、益田は急に面倒くさくなって――やめた。



 うだるような夏の暑さ、益田は炎天下の東京を歩いていた。
 アスファルトに覆われた都会の暑さは、そのアスファルトが熔けて揺らめいている事が証明している。

 蜃気楼が見える。
 益田は流れ出る汗を拭い、軽くため息を吐いた。
 本来ならもっと早く下宿を出るつもりだった。
 ここのところ、日中の本格的な日差しを避けて朝まだ涼しい6時台に下宿を出発、探偵社に出社するのは7時台という優良社員っぷりで、早起きは老人化の始まりだな、
などとぶつくさ和寅に文句を言われながら和寅の手料理で朝食を二人で頂くのだ。
 その時間は探偵閣下が起きている事など皆無だからだ。ちなみに、その代償として益田は朝の掃除に際して労働力を提供している。今日もそのはずだった。
 だが、益田がそろそろ出かけようと下宿で身支度をしていた。脳天気に微妙に外した鼻歌を歌いながら。益田の住む下宿は、下宿用に改造した古い洋館で、多少の防音は建てられた時に施してあるので音が少々はずれていようがおかまいない。
 すると、部屋の外で怒鳴り声が聞こえ始めた。複数人の声がする。
 騒がしくなってきた。その少々とはいえ防音してあるのに、聞こえてくるのだから随分騒がしい。
 とは言え、ぞんがいここでは良くある事なのだが。ただ毎回バリエーションに富んだ原因なので今回はなんだろう、と思っていると、ドンドンと慌てて扉をたたく音がする。
「「益田さん!」」
 若い女性の声二重層。なかなか切羽詰まっている。
 正直、自分にお鉢が回ってくるとは思ってなかったので、益田はびくりとした。
「はいはい…うわ!」
 ぎい、と洋館作りにふさわしい重厚な扉を開けると、日本人形が二体。綺麗な長い黒髪・綺麗な白皙の面・柳眉を潜ませ、赤い唇の女性が二人。鏡を合わせたようにそっくりな双生児が、揃いの絽の着物を着て立っている。
「ど、どうしたんですか?二人揃って見るなんてレアですね、青柳さんたち」
「「レアって言わないで下さい!」」
 また二重奏。タイミングが良くて綺麗に揃っている。
 なんだか非日常的なシチュエーションに、実際はただの隣人姉妹であると判っていても、益田はへんな目眩が起こる。
「す、すいません…えと、一人づつ話して下さいよ。なんか変な気分になる」
 聞き取りは十分出来る二重奏のだが、揃っているだけに可笑しい。
「中島さんと尾形さんが喧嘩なんです!」
 向かって右の姉・青柳有為(あおやぎ・うい)が第一声。
「しかも止めに入った愛咲さんが殴られて気絶しちゃうし」
 向かって左の妹・青柳那意(あおやぎ・ない)が第二声。
 もうどっちがどっちかわからない。
「「とめてくださいよ!」」
 またも二重奏。
「ぼ、僕がですかぁ?」
 益田は情けない声を出した。ばさりと前髪をひ弱そうに顔の前に垂らして、髪の間から二人を覗き見る。
「だって大西さん、朝稽古行っちゃってるんですもん」
「だから腐っても元刑事さんならどうにかなるでしょ」
「「朝っぱらから迷惑だから、早く早く!」」
 綺麗なお人形というものは、おしなべてこういう性格なのだろうか。益田はため息を吐いて、お人形二人の後について現場に急行した。

