うしろめたさ

青木文蔵が女の子になっています。
女性化に抵抗のない方だけどうぞ。








 容疑者は凶器のナイフを所持していたのは予想外であった。

 一瞬の隙だった。
 きらりと光がきらめいて、出し抜けに追いつめられた被疑者が包囲網目がけて逆走してきたのだ。
 やたら滅多らに振り回されるその凶器は、冷たく泣くようなうらぶれた路地の電灯の光を煌めかせ、捜査員達を襲う。
「っち!」
 黒い弾丸となって、捜査員の包囲を抜けた。一人の捜査員が腕を押さえて立ち止まる。軽くだが、切られた。熱い線上の衝撃が、左腕を走った。だが、掠り傷だ。
「修さんっ!?」
「気ぃつけろ、刃物ブン回してやがる!」
 仲間に名を呼ばれた捜査員は、立ち止まった一瞬後には怒号を発して身を翻して獲物を追っていた。
 慌てて数人の刑事も後を追う。
「抜けられた!追えっ!」
「逃がすかあっ!」
「くっそォ!待てェてめえ!」
 男達は暗澹たる路地を疾走し、後を追う。
「畜生…ッ!」
 袋小路に追いつめたことに、どこか少し安心したのかも知れない。
 木場は数メートル前を逃げてゆく被疑者を追いながら、滾る全身のどこかで瞬時に思う。
 そして、引き出されるように思った。
あいつが危ねえ。
 屈強な男数人で入れば、容疑者は一人。少々手こずるかも知れないが大丈夫だろうと皆思っていた。だから、待機のためにあいつをこの道の入り口に残していた。
 
「待ちやがれェ!時任おッ!」
 木場は容疑者の名を怒鳴り、走った。目前には既に夜の陰惨な明かり溢れる通りが見える。
 そして、木場はあいつを黙視し、そして一瞬の後悔の後、彼の目は驚愕で覆われた。



「ど…っけ、どけっ!殺すぞーッ!」
 窮鼠猫を噛むがごとき容疑者は、血走った目を通りに待機していた刑事らに向けてナイフを振り回し、通りにいた通路を固めていた3人の刑事の輪につっこんでゆく。
 車の往来が激しく、通りの猥雑混沌とした喧噪に、刑事らの怒号は紛れていた。
 一瞬、身を翻してその場を去った二人に対し、一人が出し抜けに容疑者に向かい走ってくる。
「青木、よけろぉーッ!!」
 木場はその一人を認識し、怒鳴った。

 それは、何のためらいもない行動だった。
 その声が聞こえたはずなのに。
 目が合った、のに。
 凶器を振りかざす男に向かい、体当たりするように−否、そのナイフにあたっていくかのように我が身を男に投げだした姿を、木場は見た。
「んだあッ?!」
 突然の衝撃に被疑者が転倒する。縺れるようにして、青木と呼ばれた人影も倒れたが、一瞬早く身を起こした。
「青木ッ!」
 その場に辿り着いた木場が声をかけると同時に。
 ばんッ。
 被疑者と青木の手が縺れて大地に当たる。
 木場はそれを見て、さらに驚愕した。
「お、おいッ…?!」
「せん、ぱいっ!凶器確保しましたっ…!」
 木場の驚きの声に被さって、青木が叫ぶ。
 その声に弾けたように、青木が固めていたナイフを握る被疑者の手を、木場は彼に馬乗りになり満身の力を込めて拘束した。その時、木場は見ていなかったのだ。そのナイフの先を。
「離せよ、貴様あッ」
「ッ痛…!」
 被疑者の手から、ナイフが離れた。
 しかし、ナイフが地面に落ちる音はなく、代わりにぼたりと地面には赤い花が幾つも落ちた。

「こんのヤロオッ!動くなあッ!」
「っぎいッ!離せ…ッ!」
 もがく被疑者の腕をねじ上げた木場は怒鳴った。
「ざけんな手前ッ!っしゃあ、被疑者確保ォ!青木、時間だッ…!?」
 叫び、青木の方を見やった木場は、その叫びを最後まで告げるにはあまりにも驚きを禁じ得なかった。

