贈り物

 和寅の手は、年中夏でもあかぎれだ。それは小さな密かな、和寅の勲章でもある。


 昼ご飯も終わって弛緩した、秋の薔薇十字探偵社に、宅配がひとつ届いた。
「どうもお世話様ー」
 宅配青年に礼を言い、たまたま調査結果の報告に出向くところだった益田は、妙に重みのある大きな段ボール箱を受け取った。
「ああ、ありがとう益田君。ソファのところに置いといてくださいよう」
 丁度台所にいた和寅がぱたぱたと出てくる。
「うわっとと…重いなあ。僕ぁひ弱なんですから、こんなの持たせるなんて虐待ですよ」
 益田は段ボール箱を抱え、よろよろとひ弱っぷりをアピールしながら蹣いた。
「なぁに世迷い言言ってんだい、どこからです?」
「えーっと。榎木津…総一郎。榎木津さん、お兄様からですよ。まったく、自分宛の荷物くらい自分で受け取ってくださいよ」
 探偵専用席に足を乗せて、ふんぞり返っていた榎木津がムクリと起きあがり、忌々しそうに答えた。
「やかましい下僕。お前が荷物の受け取りに最適なところにいるから、受け取るのが筋ってもんだろう。それよりも莫迦兄からだぁ?いったいなんだって言うんだ」
「さあ…なんでしょうねえ。一寸待ってくださいよ」
「箱一杯の亀か?」
「うわあ、嫌ですよそれ。これにぎっちり亀!」
「入ってるわきゃないでしょうが…益田君、はんこ戻しといてくれないかね」
 二人が下らない事を言い合っていると、鋏を持った和寅が呆れながら段ボールの傍らにしゃがむ。ばちんばちん、と景気よく掛けられた紐を切り、段ボールを開ける。
「わあ…すごい立派な。先生先生、葡萄に、栗とか梨とか柿もありますよう!」
 嬉しそうに葡萄を持った和寅が顔を上げる。
「ひゃーこんな沢山な上に、豪華な盛り合わせですねぇ。秋の実りってヤツですか」
 益田や榎木津も段ボールのそばに寄って覗く。
 段ボールの中にはぎっしり、大きくて瑞々しい葡萄や梨や柿、そして袋に入った沢山の栗が詰まっている。どれもこれも上等なものである事は見ただけでも判る。
「あの莫迦兄にしては、まともなもの送ってきたな。和寅、今日栗ご飯だ!」
 榎木津は栗を数個取り出し、それをお手玉の容量で玩びながら嬉しそうに言った。
「そりゃいいですねえ!和寅さん、今晩やってくださいよ!」
 既に晩ご飯の人員に入っている益田も賛成する。
「えぇー?今日秋刀魚もあるんですよう。秋刀魚だけでも手間が掛かるのに…」
 所帯染みた愚痴で和寅がぼやく。
「じゃあカマ、お前和寅の手伝い。秋刀魚焼け」
「僕ですかあ?…まあ、麦酒だってこないだ買ったばっかですしね、秋の味覚をたっぷりご堪能にご相伴頂けるなら、謹んでお手伝いしますよ」
「いつも!そうなら嬉しいんですけどねえ」
 益田をちろんと軽く睨んだ和寅は、いそいそと立ち上がる。
「夜、総一郎様にお礼のお電話しないといけやせんねえ…って先生、洗ってから!」
 今将ニ葡萄ヲ食ベントス、であった榎木津は子供のように、口を尖らし不満そうにその葡萄を和寅に渡した。
 もう、今洗ってきやすから。と、和寅は苦笑まじりで答え、ついでに梨をひとつ持って台所に消えた。
「しかし和寅さん、これ結構な量入ってますよ」
 益田がテーブルに各種数個づつ並べながら言う。かなり大きめの段ボールに詰め合わされた果物の山は2人(実質3人になってしまっているが)の男所帯ではとうてい消費出来そうにもない程の量である。
「大盤振る舞いだなあ。益田君、それでどれくらい出したんです?へ?まだ3分の一も
出してない?…ああ、ホントだ。道理でひ弱な益田君も蹣く訳ですわ」
 綺麗に水洗いした葡萄と梨を皿にのせ、ナイフを持って帰ってきた和寅は、ひょいと段ボールの中を覗いて憎まれ口を叩く。
「うわあ嫌味ー」
 益田の非難もものともせず、和寅は葡萄の皿を榎木津に渡すと、ぱふんとソファに沈み、すまして梨を剥き始める。
「ああそうだ、先生」
「なんだ」
「これ後で分けますから、小説家の先生と古本屋の先生のとこに持ってって下さいよ。いつもお世話ンなってますしねえ。お裾分け」
「お前、主人を使い走りさせるとは良い度胸だな」
「結構怖いもの知らずですよねえ、和寅さん。…あ、この梨美味いや」
「一番お世話ンなってるのは先生じゃないですかい」
「ふん!下僕が神を世話するのは心理であって当然だ。…まあ、いい。たまには拝領してやるのも趣向が変わって良い。ついでに猿いじりでもして、京極んとこで昼寝してくるか」
「優雅な午後の計画ですねえ…榎木津さん」
「君は浮気調査報告だろう。しっかり働いてこないと、晩御飯抜きだぜ」
「抜きだ抜き抜き」
「ひ、酷いなあ…!よりによって御馳走の日なんですから勘弁してください!」
 情けない益田の悲鳴に、和寅は可笑しそうにくくく、と笑って梨を頬張った。
 甘くて瑞々しい食感が、口の中に溢れた。

