探偵社の厨房で二人揃って昼ご飯の片付けをしていると、カランと鐘が鳴った。
 
「あ、益田君ちょっと出てくれないか?」
 水仕事をしている和寅に言われるまもなく、腰の軽い益田は気軽に「はーい」と軽い返事をし、手を拭きながら衝立を出て行く。
「おーい下僕ども、今帰ったぞー!」
「はいはいはーい…って、ああ、榎木津さんおかえりなさい」
「おぉオロカモノのお迎えか。…お前、覚悟しておけよ」
 ご帰還早々、益田は意味ありげにニヤリと探偵閣下に笑われた。
「え?なんですか?」
「和寅かずとらカズトラッ!」
「はいはいはい、そんな安売りみたいに連呼しなくたって出て行きますよう…」
 ぱたぱたと草履の音をさせながら、和寅が衝立から出てくる。
 と、榎木津の向こうから黒い陰が飛び出て来た。
「寅吉とらきちトラキチぃいいいぃいぃぃぃいぃいい!」
 奇声ではなく『寅吉』と言っているのだ、と益田はかろうじて判った。
「わあ!」
 その黒い陰は−いや、陰ではなく黒い服を着た男だった。背を向けているので良くは判らないが、スタンドカラーの白襯衣に黒ネクタイ・黒のスーツで、黒髪オールバックというクラシカルと言うか特殊な出立のため、黒い陰に見えたのだ。男は和寅を抱きあげ、矢継ぎ早に質問を開始する。
「寅吉、元気だったか?体は大丈夫か?相変わらず可愛いなッ!仕事はきついことないか?一寸やせたか?前の寅吉も可愛いけど、今のも寅吉ももっと可愛いなぁ!」
「ふわあ…!?」
 面食らってなすがままに抱き上げられている和寅が驚きの声を挙げる。
 その声に漸く益田が現状を理解する。
 なんなんだ、いきなり現れて「僕の」和寅さん抱き上げて可愛い可愛いって!
 可愛いのは判ってるんだから放せよ!
 なんだかむかっ腹の立ってきた益田は声を荒げた。
「ちょ、ちょっと、やめてくださいよ!和寅さん困ってるじゃないですか…!」
 男の腕を掴む。
 そこで漸く男が振り向き、益田はその男の顔を見る。
 そして面食らった。
 相当の美形だったからだ。榎木津の華やかな美形ともまた違う、涼やかな美形だ。
 形の良い柳眉を潜め、その美形が益田を見た。
 眼鏡の奥の瞳が、冷たい。
「貴方は…。ああ、貴方が益田龍一さんですか。礼二郎樣の助手をなされてる」
「な、なんで知って…?ッて言うか、あんた誰です…?」
「ああ、失礼いたしました。お噂はかねがね。私は総一郎さま付きの秘書、安和辰清と申します。以後どうぞ御見御知り置きを。」
 慇懃尾籠なその答えに対して、思わず丁寧に挨拶を返してしまう小市民益田。
「はあ、ご丁寧にどうも、こちらこそ宜しくどうぞ…ってそんなことより、え??や…安和って!?」
 なんで和寅さんと同じ名字?え?
 益田は妙に混乱した。
「うちの兄さんなんですよ。この人」
 和寅が抱き上げられたまま、苦笑して答える。
「へえッ?に、兄さん??」
 益田は間の抜けた声を出す。
 お、お義兄様!
 益田は妙な漢字変換をしてしまう。
 け…けど、お義兄様ってば…なんか視線、痛いんスけど…!
 元が整った容貌だから余計に怖い。
 も、もしかして…この和寅さん溺愛ッぷりと言い、もしかしたりする??
 なんだか厭な予感がする益田だった。
「わははは!マスヤマ、間抜けに磨きが掛かってるぞ!」
 いつの間にか探偵専用の豪奢な椅子にふんぞり返っている榎木津が愉快に笑う。
「ほらキヨ、後で幾らでも抱いてて構わんから、とりあえず今は離す。和寅、紅茶」
 その声に漸く安和は弟を降ろす。非常に未練がましく。…と見えたのは益田の色眼鏡だけでもないだろう。
「はぁい。あ、でも先生、先生の分のお昼とったりますけど」
「紅茶を飲んで、後でお昼ご飯。両方だ」
「はいはい」
 苦笑しながら和寅は台所の方へ赴く。
「あ寅吉、私も手伝うよ」
「良いですよう、兄さん。私の仕事なんですから」
 少し残念そうな顔をした安和は、くい、と眼鏡を少し上げた。
 そして益田に、どうぞお掛け下さい、と至極優雅に勧める。あまりの優雅さに思わず大人しく従った益田だった。
「お前もだキヨ。でっかい黒いのが突っ立ってても、面白くも何ともないぞ」
 でしょうね、では失礼。と安和は益田の向かいに座る。榎木津を軽くいなす辺り、さすが榎木津家の従者らしい。

