雨が、いつの間にか降っていた。

「あ…雨だ」
 豊島署の玄関先に出た青木の声に、後から来た木場は空を見上げ、それから青木を見た。
 その呟くような言い方が、その小首を傾けて雨雲を覗いている姿が、あまりにも子供のようで、木場は餓鬼くせえなあ、と苦笑して声を掛ける。
「なんだ珍しいのか、雨がよ」
 木場のからかうような声に青木は振り向き、あくまで真面目に答える。
「いえ、違いますよ。傘持ってこなかったなあ、って」
「…しょうがねえから入れてやるよ」
「え、先輩、傘持ってるんですか」
「ロッカーに入れたまんまのがあんだよ。入れてやっから、取って来い」
 ごそごそと鞄から鍵を取り出し、木場はそれを軽く投げる。
「あ、はい!じゃ先輩、こっち持っててください」
 ちゃり、と鍵を受け取った青木は、自分の鞄を木場に渡し、嬉しそうに走っていった。
 なんだぁ、あいつ…仔犬みてぇ。
 木場は擽ったい暖かさが胸にじんわりと来るのを持て余し、二つの鞄をひとつきに片脇へと持ち直してバリバリと頭を掻く。
 暫く玄関口の受付の前で突っ立っていた木場だったが、1人の警官が入って来たのを期に、受付の片隅にある待合いの椅子へ移動する。ことさら大儀そうにどかりと座った。

 豊島署の刑事部屋へ、青木が入ってきて半年程である。
 今年二十三だか二十四だかと言っていたが、童顔と青臭い生真面目な態度からとてもそうとは思えない。しかし刑事入りするだけの事はあり、捜査検挙に際しては猛者ぶりを十分に発揮する芯の強さを見せる。
 青木も又、先輩である木場に良く懐いて、懸命に木場の後へ付いてこようとする姿は木場としては少々擽ったくもあり、嬉しくもある。
 その二面性が木場には面白く、目を掛けている。はずだ。
 しかしこの頃、なんだかんだと言って、青木を見ている自分を見つける度に木場は己の頭を掻いて苦い顔をする。
 木場の中で、青木の存在が大きくなっている事に気付いたからだ。
 後輩だから、では説明しきれないまでの大きさで。木場はその理由が何故だか、
明確に出来ずにただすっきりとしない焦燥感に捕らわれている。
 けれどもなお、もやもやとした集燥感に捕らわれながらも気付けばまた青木を見詰め、青臭せえとどやしながら、側に置く。
 木場は一人、目を細めて鼻から息を吹いた。
 なんだかな。
 一人心の中で呟いて、雨のそぼ降る外を眺める。
 警備の警官の立つ玄関の向こうは、灰色と水の世界が広がっていた。
 雨は湿気を含み、暑いのか寒いのかよく判らない、境界のない温度が開け放した扉から微温く入り込んできた。
 受付の向こうから、警察職員の生欠伸が聞こえた。
 つられて欠伸が出た。

「先輩!」
「あぁ?」
 突然声を掛けられ、木場は内心非道く狼狽したが、渋面で体裁を繕いながら声の方へと見遣った。
「取ってきましたよ。さ、行きましょう」
 青木が傘を振り振り、木場の前に立った。
 急いだのか、少し息を切らして童顔がほんのり赤くなっている。本当に子供のようで木場は立ち上がり、少し大きめの頭をくしゃくしゃと掻き混ぜてやった。
「おう、良い子だな。帰んぞ坊や」
「坊やじゃないです!…あ、待って下さいよ」
 くしゃくしゃに掻き混ぜられた頭を抱え、青木は抗議をするが、先に立って行ってしまう木場を追って、渡された雑嚢型の鞄を肩に掛けながら慌ててついて行った。