 早く帰ってきますから、絶対僕の分も作っておいてくださいね!
 そう念を押して益田は探偵社を出て行った。


「じゃあこれとこれ。同じの入ってますから」
 風呂敷包みを2つ作り、和寅は慎重に二つの包みを紙袋に入れて−。
「あいたッ」
 和寅がその手を止める。
「どうした?」
 榎木津が機敏に和寅の方へ向く。
「いえねえ、風呂敷にささくれが引っかかっちゃって」
 そう言って苦笑しながら紙袋に包みを収める。
「どれ、見せてみろ」
「そうたいしたもんじゃないですよう」
 掌を広げてみせる。広げられた赤い指先には細かな亀裂が走っていた。それに伴うささくれもあちこち立っていて、痛痛しい。
「ざらざらだ」
 榎木津は感心したように声を上げ、片手首を持ち暫くじっと見詰めていたが、やおら自分の腕に和寅の掌を乗せ、さわさわと動かして感触で確かめた。
 その掌は夏だというのにかさかさだ。
「先生、よしてくださいよう」
 笑いながら和寅は手を引っ込める。
「痛いのか?」
 知らず痛そうに顔を顰めて訊く榎木津に、和寅は苦笑しながら答えた。
「うーん、それがそんなには痛くないんですよう。引っかかると痛いですけどねえ」
 そう言って、はにかんだように笑った。
和寅の手は、年中少し荒れている。
 榎木津の身の回りの世話を職業とする和寅は、家事労働全般を担っている。自然、水仕事も多く、結果、探偵社住まいになってからは手が荒れているという訳である。
「お前…前からこんなだったか?」
 榎木津がもう一度掌を眺め、そして顔を上げた。
「そりゃ水仕事ばっかやってますから、いつもは手がかさかさしてましたけどねえ、
それでも冬のあかぎれがやっかいなだけで、夏場とかはだいぶん楽です。
でも、この三日前くらいからでしたかなあ、皮が良く剥けて荒れてきてたんですよ…
なんでしょうねえ」
 和寅は不思議そうに小首を傾げた。
 その小首の傾げ方が、榎木津は気に入り。和寅の頭を撫でて伸びをした。
 不思議そうに榎木津を眺めた後、和寅は小さく微笑みながら支度を再開した。


