即席

 玄関口の掃除の手を止めて、和寅は不満顔で振り向いた。
 掃除中だって言うのに、ソファから退いてもくれやしないたぁ、どういう料簡だ。
 和寅は、脳天気そうにラジオから聞こえるピアノ曲に聞き入っている益田を、ちろんと眺めた。そして、目を留めた。

 軽く目を閉じて、楽しそうに益田はラジオを聴いていた。応接の机に指を置いて、ちょうど鍵盤の代わりに弾きながら。
 音楽に合わせて、指が机を跳ねる事に和寅が気付く。
 その指の滑らかで楽しげな樣子に、和寅は知らず箒をはく手を止めていた。
 長く、少し節の目立つ細い指は、机の鍵盤を躍った。
「…へえ」
 男にしては赤い、厚めの唇に指をやりながら、和寅は思わず呟いた。
 その呟きが聞こえたのか、益田が顔を上げた。
 不意に上げられたので和寅は吃驚し、訳もなく狼狽えた。
 

 少し、腕に覚えがあるんですよ。
 そう言って、八重歯を見せて照れたように益田は笑った。
「習ってたんですかい」
 益田の笑みにつられたように、和寅も笑った。
「母がピアノの教師でしてねえ。それで小さな頃から身に覚えが…あ」
 話の途中で何かに気付いたのか、益田が言葉を止めた。
 和寅の後ろを見ている。
「え?」
 和寅が振り向くと、そこには一人の男性が微笑みながら立っていた。
 30代半ば頃の、口髭のある柔和そうな男だ。
 榎木津ビルヂング地階にあるバーのマスターである。
 和寅が玄関先を掃除していて、開けっ放しになっていたのだった。
「やあ、失敬失敬」
「うわあ!大石さん!すいやせんねえ、いつからおいでで?」
「や、来てすぐですよ。安和さんがそこで、ぼぉっと見詰めてる時から」
 柔和な笑みで大石が言うと、途端に和寅が真っ赤になる。
「ぼ、ぼおっとなんかしてませんてば!!」
「けけけ…!僕に見蕩れてたんですかあ。参ったなぁ」
 言いつつ、益田も二人に近づいた。
「っち、違うッたら!!この馬鹿!」
「馬鹿たあ酷いなあ和寅さん」
「ははは、仲良いんですねえ」
「全然!全然仲良かあないですよう!」
「うわあ、酷いなあ。ささ、立ち話もなんですから、どうぞどうぞ」
 調子よく益田が案内する。
「益田君のおかげで、掃除もまだで散らかってますけれどねえ」
 さりげなく益田に対し棘を刺し、和寅はにこやかに大石を招き入れた。

