不機嫌

 結局、益田は今日もまた朝から探偵社で弛緩していた。少し寝不足なのか、欠伸をしたら涙が出た。

 朝ご飯の匂いが近づいてきた。
「ああもう、どかせて下さいよチラシの山」
 朝から元気な和寅のお小言に、益田は読んでいたガサガサ新聞を畳みつつ、ムクリとソファから身を起こす。
「はいはいはいっと。朝っぱらから怒んないでくださいよ。僕ぁひ弱なんですから」
「何言ってんだい。私ゃその朝っぱらから精出して朝飯作りだ。感謝されこそすれ、君なんかに非難される謂われはない。チラシのけるくらい何の苦労だってんですよ。ホラ机拭いて。ご飯置けやしませんよう」
 ぶう、と厚めの唇を尖らせ太い眉を寄せ、憮然とした表情で和寅は益田を睨みながら布巾を突き出す。
 はいはい、と益田は苦笑しながら受け取った布巾で机を拭く。
「和寅さんって意外に神経質なんですねえ」
「意外にとは何だね君は。別に神経質って事ぁないですがねえ、キチンとしないのはなんだか厭ですよう」
「へえ。…はいどうぞ」
「ん」
 益田は盆から急須を取り、茶を2人分淹れる。その間に和寅は、盆に載せて持ってきた朝ご飯の数々を並べる。その度に、こと、ことと小気味よい音が聞こえた。白米のご飯、納豆のシラスあえ、ワカメと豆腐の味噌汁、ふわふわの卵焼き。
 朝は手抜きなんですけどねえ。
 と、和寅はいつも言っているが、なかなかどうして立派な朝ご飯である。
「はいどうぞ」
「いただっきまぁす!」
 料亭並みの和寅の手料理である。
 卵焼きを食べて、益田はへらりと笑うのを抑えられない。
 いつぞや益田が「卵焼きはほんのちょっとだけ砂糖の入ったの」が好きだ、と言ったその言葉通りの卵焼きだったから。益田はよく遊びに来る某カストリ雑誌記者の如く、ガツガツといただいた。
 

 益田が世間一般で言う所の探偵業務を熟すことになり始めてから、幾月が経つ。都会にも、ここの探偵社にも、ここの探偵閣下にも大分慣れた。つもりである。探偵社には慣れすぎて、めったに自分の下宿には帰っていない程だ。
 偉大なる探偵閣下がしそうにもない、世間一般で言う意味での探偵業務一般を益田が引き受けて、真っ当な探偵社の営業を開始したから、と言うのもある。
 結果、不規則な活動時間のため、いちいち自分の下宿に値に帰るのも面倒くさくなったというのが理由でもある。
 それよりなにより、ここ神田のビルの三階にはもっと重大な理由が存在するからだ。