 つかみ合いの喧嘩する大の男二人、隅で伸びてる男を介抱する老婦人。
 巡査時代に酔っぱらい同士の喧嘩を宥めた事もあった。そんな昔取った杵柄というのか、やっとのことで、喧嘩を収めたが、数カ所殴られた。
 そして収まった頃には気絶していた相馬も吹き返し、事情聴取の始まりである。
 どうやら、売れない画家の尾形さんの絵を、普段から仲の悪い(と本人らは宣言しているのだが、実質は仲良く喧嘩しなな間柄で、当日も味噌を借りに来たそうだ)インテリ崩れの大学講師ならではの嫌味でもって中島さんがからかった。
 それが、つい先日コンクールに落ちたばかりの尾形さんの逆鱗に触れ、尾形さんブチギレ。売られた喧嘩を買った尾形さんが、中島さんに「金も稼げない負け組に言われたくない」と応酬。そしてお互い痛い所をつかれ、とっくみあいの喧嘩に発展。
 ここまではいつもの事なのだが、いつもならば隣室の武道家・大西さんが止めにはいるのだが、たまたま大西さんは朝稽古で不在。替わりに、騒ぎを聞き付けたそのまた隣室の舞踏家・愛咲さんが止めに入るも、いつもながら鬱陶しいまでのオーバーアクションで登場したため「鬱陶しいわボケー!」とばかりに両者に殴られ、タンスの隅に頭ぶつけて自爆。
 そして先ほどからの騒ぎに我慢がならなくなったお琴の師匠(二人共なのだがなぜか必ずいっつもどちらか一人は家にいて替わりばんこに出ているが、弟子の
大半は気付いていない)で双子の青柳姉妹が怒鳴り込みに行くも、止まらない。姉妹は騒ぎの中に入りたくはないので、お鉢を益田に持ってきた、と言う訳である。
 ちなみにこの洋館の主・大家の老婦人は、姉妹が益田を呼びつけに行っている時に騒ぎの部屋へ、そして隅で伸びている愛咲を発見。お嬢様育ちの老婦人はなにがなんだかわからず、とりあえず喧嘩の仲裁をする事はあきらめ、介抱の方にに勤しんだ。
 すったもんだの末、ようやく二人に事情を聞き出し、事情が発覚した。
 あとは美人姉妹からのきついお説教に任せ、益田がようやく下宿を出た頃には、もう9時を巡回っていた。ここの下宿にとってはいつもの事であるが、さすがに朝早くは勘弁である。なんと濃ゆい人間達の集う下宿なのであろう。しかし、都会の一人暮らしライフ、スカしたものを目指して、不動産屋を 巡り巡って見つけたこの下宿、本心は気に入っている益田であった。



 夏の9時は、すでに痛い程に陽が強い。
 だるだると歩く。
 別に急いで探偵社に行ってもさしあたって切羽詰まった依頼があるでも無し、ぶっちゃけた話、和寅の手作り朝ご飯を逃してしまい、なんともつまらない。
 通り脇に商店があった。益田はそこでパンと牛乳を買い、表の木陰に据えてあるベンチへ収まった。流石に木陰は幾分過ごしやすい。冷えた牛乳は、もそもそとしたパンを流し込むには最適だった。木製のベンチはとても古そうで、あちこちに傷があった。益田の生きている時間よりも、もっと多くの時間を知っているかのようなベンチ。益田はそんな感傷に暫く浸る為、腕をベンチの背に回した。
 背を後ろ手で撫ぜる。
 と。
 ちくり、とほんの僅かな痛みを覺えた。
 それはただの触覚と痛覚の間ほどの僅かなものだったが。左手の薬指である。右手で前髪を掻き上げて見れば、小さな黒い点を見つけた。
 無名指の側面、小指と接する中途半端な位置にひとつ。そんなところに黒子はない。どころかそれは黒子よりずっと小さなものだ。触るとちくり、と僅かな痛みが走る。
 棘だ。
 ベンチのささくれが刺さったのだ。
 益田は棘を押し出そうと、周囲の指の肉を挟み押し出そうとした。一向にとれない。意外に頑固である。別に取り立てていたくもないのだが、昔子供の頃に父親だかに脅かされた、『棘は体内に入ってしまうと、血液の流れに乗って欠陥を流れ、やがて心臓に刺さって死ぬ』なんて言葉が思い出されて、益田は早く抜いてしまいたい。信じているわけじゃないけど、気分が悪いじゃないか。
 どうしてもとれない。
 痛くはないが、微妙で気になる。ぐじぐじと棘の周りを指で押さえ、押し出す努力を試みるものの、その棘は抜ける気配すらない。散々弄ったせいで指が痛くなってきた。そこまで来ると、益田は急に面倒くさくなって――やめた。
 まあいいや。早く行こう。
 牛乳瓶を商店に返し、益田は強い日差しの中を歩いて行く。指に棘が刺さったまま。棘が脈動しているかのように、薬指のどくりどくりと言う鼓動を意識した。