「礼二郎樣から伺いましたが、どうもここのところうちの弟が、とりわけ益田さんにお世話になっているようで」
 腰を落ち着け、口火を安和が切る。
 非常ーに、きつい嫌味である。にこやかに話しかけているが、目は全然笑っていない。
 怖い。形の良い唇だけの笑顔が薄寒い。
 ふんわりとして、まるくて柔らかい印象の弟とは全く対照的な兄である。
 水面下の確執がなけりゃ、その目も色っぽいとかそう言う系なんだろうなあ、と暢気な事を言っていられない。
 明らかにお兄様はご機嫌斜めだ。しかし、ここで負けてなるものか!
 益田は果敢にも応戦する。
「いやあ、こちらこそ随分と和寅さんにはお世話になってまして。お義兄さん」
 お義兄さん、の所を強調していってやった。
 ぴくり、とその細い眉が動いたのを益田は見逃さなかった。
「仕事熱心ですからねえ、うちの寅吉は」
 仕事・うちの、ッて所に強調されて言い換えされた。
 要するに「仕事上仕方なく、うちの可愛い弟はお前の世話をしてやってるんだから、勘違いするなよこの野郎」と言うことであろう。と、益田は思った。
「お仕事外でも熱心だなあ、なあ益山!」
 榎木津の無非情なる脳天気なヤジが掛かった。
 ああ…中野のご主人には及ばないが、肉薄するくらいの眼光が痛い…。
「え、榎木津さん…!」
 それにしても、ひどいもんだ。わが上司ながら、なんて非情な。こんな調子なら、いったい何を榎木津は吹き込んだのだろう。
 ああ、これって…純愛可憐な恋人から、無理矢理小舅に引き裂かれる、過酷な運命に翻弄される苦悩の青年、とか言うシチュエーションじゃないか。
「そうですよう、ホントお世話してますよ私ゃ」
 タイミングが良いのか悪いのか、和寅が紅茶を持ってやってきた。おそらく声だけしか聴いていないので、水面下に弾ける火花などお構いなしの発言だけに益田は、もっと言ってやって!と少し意気込む。
「先生、はいどうぞ」
 ん。と短い返事だか相槌を打ったのかよく判らない、曖昧な音を出した榎木津はソーサーごと受け取る。
 はいどうぞ。和寅は安和と益田、そして自分のカップを置き、兄の隣に座った。
 内心がっくり来た益田ではある。
「そうだ寅吉」
「なんですか?」
「礼二郎樣から訊いたよ。これ、欲しかったんだって?」
 安和は傍らの鞄から小さな小瓶を取り出す。小首をかしげる和寅に、安和は優しげに答える。益田の時とはえらい違いだ。
「ガラムマサラ」
「わあ!前から欲しかったんですよう!兄さんありがとうございますよぅ!」
 ぱあっ、と和寅の顔が明るくなり、そして兄に飛びついた。
「わああ!」
 思わず叫んでしまった益田だ。
 か、和寅さんッ!?
「へ?」
 流石の絶叫に、和寅は益田の方を向く。でも抱きついたまま。
 …へ?って。あの、えーと。
「どうしました」
 安和も至って普通の表情である。
 変なのはお前だ、とばかりに普通に問われてしまい、益田はなんだか出鼻をくじかれた気分になる。
「…ガラムマサラ、ってなんですか?」
 だから、そんな事しか言えなかった。