「そういえば榎木津さん、今日帰ってくるんでしたっけ」
 朝ご飯の後、益田は朝ご飯の片付け・洗濯・掃除と、朝の家事を一通りこなして漸く腰を落ち着けた和寅に尋ねる。
 益田も、食器を固めて台所に運んだり、屋上で洗濯物を干すのを手伝ったり、掃除の時にソファを移動させたり、と適度な運動をしたので、ようやくソファに弛緩してだらしなく腰掛ける。
 榎木津はここ3・4日、探偵社に帰ってきていない。実家のお屋敷に帰っている。
 否、兄上の総一郎氏によって拉致られたと言うべきか。
 ともかくそのまま帰ってきていない。その後、お屋敷から連絡が入り、今日帰ってくる見込みであるという。
「そうですよう。お昼過ぎにゃあ帰ってこられるんじゃないですかねえ」
「じゃあ平和な生活もこれまでですかー」
 天井を仰いで、益田は嘆いた。
「私ゃ種類が違うだけで、全然平和でも何でもない生活でしたがね」
「酷いなあ和寅さん。あんなに甘い新婚夫婦もどき生活だったじゃないですか」
「な…!な、なにが甘いしんこ…ッ!」
 狼狽した和寅は持っていたお盆で叩きにかかる。
「あれー?そうだったんじゃないですかぁ?」
 お盆の攻撃を避けながら、すっとぼけた顔で益田はのうのうと曰う。
「なにがだー!暇さえありゃあ君は、尻撫でてくるわ抱きつくわ、あまつさえせっ…ッ」
「せ?」
 和寅は真っ赤になって、太い眉根を険しくさせ、上目遣いでニヤニヤと若気けてこっちを眺める益田を睨む。一文字にぎゅっと結んだ唇がワナワナと震える。
「せ、接吻ばっかするし、それ以上しようとしてくるだろうが!夜なんて酷いだろう!おかげで私ゃ、今日も朝っぱらから腰痛だ!」
「おー和寅さん、よく言えましたー」
「なっ…!」
 必死の抗議にも、巫山戯た返答を返され、絶句する和寅の横に益田が移動してきた。
ニヤニヤしながら腰掛ける。
「何考えて…!」
 咄嗟に身構える和寅はやっとの事で声を絞り出す。
「だって和寅さん、可愛いから」
けろりとした顔で言われ、毒気を抜かれた和寅は暫く益田を見詰める。
 切れ長の目が長い前髪の奥でこちらを見ていた。和寅の心臟が、どくりと早い鼓動を始め、内心和寅は焦った。益田の目が問う前に、和寅はぽすんと益田の胸に身を預ける。
「ん?…ど、どうしました和寅さん」
 予想外のことに戸惑う益田は、それでもちゃっかりと和寅の腰に手を回す。
「…から、だけですかい」
「え?」
「可愛いから、だけなんですかい?」
 胸の中の和寅はふてくされたような顔を真っ赤にして呟いた。
「じゃあ…可愛い女の子でも見つけてすりゃいいじゃないですかい…!」
 益田はそのつぶやきを逃さなかった。
 ぎゅう、と和寅の小柄な体を抱きしめる。柔らかくて、和寅のぬくもりを感じる。そして和寅の耳に口を寄せ、囁く。耳に髪が触ったのか、熱い息を感じたのか、和寅はビクリと身を竦ませた。
「そうですねぇ。それ、良いかも知れないですね」
 ばっ、と和寅が顔を上げた。
 驚いたような顔をして。それから、ふっと哀しそうな顔をして顔をそらした。
 和寅は、表情が少ない。
 驚いた顔も怒った顔も、同じ顔になる。
 それでも。その赤い唇の戦慄きが如実に語る。益田の目を捕らえて放さない。
 だから、益田の腕をほどこうと身じろぎした和寅を、抑えるように重ねて囁く。
「でも、可愛いだけじゃ駄目なんです」
「…へ?」
 驚いたような顔をして、もう一度益田を見上げた。
 驚いた顔も怒った顔も、同じだ。
 でも、さっきと同じじゃない。
「可愛くて、それから僕の大好きな人とじゃないと、こうしたくないんですってば」
 その驚いたような顔が、じんわりと赤く染まった。
 眉根が困ったように寄せられて。潤んだ目元が朱をさしたように艶を帯びる。やけに赤くて、そして肉感的なぽってりとした唇が少し開く。
 益田はそれを塞ぐように、深く口づける。
「っ…ふ」
 朱唇を離すと、とろりとした和寅の目をしっかりと見詰め、益田は言う。
「大好きですよ。和寅さん」
 にっこりと微笑みながら、益田は和寅を見る。和寅は目を反らすと、黙ったまま手を唇に当てた。
「…和寅さんは?ねえ、僕の独りよがりなんですか?」
 和寅の言葉が欲しくて、益田は訊く。大きな確信にもほんの少しの不安がある。
 だから訊きたいのだろう、と益田は思う。
「私も…大好き、なんですから。独りよがりなんかじゃないですよう」
 意地悪なのに、とても優しくて。馬鹿なのに、とても察しが良くて。
 調子が良いのに、とても心地よくて。
 だから。好き。癪だけど。
 あの切れ長の目も、鬱陶しい長い前髪も、細くて良く動く長い指も、憎ったらしい言葉と
同じだけ、甘い言葉を紡いでくれる薄い唇も、そこから覗くとがった八重歯も。
 全部、好き。
 和寅は益田を瞬きして、見詰める。
 なんて真剣な眼で見てくるんですよう。
 和寅は目を細めた。
 その時々しか見せないその目に、私ぁ弱いんだなあ…。
 くう、と小さく声を絞り出した和寅は、少し上目遣いになって、和寅の発言に安心したように笑う益田を見上げた。