「葡萄も入ってるんですから、乱暴に持ってかないでくださいよう」
「わかってるよ」
 上機嫌に榎木津は答え、紙袋を受け取った。
「奥様方にも、宜しく言っといてくださいまし」
「ん。和寅」
「なんですよう」
 和寅と同じ目線に屈んだ榎木津は、聞き返す言葉が終わるか終わらないかのところで、そっと和寅の頬に手を添える。宝物を触るように。
 ぴくん、と和寅が震えて小首を傾げた。
 ちゅ、と和寅のふっくらとした肉感的な紅い唇へ口付ける。
 榎木津はその唇の柔らかさと甘さに満足する。
「…せんせ」
 真っ赤になって、眉根を困ったように寄せた和寅が思わず手で唇を押さえる。
「いってきますのちゅう。梨の味がしたぞ」
 そう言ってカランと、扉の鈴が鳴って。一人和寅は探偵社に残された。
 暫く、声もなくただ真っ赤になって立っていた。
 そっ…と唇を撫でた。少し濡れた。
 ためらいながらも舐めてみると、甘い味がしたような、しなかったような気がした。
「…はあ」
 小さくため息をついた。
 溜め息の拍子に俯向いて。視界に荒れた手が入る。
 掌を開くと、別段気にもしなかったささくれが目立っていた。
 映画やラジオドラマでは、家事に追われ荒れてしまった手を見て、人妻がかつて輝いていた自分を思い出し、ため息をつくところだ。
 和寅はそんな事を思い出して、少し可笑しかった。和寅自身は、そう言った事にあまり頓着する性でもないし、荒れてしまった手だからと言って、恥ずかしくもどうとも思わない。
 だけど。
 ほんの少しだけ嬉しいのは、どうしてだろうか。
 和寅はわからなかった。けれど、それもいいや、と思い直し、ぱん、と手を叩く。
 乾いた音がひとつ、探偵社に響いた。
 そして和寅は栗の渋皮剥きをしようと、襷を掛けるために着物の袖をまくった。



「こんにちわ!」 
 榎木津は関口家の玄関先で呼び鈴代わりの大声を出す。
「あら榎木津さん、お久しぶり。どうぞお上がりになってくださいな」
 ぱたぱたと前掛けで手を拭きながら、雪絵が出迎えてきた。
「おお雪ちゃん、久し振りだね!相変わらず関の面倒見るのは骨が折れるだろう」
「面倒でもなかなかやり甲斐はありますわ」
 そう言って雪絵は可笑しそうに笑い、今へと先導する。
「なかなか前向きで宜しい。そんな雪ちゃんに」
 はい、と言って榎木津は、どかりと座敷に座り、紙袋から風呂敷包みを取り出す。
「まあなにかしら」
 笑顔で受け取った雪絵は、そっと風呂敷を開けた。
「うちの不肖の兄が柿やら梨やら葡萄やら送ってきたんだ」
「あらあら…こんなにたくさん!宜しいんですの?ありがとうございます」
「うちの莫迦兄は限度というものを知らんのです!おかげで僕は和寅のヤツに使われてこうやって方々で配り歩く羽目になってるんですよ!挙げ句の果て、雪ちゃんに宜しくって伝言までやらされる!」
「まあ…それじゃいつもの立場、逆転ですのね」
「そうですよ。全くもってけしからんですよ。でもまあ一番最初に多汗症の猿の顔なんかじゃなく、綺麗な雪ちゃんを見られたから良しとしよう」
「お上手ですこと」
 雪絵は可笑しそうに笑った。
「思った事を言ったまでだよ。そういえば関はどうした?」
「ああ、うちの人でしたら、今たばこ屋に行ってますわ。じきに戻ると思うんですが」
「なんだ間の悪いヤツだ」
「本当ねえ。すみません。それじゃあ、お待ち頂いている間に梨でも剥きましょうか」
 雪絵はそう言って立ち上がった。
「あ…雪ちゃん。梨じゃなくて、柿が良いな」
「はいはい」
 台所へ行った雪絵を見送った榎木津は、ひとり唇を撫でて小さく笑った。

「おお、ありがとう雪ちゃん!」
 綺麗に切られた柿と茶を受け取り、榎木津は礼を言いながら食べる。
「いえいえ」
 雪絵は子供のような榎木津に微笑み、タンスの上にある薬箱を取った。
「どこか悪いのかい?」
 それに気付いた榎木津は柿を頬張ったまま訊く。
「さっき、あかぎれに水が沁みて…。軟膏でも塗っておこうと思って」
 卓袱台の向かい側に座った雪絵が、心持ち恥ずかしそうに答えた。
「あかぎれ…雪ちゃんもか!どんなの?みたいみたい」
 榎木津は膝で動き、雪絵の近くへと寄る。
「わたしも…って?まさか榎木津さん?」
「僕じゃないよ。和寅だ」
「まあ若いのにねえ、安和さん」
「あいつ、最近酷くなったらしいんだ」
 そう言って、雪絵の手を取りじっと見詰めた。