 一寸待っててくださいねえ。
 大石を応接用のソファに通し、和寅は軽やかにパタパタと草履の音をさせて台所に入っていった。
「じゃあ、こちらにどうぞ。さあ益田君、そこ退いた退いた」
「ハイハイ…なんて酷い扱い」
 大石の向かいに座った益田は、前髪を掻き上げて大げさに嘆いて見せた。
「ああ、これはこれはすみません」
「いいんですよ。…慣れてますけどあの言い方。可哀想じゃないですか、僕」
 益田は薄い唇を尖らせて、台所を指さしながら己の哀れさを大石に訴える。
「益田君、馴れ馴れしく泣きつくなよ、迷惑だろう」
 台所から和寅が突っ込みをいれる。
「馴れ馴れしくって…そんなことないですよねえ。あの人ってば、いつもこうやって僕を虐めるんですよう。ったくもう、可愛気がないんだから」
 和寅の言葉に、調子に乗った益田が大石に泣きを入れる。
「ははは…そんな事言って。…でも、そこが良いんでしょう」
 朗らかに笑う大石が、台所を差して目配せしながら乗せる。
「いやあ、わかります?あの素直じゃない所がまた可愛いんですよねえ。
天の邪鬼を飼い慣らすって言うのもまた一興ですかねえ」
 脳天気にも乗せられている。
「何馬鹿な事ばっか言ってんだい!大石さんも乗せないでくださいよ。
この人、何處まででも調子に乗ってきますから」
 お盆に日本茶を乗せてきた和寅が、しかめっ面でやってきた。
「って言うか、誤解しないでくださいよホントにもう」
 太い眉を困ったように寄せて、大石に嘆願する和寅である。
「ね、つれないったら」
 そう言って益田は可笑しそうに笑った。
 ちろんと益田を睨み、そして和寅はにこやかに大石に茶を出す。
「粗茶ですけど」
「ああ、ありがとう」
「和寅さぁん、僕のは?」
「君も飲むのかね、お客ならいざ知らず、仕事中の分際で」
「ひどいなあ。愛の鞭ですか」
「なに巫山戯た事云ってンだい!」
 言いつつも、益田の湯呑みと自分の湯呑みを机に並べて置いた。
 ことりと茶菓子の入った鉢も置く。
 益田が菓子鉢に伸ばした手を、和寅がビシリと叩く。
 クスクスと大石が笑って、座り直した。
「相変わらずだねえ。二人とも。…早速なんですけど、これ。今月分」
「いつもどうもすみませんねえ。じゃあ、ちょいとお待ちを」
 大石から渡されたのは、封筒と小型の手帖だ。
 榎木津ビルヂング使用料、いわゆる月極家賃である。
 渡された手帖を一旦テーブルに置き、じゃあ失礼しますようと言いながら和寅は封筒を開けた。ひいふう…と中味を数える。
「はい、確かに戴きやすよ」
 顔を上げ、茶を啜る大石に告げた和寅は、傍らの戸棚から判子を取り出してソファに戻ってくる。益田の隣に腰掛けた和寅は、判子の向きを神経質に何度も見直した後、押す位置も何度も思考した後に、ぽんと手帖に押した。綺麗に位置と向きが揃って印の揃った通帳を満足げに見直した和寅は、それを大石に返した。
 いつも早めに持ってきて下すって、優秀でありがたいですよう。
 そう言って、両方の手で袖を掴んで少し引っ張りながら振った。
 
 「どうです、景気は」
 返しついでに和寅が尋ねる。基本的に話し好きの野次馬である。
「おかげさんで。そこそこですよ」
 たわいもない世間話で盛り上がった。
「そう言えば益田さん、腕に覚えがあるんだって?」
「へ?…ああ、ピアノですか」
 突然話を振られた益田は一度素っ頓狂な声を上げたが、大石の言葉が指すものを理解して少し照れたように笑った。
「なかなか良い指裁きしてましたね」
「いやいや、昔やらされたもんです。昔取った杵柄ってたやつですよ」
「お母様がピアノ教師だったとか。さっき聴いちゃったけど」
「そうですそうです。あの母親はねえ、ハイカラ好みな親父とつるみましてね、僕に鍵盤楽器仕込んできたんですよ。おかげでひとしきり弾くにゃあ不自由しませんですがね。母親が厳しくて、怖かったの何の。他の教え子のお嬢さん達には優しい先生で通ってたくせに、実の子だと容赦がないんですな。まるで何処かの誰かさんみたいに五月蠅くって…ねえ和寅さん、ってうわあ、睨まれちゃった。まあでもですねえ、ここ暫く全然弾いてないですからねェ」
 ぺらぺらと調子よく自分をネタにして喋る男である。
「じゃあ、いっちょホンモノ弾いてみますか?」
「え?」
 にこにこと微笑む大石に、益田は疑問符をあげる。
「うちのピアノ。今お暇だったら」
 大石のバーはバンドも揃えている、本格的に音楽の楽しめるバーだ。
「ふへえ、いいんですかあ?」
「そんな勿体ないですぜ、大石さん」
 同時に二人が声を上げる。
「いいんですよ、どうせ昼は暇だし。うちのなんて、そう大したものじゃないですよ。
それでよければ益田さん、どうです?リハビリ程度に」
 ぜひぜひ、久し振りだなあ。喜んで触らせて貰いますよお。
 そう言う益田はとても嬉しそうに立ち上がった。
「さ、行きましょう和寅さん!」
「ちょ、ちょっと待てよ、腕引っ張るな!しょうがないなあ…。先生に一言言ってから行きますよう」
「あ、榎木津さんいらっしゃったんだ?」
 こちらも立ち上がった大石が尋ねる。
「はあまあ、いらっしゃったんですよう。お寝りになってますけどねえ」
「相変わらずの御前樣というか、午後様というか。探偵閣下が御起床なされた時が朝ですからねえ。一言言うってだけでも一苦労ですよ」
 益田と和寅は口を揃えて可笑しそうに言った。
 では、先に行って用意してますから。と、大石は益田と共に笑って先に階段を下りていった。

