レモン
「おや…」
茶を入れに台所に行くと、最前買い物から返ってきた千鶴子が買い物駕籠から買いだした食料を収納していた。
テーブルに並べられた野菜のその一つに、中禅寺は目線を止めた。
「あら、どうなすったんですの」
夫の小さな呟きに気付いた千鶴子は振り向いた。
右手に急須、そして左手に小さな果物を手に取った中禅寺は答える。
「檸檬だね」
片手にスッポリと入る黄色い檸檬を眺めた。
「ええ、お紅茶に入れようと思いましたのよ」
大根を抱えながら千鶴子は、女学生のように屈託なく笑って答えた。
手には、温かい茶の入った急須と檸檬が一つ。
ひとつ、僕に呉れないか。
まあ。可笑しそうに笑った妻は、三個のうちの一つを夫に持って行かせた。
本だらけの座敷に戻った。
金華の猫が、にゃあと鳴いた。
机の上に急須を置いて、中禅寺はもう一度檸檬を目線のラインにまで持ち上げそれを眺めた。
黄色い檸檬は、端の方がまだ少し青かった。
まだ青い、か。
青さに気付いて、中禅寺は少し頬を緩ませた。
そして、いったん檸檬を袂に仕舞うと、部屋の隅にあった美術全集の本を幾冊も取り出した。大観もあればボッティチェルリもある。その煩雑さが中禅寺にとっては好都合で、己の定位置の後ろ辺りにある本の山の上へ、無作為に積んで行く。
袂から檸檬を取り出した。一度、くるりと袖で檸檬を磨いた中禅寺は、そっと檸檬を画本の山の上に置いた。
立ち上がり、中禅寺は楽しそうに一つ溜め息をついた。
小さなその吐息に気付いたのか、隅の座布団の上に眠っていた柘榴が顔を上げた。
たまたま台所へ行ったら、たまたま檸檬を見つけた。
檸檬だと認識した後、たまたま昔に読んだ小品を思い出した。
なんということはない。
偶然性が中禅寺には可笑しくて、その結果として洒落っ気が出た。
それだけである。
だから、檸檬を妻から一つ、貰い受けた。
誰に見せる訳でもない、非常に陳腐だが自分だけの悪戯である。
そう思うと、我が事ながら中禅寺は可笑しくて、ちいさく息を吐いた。
しばらく画本の上の檸檬を見詰めていた中禅寺は、顎を摩っていた手を下ろし、
くるりと檸檬に背を向け、定位置に座った。
出涸らしのまま急須に入れた茶を淹れ、読みかけの本を手に獲る。
にゃあ、ともう一声、いつの間にか中禅寺の側に来ていた柘榴が鳴いた。
翌日も、檸檬はそのまま画本の上に座っている。
古い本のくすんだ色の中に、檸檬の黄色がひと際鮮やかである。
中禅寺は変わらず定位置で、変わらず本の頁を捲っていた。
「おーい、邪魔するぜ」
「こんにちわあ」
玄関の方で二人の声がした。
「はあい」
千鶴子が応対に出る声がし、暫く後にこの座敷へ案内する跫がした。
からりと商事が開くと、妻と二人の男がいた。
「貴方、木場さんと青木さんがいらっしゃいました」
「よお」
「お邪魔します、中禅寺さん」
座敷に入ってきたのは、木場と青木だった。今日は背広姿ではなく、二人とも休日なのか私服である。
「おや、旦那に青木君。今日はお休みですか」
珍しく本から顔を上げて、中禅寺は客を迎えた。
「おう、京極手前、その休日に客として来てやったっつうのに、骨休めたあなんでえ」
云いつつ、木場はどかりと座布団に座った。
「それはそれは。正統な客でしたか。後で開けますよ。いやね、昨日少しばかり労働じみた事をしてしまいましてね。それで骨休めをせねばならないもので」
「なんてヤクザな商売の仕方してんだ、おめえさんは」
「あ」
木場が疑問をあげた時に、ちょうど木場の横に座ろうとしていた青木が、両手でキャスケットを掴み、膝立ちのままで声を挙げた。
まっすぐ中禅寺のいる方向を見ていた。
「どうした?青木」
木場が見上げて尋ねる。
その言葉に応えるような答えないような、そんな回答ではあったが青木は嬉しそうに、そして悪戯っぽく言った。
「爆弾ですね、中禅寺さん」
青木の視線は、画本の山に乗っている、檸檬。
通された座敷は、いつもながら本に埋まっていた。
その本の山の前にはいつもの恐ろしく怖い仏頂面の主人が書を読んでいた。
同行者の木場がその主人と下らない挨拶をしている横で、青木はその主人を見上げた。そして、気付いた。
何時も通りであったが、青木の目には一つ、視線が留められるものがあった。
本の波の、古めかしくくすんだ色の中に、鮮やかな黄色が一点。
檸檬だった。
その檸檬が乗っている本の山に気付いた。一冊の背表紙を読む。
ELGRECOと読めた。画家である。画集だ。
あ。
思わず声が出た。檸檬と画集の山が、ある一つの事象を思わせた。
青木の顔がほころんだ。
ほう、と中禅寺は青木を見詰め、そして面白そうに微笑んだ。
へへ、と青木は先生に褒められた生徒のようにはにかんだ。
いい顔をする。それを見て、中禅寺は思った。
「爆弾だあ?」
ひとり、訝しげに二人を見比べて、木場は素っ頓狂な声を挙げた。
