はじまり

 戻ってきてしまった。

 益田は夕焼けに光る扉の金縁を眺めた。
 初めて『薔薇十字探偵社』を訪れた益田は、図らずも早速人捜しをすることになってしまった。それが一応、探偵助手の審査試験と言うことらしい。
 そして、成り行きで増岡弁護士と共に中野の京極堂に行き、主人の望まざる蘊蓄と共に大いなる薫陶を受けたのだった。
 京極堂を辞す際、共に眩暈坂を降りて大通りに出た増岡弁護士は、例の早口かつ敏捷に、益田に訊いてきた。
「君はどうする。神田に帰るのか?それなら私はここで車を拾うが、ついでに巡回って行って貰うがどうだ」
 その勢いに乗ったというか釣られて、反射的に益田は「は、はあ」と答えてしまった。そんな要領を得ない益田を置いてきぼりに、増岡はサッサと車を止めていた。そして益田はいつの間にか神田に戻ってきたのだ。
「君も人生をもっと有効に使用したまえよ」
 そう言って、忙しい忙しいという割には野次馬な弁護士は、益田に忠告をして車窓の人となった。

 たった一日、いや数時間でこうも人生変わってしまうものか。
 残された益田は、頭を掻きため息をついた。
 戻ってきてしまったし。
 …まあ、いいか。
 杉浦の居場所は、信じられないことに意外な場所で見つかった。
 今日はもう動けることもない。帰るだけだ。
 榎木津は帰っていないだろうが、あの安和寅吉という青年に会って、少し報告しておこう。
 益田はビルヂングの中に入っていった。


 からん、とドアの鐘が鳴った。
「あ、おかえんなさい。どうでしたかい益田さん」
 ぱたぱたと草履の音を立てて、衝立の奥から和寅が出てきた。
 水仕事をしていたのか、和寅は襷がけだった。
「え、あ、た、ただいま」
 反射的に言ってしまった。
 何故か益田は「おかえんなさい」と言う言葉に心がときめいたからだ。
 言ってしまってから、妙に気恥ずかしくなった益田は慌てて言葉を繋ぐ。
「あ…寅吉君、やっぱり中禪寺さんの所行って正解だったよ」
 答えると、和寅は太い眉を上げ、へえ、と相槌を打つ。
 まま、掛けて掛けて。
 そう勧めた和寅は、いったん奥に引っ込み、茶を出す。
 ふんわりと茶の香りがますだの鼻腔を擽った。
 改めて和寅は益田と向かい合う側のソファに座る。
 目が好奇心を訴える野次馬の目である。
 益田は苦笑してソファに掛けた。
「で、その杉浦さんの旦那さん…っとこう呼んじゃ駄目なんでしたかね、
隆夫さん、そう隆夫さんの足取りなりなんなり、なんか手懸かりでも」
 言いつつ和寅は、しゅるりと襷を外した。腰を入れて聴く気満々である。期待に応えて益田は経緯を語る。
 ほう、へえ、と和寅は相槌を打ち聴いていた。

 だしぬけに電話が鳴った。
「ああ…ちょっと失礼しますよう」
 そう言って和寅は電話を取りに行った。
「はい、薔薇十字探偵社でございますが」
 益田は見るともなく電話中の和寅を眺めた。
「あ…兄さん。どうしたんで…ああ、はい、元気ですよう。はい、まあ先生は相変わらずですけど。大丈夫ですって。相変わらず兄さんも心配性…兄さんは?…へえ、で…へえそうなんですか。ふんふん…あぁ、はいわかりましたよう。はーい…もう先生も、もちょっと早く言ってくれりゃあ…そうですよう、私ゃ有能な秘書なんですから。…えへへ。…あ、はい。じゃあまた。…はーい。はい、じゃ兄さんも頑張って下さいね。はい…一寸早いけど。おやすみなさい」
 小首をかしげて嬉しそうに話す、その姿はまだどこか稚気を感じさせる。
 益田よりは年下であろう。
 しかしその言動はなんだか年上の主婦を見ているようだ。
 所帯染みているのだ。
 着物から覗くうなじは白く、色白なのだと気付いた。
 道理で、初めて見た時に唇がやけにぷくりとしているのが気になったものだ。
 そんな観察をしている自分に気付いた益田は、自分が可笑しくて、一人笑う。



 ちん、と電話をおろし和寅は電話を切った。
 くるり、とこちらを向いた。
 厚めの赤い唇をとがらせ、困ったような笑顔で和寅は零す。
「やっぱり先生、ご実家の方でしたよう。弁護士先生も待ってなくて良かったですよ」
「はあ…」
 まあ、いつものことなんですがね。
 そう言って和寅は再びソファに身を沈める。
 榎木津が実家にいると言うことを知らせた電和の相手を和寅は兄さん、と呼んでいたと言うことは、和寅の兄もまた榎木津の実家に仕えているということのなのだろうか。なんとも不運な兄弟だろう。益田は密かに思った。