しょうがないなあ。
 ぱん、と袴を一つ軽く叩いて伸びをした。
 和寅はそう零しつつも、顔が笑顔である。手際よく後片づけをし、聞いちゃいないだろうが一応主人に一言言っておく。
 声を掛けて部屋のドアを開けると相変わらず、陽も高いのに寝こけている。黙ってれば折り紙付きの男前なのになあ、と和寅は少し呆れながら声を掛けた。
「益田君と下のバーにいますよう、もしお腹がお空きになったら、そっちに来て仰有って下さいよう」
 ううだか、ああだか、よく判らないが呻きでとにかく返事を聞いたのを確認して、和寅はビルヂングの階段を下りていった。その跫は少しばかり軽やかだ。

 地階におりて、重厚なバーの扉の前に行くと丁度ピアノの音が幽かに聞こえて来た。ポン、ポン、と短音である。
 ぎい、と開ける。
「どうぞ、あっちにマスター達いますよ」
 アルバイトであろう、若い音大生のような男が、にこやかに案内してくれた。
「はあどうも、すいませんねえ」
 言いつつホールへ向かう。
「和寅さーん、こっちこっち」
 ピアノの前に座っていた益田が手を振る。大石もその横で笑っている。
 はいはい、と大儀そうに言いながら寄っていく。
「じゃあお手並み拝見と参りますか。どうぞ安和さん、そこ掛けて下さい」
 大石はそう言ってピアノの傍らで腕を組む。
「うわあ、近頃弾いてないってのを考慮に入れて下さいねえ」
 言いつつも、益田は節くれた細く長い指を君でぽきぽきと鳴らす。
 やる気満々だ。
 和寅が勧められた椅子に座ると同時に、益田の指がピアノの隅から隅までを瞬く間に流れていった。低音から高音まで隈無く音が鳴る。
 その音に少し吃驚した和寅は、目を見張ってぱちくりさせた。
「では一丁、指馴らしに」
 そう言った益田は、軽快なリズムの曲を弾き始める。少しテンポの速いその曲を楽しそうに弾く益田を和寅は内心少しだけ見直した。
 音楽自体、和寅には余り縁がない。
 何年か前に、無理矢理榎木津に楽器をやらされたが全くダメだった。聞く専門のほうが気楽で良いと思う。あの時は散々だった、と思い出して溜め息をついた。
 聞く専門と言っても、和寅にはピアノの腕前の善し悪しは分からない。
 ピアノはおろか、音楽全般そうである。
 が、益田の意外な一面を見た事は確かだ。
 曲名は『Pine Apple Rag』という曲であるが、その曲名さえ知らない。
 けれど、とても綺麗で可愛い曲だな、と言う事だけは和寅は分かった。
「ほう…」
 大石がその指を見詰めながら、感心したように鬚を撫ぜた。
 和寅も、益田がこんなに流暢にピアノが弾けるとは思わなかった。
 ピアノを弾く益田はとても楽しそうで、すこしだけ格好良くて。
 そんな事を心の隅に思わず思ってしまった和寅は、慌てて首を振って、そのままきつく目を閉じて、メロディに耳を傾けるのに専念した。
 なぜなら、そのまま見ていたらもっと頬が熱くなりそうだったから。
「はいどうぞ」
 小声で囁かれた。
 不意の事で驚いて目を開けると、珈琲を持った大石が近くに立っていた。
「あ…すみませんよう」