 さすが石造りのビルディングは心なしかひんやりとしている。
「おはよーございまーす。あっつー!」
 からんと鐘を鳴らし、益田は探偵社の入り口をくぐる。
「なんだい、今日は『おそようさま』じゃないか」
 心なしか憮然としたような口調−それは益田主観に過ぎないが、益田にとって益田が感じた事が真実である−で、台所の方から和寅が出てきた。
「そうなんですよ和寅さん。訊いて下さいヨー、ってあれ?」
 朝の災難を和寅に泣きつこうとした益田であったが、目を丸くさせて和寅を見詰めた。
「なんですよ」
 むう、と厚めの唇を尖らせ、和寅は不満の顔で問う。
「いやー和寅さんが着物以外のもの着てんの、初めてみましたよ」
 ついたての奥からひょっこり出てきた和寅は、いつもの趣味のいい着物に小倉の袴、白足袋に草履というクラシカルな書生スタイルではなかった。
 和寅は丈の短い薄水色の半袖支那服、濃い緑のハーフパンツと言った出立で、いつもは袴に隠された、すらりと伸びた日焼けのない白い足に素足で、黒のひものないズック靴を履いていた。
 それはあまりにも意外な格好で、益田はその新鮮な容姿に驚き、素直に可愛いと思ってしまった。支那服が可愛さを増やす。知らず、顔がにやける。
 ただひとつ、右足首周辺には傷隠しの包帯が巻かれていたのだけど。
「今日はあっついですし。着物しかないお江戸の昔ならともかく、私だって暑いのは勘弁ですよ。…なんです、どうせ似合わないッてんでしょ。だから私ゃ洋装なんて好きじゃないんだけど、暑いんだからしょうがないだろう」
 ニヤニヤとしまりのない益田の顔を誤解したのか、和寅は憮然とした表情に恥じらいの朱を添えて、言い訳じみた言葉を零した。
「いいえ!」
 違いますよ和寅さん!益田は鼻息も荒く反駁する。
「そんなことないですよ、似合ってますよ!」
 そういわれて、和寅も悪い気はしない。
「そ、そうかい?」
 単純ではある。
 困ったような笑顔で、またぱたぱたと和寅は台所へ行く。益田はどかりと来客用ソファに陣取り、言葉を繋げる。
「やぁホントですって。普段見慣れてないぶん、新鮮にも見えますね。でもそんなに卑下しなくても良いじゃないですか?さしずめ、オジサンにでもからかわれたってところでしょう?」
 台所へ向けて益田はしゃべくる。
 コップを取り出すかちゃかちゃという涼しい音がして、次いでばたん、と扉を閉める音がする。
 ここ薔薇十字探偵社にはエレクトロラックス社と言う巻き舌になってしまうようなアメリカの会社が作った電気冷蔵庫がある。その冷蔵庫が閉まる音であろう。冷蔵庫は国産のものも作られているとは言え、まだまだ完全普及にはほど遠いし、電気冷蔵庫とは況や、であるこのご時世に、なんとも贅沢な事であるが、和寅曰く、料理のレパートリーが増えて助かるそうである。
「昔…国民学校の頃だったかな。ご推察通り先生に言われやしてね。お前は着物しか似合わないんだから着物を着る事!ってね。子供心に、ああそんなにかなんて思ったわけですよ。先生は洋装のお召しが大層お似合いになってる、そんな方の側にいるわけですしね」
 榎木津の言葉の裏が、益田には判る。
 本当は「着物の方が似合うよ」なんて言えないからだ。
 まったくオジサンらしい言い方じゃないか、と益田は可笑しいような詰まらないような変な気分になる。
 笑いながら和寅はよく冷えた麦茶を応接セットのテーブルに置いた。暑い中を歩いてきた益田は、くうっと一気で飲み干す。体内が爽やかになる。
「可愛いじゃないですか、いつもの着物も大富豪の家にいる明治の書生さんを口説く高等遊民な僕、みたいなシチュエーションで僕としちゃ非常ーぉに!気に入ってるんですけどね、どうしてなかなか似合ってますよ!1920年代の魔都上海、租界あたりの探偵探偵事務所みたいなシチュはどうです?!」
 流石シチュエーションフェチである。
 初めて見てものの数分も経っていないのにそこまで設定するのか。まあ探偵事務所というのがインスタント設定なので甘いのだが。思わず自分の世界に行ってしまった益田を、冷たい視線で見詰める和寅に気づき、慌てて話をそらす。
「あ…やだなあ、アハハ。しかしですね、支那服とは珍しいですね。開襟とかじゃなくて。和寅さんの趣味ですか?」
 喉元の高い襟に手をやりながら、和寅が答える。
「この支那服かい?先生が『お前が着て見苦しく無いのはこれくらいのもんだ!』って仕立屋に作らせて下すったものなんですよう」
 無駄にたくさん頂きましたよ、とくすぐったいのを我慢しているような笑みの和寅を見て、なんだか胸にちくりと痛みを感じた。
 その痛みを知らない振りして、益田は相づちを打った。
「そうなんですか」
「ああ。あ、ところで、今日はどうしてまたこんなに遅かったんだ?」
 和寅の野次馬精神は今日も旺盛である。
 益田は、それに半ば救われた思いで、今朝の出来事を語り始めた。
「やーホント大変だったんですよ…」