 荒い息を肩で継ぎながら、青木は奇妙な身振りでこちらを見ていた。
 左腕を右手で硬く押さえ、その間には鮮血に染まった凶器。ぶるぶると小刻みに震える刃は、青木の震えにチラチラと嫌な赤い光を放っている。
 こちらを見ている青木の眼が。
 あまりにも木場には強くて、青木に対する言葉をそれ以上出せなかった。
「あ…ッ。はいっ、十七時五十六分、被疑者確保時刻です…ッ!」
 一瞬遅れた青木は、急いで血に染まった袖をめくり、時間を読み上げた。
 がちゃん、とその動きで放されたナイフが地に落ちた。
「木場!青木!」
 その言葉に、ふっと意識をゆるめた青木が地面にくずおれる。
「よし、捕縄だ!」
 刑事達が駆け寄り、幾人にも被疑者は抑えられた。木場は、我を取り戻す。立ち上がり離れると、翻して青木の胸ぐらを掴み。
 そして、怒鳴った。
「こっ…の、馬鹿野郎!」
 言いざま、強く木場はその震える腕で青木を抱きしめた。



 青木文緒は、昭和二十七年四月一日付けで警視庁捜査一課に配属された。
 その少し前の新春明けてすぐに、豊島署からやはり捜査一課にやってきた木場修太郎の部下であり、相棒である。
 当日になるまで、木場は相棒が変わると言うことを知らなかった。
 新人が来る、と言うこと自体知らなかったと言ってもいい。
 だから、大島捜査一課長が新人の紹介をするために、青木を連れてきたとき、酷くたまげて。何の冗談かと面食らった。
「初めまして。青木、文緒と言います」
 面接試験を受ける学生のように緊張で硬くなりながらも、はにかんだ笑顔で木場を見上げて挨拶したのは。
 綺麗な髪を少し長めの断髪に切り揃え、黒のスーツに身を包んでいるのが大人を真似している少女のような、若い女性だった。
「…あ?」
 警視庁は殺人課。全く持って目の前の人物と結びつかない。
 木場はかなり間抜けな声を出したことを、自分で気づかないほど呆気にとられたのを覚えている。
 
 刑事課特別配属婦人警官、と言うのが青木の肩書きである。
 昭和二十一年に婦人警官が警視庁に採用された。それに伴う、人材の配置を考査するためのテストケースだという。
「彼女、戦時中に特別女子挺身隊ってのに配属してたらしいですよ」
「特別…?なんだそれ」
 木下が茶を差し出しながら木場に言う。
「はあ、なんか海軍さんの方で戦争中に作られた隊ッて。戦地に軍人送った穴埋めに」
「穴埋めえ?なんでえそれ。そんなことしてたのか、海軍ってのはよ」
「はあ、軍隊に女性入れる試験的部隊だとは聞きましたが。暗号解読班の代わりに内地勤務してたって。部隊も通称を桜桃、サクランボなんて可愛い名前ついてますけど、隊っても、今まで大の男40人単位だったとこに、文緒さん達4人入れられただけ。かわいそうですよ、それ。しっかし、すごい経験ですよね。俺なんかよりずっと酷な戦中体験ですよ」
「手前はアレか、消防手やってたんだっけな」
 木下は戦中の空襲に備えるため大々的に募集された、当時警察の一部であった消防手からの戦後警察官への転官組である。終戦直後、火事になるものはみな燃えた後で、残ったものは人間のみだったからだ。
「はあ、俺、徴兵でとられてたら、近衛師団に入れられること地元で決まってまして、俺もマレー行きかー、とか思ってたら戦争終わったんですよ。そう思うとなあ。なんでも二十年の春からのちょっとの間だったってにっこり笑ってましたけど、健気ッすよ。文緒さん、十八でお嫁入りならぬ海軍入りですからねえ」
「なんだ手前、第一師団じゃねえのか」
 東京に戸籍のあるものが徴兵された後、入れられた中のひとつが第一師団である。木場はそこの職業軍人だった。
「なんか俺柔道やってた関係で、地元の在郷軍人に目えつけられてて」
 近衛師団は、皇居を守るため全国からの選抜された将兵が集まる。また、戦争末期は数少ない現役部隊だったため、いきなり激戦区のマレーに投入されている。
「まあ手前みてえなのが、まかり間違って俺の中隊に来ちまったら泣けてくるとこだったな」
「そりゃ酷いッすよ」
「俺んとこあよ、中隊長からして学徒出陣組の即席将校でな、そいつもまッた、逆さにしても何しても到底軍人向きじゃなかったから、俺あ大変だったんだぞ。それ以上来んなって話だ」
「そうなんすかあ。先輩も苦労したんすね。まあ、俺の話はどうでも良いとして、文緒さんッすよ。海軍さんツーか、軍全体が人手不足だったにしてもなあ」
「っつーことは、あっちの嬢ちゃんの方が大の男の手前より先に軍人さんになったってことか。あんなちまくてぽえぽえしたの、軍人から真反対じゃねえか。よく海軍も選んだもんだな」
「まあ暗号解読だから、体力とかは関係なかったんじゃないッすかね。そうそう、色白だなーと思ったら宮城出身だそうですよ。東北は色白美人の産地ですもんね、高等女学校(今の中学校に当たる)から高女の専科(今の高校に当たる)まで東京の学校だったみたいですけど」
 だからうちなんかに入れられちゃったんですね。あの子結構華奢なのに可哀想だよなあ。
 木下は同情するように眉を顰めた。腹具合の悪い狸のようである。
「ほおー。…ってか、なんで手前がそんなこと知ってんだ。つーか文緒さんってもう呼んでんのか」
「や、さっき話してみたら同い年で結構話とか、合ったんですよねえ。へへへ」
 脳天気な笑みを浮かべ、嬉しそうに話す木下を木場は顰めっ面をして、ふんと鼻を鳴らす。
「なにヤニ下がった面してんだ、この馬鹿が」
「わ、す、すいません」
 もう良いよ、手前もちったあ仕事しろ。
 邪険に木下を追っ払った木場は、課長とともに資料の照合をしている青木の姿を見やり、クシャミひとつした。
 木場と青木が正式に相棒となる、二分前のことだった。

