糸くず
「ああ…寒かった」
からりと障子が開いて、寒そうに紙袋を抱えた青木が入ってきた。だぶだぶのコートは木場のを着ていった所為である。その大きなコートにくるまれた姿が子供のお使いのようで、木場は可笑しかったが黙っていた。
「おう、遅かったじゃねえか。どこで迷子になってやがった」
木場は手元の火鉢を火箸でかき混ぜながら、ぶっきらぼうな言いざまとは反対の上機嫌な顔で振り返った。
「…っち」
宿直明けのこの日、共に非番に上がった青木と共に木場は少し早めの昼食を取り、揃って木場の下宿へと晩冬の道を歩いてきた。
少しだけ寒さも緩まってきたとは言え、弱々しい陽の光はまだ寒い。
「やっぱり寒いですねえ」
「もう立春過ぎたってのになあ」
お互いコートの襟を立てながら下宿へたどり着いた二人は、急いで火鉢に炭を起こす。ようやく暖まって来て、さて一服でもするか、と木場が己のコートを探って煙草の箱を引き出したところ。残りは一本。頼み少ないその本数に、木場は思わず舌打ちをする。せっかく帰ってきて人心地ついたのに、一本では自分が満足しないことを十分判っているからである。
「どうしたんです?」
炭で手を炙りながら、向かいに座る青木が顔を上げる。
「あ、いやな。もうすぐヤニ切れだ」
言いつつ青木の目の前でクリーム色の煙草の箱を振ってやる。破られた口からは一本だけ心ともなさそうに残った煙草が揺られていた。
「それじゃあ僕買ってきますよ」
青木は身軽に立ち上がり、にこやかに微笑んだ。
「お、いいのか?すまねえな」
別に使い走りを求めて見せたわけではなかった木場は、少し驚く。
「僕もなんか食べるもの欲しいですから。そこの雑貨屋さん行ってきますよ。それに、どうせ木場さん、一本だけじゃあ我慢できないでしょう。苛々されるより先に与えておいたほうが被害が少なくてすむじゃないですか」
そういって可笑しそうに青木は憎まれ口を叩く。
「手前…人をなんだと思ってやがんだよ。さっさと行ってこい」
しっしっ、とばかりに木場は渋面を作りながら手を振って追っ払う。
ついでに手にある己のコートを放ってやる。
わ!
ばふっと青木の顔面に被さったコートを持った青木は、一瞬目をぱちくりさせていたのだが、そのコートを見て嬉しそうにはにかんで笑った。
「いってきます!」
小柄な青木には大分大きかったそのコートに身を包み。
とんとんとん、と青木が階段を下りて行く音を聞きながら、木場は最後の一本に火をつけて紫煙を一筋、吐き出した。
くしゃり、と片手で丸めた煙草の箱をゴミ箱に投げ入れる。
一発で入ったのを見届けた木場の気分は、悪くなかった。
とんとんとん、と下宿の階段を青木が上がってくる跫に、木場は密かに耳をそばだてて、そんな気分も嫌ではなかったのだ。
「僕がじゃないですよ」
そういって青木は火鉢の側に座る。
重そうに持ってきた紙袋を置いた。買い出しに行ってきたような量だ。木場が炭をかき混ぜたおかげで、ふわりと暖気が冷えた青木の頬を擽る。
「あん?」
「迷子。そこの商店街で女の子が泣いてて。交番まで連れてったんですよ」
「お前も非番だっつのに働くなあ」
「働いたうちにはいりませんよ、これくらい」
どっちが迷子かわかりゃしねえのになあ。木場はそう可笑しそうに笑った。
むう、とした青木は、ふくれっつらでゴソゴソ紙袋を探る。
「うお!こら手前!」
ぺし、といきなり至近距離から木場にタバコを投げつける。お使い品だ。
「そういうこというからですよ!…あ、そうだ先輩」
着込んでいた木場のコートを脱ぎつつあった青木が思い出したような顔で袖の處を見せた。
「なんだ?」
