扉
「あのう…すみません」
扉の側から、女性の声がした。
警視庁捜査一課。デスクワークに勤しんでいた青木の耳にもそれは届いた。青木は何となく、その声のする方向へ顔を向けた。扉の傍らには、一人の女性警官が立って刑事部屋の中を伺っていた。
青木よりも若い。可愛らしい顔立ちを困ったように曇らせている。
「はいはい。どうした?キミ」
たまたま、入り口から一番近いところにいた木下が対応に出る。
「あの…こちらに木場修太郎さん、いらっしゃるって訊いたんですけど」
「へえ、木場先輩に用?」
「ええ…どうしてもお会いしたくて」
「ホラ、あそこに居るよ、ちょっと待ってて」
「あ…ありがとうございます」
愛想良く木下は声を掛けると、青木の側まで来た。銜え煙草にしかめ面で、向かい側の机で新聞を読んでいた木場に声を掛ける。
「木場先輩、お客さんです」
「…あ?」
木下に呼ばれて、新聞を読むのに没頭していたらしい木場は、訝しげな声を挙げた。
「入り口のところで、女の子が先輩をご指名ですけど」
言われて木場は入り口へと目線をやり、少し眉を顰めて立ち上がる。
「…んだぁ?」
言いながら木場は、頭を掻きながら婦警の方へと歩いていった。
「誰?」
青木は隣の席へ座った木下へ尋ねる。
「さあ…交通課の子だな。なんか木場さん呼んでくれって。どうしても会いたいって言ってたし、なんだか訳ありっぽいなあ」
「お、結構可愛い子じゃん。…なぁるほど。木場もスミに置けねえなあ」
いいなあ可愛くて若ぇ嫁さん。
近くの刑事が意味ありげに笑い、他の刑事がぼやいた。
「まさか」
青木は苦笑して、書いた書類をトントンと馴らした。そして再び、書類へと目を移し仕事を再開する。
本当に、まさか。だって木場さんに限って。
青木は心の中で呟くと、小さく息をついた。
なかなか木場が帰ってこない。
つい気になって、青木は周りに気付かれないように注意しながら、さりげなく扉の方へと視線をやった。ちょうど書類の枚数を数えている風を装いながら。
扉の向こう、ちょうど廊下を出たところで、木場と婦警は話していた。
何か笑い話でもしているのか、その若い婦警は可愛らしく微笑んで楽しそうに笑っていた。木場も満更ではないらしく、気さくな笑みで何事か話している。
不意に、ちくりと胸が痛んで。
青木は元戦闘機乗りの、視力の良さを後悔した。
手は動いていても、心はざわめいて。青木はなんだか、そんな自分に動揺する。
さっきの同僚刑事の意味ありげな笑みをふと思い出して、青木の眉根が寄った。自分の心のざわめきと、些細な事に過敏に反応してしまう自分への嫌悪とが、ない交ぜになって青木は苦々しく思った。
口元に手を添えて、面白そうに微笑む若い女性警官は、何故か青木に眩しく写った。
そして、その眩しさにまた自己嫌悪した。
「おい、青木どうした?」
ビクリと振り向く。
木下が茶を入れて持ってきてくれたところだった。
「あ…なんでもないよ。ちょっと考え事」
「ふうん、そっか。なんか知らねえけど、あんま思い詰めない方が良いぞ」
木下は人の良い笑みを浮かべ、熱い緑茶の入った湯飲みを青木に渡した。
「…ありがとな」
青木は少し疲れたような笑みで、茶を受け取った。
緑茶を含み、一息つく。
「…はあ」
熱い茶が喉を通り、青木は緊張感が抜けて小さく息をついた。
青木と木場は、一通りの事を済ませた仲である。勿論青木は木場が好きだし、木場にしてもそれを憎からず思っているはずで。だから…今日だって木場の下宿から共に出勤してきたのだ。
それでも。
青木は顔を曇らせる。
人並みに世間体というモノも考える事もある。
やっぱり…しょうがない、か。
馬鹿だな、僕って。
自嘲したそばから、ちろりと二人を見る自分が、青木は苦々しく思う。
仲良さそうに談笑していた木場が、ちょうどくるりと向きを変えてこちらにやってきた。
慌てて青木は目を反らして、机に向かった。
「…っと。どこだ」
バリバリと頭を掻きながら、木場は自分の机に戻り、引き出しを開けて、何事かごそごそと探す。
「お、あった」
捜し物を見つけた木場が、ひょいと顔を上げた拍子に青木と目が合った。
訳もなく、青木は少し躊躇した。
そんな青木を不思議そうに眺めて、木場が苦笑する。
「なんでぇ。シケたツラぁしやがって」
「…し、しけてませんよ!」
青木は反射的に反発し、むっとしながら手元の資料へ目をやった。
「ムキになんなや、坊や」
そう可笑しそうに言って、木場は扉のところに待っている婦警のそばに戻っていった。
…しけたのかな。僕。
青木は机におでこをくっつけ。ぷう、と息を吐いた。
前髪が踊って。ぱさりと落ちた。
「ふぁあ…あ」
木場が欠伸しながら戻ってきた。
「…どうしたんです?」
青木はむくりと起き、木場を伺ってみた。
自分でも、怒ったような泣きそうなような、変な顔になっているだろうと思いながら。
それに気付いた木場は、「あ?」の、「あ」の字に口を開き。
黙った。
そして、ほんの少しだけ照れたような仏頂面で木場は答えた。
「交通課の木場さん。認め印貸してくれってよ」
…へ?