「ただいま…。あれ、客かな」
 からりと力無く玄関の扉を開け、入ってきたのはこの家の亭主・関口である。妻の返事がない事に少し疑問ながら、客間に行くとなにやら声がする。
 客と話しているようだ。
 襖に手を掛けて、その襖を動かす力を入れた瞬間。
「まあ…そんなに見られると、なんだか恥ずかしい」
 雪絵の声である。
 その声にビクリとした関口は、嫌な脂汗が出た。
 …なにが恥ずかしい?なななな何を見せてるんだ!?
 嫌な妄想が出てきた関口だが、それを吹っ切るようにがらりと襖を開けた。
「えええええええ榎さん!?」
 関口が見たものは、ちょうど妻と榎木津が身を寄せている後ろ姿だった。
「あら、おかえりなさいまし」
 振り返った雪絵は屈託なく微笑んで迎えた。
「おお!関だ!相変わらず多汗症の気の抜けた隠棲花のごとき猿顔だな!」
 榎木津もいつも通りの榎木津である。
「あ…ああ」
「榎木津さんから、栗や梨や柿戴いたんですのよ」
「秋の恵みを齎してやったぞ!感謝しろよ」
「ああ、それ…は、ありがとう…。なあ」
「なんです?」
「あの…そ、の。…さ、さっき何してた…んだ?」
 きょとんとなった雪絵は、それでも疑問の顔のまま笑顔で答えた。
「榎木津さんにあかぎれの手をお見せしてたんですの。でもなんだか、じっと見られると恥ずかしいような気がして」
「…あ、そうなのか」
 変な脂汗を掻き損な関口である。まあ、この場合は損でない方が厭だが。

「雪ちゃん雪ちゃん。これ、あかぎれに効くか?」
 榎木津は軟膏を手にとって眺め訊いた。
「そうですわねえ…無いよりはまし、と言うか。手の保湿には効きますけど。年中水仕事してるとなかなか直り辛いものですよ」
 そう言って困ったような笑みを浮かべた雪絵に、関口は捉え処のない重みを感じた。
「ふうん」
 けれど榎木津には、さっきの笑う和寅と同じ顔に見えて。
 ぱちぱち、と眼を瞬かせた。
 ふむ…。
 榎木津は、軟膏を塗る雪絵の指を見詰め、最後の一切れの柿を頬張った。
 出し抜けに。がば!と榎木津は立ち上がった。
「さあ、次は本馬鹿の所だ!関、いくぞ!」
「え?ちょ、ちょっと榎さん!!」
 先ほど買って来た煙草の箱を開けようと俯向いていた関口は、腕を掴まれる。
「猿はお供と桃太郎の昔から決まってるだろう!雪ちゃんお邪魔したね!旦那借りるよ」
「どうもおかまいもしませんで。タツさん、今日は栗ご飯にしますから、夕方には帰ってきてくださいましね」
「ゆ、雪絵…ェ」
「わははは、うちと同じ献立だ!…雪ちゃん、あかぎれお大事に!」



「ちーづーさん!」
 だしぬけに玄関先で大声が聞こえた。
 中禪寺は苦虫を大量に噛み潰したような仏頂面で、ぱたんと読んでいた本を閉じる。
 大儀そうに立ち上がると、店舗から母屋の方へと歩いて行く。
 玄関の三和土には、思った通り−というか、寧ろ思った以外の者がいれば驚きではあるが−榎木津礼二郎が上機嫌で立っていた。傍らにはずいぶん疲れた態の関口も
立っている。
「榎さん、子供ですかあんたは。その上、年中胡乱な小説家の先生まで引き連れて…騒々しい上に面倒なお歴々じゃないか」
「どういう意味なんだ…」
 先制攻撃されてしまった関口が不機嫌に問う。
「静寂の中、読書を邪魔されるこっちの気分も考えて頂きたいね、客ならまだしも」
「おい京極、千鶴さんはどうした?」
 既に上がり込んでいる榎木津はキョロキョロと見渡しながら、中禪寺に訊く。
「千鶴子なら銀座の方に行ってますよ。実家からの頼まれものだとかなんとか」
「なんだ、いないのかぁ。景気の悪い三十男の顔ばっか見てたって面白くないぞ!」
「すいませんねえ。…あんた何しに来たんだね」
 後ろの方で漸く関口が、もたもたと靴を脱いで上がったのを見届けた中禪寺は、踵を返して座敷へと赴く。
「これだこれ」
 座敷にはいると、既に榎木津はいつもの定位置で寝転がっていた。
「これ…?」
 榎木津の指さした先には風呂敷包み。
「うちの莫迦兄が送ってきたんだ、和寅がお前んとこと関の所に持ってけってさ。あと和寅から奥さんに宜しくって、所帯染みた事言ってたぞ」
 そう言うと大きな欠伸をひとつして、榎木津は昼寝に入っていってしまった。
「来たハナから爆睡だよ。」
 呆れたように関口が洩らす。
「…ああこれは良いものを。千鶴子も喜ぶ。」
「榎さんにしては気の利いた手みやげだよなぁ」
「関口君、五十歩百歩と言う言葉を知らんのかね君は」
 結局の所、舌禍の攻撃に曝されるのは関口である。