はい、先輩。
そう言って青木はちゃんと座り直して、中禅寺の左後ろに見える檸檬を指さした。
中禅寺へ、同意を求めるように視線を向けて笑った。
「あ?…檸檬じゃねえか。ってか、なんでこんなとこにおいてやがんだ京極」
木場のいる位置では中禅寺の影になって見えなかったようで、木場は青木の方へ寄りかかって漸く檸檬を認識した。
「檸檬だから爆弾なんですよ」
青木は小首を傾げて、寄りかかった木場に可笑しそうに言った。
木場が顔を上げる。青木は一層可笑しそうに微笑んだ。
そんな二人を中禅寺が面白そうに眺め、木場に説明する。
「丸善で美術本を積み上げて、その上に檸檬を爆弾に見立てて置く、と言う話があるんですよ」
梶井基次郎ですね。
青木は明瞭に答えた。
中禅寺は頷いてみせた。青木の童顔が、答え方が、まるで学生のようで、一時期奉職していた教師時代をふと思い出した。
「なんでえ、二人で解り合いやがってよ」
木場は鼻を鳴らして呟き、その自分の言葉に気付いたように咳払いをした。
少し顔を赤らめて。
青木はそれに気付かなかったが、中禅寺はその変化を見て取った。
けれどそれは、黙っていた。
「ふん、それで爆弾か」
木場がもう一度檸檬を見遣る。くすんだ本の中にある檸檬はとても綺麗だった。
「旦那みたいな作家ですよ」
中禅寺が、にやりと笑いながら言うと、青木も同意して笑った。
「あぁ…!確かにそっくりですね」
青木と中禅寺は顔を見合わせて笑った。
「てめえら…!どういう意味だこら」
「いい話だ、ッてことですよ」
「そうそう、そうなんですよ先輩」
こくこく、と真剣に青木が頷く。中禅寺はそれを見てくすりと笑った。
「兄の本棚にあったんです。それを貰って、良く読んでいました」
青木は懐かしむように言葉を紡ぐ。
ほお。と木場が嘆息した。
「なあ京極、おめえんとこにあるか、それ」
「檸檬ですか」
「檸檬はいらねえよ、本だ」
「題名が檸檬って言うんですよ」
「ああそうなのか」
「初版・単行本・文庫、それと初出雑誌。よりどりみどりございますよ、旦那」
そう言って、京極堂主人は笑った。
ちょうど細君が茶を持ってきた。
にゃあ、と柘榴が鳴いた。
夕暮れの眩暈坂を、木場と青木は数冊づつの本を持って下っていた。
京極堂でお買い上げである。
「青木」
「はい?」
「手前らが似てるって言ってた作者よ」
「え?…ああ、はい」
「顔が似てるって言いてえんだろうが」
木場が仏頂面で軽く睨む。
先程、店先でたまたま梶井の顔写真がついた掲載雑誌を見たのだ。
きょとんとして暫くそれを眺めていた青木は、可笑しそうに笑った。
「あはは…!ええ、まあそうですけど!」
そう言ってひとしきり笑った後。
でも、それだけじゃないですから。
強面なのに、ものすごく繊細なのが似てると思ったんです。
たぶん、同じ事を中禅寺さんも思ったんですよ。
意味ありげに微笑み、木場の顔を覗き上げた青木は悪戯っぽく笑った。
子供のようなその笑顔に、木場は知らず苦笑して鼻から息を吹いた。
「さあ、早くおまえんち帰ンぞ。腹減った」
大きな青木の頭を少しだけ乱暴に撫ぜた。艶のある黒髪は少し冷たくて、心地良く木場の掌を流れてうねった。
「は…はい!」
夕映えの橙色に、青木の頬は燃えるように紅く染まっていた。
木場の本の中には『檸檬』が、青木の手には檸檬があった。
end.
Afterword
き、京青ぽく(笑)。まあ、中野のご主人は文蔵がお気に入りで、それに一寸木場は面白くないノー。と言う感じにしたかっただけ。
レモンと言えば梶井基次郎の『檸檬』でしょう。というか、思いつかなんだ…。梶井ちゃん御免ヨー。梶井ちゃん好きの人も。
木場は多分、梶井ちゃんとか読んでないような気もします。読んでるかも知れないけど。まあ読んでない設定で。うちの青木はインテリですから!読んでますよ。どうでもいいが、古本屋デートですか(笑)。あの後は青木の下宿でまったり読書〜。綺麗な外国とかの風景写真本を、膝抱っこで二人で眺めてください(懇願)。
木場と梶井ちゃんは似ている気がします。ゴッツイ外見なのに繊細な性格(作品)というギャップとか。…駄目ですか。すいません。
中禅寺がこういう事する人かどうか、微妙ですな。でも結構茶目っ気のある人だから…!!その悪戯を分かってくれる人って通じ合えるよなー。と言う感じ。
つーか、京極と文蔵って結構お似合いだと思うですよ。コンビとして。先生と学生っぽくて(笑)。密かに好きなんですが。先生のお話を聽くのは面白くて好きだけど、仏頂面が怖くてちょっとびくびくしてる学生文蔵が萌え。(姑獲鳥初登場時に刷り込みされましたよ)
そんでもって。素直で物わかり良い文蔵が密かにお気に入りな京極。極めつけに、密かに通じ合ってる二人に微妙な歯がゆさを感じてしまう木場とか萌えてしまう。