青木はぽかんと口を開け、予想外の言葉に驚いた。
「なんだ木場、コレじゃねえのか」
「くだんねえなあ」
あちこちから期待はずれのブーイングが起きた。
「何…馬鹿な事言ってやがんだ阿呆どもは」
呆れかえった木場は、鼻を鳴らして辺りを睨み付けた。
そして、向かい側の青木に対して顎でしゃくって、外に出るよう促す。
「ど、どうしました?」
「一服しに行くからよ、つきあえ」
広い背中に、青木は慌ててついていった。宿直室に入る。幸い、誰もいなかった。
「別に言い訳するって訳じゃねえぞ」
畳にどかりと座った木場は、煙草を取り出しながら話し始めた。
「…はあ」
言いつつ、青木も靴を脱いで側へ座る。
傍らの座布団を、なぜか青木は敷かずに膝の上で抱えた。
多分、不安だったから。何かに縋りたかったから。
青木は後になってそう思うのだが、今は木場の動向の意図がわからず、困った。
燐寸を擦ると、一瞬だけ燐の匂いがした。
大きく一口吸って、木場は吐き出した紫煙を見上げながら話し始めた。
「…たまたま今日印鑑忘れて、同じ苗字のヤツ探してたんだと。そんで、本庁だと
俺しかいねえ、って借りに来たんだってよ」
「へ…え」
「警務の人事と公安二課、警邏にも木場が居たらしいんだが、警邏は外回り行ってて公安は早番で帰っちまって。人事にゃあ微妙に借りづらかったから、俺んとこに来たんだとよ」
木場は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「まあ、そう言うことだ」
そう言って木場は、青木の顔に煙を吐き出す。
「わ…!っちょ、せん…!」
だから、くだんねえこと考えて、そんなしけたツラすんじゃねえよ。
いきなりの煙に、咳き込んだ青木の耳に、確かに木場のつぶやきは聞こえた。
「え…?」
頗る不機嫌そうに眉根を寄せた怖い顔で、木場は煙草を灰皿に置いた。そして、ぐい、と強く青木の腕を掴んで引き寄せる。
「わ、わっ」
木場の胡座の上に乗り上げる形となった。
「…座布団置けよ」
木場の指摘に、青木は慌てて放り出した。
更に腕が強く青木の華奢な体にまわって、厚い胸板に密着する。
わしわし、と髪を掻き混ぜられながら、青木は木場の胸板が上下するのを感じた。
「いちいちくだんねえ事で、ビクビクしてんなよ。鈍い俺でも…まるわかりだぁな」
言われて青木は落ち込む。
そうだよな…馬鹿みたいだ。その上、木場さんにもばれてるし。
「はい…すみません」
「クソガキめ。…でもよ」
木場は悪態の後、一旦言葉を切って続けた。
「まあ俺がお前だったら、気にしちまうだろうから…お互い様だけどな」
ばっ、と青木は顔を上げた。
「うお!…コラ手前アタマぶつけるだろうが!」
青木の少し大きめの頭が、木場の顎を擦った。
「す、すいませ…でも、先輩それって…!」
一重の瞳を丸くさせて、青木は正解を求める学生のように木場に言いつのる。
「あーうっせえな…言わなくてもわかんだろ、クソガキ」
黙れ、と言わんばかりに乱暴に唇を塞ぎ。木場は青木の言葉を飲み込んだ。
柔らかく、甘い青木の唇に木場は、捉えるたびにもっと深く貪りたくなる衝動にいつも突き動かされて、貪欲に舌を絡める。
「…んっ、ふ…っ」
青木の口に、煙草の味が広がる。その味が広がる事に、どこか安心する自分に我ながら青木は驚く。だから、しっかりと腕を木場の首に絡め、首を傾けてより深く煙草の味と木場の味を貪る。
「…はふ」
とろんとした瞳で、青木は木場を見た。けぶる瞳の向こうで、木場は照れくさそうに仏頂面のまま鼻を掻いた。
そんな木場に青木はとても嬉しくなって、にっこり微笑んだ。
ちゅ、と音を立てて木場の鼻にキスを落として。
面食らう木場から立ち上がった青木は、嬉しそうに幸せそうに言った。
「木場さん。好きですよ」
「…知ってらぁな」
無理矢理に渋面を作った木場は、灰皿においた煙草をもみ消して、ふんと強く、鼻から息を出す。
「へへへ…。さ、帰りましょう。仕事仕事」
そんな木場に満足した青木は、照れくさそうに微笑んで扉を開けた。
扉が拓く音は軽快に響いた。
end.
Afterword
ベタに、やきもち青木。実は4コマで考えてたネタを使っちゃった。
なんか女々しい気もしますが、文蔵は基本的に乙女なので。突然の女の子登場に、真剣に弱っちゃいそうな文蔵。そんでもって、木場さんも十分に深みに嵌っちゃってると思いますよ。この人の方がヤキモチ焼いて、自滅する感じ。このバカップルめ。
はやくお仕事しなさいよ。まあ、宿直室にいたのは5分程って事で。でもこういうアマアマなバカップルも好きなんで…。