軌跡

「あ…」
 初秋の眩暈坂を上がる木場は、背後から聞こえた歓声とも驚きとも取れる後輩の声を聴き、足を止めた。
「なんだ?」
 木場が振り返ると、その声の主は雲のほとんど無い良く晴れた空を眺めていた。
 顎から首までのラインを真っ直ぐに、小さく開かれた唇は少し微笑んでいて。眩しそうに上空を見る。まるで子供のように。
「飛行機雲、ですよ先輩」
 青木は木場を見ることなく、少し微笑みを含んだ声で答えた。
「ひこうき…雲だあ?」
 木場も顔を上げ、空を眺める。

 何處までも青い群青の空に、一条。
 淡い純白の軌跡が空に描かれていた。
 北から南へ。太陽へと向かって行くかのように、豆粒のような飛行機が軌跡を描く。
「すげえな…」
 木場はそのコントラストに思わず嘆息し、眼を細めて雲を眺めた。そして尚も飽きることなく眺める青木へと視線を変える。
 大きな頭を真後ろに傾げて、青木はまっすぐ眩しそうに空を眺めている。
 それはとても綺麗な表情だった。
 嬉しそうな、懐かしそうな、そして泣きそうな顔で。
 木場はその表情がどれなのか、瞬時には判別がつかず、何度か瞬きをした。
 子供のような顔立ちがますます子供じみている、と思うのはその童顔が嬉しそうに微笑んでいたからだ。大空に憧れる少年のようなあどけない笑顔で。
 それでも僅かに覗く、懐かしそうな小さなため息は、確かに大空を飛んだ記憶。
 眩しそうな瞳が泣きそうな瞳に見えたのは、木場が青木の飛んだ過去を知っていたからに過ぎないのかも知れない。
 木場はなんだか心にざわめくものを感じた。

「飛行機雲って、どうやって出来るか知ってますか?」
 青木が空から目線を上げないまま、呟いた。
「あ…さあ、なあ。おりゃあ空とは縁のねえ人生だからな」
 木場はもういちど視線を空の白帯に戻し、頭を掻いた。
「あれは高々度飛行って言って、高度一万メートルくらいの空で飛ぶんです。そこは酸素吸入器も要るマイナス40度、50度の世界で、酷く寒いんです」
 尤も僕は、そんなところまで飛んだ事ないんですけど。
 と、青木は初めて木場の方へと顔を向け、はにかんだように笑った。
「その極寒の大気中に、飛行機のエンジンの熱が出て、水蒸気が急激に冷やされて雲の帯になるんですよ」
 まるで子供が仲間に秘密を教えるような、そんなおかしさを堪えながら神妙そうにした顔で、青木は言う。
「ほお…」
 木場が大人しく拝聴していたのに満足したのか、青木はもう一度雲を眺めた。
 先ほどの子供のようなあどけない顔なのに、どこか翳りのある瞳で。
 心のさざ波が、先ほどより木場にはっきりと感じられた。

「…すみません。停めちゃって。さ、行きましょう」
 青木は自分たちの目的−眩暈坂上の京極堂へ訪問ーを思い出したのか、くるりと木場の方へ向き、ばつの悪い笑顔を向けた。
「お、おう。…ボウヤ満足したか?」
 その青木の笑みに、弾かれたように一瞬は驚いた木場だが、すぐに憎まれ口が出た。
「ボウヤって…!ひどいなあ。満足しました!」
 ぶう、と頬を膨らませ、ふくれっ面で青木は答える。
「そりゃ良いもん見たな。良かったな」
 木場は苦笑して、青木の少し大きめの頭をくしゃくしゃ、と撫でて歩き出す。
「あ…!」
 慌てて青木はそれに続いた。


 数メートルもなく、木場は足を止めずに青木へ質問する。
「なあ、空は、好きか?」
 顔を上げる一瞬の気配。
「好きですよ。大きくて広くて。小さい頃から、空は憧れです」
 青木は教師に尋ねられた学生のように、はきはきと答えた。
 ふ…ん、と木場は頷き、続けて訊いた。
「飛行機、好きか?」
 敢えてぶっきらぼうに短く訊いて、青木を見た。
「条件付きで、好きです」
 そう言って傍らの石を一度だけ蹴った。
「条件付きか」
 意外な答えに、木場は片眉を上げる。
「はい。飛んで生きて良いのなら、好きです」
「そうか」
 明瞭な答えに、木場は明確に短く答えた。
 条件の中に青木の消える事のない過去が詰まっている。
 それでも自分なりの納得をしている青木が、木場には清しく思われて。 
 心の空気を入れ換えるように短く深い溜め息をひとつ吐いた。
 心のさざ波が、引いたような気がしたからだ。




 「あの高さまで飛ぶと、地上のごたごたなんてどうでも良くなるらしいですよ」
 青木はそう言って、もう一度だけ空の軌跡を見た。
 空を二分していた白い帯は、随分と薄くなっていた。

 零戦乗りの、特攻崩れの青年は軌跡に背を向けて、再び坂を登り始めた。

  

 …ガキみてえなツラの割にゃあ、意外に育ってやがるな。
 心の中だけで憎まれ口を呟いた木場は、その後を苦笑しながらついて行った。

 ダラダラ坂を上りきると、そこは京極堂である。



                                                             end.

Afterword

軌跡ー飛行機雲ー飛行機ー特攻ー青木。こんな単純な作りで思い立ちました。
今回は普通に青木話に。『エリア88』にものすごい影響されて…!(実はもっと別のイチャイチャだった…今となってはこっちで良かった)それでも仄かにカプなの!
本編で、そんなに青木の過去が書かれている訳でもないので(姑獲鳥から始末まででも数行、特攻崩れ・零戦乗り・でも零戦は『棺桶』で嫌い、と、あとそんな戦歴に反して感受性高い、事ぐらいしか書かれてないんだよなー)ホントは飛ぶのも嫌い(嫌いになった)かな、と思ったんですが。
一応、飛行兵は希望ッつーか志願制だし、空は嫌いじゃないかな。と。零戦乗りって結構なエリートなんじゃないスか?この設定。飛ぶのは好きだけど、死ぬために飛ぶのは嫌。みたいな。当たり前だけど。
飛行機雲はああやって出来るそうです。エンジンの熱で出来るのと、後は翼の後ろで気圧が変わって出来るのもあるらしい。
それと1万メートルの話は坂井三郎氏のお話。なんか曲解して使ってしまった気もするが。
まあ、青木の意外な大人の一面に、木場さんも苦笑。みたいな感じ。









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