「ここ、そでのところ。ボタンとれそうです」
ぶらんとボタンが取れかけになっていた。糸くずが出ていた。
「僕が引っかけたかも…すみません」
「ああ…そう言えば、こないだ引っかけたまんまだった。お前じゃねえよ」
すまなそうに頭を垂れる青木に、木場は鷹揚に手を振った。
しょうがねえなあ…。
大儀そうに木場は立ち上がり、部屋の隅をゴソゴソと始める。
その樣を、身を逸らして青木は見ていたが、帰ってきた木場の手にあったものをみて、ああ…と納得した。
小さな箱を持ってきたのだ。座り直した木場はその箱から糸と針を取り出す。一人暮らしの必然性で、ボタン付けくらいは木場でも出来る。と言うか案外器用なのである。針に糸を通しながら、木場は顎をしゃくって青木に尋ねる。
「とれてんのはそこだけか?どうせ出しちまったんだから一気にやっちまう」
「えーっと…そうですねえ、他は大丈夫そうです…あれ?」
「どうした?」
膝の上に広げて青木はコートを点検していたが、視線が止まった。
「先輩、これ先輩が縫ったんですか?」
凄い綺麗に直してある。
そう青木は呟きながら、木場にコートを渡す。ぺとり、と青木は木場の左肩に腕を乗せて、肩越しに指を指す。
木場の背中は、ほんのり火鉢の火よりも暖かな気配を感じて、少しくすぐったい。
それに併せて木場の心音も早くなる。
意識が左肩に集まるのを、払拭するように木場は少し眉間に皺を寄せて、コートの方に視線を移す。
「あん?…ああこれか、俺じゃねえよ」
いぶかしげに受け取ったコートを、胡座をかいた膝の上に広げると、青木の指す部分を見る。
コートは古く、大分草臥ている。端の方に小さな鉤裂きを丁寧に綺麗に直した跡がある。青木が指しているのはここだ。
「いや、こりゃ和寅だ。さすがに確乎りしてんなあコレ」
「和寅…って、安和君ですよね。榎木津さんのところの」
青木がきょとんとした顔で尋ねる。意外な人物であったのだ。
「あいつ、こういうのプロ並みなんだよ。しかも世話好きでよ、所帯じみてんだな。一寸失礼、とか言ってパッパと縫っちまったな。偉ぇもんだ」
たまたま神田の薔薇十字探偵社に寄ったときに、和寅が手慣れた樣子で直してくれたのだ。その仕事ッぷりに感心した記憶がある。
うちの先生なんてしょっちゅうですからねえ、馴れちまいやしたよう。
擽ったそうにはにかんだ和寅の笑顔は少し困ったように、そして幸せそうに木場の目に映ったのだ。
なんでだったのだろう。
青木はそのとき、確かに少し不機嫌になったのだ。
ほんのすこしだけ。一夜月のようなほんの少しのかけらが、青木の心に不機嫌な影を落とした。
「先輩、僕がやります。貸して下さい」
言いざま青木はコートを自分の膝に広げると、面食らう木場の手から針を受け取る。
「おい、青木」
「僕がやります!」
思いの外、大きな声が出た。
そんな自分に少し驚きながら、青木は取れ掛けたボタンの糸を糸切り歯で切った。
いきなりムキになったように、ボタン付けをする青木を木場は面食らって暫く眺めていたが、少し弱ったような溜息をついて、好きにするようにさせた。
僕がやります、ッたってよ…こいつ針仕事なんてからっきし駄目じゃねえか。
木場はあきれたように心の中で呟きながら、新しいタバコを剥く。
青木は裁縫が出来ない。
子供の頃は母親に、学生時代や軍隊時代もずっと友人や戦友にやって貰っていたと言っていたし、純粋に針を触った経験もほとんど無いらしい。
いつだったか、事件で犯人逮捕した際に乱闘で取れたボタンを宿直室でつけていた青木の、目も当てられない激しい直しッぷりに木場がなんだかんだ言いながらなおしてやったことがある。