 今日はさしてやる事もない。
 依頼が来るのを待つくらいで、暇である。当の探偵閣下は中野の京極堂へ天下りである。
 和寅はさっきから榎木津の部屋を片付けるのに専念している。支那服姿の和寅は、なんだかいつもより少年じみていて、可愛い。
 榎木津さんもお目が高い。
 またあの控えめな白い包帯ってのがなー。それを見越して足首出す格好だって訳?
 益田は一人苦笑した。
 それは榎木津になのか和寅になのかそんな事を考える自分になのか、よくわからない苦笑だった。
 京極堂で買った志賀直哉を読むのも飽きた益田は、寝転んでいたソファで昼寝を決め込んだ。昼ご飯になればどうせ、皿が片づかないから起きて食べろだのと和寅が起こすだろう。
 からからと、天井でファンが回り微風が心地良い。

「まったく、なんだってまあこんなに散らかすのかね」
 探偵閣下は今日も今日とて、衣装タンスをひっくり返し奇声を上げながら、じっくり時間をかけて本日のお召し物をお選びになった。
 榎木津の部屋、と言うか巣の中での散らかした衣装を片付ける和寅は、知らずひとりごちる。寝台に積まれた衣装の山。色取り取り、形様々の衣装は、どれをとっても榎木津に似合う。
 けれど、それとこれとは別だ。
 偉大なる探偵閣下は、至る所好き勝手に脱ぎ散らかしたりしておくものだからどれが洗ったのやらわからない。くしゃくしゃの皺だらけになってしまったものはアイロンをかけ直す為、一度袖を通したっぽいものは洗い直す為、あちこちで暴れてくるものだからボタンの取れてるものは縫い直す為、和寅はぶつくさ文句言いつつ、片付ける。
 本心は、文句なんか言ってないのだけど。
 それは和寅の仕事であり、仕事は「和寅」を構成するための細やかだが大事な一部だからだ。
 薄緑色の半袖の開襟襯衣を手に取る。これはー最近先生着てたんだっけな。
 この、少し皺の寄った襯衣を着ていた榎木津を、最近見たっけ。
 微妙に思い出せない和寅は、片口を両手で持って広げて眺める。そこまで大柄でもないが、均整のとれた長身の榎木津の服は、どちらかと言えば小柄な方の和寅にしてみれば、広くて大きい。
「おおきいなぁ…」
 つぶやいてみる。
 何の変哲もない普通の開襟襯衣なんだけど。先生は良く着熟してらっしゃる。
 私ゃ着慣れてないのもあるけど、やっぱり似合わない。
 でも、これが似合うって言われたんだから、良いや。
 和寅は自分の支那服を見下ろし、苦笑した。

 ソファーでだらしなく口を開けて熟睡していた益田だったが、腹の上に乗せていた小説本がばさりと落ち、その音に気付いて益田は目を開けた。
 あー。
 寝てた。
 寝起きの茫洋とした頭で、益田は実に散文的に思った。指を組み合わせ、寝ころんだまま益田はのびをした。
「んー…!」
 パキパキ、と節だって細い指が鳴った。なんか綺麗になったので面白かった。指を抜いて離す時に、右手薬指に幽かな痛み。
 あ。
 思い出した。棘刺さってたんだっけ。手をかざしてみる。相変わらず、小さな点のような棘がひとつ。思い出すと、気になるものだ。
 和寅さんに取ってもらおっと。