 その後、青木は木場に附き、刑事業を熟していった。
 はじめは新人の女、と言うレッテルを持て余すかと思っていた木場だったが、地道な聞き込み作業、緊張と錯綜の混じるつらい捜査本部の空気にも青木は耐え、犯人の糸口へと辿っていった、その素直な態度が木場に良い意味での意外さを感じさせていた。

 入ってすぐは木場とともに過去の事件の洗い出しと書類作業に没頭していた。そのため勤務超過で深夜にまで仕事が及ぶことがざらで、女性と言うこともあり、何となく木場が青木の下宿まで送り届ける、と言う習慣になった。
 そのため、歩きしな、話をする機会も多くなった。
 大半は仕事のことを話すのだが、時たま郷里の家族のこと、女学生時代のことを青木は話した。青木は高女時代から上京しており、木場と昔の東京話で合うこともあった。
「桜桃部隊、のことですか」
 青木の昔話の際、たまたま木下から聞いた話を思い出し、木場は尋ねた。
「私もよくわからないんです。ただ20年の春に高等女学校専科の卒業式の後、校長先生に呼ばれて、私ともう一人の友人と一緒に、横須賀の海軍基地に連れて行かれた後、一緒に船に乗せられてどこに行くか判らないまま、2人の他の女学生さんと暗号解読の任務に就くことになったんです。後から聞いたら、行き先佐世保だったんですけど。私も、言うなれば軍人だったんですね」
 特挺崩れです。
 青木は歩きしな、語り、そして小さく微笑んだ。
「特挺?」
 木場は訝しげな声を上げる。
「ええ、特別女子挺身隊崩れだから。特攻崩れ、みたいな雰囲気で。おうとう、と言う部隊名も、気に入っているんですけど」
 こつん、と青木が傍らの石を蹴った。
「部隊もただ女性兵士のテストケース、と言うだけで何も知らさせませんでしたし、終戦後の雑多雑多で何も判らないまま、引き上げ列車に乗りました」
 木場は、青木に蹴られ、暗がりの方に消えていった石を見つめながら、話す。
「それ軍事機密じゃねえのか」
「さあ?特別何も箝口令は敷かれていませんし、佐世保で私たちを見た軍人さんも多数いました。ただ取り立てて言うことでもありませんし、訊かれたら答えるくらいです」
 まあ、そうであろう。木場とて、過去のことを吹聴する事もないし、訊かれたら答えるのみである。
「けどよ…」
「でも、」
 青木はその関係で、私が婦人警官のテストケースも拝命することになったんじゃないでしょうか。と少し大きめの頭をかしげて、木場を見上げて微笑んだ。
 その笑顔に、何故か木場は少しうろたえる。
 ああ、これは。刑事の肩書きの顔ではないからだ。
 木場は思い、咳払いをしてことさらぶっきらぼうに答えた。
「お前、試験対象ばっかだな。…刑事とかいやじゃねえのか」
 刑事になりたいのではなく、ならされたのだ。そう木場は考えた。あまりにも突然に決められた前歴に、青木はいつまでも引きずられている。そんな気がしたのだ。
 すると、青木は事も無げに応答する。しかし、その青木の答えは、木場にとって耳に残るものであった。
「だってそれは私が望んだことですから」