 外に出ると、思ったより雨は細かく、霧雨のようだった。
「じゃあ寮の方にまわってってやるよ」
 青木は豊島署の寮住まいである。ここから歩いて暫くの所にある。
「あ、ありがとうございます。優しいんですねえ先輩」
「風邪引かれちまったら、相棒の俺が困るんじゃねえか」
「先輩は風邪引きませんもんね」
「殴られてえか、手前は。ちょうど駅行く間に通るじゃねえか、寮」
「じゃあお願いします」
 会話はそこで途切れた。
 定まった方向から降っている訳でもない霧雨は、しっとりと二人の服を濡らして行く。
 ぱちゃ、と小さな水たまりを踏んで、角を曲がった。
 青木はその道が、署から寮を経由して駅に通じる、一番遠い道だと気付き、
今更ながらその道を選んだ木場の方を見上げられずに青木は、ぱしゃりと水を跳ねる自分の靴を見ながら、小さく溜め息をついた。
 溜め息をつくその顔には、ほんのり笑みが浮かび、青木自身少し浮かれている事を自覚していた。

 言うくせに、優しいんだから。
 初めはとりつく島もない、と思っていた上司であり先輩でもある男の無骨さを、青木は優しさの隠れ蓑だ、と気付いたのはいつだったのか。ともかく、その優しさに気付く度、
青木は密かな喜びと共に、胸の奥が暖かく感じるのだ。
 この頃の自分が不思議で、青木は我ながら自分を持て余すのだ。
 判らないけれど、とても心地の良い感情だという事だけ、青木は感じている。
 
「なんか…良く降ってますねえ」
 青木がぽそりと会話の口火を切った。
 木場はその言葉につられて、青木を見る。
 狭い傘とは言え、お互い密着するには遠慮もあり、微妙に離れた位置で歩く二人はお互いに外側の肩が濡れそぼっていて、青木の白いワイシャツの袖から、薄く色白の腕の薄肌色が透けていた。木場はその濡れた肌に期せず目が行き、ドキリとした。
 そして、その動悸の意味がわからず、不機嫌そうな仏頂面で青木の、その濡れた腕を意識的に乱暴に引き寄せた。
「…おい、もっと寄せろよ。濡れてんだろ」
「あ…は、はい」
 濡れたその腕は冷えていて、木場は意外なその冷たさに驚いた。
 不意に引き寄せたその手は熱く、青木は意外なその熱さに驚いた。
 二人ともその驚きは心の中に留め、知らない振りをした。
 木場の眉間に、皺が寄った。
 けれど、心は誤魔化せるものではなく、木場は隣にいるのが青木だと改めて思い、傘を持つ手を握りなおした。

 引き込まれて先程より近くなった二人の間は、それでもまだ僅かに空いている。
 確かに触れても居ないのに、青木は木場の体温を感じ、触れ合いそうなその腕から発熱しているような、そんな錯覚に陥った。そして、青木は密やかに緊張する。木場に知られることなくその距離を保とうとしている自分に気付かれないように。
 霧雨の小寒い大気に反して、それはとても熱く、暖かかった。
 とても、魅力的で、その暖かさを手放したくなかったからだ。
 そして、その距離を木場もまた保っているのは、自分と同じ事を感じているからだ、と少しだけ自惚れても良いかな、と青木は考え、自分に驚いた。
 何でそんな事、考えるんだろう。まるで僕が先輩の事−−。
 考えが一文を成す前に、青木の頬がかあっと赤くなる。
 ぎごちなく、そっと片頬に手を当てた。
 肩越しの体温と同じだけ、熱くなっていた。


 まずいな。
 木場は渋い顔をして更に眉根を寄せた。
 ワイシャツ越しに感じる青木の体温が、木場をそう思わせる。
 先程の濡れた腕の冷ややかさとは裏腹に、青木の熱が内側の腕に熱い。
 それをどうにも意識してしまい、木場はぎこちなく肩をすくめて鞄を小脇に挟む。
 触れてもいない青木の体温が、木場を捕らえて離さない。それは、木場自身が振り切ることなく、息を潜めるように青木の暖かさを求めていることに気付いたからだ。
 冷えた外気の中に息づく熱に心地よさを見いだして、このままずっと感じていたい反面、心の奥に積もる焦燥感に木場は戸惑い、そして気付く。
 焦燥感の向こうにあるものは、なんなのか。
 嵌ってきちまったか…もしかして。
 心の中でその言葉が瞬間、木場は自分で自分に驚き。
 青木に気付かれないような小さな小さな溜め息をついて、苦虫を噛み潰したような収まりのつかない顔で中空を睨んだ。
 