 受け取って一口含む。
 自分で淹れてない、人に淹れて貰う珈琲もまた格別だなあ。
 和寅はそう思いながら、少し落ち着く。
「結構弾くねえ、彼」
 にこやかに大石は言って微笑んだ。
 その言葉がまるで自分が褒められたような気持ちになって、和寅は素直にそうですねえ、と答えた。
 曲が終わる。
「どうです、和寅さん。見直したでしょう」
 かるく息を吐いた益田が、髪を掻き上げながら尋ねた。
 悪戯っ子のよう笑う顔に、八重歯が見えた。
 ぼうっ、としていた。
 益田の声に弾かれたように、和寅はビクリとする。
「ま…あねえ、見直した見直した。確かに上手いもんだ。人間一つは取り柄があるもんだな。どうです、尾行一つ出来やしないんだから、探偵助手からピアノ弾きに鞍替えなすっても良いんじゃないか君」
 感心して聞き惚れてしまった自分が気恥ずかしくて、和寅は口に任せて憎まれ口を叩いた。
 素直に『上手いな』と言うのも、なんだか恥ずかしかったのだ。
「うわあ、褒められたのに酷い事言われたですよ僕」
 益田が哀れっぽく前髪をばさりとやって、大石に助けを求める。
 ぱちぱちと拍手しながら、大石がにこやかに答えた。
「ははは…その時は是非うちに。この腕前なら、十分働いて貰えるよ」
「大石さんまで!…まあいいや、お褒めにあずかったのは嬉しいですよ」
 益田は大げさに溜め息をついて、傍らの珈琲を啜る。
「いや、冗談抜きで。その時にはどうぞ。しかし、今時ラグタイムは珍しいね。それにアレンジも結構入れてたでしょ」
 大石が聞く。
「はあまあ、母親が好きでしてね、一番馴染みがあるもんで。でもまあ、一応どのジャンルでも弾く雑食系ですけど」
 そう言って益田は笑う。そんな益田を和寅は、新しい一面を見た驚きの視線で見詰めた。それに気付いたのか、今度は和寅に向かって言った。
「何ですか和寅さん。やっぱり僕の優雅な姿に釘付けですかあ。けけけ」
「ち、違う!なに云ってンだ!」
「またまたぁ。照れなくても良いのに。よっし、じゃあ次の曲はですね、そんな可愛い和寅さんに捧げちゃいましょう」
「ばッ…!!」
 図星を指されて真っ赤になって抗議する和寅を置いて、調子の良い益田はぺらぺらと喋りたいだけ喋って、座り直す。
「まあまあ、安和さん。捧げてくれるんだって。拝聴しようね」
「う〜…」
 大石に取りなされ、和寅は赤くなりながら唇に手をやってむくれた。
「ではでは…」
 益田の指が音楽を紡いでいく。
 少しメロディを聴いた大石が小さく、ひゅうと口笛を一つ鳴らした。
 そちらを見上げた和寅は、視線をまた益田に合わせる。
 先程の曲とは少し違う、少し不思議でふんわりとした曲だ。
 ぱちぱちと目を瞬きさせた和寅は、ほう…と軽く息を吐いて益田を眺めた。
 益田の紡ぐ音楽の波は、心地良く和寅をたゆたわせてくれる。
 なんか…意外だな。
 少し可笑しくて、くすりと顔をほころばせた和寅は嬉しそうに両手でカップを持ち暖かで薫り高い珈琲を飲んだ。
 この曲、私に捧げるんだってねえ。
 くすぐったいような気分になって、心地良かった。