「おい京極」
 座卓の向こうから声がした。
 どうやら榎木津が起きたらしい。
「なんです?」
 相変わらず中禪寺は読みかけの本から目を離さず、応答する。
「あかぎれって、なにすれば直るんだ?」
「え、榎さん?」
 先ほどの、妻のあかぎれを思い出し、関口は知らず吃驚する。
「和寅の掌が荒れてたんだ。あれで背中でも引っ掻かれたらたまらんからな」
 雪ちゃんも痛そうだった。
 榎木津はそう言って起きあがった。
 正直、自分の妻の手荒れを見た事がなかった関口は内心、落ち着かない。
「…あかぎれですか」
 本を置き、顎を撫でながら中禪寺は一息つく。
「一番手っ取り早いのは、水仕事から遠退くと収まりますね」
「あれが言って止める訳無いだろう」
 憮然として榎木津は答える。
 下僕だから水仕事はあいつの仕事だ、だの。止めさせる訳無いだろう、だの。
 関口は予想していた言葉のどれでもない榎木津の言葉に興味を覚えた。
 あくまで和寅の意志で、和寅は探偵助手をしていると言う事か。
 微笑ましい気分になって。関口は二人にばれないように口の端だけで笑った。
「でしょうね。あれはそう言うタマだ」
 そう言って意味ありげに中禪寺は笑った。
「だからそれ以外」
 言っておきますが、僕は街の薬剤師じゃないんですよ。そんな事言われましてもね。
 中禪寺はそうぼやきながら、なにがなにやら本が積まれている一角を物色した。
「それから、街の寄り合い相談避難所でもないんだよ。関口センセイ」
「ぼ、僕は今日は無理矢理連れてこられたんだよ!」
 そんな抗議など訊いてもいない中禪寺はパラパラと和装の本を捲りながら言った。
「そうだねえ、榎さん。紫雲膏かワセリン、メンソレータムも効くんじゃないか」
「知ってるのか」
 思わず関口が突っ込む。
「関口先生はお知りでないかも知れないがね。紫雲膏ひとつとっても、江戸時代の名医華岡青州が創案した軟膏で、『外科正宗』にも収録されてる、漢方薬の中でも代表的なものだよ。別名を潤肌膏とも言って、皮膚疾患に適した膏薬でもあるんだ。つまりだね、ひびわれ、しもやけ、あかぎれ。それに切り傷にも塗るだろう」
 本当に一言言うだけで、倍以上帰ってくる。
 もしかすると妻が先ほど塗っていたのは、色からしてメンソレかも知れない。
 ふと思い出して関口は、申し訳ない気分になる。
「しうん−ああ、なんかベタベタするヤツか。ダメだあいつ、そう言うの厭がるんだ」 
「あれは意外に神経質だったねえ」
 中禪寺は思い出したように、ちろりと榎木津を見て言った。意味ありげに笑っている。
「ふん。次だ次」
 手を振って榎木津は先を促す。
 言われた中禪寺は、もう一度顎に手を当てて少し考え、処方箋を下した。
「柚子の搾った汁とかはどうです?柚子もヒビやあかぎれに効きますよ」