 さて。
 結局これは洗ったものがくしゃくしゃになったものか、一度着たものか。
 んー…。
 いけない事だと、判ってるのだけど。でも、しょうがないでしょう。
 なにがしょうがないのかはー目を瞑って。
 自分がそれにかこつけた言い訳をしてるのか、本当に確認の為だけなのか、和寅にもよく判らなくなってきた。
 ぷくりとした朱唇に指を当て、和寅は寝台に腰掛けて暫く襯衣を眺めていたが、とろんとした目でそれを見詰め、匂いをかいでみる。
 あ…先生の匂い。
 すう、と榎木津自身に包まれるようなそんな感覚に陥った。
 とても甘くて、とても嬉しい感覚。
 先生の匂いと、ほのかに残る洗剤の匂い。
 どうしよ…どきどきする。

「和寅さーん」
 だしぬけにガチャリと部屋の扉が開いて。
「…っひ!」
 突然かけられた声に、和寅は大層驚きビクンと体を揺らす。
 おそるおそる声のする方へ視線を挙げると、扉のところで益田が間の抜けた顔で突っ立っていた。

 見られた…!!
 驚きと羞恥とのあまり、和寅は固まったまま動けない。どくんどくん、自分の振動が耳に響く。かあっ、と顔が熱くなる。握りしめた襯衣を持つ手が震える。
 そんな和寅を暫く益田は驚いたように眺めていたが、にやりと八重歯を見せて声をかけた。その驚いて周知する和寅があまりにも可愛かったから。可愛さと、ほんの少しのなにかが益田の口を饒舌にさせる。
「…へえー、和寅さんってばそういうの好きなんですか」
 とうの和寅はショックで声も出ない。がくがくと震えている。
「使用済み軍服ですかぁー。…なかなかマニヤな趣味ですねェ」
 にやにやと益田が近づいて真っ赤になった顔をのぞき込まれる。
「…っち、ちがいますよ!」
 ようやく声が出た。
 ぎらりと睨んで見るも、迫力も説得力もない。
 真っ赤になって睨むその姿に、益田はからかい甲斐を感じるのだった。
「って言うか大体なんです、その使用済み軍服って!」
「あれ?それ三種軍服じゃないんですか?」
「うちの先生は三種なんて殆ど着ませんでしたよ!」
 ちなみに戦中、榎木津は海軍では殆ど二種の白詰襟を着ていた。理由は『三種は変』だから。
「あーそれっぽそうですよねえ、あのオジサン」
「だからわざわざご実家から持って着てるわけ無いでしょう」
 益田は和寅の隣に腰掛ける。
「いやあ、緑の開襟だからてっきり使用済み軍服かーと。でも、軍服でないにしろなかなかどうして奥ゆかしい、マニヤな趣味じゃないですか」
 言いながら、益田はそのまま寝台の上へと寝ころぶ。真っ赤になって、寝ころんだ益田の上に被さって抗議する和寅は、可愛い。
「ま、益田君!言っときますけど、そんな意味でしてたんじゃない!」
「じゃあなんです」
「この部屋の乱雑ぶりを見ろ!いったいどの服が洗い物か全体わかりゃしないから、確認してたんだ!」
「ああ、それで。確かにわからんですね。」
 意外にもあっさり判ってくれた益田に、和寅は少しだけ拍子抜けした。それでも、誤解が解けてしまうに超した事はない。
「そう、そうだろう」
 安心したように、見るからにホッと安堵の表情で答える和寅を、益田はもうすこしだけからかってやりたい気分になった。
 少しだけ、その安堵の笑顔がちくんと胸に刺さったから。
 まるで薬指の棘が刺さるように。
「だけどー。そうとは言いながら興奮しちゃってたりして」
 益田はそれを可愛さと、若干の嫉妬を持って堪能する。
 そうだ、このしつこさは嫉妬から来てる。益田は十分判っていた。
「…っ!もういい!出てけ!」
 ご立腹の和寅に、益田は寝台から蹴り落とされる。
「うわっ!…あたた、酷いなぁ。そもそも僕ァ頼みがあって来たんですよ」
「うるさい!」
 益田に背を向けて、和寅はくしゃくしゃになった衣類の分類を再開する。けれど、勢いに任せて扱うものだから余計ぐしゃぐしゃになる。いけない事を、見られたくない男に見られた上に、からかわれた。
 涙まで滲んできた。
 そんな和寅を、益田は立ち上がり、ため息をひとつ吐いて見詰める。
 やりすぎた。
 で、でも。和寅さんだって酷いじゃないか。
「じゃ和寅さん、僕ァ向こう行ってますから。気が収まったら見て下さいよ」
 返事はない。
 だから益田は、扉を閉めるときに呟いてしまった。
「少しくらい嫉妬したっていいじゃないですか」
 その言葉は確乎り、そっぽを向いていたけれど耳だけはそばだてていた和寅に聞こえたのだ。
「ばーか…」