「良いでしょう、この曲」
 弾き終えた益田が、珈琲を飲みながら近づく。
 今度は素直に和寅は拍手して答える。
「上手いなあ、益田君。なかなかモダンな曲で良いですよう」
 お、今度は素直だな。
 なんて、思っても益田は口に出さない。へそを曲げられると困るからである。
「腕に覚えがありますから。曲、気に入りました?」
「ええ、気に入りましたよう」
 ご機嫌に和寅は嬉しそうに答えた。
「ねえ安和さん」
 大石が声を掛ける。含み笑いを堪えながら、いたずらっぽい表情だ。
「今の曲名、知ってますか?」
 わちゃー、と益田が可笑しそうに髪を掻き上げて可笑しそうに笑った。
「へえ?わたしゃ、こんなモダンなものと縁がないですからね。知らないです」
 なんてんです?
 小首を傾げて尋ねる和寅の後ろから、だしぬけに大声が聞こえた。

「Je te veux!」
 非常に発音の良いフランス語である。
 驚いて振り向くと、何時の間に来ていたのか、ホールの入り口に榎木津が仁王立ちで立っていた。続けて大声を出しながら、榎木津はずんずん来る。
「うわあ、榎木津さん」
「せ、せんせい?」
「おや、こんにちわ」
 三人の言葉など聞いていない。腰に手を当ててぶりぶり怒っている。
「日本語なら『お前が欲しい』だ!こら、マスヤマオロカめ、これは僕ンだからやらんぞ!まったく、油断も隙もないとはこのことだ!」
 そう言いがてら、椅子に座っている和寅を、背もたれもろとも後ろから抱きしめ、榎木津は益田を睨む。
「横暴ですよう、榎木津さあん」
「黙れバカオロカ。まったく、良い度胸をしてるもんだなお前も」
「ぎゃ!!い、痛いッスよ榎木津さん…」
 榎木津が和寅を抱きしめたまま、がつんと益田を蹴った。
 可成りの威力だったのか蹣いた益田が、痛そうに摩りながら涙の抗議をした。
「ははは、お三人とも仲が良いねえ」
 ひとり安全な大石は、笑いながらカウンターの方へ歩いて行く。
「まったく、人が気持ちよく寝ている時に、このゴキブリ男にカサコソ言われて起こされるわ、起きてみれば下僕らがいないわ。散々だぞ!」
「ご、ゴキブリって酷いですよう…!」
「お前がいつも、台所にいるからだと言ったら何度分かる!」
 抗議したら至近距離なのに大声で反論された。
 耳が痛い和寅は潔く涙を呑んで諦めた。
「どうぞ、榎木津さん。目覚ましに」
 大石が珈琲を運んできてくれた。それを受け取り、榎木津は一口含む。
「やあどうもありがとう、沖本さん!」
 この名前の覚えなさも、大石は慣れているので気にしない。
「お久しぶりですねえ。最近ご無沙汰じゃないですか」
「下僕どもに振り回されてまして、大変な毎日なのですよ!」
「う、うそつきー!」
「振り回されてるのはこっちですよう!」
 下僕達の哀れな抗議に耳も貸さない。優雅に珈琲を頂く様だけは貴公子だ。
「それより奥山さん、僕も弾く」
 かちゃりとカップを置くと、オモチャを見つけた子供のような顔になって榎木津は立ち上がった。
「いいですよ、ギターならそこに…ええそこです。使って下さい」
 言われる前にゴソゴソとギター取り出す。
「ふむ…よし」
 お気に召したのか、満足そうに榎木津はどかりと椅子に腰掛け、笑ってギターを構える。
「和寅!」
 出し抜けに呼ばれた。
「は、はい!なんですよう」
 慌てて立ち上がって返事する。
「ちゃんと聽いてろよー!」
 子供が母親にいいところを見せるときのような笑顔で、榎木津が言うものだから、和寅は思わず笑いが漏れる。
 そんな和寅を覽た益田は、慌てて自分も声を出す。
「和寅さん!」
「なんだい?」
「僕のも聽いててくださいよ」
 何言ってんだい、一緒に弾くなら聞こえるだろう。
 そういって可笑しそうに苦笑した和寅を見て、益田は照れたように笑った。
 
 ポロン…と、ひとかき鳴らした後、榎木津は手馴らしに『枯葉』を弾き始める。
 無理矢理やらされていたバンドの時以来、榎木津がまともに弾く演奏を聴く。
 時折ここや自室で榎木津が弾いていたが、家事に追われてキチンと和寅は聞いていなかった。
 アドリブが可成り入った、それでも非常に聴き心地の良い音楽だ。
 和寅は基本的に、自分の出来ない事に対して素直に感動する質なので、やっぱり先生はすごいなあと、聞き惚れていた。
 榎木津の音楽はのびやかだ。紡がれる音も奔放だが一つのまとまりのある良い弾き方だ、と益田は感心した。
 おじさん妙に上手いんだから。
 苦笑した益田が、榎木津のギターに合わせてセッションにはいる。
 ギターとピアノが二重奏となって流れ始めた。
 お。
 榎木津が楽しそうに顔を上げた。
 益田も、へへへ…と笑うが、途端に激しいアドリブとなって、ついて行くのに精一杯のような焦った顔になる。
 より激しくなって面白くなった曲に和寅は、ほえー。と二人を見詰めて聴いていたが、不意に小声の会話が聞こえ、驚いて振り向く。
「おー、こりゃすごいな」
「ねえコレ、ここだけじゃ勿体ないスね」
「今度レビューでやってくんないかなこれ」
 大石と先程のバイトであろう学生と同じような風体の男だ。
 それを聴いて、和寅はなんだか訳もなく嬉しくなってしまった。