女、と言う所属一般が苦手な木場ではあったが、意外にも青木の方から懐いてきたこともあったせいか青木に対しては仕事のことなどすんなり話せるのに、自分自身で驚いていた。それを、木場は「刑事」という肩書きが青木にあるからだ、と自分なりに納得させていた。
 刑事、として彼女は優秀である。
 その脇目を振らない真っ直ぐな態度は、少し青臭くもあったけれど。
 被害者から情報を聞き出したり、遺族と面会したり、そう言ったときに厳つい強面の刑事より、当たりも柔らかな者が尋ねに行く方が聞き出しの時間も変わって来るというものだ。
 ただ、それが木場にはどこか引っかかるところがある。
 職務に対して、忠実すぎる嫌いがある。それが木場にとって少し、煙たい気がした。木場にとって真っ直ぐ実直な彼女がまぶしく青臭いと感じるのだ。それは、一般的に言えばよいことでもある。しかし、どこか青木の青臭さは、ほつれている印象がある。何故なのか判らないままだったが、それ以外彼女には何の落ち度もなく、朗らかで生真面目な性格もあって、木場にはくすぐったい感触をいつも残して水道橋の下宿に微笑みながら帰っていた。
 そんなとき、不意に思うのである。
 危ういな。
 あの微笑みは、木場には青木自身の破綻と言うような、そんな錯覚を牽引し、どこか引っかかるものを感じさせるのだ。
 

 
 唐突に、事件は発生した。
 無差別連続殺人犯。現場はふざけたことに桜田門近郊に発生。既に3人が重軽傷・2人が死亡している。いずれの人間も、何も関連性のない。
 所轄に捜査本部が置かれた。
 木場は青木と伴い出向する。青木にとって、初の事件である。
 そこでの青木の仕事ぶりは、木場をして「意外にやるじゃねえか、嬢ちゃん」と言わしめる位であった。
 しかし一方で、事件への入れ込みようは、どこか尋常ではない気もした。
 幾度も幾度も現場へ足を運び、どんな小さな情報でも漏らすまいと聞き込みを重ねる。その結果、犯人は特定された。
 この事件について、ではなく。「正しいこと」への入れ込みである。
 自分の危険というものにあまり、頓着がない。
 むしろ、半ば強迫観念に駆られた奉仕への逃避。
 事件解決、と言う社会善に自らを投げ込むことで、なにかかから逃げたがっている。
 そんな風に、木場は思っている。
 思えば、自分がそれに近いから判るのだろう。無骨な男。屈強な刑事。そんな肩書きという筺に守られ、木場という男は肩書きに真反対の核を大事に大事に隠して、生きているのだから。
 だから木場は、青木のそれを何も言うことはない。
 ただ、砂時計の砂が、少しづつ落ちて山が積み重なるように、少しずつ、少しずつ。青木が犯人を追いつめてゆくごとに、確信に近いものとなるのだ。