「ああ、ガラムマサラって香辛料の事ですよう。一度本格的なライスカレーを作ってみたくって。本場印度の。だから色々香辛料とか集めてたんですけどね。その中のガラムマサラだけ見つかんなくって」
「…へえ」
 それくらいしか、言えない。
 ガラムマサラだかガンダーラだか、そんなもんはどうでも良いんだけどなあ。
「ちょうど印度から貿易商が来てたから、一級品を分けて貰って来たんだよ」
「ひゃあ豪勢な!でも兄さん、うちの先生からお話を聞いて、良くガラムマサラってわかりましたねえ」
「ガンダーラだかカレーを作る、とか仰有っておられたのでね」
 やっぱりガンダーラか。榎木津さんにしては明確な伝言だったなあ。
 それにしても。
「よく、そんなんでわかりましたねえ」
 嫌味でもなく純粋に思う。
「そりゃあ君」
 和寅が得意げに言う。
「君なんかとは榎木津の家と付き合ってる年期が違いまさあ。特に兄さんは凄いんですよう。ねえ」
「寅吉、そんなことはないよ」
 と言いつつ、嬉しそうだぞお義兄様。
「いいえぇ。この益田君なんか、いっつも先生の仰有る事を理解しないもんだから、馬鹿な事ばっか言って、その度に怒られてますもんねえ」
 くくく、と和寅は可笑しそうに鼻を鳴らして笑う。
 …小憎たらしいけど、可愛い。などと口惜しがりながら、益田は抗議する。
「酷いなぁ和寅さん。同じ穴の貉じゃないですかあ」
「寅吉をそんな風に育てた憶えはない」
 びしり、と安和に言われてしまった。
 きゅう、と益田は妙な音を零す。
 …この弟溺愛兄め。育てた記憶はなくても、実際そう育ってるぞ。
 なんて言えない益田であった。
 きゃっきゃ、と楽しげに兄弟の会話が弾む横で、益田はいても立ってもいられなく、榎木津の傍らへと駆け寄った。そして、情けない声を挙げて訴える。
「榎木津さぁん!いったいなに言ったんですか、お兄さんに僕の事」
「最近の和寅の樣子はどうか?ってキヨが訊いてきたから、なんかカマに絡まれてる。だけど満更じゃないみたいだぞ。って言ったら、凄い勢いで根掘り葉掘り」
「へえ??」
「やたら泊まってくとか、三食・昼寝してくとか、やたら触ろうとしてよく和寅に盆で殴られてるとか」
「そんな…ひ、ひどいっすよぉ」
「何を言っている!全て事実じゃないかね。アーン?」
 憮然と腕を組んで榎木津は益田を睨む。
「…お前、今日もか。おーいキヨ!こいつなあ」
「わああああ!」
「なんです?」
「ななな、なんでもないです!」
 酷い主人だ。
「そう言えば、お兄さんお仕事の方は良いんですか?」
 榎木津さんのお兄さんの秘書なんでしょう、と益田は言外に非難がましく言う。
「今日は礼二郎樣をここにお送りする事がお仕事ですので」
 くすりと小さく笑った安和は、こともなげに言う。
「兄に頼み込んできたのだぞキヨは。弟想いだからなぁ」
 榎木津はくくく、と可笑しそうに笑う。
「弟の働きぶりは見ておきたいですし。今日は手空きでしたから」
 しれっとしているものの、ほんの少し顔が赤い。
 やっぱり。
 益田が憮然として足を組む。
 そしてお義兄様、それちょっと可愛い。なんて考えてしまう益田ではある。