ものすごい尊敬されたから覚えているのだ。
自分に出来ないことを素直に賞賛するその姿勢に、木場には好感を持った。
くすぐったくもあり、いくらか照れくさかったのだけど。
しかし…なんだかしらねえがよ。今日はどういう風の吹き回しだ。
がしがしと頭をかいて、煙を吐き出した木場は、先ほどを反芻する。
…和寅が縫ったって言ったら、いきなりアレかよ。
溜息と共にタバコの吹き出す口元は、ほんの少しだが緩んでいる。
和寅に対して、では毛頭ないことは判っている。
青木は難しい問題を解く学生のような神妙な顔で、馴れない針を動かす。
やり方くらいは母親や木場の手つきを見ていたので覚えている。
でもこの心のざわめきは確かに、知っているざわめきだ。
やきもちに似ている。
何にたいしてなのか、青木は判らないようで判っているのだ。
それはうまく言葉に出来ないけど、確かに面白くない。
何やッてんだろ、僕。
青木はもどかしさを感じたのだ。自分自身でも、よくわからないけれど。
だしぬけに、青木の悲鳴が上がった。
「わ、いたッ…ッ!」
見れば、針を指に刺したようで青木が痛そうに針を刺してしまった指を振っている。
ぷくりと血まで出ている。
…阿呆が。
木場は火鉢にタバコを置くと、もう片方の手で包まれて手を腕ごと握る。
そのまま自分の方に引き寄せて、腕の中にすっぽりと青木を納めた。
「え…。あの、あ…っ」
動転する青木の言葉は宙に浮いて消えた。
針を刺した指は木場の唇に寄せられて、血ごと舐め取られた。
そのまま、口に含まれた青木の指に舌が優しく撫でる感触が伝わり、ぞくりと青木の背中に甘い衝動が駆け上がる。
「バカが」
ぎゅ、と両脇から強く抱きしめられた青木は、自分の頸筋に顔を埋めた木場が靜かな声でそう呟くのを瞬きを止めて聞いた。
あ…。
青木の口が声のでない「あ」の形を作る。
そうして、ゆっくりとその口が閉じられるとき、一重の瞳も切なそうに閉じられる。
体の力が抜けて、ゆっくりと木場の胸に収まった青木をもう一度抱き直す。
おずおずと木場の大きな背中に怪我をしていない方の青木の腕が回されるのを感じた木場も、ゆっくりその瞳を閉じた。
木場と己の隙間で、青木はちゅ…と針を刺した指に朱唇を寄せた。
もう、わずかに溢れた血は止まっていた。
冬の昼間の、靜かな時間がそこにゆっくりと流れる。
照れくさい。
どれだけの時間が経ったのか、木場と青木は先ほどの姿勢のまま固まっていた。
今更ながら、自分のしたこと、自分たちの置かれている状況が照れくさいのだ。
…どうしよう。
…どうすっかな。
お互いがお互いの行動を反芻し赤面する。改めてドギマギして動けない。
どうもこうも、顔が合わせにくい。何を話せばいいのか、言葉が支える。
二人の間でぐしゃりと皺だらけになったコートについた針が、青木の目に小さく光っていた。
ぱちり、と火鉢の炭がはぜた。
…しょうがねえな。
炭の音を合図に、木場は一息溜息をついて、息を殺して自分の胸板に顔を埋めて固まっている青木の、少し大きな頭をわしわしと撫でてやる。
「せん、ぱい?」
もぞ…と顔を不思議そうに上げた青木の目許がほんのり赤く染まっていて。
その赤い目許から、優しく瞼をなぞってやる。
少し擽ったそうに青木は目を閉じて、木場の無骨な指の温かい感触を感じた。
「…馴れねえ事、すんじゃねえよ」
ぶっきらぼうなその声に、青木は目を開ける。少しふてくされたような木場の顔はほんのり赤かった。
「あ…だ、って…」
「なんだ、その…和寅に妬いてんじゃねえよボケ。ありゃあそう言う性分なんだ」