 棘が刺さったままだ。
 益田は応接用のソファに再び寝ころぶと、顔の前に指をかざす。
 ぼんやりと、それを見ていた。
 天井のファンが起こす微風に、前髪が揺れた。

 かちゃり、と扉の開く音がした。
「…なんですよう。頼みって」
 ぶっきらぼうな声が掛かる。
 益田が慌てて見ると、案の定というか、憮然とした顔で和寅が出てきた。
 ほんの少しだけ、目の縁が赤い。
 益田はどきりとしたが、見ないふりをした。
「あー、和寅さんこれ見て下さいよ」
 哀れっぽく、ばさりと前髪を顔の前に垂らし、その間から伺う。
「なんだい?」
 ソファから起きあがり、座り直すと横に和寅を招いた。素直に隣へと腰を下ろした和寅に右手を見せる。
「手がどうしたんですよう?」
 訝しく益田の手を取って和寅は眺めながら問う。
「いやあ、これですよ。棘刺さっちゃって」
 手を少し翳すと、和寅も棘を認めた。
「ああホントだ」
「偶々座ったベンチでささったんですけど、なんか取れないんですよ」
 ふうむ、と暫くその手を見ていた和寅がやれやれ、と言ったように立ち上がる。
「しょうがないなぁ。一寸待ってて下さいよう」
 ついたての奥、台所の方へと消えていった。
「取れますかねえ」
「そうだな、焼いた針で棘あたりを突きだすかな」
「ええっ?!」
 とっさに左手で右手をかばう益田。
「冗談ですよう…とは言わないけど、それは最後の手段ですよう」
 にっこり微笑み、衝立から出てきた和寅の手には救急箱。
「なるべく痛くない方法で取ったげますよう」
 再び益田の隣に座った和寅は、救急箱からとげ抜きを探し出し、ことりと音を立ててテーブルに置いた。そしてポケットから五円硬貨を取り出し、救急箱にあったエタノールでそれを消毒する。

 さ、手を出して下さい。
 そういわれて、益田は手を出す。和寅はその手を取り、薬指を支えながら棘の周辺を軽く摩る。
「あー結構奥入ってるなァ」
「でしょう。なかなか頑固です」
 和寅さんみたいに。
 続けて憎まれ口をたたこうとした益田だったが、その言葉は息と共に飲み込まれた。
 和寅は益田の手を取り、その棘の刺さっている周辺をそのぷくりとした唇で吸い始める。吸われる感覚が、益田の中で時間と共に強くなる。瞳を伏せて吸う和寅の睫毛の長さに気付いた益田は動悸が速くなった。
 緩急をつけて、もむもむと吸われる。その僅かな動きに益田は虜になったかのように注意した。まるで、益田の鼓動がその指から和寅に吸われて行くような、そんな妄想さえ起こってきた。
 ちゅう。
 小さな可愛い音を立てて、和寅は口を離した。
「か、和寅さん…??」
「なんですよう」
「今…いまのって??」
「あんまり深いから、吸い出したんだ。少しは棘の頭が出た」
 そう言いながら、五円硬貨を手に取る。
「益田君、そっちの手で指を持って固定しててくださいよ」
「あ…ハイハイ」
 内心ちょっぴりだけ落胆した益田だった。
 棘の場所が、五円の穴から覗くように置く。
「ちょっと強く行きますからねえ」
 そう言うや否や、ぐい、っと指に硬貨が押しつけられる。
 思いの外、痛い。
「い、いたたたたたっ!痛いですよ和寅さん!!」
「もう少し出さないと取れないんだから、動くなよ!」
 悲鳴を上げるも怒られた。益田は涙を呑んで我慢する。
「出てきた」
 我慢の甲斐あって、棘の頭が出たらしい。和寅が器用にとげ抜きでそれを抜いた。ほんの僅かだが、何か抜けた感覚が生々しい。
「ふわあ、取れた」
「あぁ…ありがとうございます、和寅さん!」
 なんだかすっきりとした。
「後は消毒、益田君手を出して下さい」
 エタノールの瓶を開けようとした和寅に、益田は止めた。
「あ、いいですよ。こんくらいだし」
「でも…小さな傷を侮っちゃいけやせんぜ。ほんの僅かな傷から菌が入って破傷風にでもかかったら目も当てらんないぜ」
 うちの労働力が減るのも困ります。
 なんてしっかり言われてしまった益田だが。
「お、大げさだなあ和寅さん。これくらいなら舐めときゃ良いですよ」
 苦笑いしながら返す。
「じゃあ…貸して下さい」
 言うが早いか、和寅は先ほどの棘が刺さっていた箇所をぺろりと舐め、ぺちりとその右手の甲を叩いた。
「はい。おしまいですよう」
 下を向いていた顔は、益田を見ることなくそっぽを向いた。
 けれど益田は見逃さなかった。その和寅の顔が真っ赤に染まっていた事を。
 だから益田は有頂天になる。棘と共に嫉妬も抜けた。
「和寅さーん!ありがとーございますー!」
 ぎゅ、と隣の和寅に抱きついてみる。
「うわ?!なんだい、暑い離れろ!」
「やですよー。」
 すっぽりと益田の胸の中に和寅は収まる。
「離して下さいよう!」
「やーだー。感謝を表してんですから」
「もういいってば!」
 じたばたと暴れるも、昔取った杵柄、警察官の時にやっておいた体術が役立つもんだ、と益田は北叟笑んだ。
「じっとしててくださいってば。…僕にこうされるの、イヤですか?」
 すると、ぴたりと止まる。
 恥ずかしいのか、どうせ真っ赤になっているであろう和寅の顔は、益田の胸に埋まっている。