 榎木津は複雑な心境の二人と、無自覚な渦中の一人を尻目に尻目に、まだ熱い紅茶を手早く飲み干してしまうと、大あくびを出し抜けに披露する。
「ふああぁああ。和寅、ちょっと寝る。後で起こせ。ご飯、起きたら食べる」
「って仰有っても先生いつも起こしたって起きやしないじゃないですかい」
「それでも起こすのが下僕の下僕たる仕事だろう」
 言いざま、榎木津は和寅の癖ッ毛をくしゃりと掻き混ぜ、そして軽くはたいた。
「へーい。わかりやしたよう。起こしたら起こしたで怒るくせに」
「怒られないような起こし方を考える。…ああ、キヨ」
「はい」
 そこの益山が和寅の小さい時の話が聞きたいんだと。
 榎木津は可笑しそうに笑いながら、衝立の向こうに行ってしまった。

「へ?」
 そりゃあ聴きたいが。そんな事言っていない。
 間抜け面で聞き返した益田に、滔滔と嬉しそうに語る安和である。
 完全に押されている。



「っはああ〜」
 益田は再び弛緩する。
「なんですよう、だらしのない」
 カチャカチャと紅茶カップを片付ける和寅が訊く。
「だって、和寅さァん」
 大の字にソファに寝そべった益田は顔だけ和寅の方を向く。
 ばさりと前髪が落ちる。
「お義兄様におっきな釘さされちゃいましたよう」
「はァ?」
 帰りがけの安和に、益田は囁かれた。
『うちの弟に、あんまりおいたしないで頂けますかねえ』
 その笑みはとても綺麗で同性の益田でさえドキリとするものだったのだけど。
 一瞬だけだった。
 次の瞬間にはその笑みのまま、世にも恐ろしい目で睨まれたのだ。
 唯だ益田は、そのときは頷くしかなかった。
 それにしても−−−。
 榎木津さんも、あんな兄に何を吹き込んだんだ。…っていうか、もしかして。
 益田は思い至る。
 これって。もしかして。榎木津さんが釘を刺してるって事かも。
「うわあ。釘、二重かあ」
 がばりと起きあがり、益田は天を仰ぐ。大仰だが、決して彼の意識では大仰でもない。
「だから釘ってなんですよう」
 眉根を寄せて和寅が尋ねる。
「だからー。和寅さんに手を出すんじゃないって」
 ぼわっと和寅が真っ赤になる。
「な、ななななんで??なんで兄さんが君に言う…!?」
 あんたの先生が教えたんですよ、とは何故か言えなかった。
「さあ。ばれたんですかねえ」
 すっとぼける。
「ばばばばば!?」
「まあ、純愛を引き裂く小舅たち、愛しい恋人と共に過酷な運命に立ち向かう、なんてえ感じでシチュエーションとしては上々ですけどね。いささか強敵ばっかですが」
 あわてふためく和寅は、そんな暢気な事を曰う益田を見て止まる。そして、きょとんとした顔で益田に向かい、小首をかしげた。
「へ…?」
 そして、じんわりと真っ赤になって。
「ぬかに釘ってやつですかい…」
 とため息と共に、呟いた。

 けれどそのため息に、嬉しそうな吐息が隠されていたのは、和寅だけの内緒。
 もう少ししたら。この頬の火照りが止んだなら。
 主人を起こさねばならないけれど。
 もう少しだけ。もう少しだけ、時間を貰わなきゃ、止みそうにもない。



                                                             end.

Afterword

探偵閣下が素敵な人物連れて帰ってきました。オリジナル設定「和寅の兄」を出してきましたよ。この人ぁ。総一郎氏の冷静な有能秘書(執事でも良いんでいんですけど、取り合えづ)。
安和辰清(やすかず・たつきよ)氏。29歳。黒背広・スタンドカラー(こだわり。好きなんですよ)・眼鏡。無駄に美形ってところがミソ。無駄に。江戸っ子美人な母似のクール系美形。ぶっとい眉の寅吉は父似。10歳違いで『辰』。寅吉と十二支つながり。誕生日まだ来てないので、20代最後の年。更にどうでも良い設定ですが、父方の祖母の名が『キヨ』・母方の祖母の名が『きち』で、孫の干支の後につけたのが名前。でも似たのは、兄は母方で弟は父方。なんて下らなく、ややこしい。
絶賛・愛弟溺愛中。激しいのです。安和家はおろか、榎木津のお屋敷では名物ですよ。こんなの。
寅吉もお兄さん子。無条件に尊敬してて欲しい。父さんより兄さんと御前樣(笑)!兄は小さい頃から寅吉を育てた男ですから!(俺設定)でもいつもエノさんに持ってかれてたけど。
そして今度は探偵助手にか…。或る意味気の毒な男。でもアレですよ、和寅の中では『大好きな兄さん』の位置は確固としてありますから、そこは満足。
でも大事な弟、礼二郎樣ならともかく(ともかく、って)ポットでの訳のわからんへらへらに渡すもんか!と息巻いてます。
今回は取り合えづ出しただけで、嫌味なお義兄様って感じに終わってしまった…。まあブラコンですし!この人、お見合いで綺麗な奥さん貰いそう。そんで妻は妻・弟は弟と割り切って開き直りそうだ。うーむ。
で、そんな兄を使った二重の釘。エノさん話しちゃったみたいですよ、最近の弟さんの身辺事。うちのエノさん、そんなに益田が嫌いなのか。まあ和寅とっちゃったからなあ(笑)。
益和の時は、榎→和で。そして榎和の時は、益→和であって欲しいのですよ。でも、そこまで真剣に画策はしてないエノさん、であって欲しいッス。この混乱が楽しいエノさん。でもちょっとはあれなんだよなー。みたいな。
つーか、兄とかすいません…。ホントすんません。ガラムマサラをガンダーラと聞き間違えて覺えて他のは私の友人。それでもちゃんとガラムだと判ったもう一人の友人も凄い。









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