 二人は無言で歩いた。ほんの数分なのに、酷く時間が長いような気がした。
 寮の門が見えてきた。
 木場は少し落胆する自分を誤魔化しながら、それを眺めた。
 そうすると、今度は逆に酷く短い時間であったような気もして来る。
 くだらねえ。
 そんな自分を、木場は自分で自嘲する。
「あ、あの、先輩」
 門の取っつきで青木が木場に声を掛ける。
「あ?なんでぇ」
 青木の方を見遣る。少し首を傾けて見上げる青木は、少しだけ逡巡して言った。
「先輩、これからお暇ですか?…寄ってきませんか」
 先輩もちょっと濡れちゃったし、乾く間だけでも…。
 青木はそう言って少し不安そうに訊いた。自分を見上げる青木の頬がほんのり赤いのに気付く。
 意外の申し出に、木場は少し驚き。柄にもなく動悸が速くなった。
 相部屋のヤツは良いのか?
 と、木場は尋ねる前に、たしか最近、相部屋の人間が実家の跡を継ぐために辞めて行き、独りで住む羽目になった、とか言っていたのを思い出し、言葉を換えた。
「あ…ああ、どうせ帰って寝るだけだしな。寄らして貰うか」
 もっと長い間共にいれば、もしかしたら、この焦燥感や動悸の意味がわかるかも知れない。木場はそう自分に言い訳をしながらも、おくびにも出さず答えた。
 本当は、その言い訳すら自分で言い訳だと判っていても。
「はい!」
 一気に、ぱあっと嬉しそうな顔をして青木は元気よく返事した。
 それに苦笑しながら木場は続ける。
「ちょうど良い、一杯引っかけて乾くの待つか」
「あ…じゃあお酒買ってきましょう。先入って待っててください」
「手前じゃ良い酒かカストリかわかんねえだろ。ついて行ってやるよ、しょうがねえ」
 木場の悪態を、青木はくすぐったく感じ、自分の誘いを快諾してくれた事に対する嬉しさがほんわかと、こころに沸いてくる。
「宜しくご教授下さいよ、先輩」
 にっこり微笑んで木場を見上げる青木に、木場は突き動かされるようにして、少し湿り気を帯びた青木の艶やかな髪の上を無骨な手を滑らせて、撫ぜた。
「しょうがねえなあ、良く覚えろよ」
 そう言って笑いかけた。


 この感情の正体を、木場はまだ明確化出来ないままに。
 青木もまた、こころに広がる嬉しさを明文化出来ないままに自覚した。




 酒屋へと再び歩く二人の距離は、先程よりほんの少し縮まった。




                                                             end.

Afterword

木場青木・豊島片思い自覚前編。一応「熱」のお題で、体温。相合い傘ですよ!
お互いの存在を体温で感じて意識してしまう、乙女カポー!ベタですが、乙女全開ですよ!木場も文蔵も。文蔵の方がより積極的に行かないと、木場のおじさん駄目だよ乙女過ぎて。
お互いを意識する自分に気付くんだけど、それがなんなのか判ってないもしくは判ろうとしないと言うような。…表現出来てねえ!精進したい所存であります。三人称の焦点が、木場と青木にフラフラとしてて、ちょっと判りづらい。
豊島署時代の文蔵、警察独身寮なんだよなー。何人部屋とかわかんなかったので、一応こ●亀の初期に出てた2人部屋で。でも強引厨設定『同居人が事情で居ない』。今回のが、はじめて文蔵の寮に行く木場さん、と言う感じで。以降、朝まで飲んでたりして欲しい。店で飲んでても良いけど、お部屋でも!!朝まで飲んでても、寮なら署に近いじゃん!
おおお、難産でした〜。でもって、ちょっとこの流れ続きますよ、の予定。一応自覚前編なので。









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