 ある意味、その言葉が間違いだったのだ。
 関口は後になってその災禍に見舞われた。
 中野の商店街中を大騒ぎしながら、榎木津は関口を引き回して、ありったけの柚子を買いに行ったのだ。
 当分…商店街には行けない。
 関口はうんざりしながら、商店主の「あんたも大変だねえ」との慰めを聴いていた。
「じゃ、榎さん…うわ!」
 榎木津によろよろと別れを告げた関口は、慌てて飛んできたものを受け取る。
「な…?」
「雪ちゃんにもってけ!」
 あと数個、柚子を押しつけて榎木津は省線電車の駅へと消えた。
「さ、神もお帰りになられた事だし、僕らも帰ろうか」
 中禪寺はそう言って歩き出す。
「あ…ああ」
 道すがら、話す。
「榎さん、和寅のこと大事なんだな」
 数個の柚子を抱え、関口は思い出したように呟いた。
 中禪寺は顔を上げて、腕組みしながら答える。
「そりゃそうさ」
 和寅は、榎さんの家だからな。
 夕暮れを仰いで、少し眩しそうにして中禪寺は続けた。
「うち?和寅…がかい?」
 文法的におかしいんじゃないか、と関口は訝しむ。
「そうだよ。『恋しい家こそ、私の青空』だな」
「…『青空』かい」
「つまりだね、エノさんの帰るところはいつでも和寅が普段の通り、居るんだ。…安心するだろう」
 なんとなく、判ったような気もする。
 韮山の事件から帰った関口を、依然と変わらぬ笑顔で迎えた雪絵を思い出した。
「ああ…」
「いつでも平々凡々で、かつ榎さんを全部受け入れられる、とっても恋しい家だな。あれにとっての和寅は」
 いや、最近は榎木津にだんだん染まってきた傾向があるな。
 そう言って、中禪寺は可笑しそうに笑った。
 夕暮れの日は、赤く街を染めた。



「おーい和寅和寅!」
 探偵社の扉の前で、榎木津は喚いた。
 両手が塞がっていて扉が開けない。ビルヂングの扉は、丁度通りがかった階下の会計事務所の若手会計士に開けて貰ったのだが。
「はあーい、ただ今!おかえりなさいまし…って、先生なんですそりゃ」
 ぱたぱたと草履の音を軽やかにさせながら、書生風のクラシカルな袴姿の和寅がドアに掛けより、からんと音をさせて扉を開けた。
 お裾分けに行ったのに、それ以上の量がある柚子の山を両手一杯に持ち、榎木津がご機嫌で立っていた。
「これやる」
 え??
 和寅が状況を把握しないまま、榎木津はテーブルにどさっと柚子の入った袋を置いた。
「せ、せんせい?」
「あー重かった!疲れた!まったく、酷い労働だ!」
 どさっとソファに沈んだ榎木津は一通り喚くと、側に立ちつくし柚子の山に驚く和寅の手首をやおら、ぐい、引っ張った。
「え、うわあッ、っぶ!…せ、先生何すんですよう…!い、いたあ…」
 バランスを崩した和寅は榎木津の横に倒れ込み、榎木津の胸にしたたか顔をぶつけた。
 鼻をぶつけて、涙目の和寅が顔を上げると。
 じっ…と和寅の掌をみる榎木津がいた。
「え…ちょ、先生?」
「ふん…結構酷使してるじゃないか」
 和寅の掌を、榎木津の掌に乗せ、親指の腹でそっと撫でてきた。
 凸凹を確認するように。
 思ったより荒れている和寅のその手の感触に、榎木津は知らず唇を噛んだ。
 そして、榎木津の優しい撫ぜ方が、和寅の心をどくりと泡立てた。
「…そりゃあ、毎日先生のお世話してますから。でも…そうですねえ、世の中の奥様方よりは、ちょっと楽させて貰ってますけどねえ。で、なんなんです、これ?」
 苦笑しながら和寅は答える。
「見てわからんか。柚子だ」
「そりゃわかりまさぁね」
「あかぎれに効くらしいぞ。搾った汁」
 榎木津は空いている方の手で、わしわしと和寅の癖ッ毛を混ぜた。
 ぽかんとしていた和寅は、暫くそのままで固まっていたが。
 ほんわりと。
 花が開くように、嬉しそうに微笑んだ。
「あ…昼の。覚えてらしてたんですかい?…嬉しいですよう、先生」
 ぽすんと頭を榎木津の胸にくっつける。
「僕はまだ老人じゃないからな。そのくらい覚えてるさ」
 お珍しい。そう思わず零した和寅は、ぺしん、と軽く額を叩かれる羽目になる。
「でもねえ先生」
「ん、なんだ」
「私にとっちゃあ、この荒れてるのがある意味…自慢だったりするんですけどねえ」
 そう言って、くくく、と和寅は可笑しそうに幸せそうに笑った。
 馬鹿だなあ、和寅は。
 榎木津はそう言って、優しく和寅の指先に接吻する。
 ちゅ、ちゅ、と何度も位置を変えて。
 口づけた箇所から、熱が生まれるような感覚に、和寅は戸惑う。
 接吻の度に、和寅の頬が熱くなる。
 「直るもんなら、直った方が良いだろう」
「そうですねえ」
 擽ったそうに、和寅は笑った。