思わず言いよどんでしまった青木に、木場の意外な言葉に驚いた。
「え??安和君?」
がば、ともう一度顔を上げるその驚きに、木場の方が面食らう。
「なんだお前…そうじゃねえのか?」
違う。そうじゃない。
ぶんぶん、と青木は力一杯に大きめの頭を横に振った。
「ち…違います!安和君のことは何にも…思ってないです。ただ…」
「ただ?」
「なんだか判らないけど、僕がやりたかっただけです」
それだけです。
青木は真剣に木場を見詰めてそう答えた。
一呼吸置いて、ぼわん、と青木の顔が真っ赤に染まる。あわてて俯向いた。
無意識に、手元近くにあったコートの端をぐしゃりと握った。
取り残された風の木場は、その俯向いた青木の髪がさらりと揺れるのを見て、なんとなく、青木が青木自身をもてあましているのに気づいた。
やっぱり妬いてんじゃねえか。
だけどそれは誰かを恨みに思うようなたぐいではなくて、ただ自分にもどかしさを感じて縺れているのだ。
それは…いいな。と木場は感じた。木場にとって好感と可笑しさをもたらしたのだ。
「オイ。小僧」
俯向いた青木に、木場は声を掛ける。
「…はい?」
コートを握ったまま、不安げに顔を上げた青木を、木場は優しく抱き寄せて己の胡座の上に降ろす。
後ろから青木を抱き留める格好で、木場は大儀そうに腕を伸ばした。
「あの、先輩?」
「…貸してみろ」
そう言いながら、木場はつけかけだったコートの釦を見つけて、苦笑した。
「ものすげえ止め方だなァ」
途中だというのに、どのようにして針を進めたのかすら判らない上に、余計な處まで一緒に縫いつけている。
「…だって、やったことないですもん」
ぶう、とふくれっ面で青木は口をとがらせた。
付け替えたときに出た糸くずを、青木は自分の指に巻き付けて弄いながら。
童顔の青年は、ますます子供のようで、木場は笑った。
きょとんと木場を見返していた青木は、目をぱちくりさせていたが、つられて可笑しそうに、照れたように吹き出した。
巧く言葉では言い表せないけれど、それが大事なのかも知れない。
二人は笑い合いながら、そんなことをお互いの心の中で思った。
end.
Afterword
警視庁に異動したての昭和27年2月あたりで。夜勤明けで10時くらいまで勤務した後の、これから非番ちゅー感じ。あいからわずの初恋どぎまぎカルピス風味。なんだそりゃ。まあ、いつでもいいんですけど。この時代って火鉢だよな。木場のタバコは「新生」で。
うーんと。よくわからんネタですが。「木場のコートの鉤裂きを和寅が直した後を見て、なんだかむかちん、と来ちゃった文蔵」てのを、書きたかったというか。でも和寅個人にヤキモチでなくて、もっとこう、内面的に自分に対して、むう…と言う感じな。…巧く言えず玉砕ー。精進します。文章難しい。
和寅はきっと、「あらら旦那、何處で引っかけたんですよう。そのままにしとくと酷くなりやすぜ。それ、一張羅でしょうに。良いんですよう、ついでに先生の御衣料だって直さにゃいかんですからついでですぜ。たいしたこと無いですしねえ」とか何とか言いながら、ぱっぱと縫って呉れたんだよ…。所帯じみてる。
木場さんも、意外に器用でまめ、と言うのが良いなあ。軍隊の内務生活で覚えたとか。一人暮らしのおっさんが裁縫用具を持っているか、というのははなはな疑問ですが、まあこの時代って衣料は貴重品ですし。直すくらいするだろう。…たぶん
文蔵の裁縫苦手は私の希望。まあ、出来ない方かなーと。掃除は得意(木場さんの下宿掃除)・料理は普通、裁縫はダメー、な感じの小芥子ッ子がいいなあ!木場さんが文句言いながら、文蔵のシャツのボタンつけてくれ。