 可愛いなぁ。
 えへら、と脳天気に若気る益田は、そっと和寅の耳に顔を近づける。
 耳まで真っ赤なのに、益田は更に気をよくした。
 靜かに軽く口づける。
 びくり、と和寅が震える。
 そのまま益田は優しく囁いた。
「…榎木津さんの匂いはどうでした?」
 反射的にむっとした顔の和寅が言葉を紡ぐ前に、益田は言葉を続ける。
「おじさんより僕をかいで下さいよ。ね?」
「ば…っかじゃない」
「酷いなぁ、焼き餅やいてんですから。これでも」
 襯衣の一件もあるし、洋装の件だってそうだ。
 榎木津の影響が大きすぎる。
 益田は心の中でぼやいた。
「やっぱり馬鹿」
 憎まれ口を呟いた和寅は益田の胸に顔を埋める。
 小さな声で、和寅は呟く。
「でもすき」
 本当に小さな声だったけれど、益田にはそれで十分幸せに出来る声量だ。
 榎木津に纏わる懊悩など、吹っ飛んだ。
「かっ、和寅さん!」
 ぎゅう、と抱きしめる腕に力が入る。
「ちょ、ちょっと痛いよ馬鹿!」
 怒られた。
 すこしだけ腕の力を緩める。



「ねえ和寅さん」
「なんですよう」
「僕の匂い、どうです?」
 へらりと尋ねる。
 巫山戯ている訳じゃないけど、こういう事を言うのは性格上致し方がない。また怒られるかと思ったら、和寅の言葉は益田をとろけさせるに十分だった。
「…先生よりももっと、ドキドキしますよう」

 棘の傷は、明日にはもうなくなっていることだろう。



                                                             end.

Afterword

益田龍一、夏の馬鹿。いちおう榎和前提の益和。馬鹿の日常って感じで。
夏の和寅はチャイナでハーフパンツです。意味もなく。包帯はー自分そんなに包帯とか医療器具好きじゃないんですが、靴下とかハイカットのズックだと、ちょっと違う気がして。さらに俺設定の足の傷を隠す為にも和装してるので、そのままむき出しに出すのも何だし。まあ包帯って事で。一応、昭和二九年あたりなら支那服っていってたと思います。変な意味ではなくね。
棘というお題の割には、いらないものまで詰め込みすぎた。おかげで無駄に長くなったよ…。
和寅の和装は榎木津からの和寅に対する能動。襯衣の事は和寅の榎木津に対する能動。こう、無意識下のうちにある榎木津との絆、みたいなのの象徴見たく書きたかったんだけど。むつかしい。
益田の下宿仲間とか設定したかったので。下宿の住人は大家の老婦人共々「どうやって生計を立てているか謎な人たち」がコンセプト。
そしていつにもましてバカップル。和寅をほんのり変態さんぽくしてしまってすいません。戦中の榎木津の二種軍装のくだりは、そうあって欲しい希望です。









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