 じりりりりりり、じりりりりりり。
 出し抜けに電話が鳴った。
「あらら、どなたですかねえ」
 するりと榎木津の腕から和寅が抜ける。
 少し残念そうな和寅と、あからさまに残念そうな榎木津である。
「あ、もしもし薔薇十字…ああ、なんだ益田君。…あ、そりゃ良かった。はい…はい。じゃあ二十分くらいしたら帰って来ますかい。…しょうがないから待っててやるよ。でも、君帰ったら秋刀魚焼くんだぜ。…そう、はい。じゃあまた後で」
 ちん、と電話を切り、和寅は振り向く。
「益田君、もうすぐ帰って来ますって。そろそろ晩ご飯の支度しますわ」
「ああそうだ栗ご飯!」
 くんくん、と榎木津は鼻を利かせる。栗ご飯の匂いがした。
「ちゃあんと沢山作ってありますぜ。なかなか自信作です」
「えらいぞ!」
 少し誇らしげに、和寅は笑って鼻を掻いた。
「…さて。この柚子、全部絞るのも勿体ないですしなあ…そうだ先生、冬至にゃまだ早いですけど、今日は柚子湯にしましょうや」
「ゆずゆ?」
「先生、なんか発音へんですぜ…。お風呂に入れるんですよ」
「おお、風呂か。風呂に入れても効くのか?」
「効きますよう。それに良い匂いですぜ」
「ふうん。…よし。じゃあ一緒に入るぞ!効能をじっくり確かめてやろう!」
「ええ?やですよう。先生と入るとお湯の掛け合いになって、お湯少なくなっちまうし」
「お前が隙だらけだからダメなんだ」
 普通いい年してやりませんやねぇ。
 柚子の山を抱えた和寅は、台所へ行きしな振り返り、腕白な子供を慈しむような困った笑顔で笑った。

 そうして、台所に戻った和寅は。
 柚子を降ろしてもう一度掌を広げて眺め。
 照れくさそうに笑った。
 
 
 ひとつだけ、テーブルに残った柚子を榎木津が取り上げる。
 柚子の香りを嗅ぎ。その香りに満足した。



                                                             end.

Afterword

贈り物−おすそわけ。で。なんだか榎さんが…直接的に優しくなってしまった。
無茶苦茶長くなりました。原稿用紙換算31枚ですよ。笑えるなぁ。なげえよ。冗長とすいません…。そのうち、榎さんがお届け物をする一連は5603字だってんだから。削除しようか迷ったですが、関口夫婦を書きたくて。あの後家に帰った関口が、モゴモゴ言いながら雪絵さんに柚子を渡して欲しいなあ。
そしてなぜか、中禅寺さんが良き理解者と言うよりは、物わかりの良い長老さんみたいになってるよ…あれれ?探偵社もなんだか変な共同生活だな。まあ、こんな感じで。
怪我した時に紫雲膏を塗ったですよ。で、説明書に「あかぎれしもやけ」にも効くって書いてあったので使ってみました。切り傷だけだと思ってた…漢方すげー。そんで調べてみたら、麻酔の日本初使用者・華岡青洲の発明と言う事を知る。すげえロングセラーヒット商品だな。ごま油が主成分なんですが、神経質(原作表記)な和寅君はご飯を作ったりするときや、事ある事に匂いが気になったりすると思います。なんとなく。そしてベタベタも気にしそう。柚子なら…まあいいかな。いいかげんな。
そして中禅寺が口ずさんでる『青空』は名曲ですぞ。狭いながらも楽しい我が家〜ってやつ。
(川畑文子(個人的に有名なディック・ミネやエノケンよりこの人の方が好み)版の『青空』はこちらから聞けます)









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