「うひゃあ…!榎木津さん、アドリブきついですよ!」
「これ位ついてこないでどうするんだ!よし、もう一曲行くぞ!」
 ピアノに突っ伏して、哀れな声を上げている益田を顧みもせず、ご機嫌な榎木津はやる気満々である。
「…イイっスよ、望む所です。何にします?」
 そうだなあ、と言いつつ、勝手知ったる何とやら、榎木津は楽譜を漁る。
「お、これが良い。…出来るか?」
「どれです?ああ…『How High The Moon』、良いですよ。このパートを…ふんふん、よしやりましょう」
 額をつきあわせて楽譜を覽ていた二人は、了承して位置につく。
 今までと一風違う曲風で、和寅は視線を二人に向けたまま座り直す。
 頬杖をついて二人の演奏を聴く。
 頬がゆるんでいることは、触っているから判っている。
 だけど、和寅はなんだかその笑みを止めることはできなかった。
 珈琲を飲みながら、贅沢だなあと、なぜか思い浮かんで小さなため息をついた。
 


 どうもお世話になりまして。
 三人が近いから上がってきたのは随分経った頃だった。
「ふわあああ。久しぶりに弾いたから疲れましたよ」
 一階に上がる階段を上りながら、益田は伸びをする。
「ホントに弾けたんだな、そこだけは御見逸れしたよ」
「なんですその『そこだけは』ってのは」
「言ったとおりの意味だけでさあ」
 そんな憎まれ口を叩く二人に、榎木津は振り向いて宣言する。
「和寅!これから中禪寺んちに行ってくるぞ!」
 突然のことに面食らったが、榎木津の中では何か系統立って思考が出来ているのであろう。
「あ…、はいはい。いってらっしゃいまし」
「いってらっしゃーい」
 階段を一段ぬかしにして、元気よく榎木津は駆け上がっていった。
「うわあ…元気だなあ、おじさんてば」
 可笑しそうに益田が笑った。