 だからなのか。
 むしろ、それを止めようとしたのか。延期させようとしたのか。
 木場には判らなかったが。
 ヒロポン中毒患者である容疑者は、メタンフェタミンを不正に軍から横領したものを元手に闇医者を開業していた元軍医から買っていることが判った。早速木場らは元軍医を別件で覚せい剤取締法により緊急逮捕拘束、まだ逮捕を知らない容疑者が元軍医を訪れる機会を待って、張っていた。
 かくして、容疑者は訪れ、追いつめた。
「青木、お前はこの通りで待機だ!」
 そう叫んだとき、木場は意識して後に走ってきた青木の顔を、振り向かなかった。
 
 他2名の所轄刑事とともに青木を残し、木場は他の刑事とともに袋小路へ容疑者を追いつめたのだ。
 しかし、容疑者を押さえたのは、皮肉にも青木であった。しかも、自ら凶器に飛び込んで。
 だがしかし、確実に青木とその時木場は目が合った。
 何故、あのとき青木は。それはやはり、あの破綻した「正しさ」への帰結だったのか。
 木場は、怒りとも困惑とも取れない感情を爆発させた。
 緊張が解けたのか、失血によるのか。青木はぐったりと動かない。木場は他の刑事から渡された捕縄で青木の出血を止めるため戦地仕込みの荒い救急手当だが止血を施し、青木を抱えてようやくやってきた警察のジープへ押し込める。青木はとても軽くて、木場はなぜか切ない感じがした。
「おい、こっから一番近ェ病院つれてけ!」
「あ、は…はいッ!こっからだと、えーと…」
 突然のことに周章狼狽している制服の運転手に、木場はいらだつ。
「どうでも良いからいけよ!」
「ま、待ってください、今無線で訊きま…あ、はい麹町2号から発信、問い合わせです、現場付近に病院ありま…あ、はい負傷者一名出てます。はい…え?…すいません」
「んだよ?」
「今調べて貰ってますけど、その方の身元判り…」
「本庁捜査員だ」
「え?女の人ですよ」
「刑事だよ、こいつァ。青木文緒って言えば判るだろうよ」
「はぁ…あ、もしもし、負傷者の身元は本庁刑事で青木文緒さん…そうです、青木さん女の方で…。あ、はい、はい九段の里村醫院、はい…はい了解です、ではそちらに回しますので、連絡…はい、了解しました。どうも」
 慌てた樣子で警官は無線を切り、車を走らせる。
「里村醫院だあ?」
「は、はい。今本部からそちらに向かうよう、指示が」
「なんだってあの変態異常医師のとこに…まあいい、急いでくれ」
「へ、へんたいいじょう?」
「ああ三度の飯より死体解剖好きっつうな」
 木場は渋面で舌打ちをし、抱きかかえた青木を見やる。
 黒いスーツは血が目立たなかったが、左腕の袖は既に血が含んでいて重い。ざっくりと切られたそこは、素人目にも深い気がする。木場は目を細めて歯を噛みしめる。心なしか顔も青い気がした。
「おい、青木。おい…」
 念のため軽く頬をたたいて起こそうとした木場は、途中でぎょっと目を疑った。
 車の振動で、青木の頭がこてんと揺れた瞬間、左の頸筋から髪の毛がさらりと落ち、あらわになる。
 耳の下から項にかけて、一線に切り傷があった。それは古い傷のようで、何針も縫ってある。鋭利な刃物で切られたような痕である。
 青木に似合わなすぎるその痛痛しい傷が、木場の渋面をさらに酷いものにした。

 

 夜の病院待合室は、なんだかウソ寒い。
 里村醫院の待合室で、木場は一人タバコを吹かす。
 事前に連絡を受けていた里村医師は、にこやかに彼らを迎え「先に彼女やっちゃうから待ってて」と嬉しそうに青木の傷を調べながら、木場を見ることなく後ろ手に手を振った。
 ひとり手持ちぶさたの木場は、治療室から出てソファに腰掛けると一息ついた。
 なんだ、あのクビの傷は。
 脳裏に浮かぶ。
 そして、どこからともなくあの夜の青木の声が思い出される。
 「だってそれは私が望んだことですから」
 ふん、と木場は鼻から息を出す。
 タバコの煙が、暗闇に熔けてゆく。
 