「じゃあ、好きなんだから良いじゃないですか」
 益田はあっけらかんと、最前の問題を結論づける。
「だ…!す、好きだけど…はず…恥ずかしい…んですってばぁ…」
 勢いよく口火を切ったものの、語尾は消え入るような声でかき消えていく。
 真っ赤になって俯向く。
「うわあ、恥ずかしがる和寅さんって、むちゃくちゃ可愛い」
 なんて嬉しそうな声で、恥ずかしいことを言うんだこの男は。
 ぽすん、と和寅はいささか乱暴に、また益田の胸の中に収まる。そしてぼそりと呟く。むう、と口をへの字にさせて。
「…私ぁかわいくなんて、ないですよう」
「可愛いですよ。自信持って言いますよ。ふわふわの癖ッ毛も、大きくてくりくりした目も、ぷっくりしてて、憎まれ口ばっかり叩くその唇も。白くって綺麗な肌も好きです。要するに
全部好きですよ全部。それに、そう言う風に恥ずかしがる所も、和寅さんの可愛いところなんですって」
 和寅はぎゅう、と益田の襯衣の胸あたりを握ると、顔を胸にくっつけて呟く。
「そう…可愛い可愛いなんて言われると…。照れますよう…ッ」
 益田は胸の辺りがとても熱いのに気付く。
 それは和寅の体温だと言うことに思い当たり、密かに微笑んだ。
 極度の恥ずかしがり屋な和寅は、滅多に自分からくっついてきたりしない。その奥ゆかしさがかえって益田の恋心を煽るのだけれど、たまにはこう言うのも良いかも知れない。



「益田君…いい加減離して、くれやしませんかねえ」
「もうちょっとー」
「誰かお客が来たら困るだろう!」
「来やしませんって。米屋も昨日来たし、酒屋は金曜でしょ?」
「依頼のお客のことだ!それに、もうすぐ先生も帰ってくるんだから、早くお昼の支度しとかなきゃあ」
「うわあオジサン、何處までも僕の邪魔するんだなぁ」
「なに馬鹿言ってんだ…って、何處触って、あッ…や、袴に手、入れ…!」
「だって榎木津さん帰って来ちゃったら、当分お預けなんですし…」
「そ、そう言って昨日の夜、散々したじゃないか!」
 やっとの事で益田の腕から抜け出した和寅は立ち上がり、着物の乱れを直す。
「酷いや和寅さん」
「ッたくもう。さ、益田君も手伝う手伝う」
「えー」
「昼飯抜きになりたいのかね」
「ぜ、ぜひお手伝いさせて下さい!」
 慌てて飛び起き、和寅の後を追う益田を振り返り、和寅は「しょうがないなあ」と、ひとつため息をつく。
 まあ、ホントはしょうがなくないんだけど。言うのは癪だから言わない。

 そう密かに呟いた和寅はしゅるりと襷を掛け、台所に入っていった。



                                                             end.

Afterword

釘に続いたりします…。
いつもながらのバカップル。既になんだ、この生活感溢れる二人は。つーかヒモみたいだな。益田。和寅はぜひ極度の照れ屋であって欲しい!!ぜひ!
なんかで昔使われていたコピー『可愛いだけじゃ駄目なのよ』が使いたくて。和寅を可愛く書こう、と意識して書いてみたり。とりあえづ、和寅の癖ッ毛は猫っ毛みたいなの希望。そして押しに弱いと見た。
屋上で洗濯物を干していて欲しい。28年に出たばっかの最新式・噴流式洗濯機を使用。倹約とかを心がけてる和寅ですが、でもお屋敷にいた所為でやっぱり、どこかずれてる感じのがいいなあ!
あ、「風」の中禪寺が証言した、『和寅は意外に神経質』ってのが妙に壺でした。ので使ってみた。
まあ、探偵閣下が帰ってくるまで命の洗濯な益田。









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