「そうだ益田さん。これからご予定は?」
 唐突に聴かれた。
「え?いや…特に。今日は帰るだけですよ」
「じゃあ益田さん、良かったら晩ご飯食べてかれませんかい?」
「へ?」
「いやぁね、さっきの電話、先生がご実家にお泊まりだって連絡だったんです。まったく、先生いったい何處にいるのかさっぱりだったもので、ちゃんと晩ご飯作ッとかなきゃあ怒られるッてんで、先生の分も作ってたんですけどね。もっと早く連絡させりゃあ良いのに。ですから、大したもんじゃないし、余り物をお出しするみたいで…申し訳ないですけど」
 すまなさそうに語る和寅に、益田は笑顔で答えた。
「ええぜひ、有り難い。寧ろ良いんですか、いただいちゃって」
「どうせ残しとくと痛んじゃいますし、こちらこそすみませんねェ」
 いやいや、と意味のない謝りの応酬をしつつ、和寅はソファの片隅にあった襷を取り上げ、しゅるりと手早く掛けた。その鮮やかさに益田は、ほう、と少し感嘆した。和服とは縁のない生活を送ってきた益田には、物珍しく、そしてどこか徒っぽく見えたのだ。和寅は襷を結びながら衝立の奥に行く。
 益田は、そんな風に見えた自分自身に少し狼狽する。
 おいおい。冗談だろ。
 自分に自分でつっこみを入れた。

 じゃあ一寸待っててくださいよう。
 下らない自分突っ込みをして、その動揺を誤魔化していると、奥の方から声が掛かった。
「あ、僕もお手伝いしますよ」
「とんでもない。いいですよう」
 益田は大人しく待っていることにした。
「ねえ益田さん、アサリとかトマトとか大丈夫ですかい?」
「へ?ああ、好き嫌いはないよ」
「そりゃあ良かった」
 ジャアジャアと、炒め物の音と匂いがする。
「そういえば、榎木津さんは何時−」
 衝立の奥、おそらく厨房であろう所に向けて、益田は聴いた。
「先生ですかい?明日の昼には帰るようなこと言ってたって。と言うか、今日は無理矢理に御前樣−先生のお父上、に引き留められたとかで、しかも兄上様まで帰ってらっしゃって親子揃い踏みだなんて、御前樣はご機嫌らしいですけど先生ご自身はずいぶんご機嫌斜めらしいですぜ」
「兄上様ーって榎木津さん、お兄さんいるのかい」
「いらっしゃいますよう。そりゃもう紳士ですよう」
「紳士ーですか」
 榎木津からは考えられない単語である。
 まあ榎木津も黙っていればアレなのだが。
「ええ。そうそう、そんで中の先生からお電話頂いたらしいですよ、先生。そしたらその後かなりご機嫌斜めに拍車が掛かった見たいですから、明日帰られたら覚悟しておけって、うちの兄さんが脅す程みたいですよう」
「うわあ…いやだなあ。でもそれって、中禪寺さんから榎木津さんに連絡が行ったって事ですよね。そりゃ良かったけど、怖いというか。…って、ところで寅吉君ちは兄さんも榎木津家に?」
「ええ、親父は表具屋だったんですけどね。御前樣に拾って頂いて、私が生まれる前からお屋敷にお仕えさせて貰ってますよ。そんなご縁で私の実家も先生のお屋敷の中なんですよう。で、兄は総一郎樣のところで執事。わたしゃ礼二郎樣んとこの秘書ーのつもりなんですけどねえ」
 饒舌な和寅の声に雑じって、包丁の音やいろいろな音が聞こえる。
「まあ、先生にとっちゃ給仕みたいなもんでしょうね」
 そう言いながら、和寅はお盆に皿を乗せてやってきた。
 そして、ソファの前に来ると思い出したように言う。
「いや、下僕…でしたねェ」

「ああ、すみません」
 こと、と大皿に盛られたパエリアとサラダ。
 ほこほこと湯気がおいしそうな匂いと共に立ち上る。
「たいしたもんじゃないですけど、どうぞどうぞ」
 和寅がお茶を入れながら勧めた。洋食にお茶、と言う取り合わせが、なんだか和寅っぽくて益田は心の中で笑った。
「じゃあ、いただきます」
 ぱくりと一口。
「…おいしい。寅吉君、これ美味しいよ!」
 意外なくらい美味である。
 がつがつと益田は忙しく口へ運んだ。
「そ、そうですかい?えへへ…料理だけは先生にも及第点貰ってますからねえ」
 照れながら和寅は微笑んだ。
「並の店で食べるより、全然美味しいですよ。いいなぁ榎木津さん。毎日こんなの食べてんですか」
 照れますよう。
 そう言って苦笑いする和寅は、言葉を続けた。
「こんなのでよけりゃあ、いつでも作ったげますよう…って、やっぱり益田さん」
「へ?」
「いや、ホントにあんた探偵助手志望なんですかい?」
「そうですよ」
 今更何を、と益田は疑問に思った。
「やあでもホント、悪い事は言わんですよ、割に合いませんぜ」
 そして和寅は榎木津の奇矯さに対応することがいかにを大変かを、切々と益田に語った。
 その話を聞くにつれ、運良く尋ね人が見つかっても肝心の探偵の扱いについて一難去ってまた一難どころではないのだな、益田は改めて意識させられる。