 がちゃ、と扉が開き、笑顔の里村医師が顔を覗かせる。
「青木は」
「さあ木場君、次は君の番」
 自分も怪我をしていたのか。忘れていた。
「俺のぁ良いよ。掠り傷だ」
「ダメだよ、ちゃんと消毒しないと」
「ほっとけよ、こんなん戦地じゃいちいち気にしねえレベルだろが」
「それは運が良かっただけだよぉー木場君。破傷風菌なんて日本にぶよぶよいるからね、ほらそこにも浮いてるし。菌のついた腕毛なんかがちょっと傷口に触っただけでも、そこからぱっくり皮膚が裂けて赤い血吹き出す患部から侵入、菌は体内に入り込んで傷風毒素、テタノスパスミンって言うのを君の体内の至る所、そう血管の中や白い脂肪の影、よぉく発達した君の筋肉などに菌は増殖し、うぞうぞと産み付けられる。そうすると、毒素が脳や脊髄の運動抑制ニューロンへ駆け込み一直線。てきめんに下される指令は、全身くまなく張り巡らされた大小様々な筋肉の麻痺や強直性の痙攣を…」
「だあッ!氣持ち悪い、わかったよ」
 柔和な笑顔で、気持ちの悪い形容をつけて饒舌で語り出す医師を睨み、木場はタバコを灰皿でひねり消すと、凶悪な人相で立ち上がる。
 明るい清潔な治療室に、青木の姿は見えなかったので木場は尋ねた。
「おい、青木どこやった」
「心配性だねえ。あの子は隣の病室に移動」
「傷ぁ深いのか」
「うーん、確かに患部は白い骨が見えるくらいに達してたんだけど、腕の外ッ側で受けてるでしょ、ナイフ。だから良い感じに血管とかやっかいな部分は傷つけないで済んでる。…あーなんだ木場君のは縫わなくてもいいな、これくらいのだと」
「てめえ、残念そうに言うな、クソ医者が」
「だってーやっぱり僕、切ったり縫ったりする方が良いしー。生体はつまんないヨー。まあ、あの子の方は、ちょちょっと縫った感じ。なるべく痕残らないように気をつけて丁寧に縫ったんだよ。貧血起こしてたけど、失血が原因じゃなくて多分精神的にだと思う。手当てしてるときに意識も戻ってたから、大丈夫。今は多分寝てると思うけど」
 里村は手際よく木場の手当を熟しながら、屈託なく話す。
「まあ今日一晩は、ウチで預かるよ。なんなら木場君も泊まって来なね。こんな凶悪な強面の手負いの男、しかも服は血まみれ。行く先々で不審人物だから」
「…なんだ手前喧嘩売ってんのか」
「いや、でもホントでしょ」
「…空いてるベッド使わせて貰うぜ」
 里村ののらりくらりとした会話に、気力がなんだか抜けてしまった木場は、もう本庁に帰ることさえ億劫に感じられた。
「どおぞぉー。あの子のお守りもお願いね。青木文緒ちゃんだっけ。あの子アレでしょ、例の刑事さん候補」
「あ?ああ、なんてったか忘れた、婦人刑事候補生だ」
「ふーん。本庁にこないだ行ったときに、その噂は聞いたんだけど、あんなのほほんお嬢さん然とした子が刑事、ねえ。意外だなあ。でもまあ、今日の名誉の負傷が彼女の勇気の証拠だねえ。彼女指名した偉いさんも、一応見る目があったってことかなあ」
「ふん、どうだかぁな。…っつ、馬鹿野郎痛えじゃねえか」
「まったまたー。ちょーっとエタノールで拭いただけだよぉ。麻酔無しで切られた方が絶対痛いって」
「このタコスケ、捕り物の最中にいっくら怪我しようが、そん時ぁ気にもしねえもんだろうが。こうやって、傷を確認させられる方が痛てえっての」
「そっかー。僕、活きモノって興味の範疇外だからさぁ」
「現役医師の看板出してる奴が言う台詞かっちゅーの」
「はい出来た」
「ん…おお、ありがとよ」
「でもさあ、ちょっと心外なんだけど。心情的に興味がないってだけで、お仕事は真剣にやってるよ。患者さんの健康が一番」
「…俺も患者だろうが」
「あーホント、活きてる人って複雑で大変。死体は良いよお。必ず真実を語ってくれるからねえ。ウソつかない」
「今の、台詞だけ聞いたらなかなか洒落たことも吐かしてやがるけどよ、手前が言うと異常嗜好の変態医者・真実の叫びだな」
「酷いなあ。個人的趣向と使命とは一致しないことも、ままあることだよ。あ、木場君」
「なんでえ」
「とりあえず、君と青木さん、このまま静養で直帰しますって、連絡入れといたら。本部に。一応、さっきのジープ返すときに言伝は頼んであるけど、あのくるまって麹町署のでしょ。一応本庁デスクに入れときなよ」
「あ、そうだな。ありがとよ。電話借りるぜ」
「いえいえ。僕も君らの治療費請求、大島課長にでも報告しなきゃだし」
 