「はいどうぞ」
 紅茶の香りが増すだの鼻腔をくすぐった。
 二人で探偵社に帰った後、やることもないので休憩待機である。
「あ、ありがとうございます」
 益田は嬉しそうに受け取り、一口含む。
 向かい側のソファに和寅が座ろうとするとき、益田は慌てて止めた。
「あああ和寅さん!だめです」
「なにがだ?」
「こっちこっち」
 ぽんぽん、と傍らを叩きながら益田は八重歯を見せて笑った。
「なにいってんだい」
 軽くいなそうとすると、反論がきた。
「せっかく榎木津さんが気を利かせて二人っきりにしてくれたのに…」
 言われて、和寅の頬がぼわっと真っ赤になる。
 そんな訳無いだろうが!和寅は非難の声を上げた。
「ば…っかなことを…!そんなわきゃ無いでしょう!」
 太い眉根を寄せて困った容貌をしながら、和寅は神妙そうに、それでも益田の隣に腰を下ろす。大げさにため息をついた。
 そんな和寅を、益田は若気て腰を抱くと、自分の膝の上に抱き上げる。
「和寅さあん、素直じゃないなあ」
「うわあ!…もう何すんだい!」
「わわ、暴れちゃだめですよ、ね?」
 小さな子供に言い聞かせるような口調で益田が諭すと、和寅は真っ赤に
なった渋面で、うう…と呻いた。おとなしくなる。
 お、今日は温和しいな。
 なんて益田が思って袴の裾を直してやっていると、空いていた手を和寅の両手がきゅ、と握った。
「…驚きましたよう」
「へ?…ああ、ピアノですか。良かったです?」
「ああ、きれいな曲でしたよう。それによく先生のギターについてけましたねえ。前にねえ一度先生にバンドつってベースやらされたんですけどね。私ゃ音楽なんて出来やしなかったですもん」
 昔を思い出しているのか、和寅はじっと益田の指を見詰めて、その細い指をいらった。少し、益田はくすぐったく感じる。
「へえ?和寅さんベースやってたんですか?初耳だなあ」
「でもお払い箱で、私ゃ聞く専門を仰せつかったよ。先生がお引きなさるときには最前列で拝聴するってねえ…ふうん、この指がねえ…。よく動くもんだなあ」
「そうなんですか。…和寅さん、くすぐったいですよ。…あ、全然やめなくて
いいですけど」
「なんだいそりゃ」
 苦笑した和寅が顔を上げた。
 夕暮れの光が巨きな窓から差し込んできて、朱色にすべてが染まっていた。
 益田は目を細めて、赤い柔らかな光に包まれている和寅を眺める。
 ふっくらとした和寅の朱唇が、よけい赤く見えて、益田ののどが小さく鳴った。
 それに気づいた和寅が、はっと顔を赤らめて立ち上がろうともがく。
「さ、さあ夕飯の支度しなきゃ!ま、益田君はなし…!」
 そんな和寅を、強く抱きしめて益田は耳元で囁いた。
「和寅さん…」
「あ…!」
 耳元まで真っ赤にした和寅は、益田の吐息にもビクリと身を跳ねらせた。
「さっき弾いた曲、Je te veux』覺えてます?」
「じゅ…じゅと?」
 2曲目に弾いたやつです。そういわれて、和寅は思い出す。
「あ、ああ…」
「あれの返事が欲しいです」
 少し緊張した声。
 そういった益田は顔を上げた。顔にかかった長めの髪を、左の手で片方掻き上げて耳の後ろにかけた。
 声と同じ、緊張したような面持ちの益田を見て、和寅はぱちぱちと瞬きして少しあごを引き、上目で見つめる。
 あの曲名は、お前が欲しい。
 そう榎木津は言っていた。和寅は榎木津の言葉を思い出すと朱唇を少し噛む。
 真っ赤になった頬が暑い。
 ふい、と顔を背けた。そしてそのまま、ふてくされたような声でつぶやく。
「バカなこと聞くもんだな…」
「そうですよ。僕ぁバカなんですから、言ってくれなきゃわかんないんです」
 だめですか?
 少しあきらめたような声を益田がはき出す。
 和寅は目を強くつむり、顔をくしゃりとさせた。そして、絞り出すように言う。
「…欲しいも何も、君がこうしてんのが答えですよ…!」
 とたんに、ぱあっと益田の顔が明るくなった。
「和寅さんてば…かわいいったら…!」
 な、なんでそこで笑うんだこのバカ!
 和寅はムッとする。精一杯だったのに。
 けけけ、と可笑しそうに笑う益田の顔を見上げた瞬間、和寅は頤をとらえられ有無も言わさず深い接吻を施されてしまった。
 さら、と益田の髪が頬にかかった感触をやけに感じた。
 しばらくたってやっと解放されたときには、怒りもどこかに霧散していた。






 その翌日から、和寅が家事をしながら歌う鼻歌のレパートリーが、一つ増えた。



                                                             end.

Afterword

えーと、『益田と榎さんのセッション』が書きたかった。以上。
でもなんか違う…。音楽を小説にあらわすのは難しいですな。今回は益和風味。益田は執拗くてバカなのが理想です。そして和寅は、そんな益田をしょうがないなあ、とか思ってて欲しい。
お話の中の曲はモロ自分好みで。一応、Pine Apple Ragはスコット・ジョプリンの曲で、スズキの自動車ラパンのCMでかかってます。
Je te veux(ジュ・トゥ・ブー)はエリック・サティ作曲ですな。
枯葉はジャズのスタンダードナンバーで、How High The Moonはジャズギターの名手ジャンゴ・ラインハルトの曲。みんないい曲なんですよう。
益田の両親、捏造しました!母親はピアノで、父親はヴィオラ弾いて欲しいなあ。学生崩れで、酒場のヴィオラ流しやってた父親と駆け落ちする母親。で、母親はピアノ教師で家計を助けると。まあ、私の勝手なイメージですが。
それと榎木津ビルヂングのバーのマスターも捏造。存在だけ確認できて、本人は未登場な人を使うなっちゅーの。









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