 それにしても。
 では、その語っている本人はどうなのだろう。
 いくら使用人の息子とは言え、よく逃げ出さないものだ。
 益田は不思議に思う。
「じゃあ…君、寅吉君はなんでここに?」
 意地悪でもなく、純粋に疑問に思った。
 訊かれた和寅は、一瞬目を大きくさせて一呼吸置いた。
 そして、言葉を紡ぐ。
「簡単なことでさあ。決まってますよ」
 こともなげに言う。まるで世間話の続きのように。

「そりゃあ、先生は私の先生だからね」

 和寅はこう答え、ふんわり笑った。
 その笑みは嬉しそうで、少し恥ずかしそうで、誇らしげで。
 益田はその笑みが眩しくて、図らずも見蕩れてしまった。
 とっても可愛らしい笑みであったから。
 和寅と榎木津にしか、意味がわからなさそうなその言葉も、その微笑みで益田は判ったような気がして。
 そんな笑みをさせる榎木津を思い出し、なんだか胸の奥がちりりと焦げているような不快感がよぎる。

「−益田さん?」
 はッ、と気付く。
 訝しげに太い眉を寄せて、和寅が益田の顔をのぞき込んでいた。
 途端に、益田の心拍数が上がる。
 うわああああッ!
 心の中で叫んだ言葉が、口に出ないで良かった。益田はホッとしながら答える。
「あ…い、いや。すいま…すいません」
「いきなり止まっちゃうから、吃驚しましたよう」
 和寅が微笑む。
「はは…」
 さ、冷めちまいますよ。
 そう和寅に促されて、益田はがつがつと平らげることに専念した。




「それじゃ、どうもごちそうになりまして。ありがとう。この辺で…」
 益田は腰を上げた。
 夜になってきたし、余り遅いと神奈川に帰れない。
 まだ神奈川の方は引き払っていないのだ。
 こうもある意味トントン拍子に進むとは思ってもいなかったから、東京に適当な住まいも見つけていない。
「ああでも益田さん、明日その千葉の女学校にお行きじゃないんですか?」
「あ、ああ。そうしようかと」
「じゃあ、お帰りになっちまうより、ここにお泊まりんなったらどうです?」
 和寅が屈託なく微笑んで言った。
「い、いや、ご飯まで頂いちゃったのに、そこまで…」
「いいんですよう。うちぁ、よく先生のご友人だとかで色んな方が泊まって行かれますからね。しかもたいてい酔っぱらい。それに比べりゃあ、益田さん上等の部類ですよ。まあ、うちは客間なんて洒落たものはないもんで、私と雑魚寝ですけどねえ」
 
 そう言って和寅は可笑しそうに、くくくと鼻を鳴らして笑った。
 その姿が、なんだかとっても可愛く見えて。
「じゃあ…お願いします」
 と、益田は知らず呟いていたのだった。


「はいはい。じゃあお風呂入れてきますよう」
 くるりと袖を翻して和寅は踵を返した。
 そして、そのまま益田の方を向くことなく言葉を続けた。

「それにねえ。なんだか益田さん、これからよくお泊まりになりそうな、そんな気もするんですよねえ」



 益田はその言葉を、和寅の姿が見えなくなってから漸く飲み込み。

 嬉しくなった。


                                                             end.

Afterword

初対面の初々しい益田と和寅。言葉遣いも「益田さん」「寅吉君」と初々しいことこの上ない。益田の言葉遣いも微妙にタメ口だったよね。一応、絡新婦p449(文庫版)の益田・初京極堂訪問のシーン終了からp768の聖ベルナール女学院に到着しているシーンの間のお話だと思って下さい。
和寅、知らない人を泊めちゃ危険です!(まあ、エノさんの知り合いで面が割れているとは言え)とも思うんですが、戦後の小説読んでると、けっこう「そこまでやってやるのか?」みたいな親切してるのでいいかなーと。梅崎春生とか。
…えーと、なんつーか「旦那のいない間、三河屋さんに自覚無く親切にしちゃって惑わせる人妻」って言うよりは「若い子相手に面倒見が良すぎるおばちゃん」みたいになってしまった。特にどちらにもしたかった訳でなく、「旦那の悪口言いつつも、やっぱりラヴラヴな幸せ人妻に、ドッキリ横恋歩の予感」みたいな。
無理矢理、オリジナル設定「安和の兄」を出してきました。総一郎氏の冷静な有能執事。なのに弟の事になると性格変わるくらい溺愛。(ここのところは文蔵兄とは違うさ。あっちは靜かに激しいから)兄は洋装で黒背広・スタンドカラー・眼鏡。江戸っ子美人な母似のクール系美形。寅吉は父似。何處まで広がるのだ、この妄想の翼は。
まあ、こんな感じで益田は探偵助手の座を頑張って勝ち取るのです。そして和寅の予感は的中し、良く泊まってくのですよ。探偵助手は。(徒然袋・風を参照…滅多に下宿に帰らないとか言ってた)。ここから始まるオフィスラヴー!









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