 木場が本庁に連絡を入れると、木下が電話に出た。事情は既に了承しているらしく、課長から青木をこのまま休ませ、木場が明日午後に報告に来るようとのことだった。
「じゃあ僕、治療室片づけたら帰るからさ、あの子の居るのが治療室の奥の扉あるじゃんね、そこ出て手前の東の部屋。そこもう一個ベッドあるから、そこ使って。一番西の方に患者さんいるから靜かにね。中風のお婆さんだから、騒いだら怒られるよ」
「誰が騒ぐか」
「いや、ネコが跨いだだけでも痛いらしいからねえ、中風って」
 そんな暢気な会話をして電話のある受け付け事務から治療室へ戻ってくると、丁度看護婦が里村の入っていた奥の扉から入ってきた。
「あら先生、丁度よかった。これ」
 そう言って持っていた衣服を少し上げて見せるようにした。
「ん、ありがとねミエさん。今日は僕がここ片づけとくから、もう上がって良いよ。木場君、これ着替えだから」
 はい。と渡された。開襟と濃い灰色のズボンである。
「あ、こりゃどうも…」
「いえ、古着屋さんで急いで買ってきたものですけど」
 里村の配慮だろう。
 年配の看護婦は、では私は…お大事になすってくださいね、先生お先に失礼しますと、一礼して出て行った。
  とりあえず血塗れの開襟を脱ぎ、濡れ布巾で身体を拭くと着替えをすませる。律儀にネクタイまでしてしまった。
「僕はここ片づけたら二階の書斎か寝室にいるから、なにか異変あったら起こしてねえ」
「おう、服もありがとよ」
 木場が奥の扉を開けると、小さなホールになっていて、そこから放射線状に何室か病室があった。その一番右手、青木文緒、と札が下がっている扉をノックする。

「はい」
 入って右側には、カーテンが引かれている。木場は、そのカーテンを少し引き、中を見る。
「おう、怪我ぁどうだ」
「あ…木場さん」
 浴衣姿で床に臥せっていた青木は木場の顔を見て、慌てて上半身を起こした。
「あんま動くな」
 彼女の動きを制して、木場は傍らに置いてあるイスへ腰掛けた。
「お医者様が、運の良い切られ方したねえ、って。ただ肉が切れただけだから、心配ないって仰ってくださいました」
「いてえか」
「切られたときは全然感じなかったんですけど、今こうやって傷を確認すると…麻酔打ってるのに痛いような気がします」
 そう言って青木は、包帯に一方の手を添えて苦笑いした。
「この馬鹿が。凶器持った奴に突っ込んでく馬鹿があるか」
 苦笑いを見て、木場はどこかくすぐったく感じ、ことさら渋面で睨むようにして低い声を出した。
 俺と同じようなこと、言ってやがって。
 先ほど里村に行った言葉と同じ事を青木は言う。

「あ…はい…。すみません」
 一転、しゅん…と顔をうつむけて青木は答える。
 しかられた子犬のようなその姿に、木場が今度は心中で動揺する。そこまで詰るために言ったのではない。
 しいん、となってしまった。
「まあ…そのクソ根性だけァ、認めてやる」
 ぼそりと木場はぶっきらぼうに呟いた。
 青木は、びくりと顔を起こし。目をぱちくりさせていたが、花がほころぶように微笑んで返事した。
「は、はいッ。ありがとうございます」
 とてもその顔は、綺麗だと感じた。
 そんな自分に、もちろん顔には出さないものの、木場は心の中で大層仰天した。
「ともかく、今日は寝てろ」
「先輩」
「なんだ」
 じっ、と大きな眸で見つめられ、木場は少なからず緊張する。
「私は、役に立ったでしょうか」
 問われて、木場はごくりと唾を飲み込んだ。
 青木の顔は、どこまでも真面目で。そして、まるで断崖絶壁の上に立ってこちらを見やるときのような、切なく逼迫した表情が、木場を絶句せしめたのだ。

 しばらくの間、無音であった。
 ごほん、と木場が咳払いする。覚悟を決めたように。そして、語る。
「まあ、な」
「そうですか…よか」
「でも、解せねえ事がある」
 ホッとしたようにはにかむ青木の言葉にかぶせるように、木場は怖い声で言う。
「え?」
「てめえは、なんであのとき避けなかった」
「あ、あの」
「それだけじゃねえ。そもそも手前、刑事やりたくて志願したんだったな。俺に前そう言った」
「は…い」
「何故、志願したんだ?それが解せねえ」
 木場は座り直し、膝に肘をついて上体を低くした。
「お前は刑事としちゃあ、根性もあるしクソ真面目にしてらぁ。それはいい。だがな、お前の入れ込みようはどうも、アブねえところがある」
 言われた青木は、くっと奥歯をかみしめ、木場を見る。
 そして、一度目を伏せた。しばらく、無音が続く。
 もう一度木場を見たときは、覚悟を決めたような顔であった。


「私は、死にたかったのだと思います」
 唐突に語られた言葉を聞き。木場は眉根を寄せる。
「あ、ああ?」
「死にたかったから、今の刑事という道を選んだのだと思うんです」
「…どういうことでぇ?手前、死ぬために刑事志願したのか?あ?」
 これが女でなかったら、青臭い小僧であったら胸ぐら掴んで拳を固めているところである。

「私が戦争中、桜桃部隊って言う特殊部隊に居たことは、木場さんお知りでしょう」
「ああ」
「その特別女子挺身隊で、私は…一人だけ生き残ってしまったんです」
 青木は、靜かに語り始めた。


 昭和二十年の三月、十八の春。
 殆どが勤労奉仕の工場勤めと空襲から逃げまどった事で終わってしまった、高等女学校専科の卒業式直後、青木文緒は級友と別れを告げ、郷里からはるばるやってきた母親−父親は地元県庁職の仕事が多忙で、どうしても来られなかったのだ−とともに故郷の宮城へ帰ろうとするところを、担任の教師に呼び止められた。
「青木さん、探しましたよ。校長先生からお呼びです。お母様には私からお話ししますので、さ、行ってらっしゃい」
「あ、はい。母樣、待っててね」
 久方ぶりに国防服のもんぺからこの日のために穿き替えた、本来のセーラー服のスカートを翻して、文緒は走った。

 校長室にはいると、先に友人の実方みすずが居た。みすずが少し怒ったような顔でこちらを見た。文緒は、何のことだかよくわからなくて、きょとんとした。二人揃って応接ソファに通された。反対側には、海軍将校の制服を着た三十代半ばの軍人が座っていた。彼に会釈をし、坐った。
「貴女達は特別女子挺身隊として出動するようにとの、軍の要請です。それに従い、軍の指揮下に行動してください」
 校長が、唐突に言った。
「すみませんが、貴女達二人に海軍から要請します。行き先も仕事もすべて軍極秘ですが、よろしく願います」
 海軍将校は初めて口を開いた。
 よろしくもなにも、自分たちの意思なんて変更の要因になるわけがない。
 文緒とみすずは、俯向いて、はい、と小さな声を漏らした。
 別室に待機するように、との事で二人きりになった途端、どちらからともなく狼狽えた声を出した。
「どうしようみすずちゃん…!」
「なにこれ、私たち…特別女子挺身隊ってどういうこと?」
「わかんない、なにするんだろう。軍極秘って言ってた。もしかしたら私たち」
「軍人になるってこと?」
 
 その日の夕刻。地元の駅、既に担任から話を聞いていたのか、覚悟を決めた顔の母と別れた。最後だから、と文緒の髪を綺麗に二つ分けし、三つ編みに結ってくれた。みすずの両親も神妙な顔で見送っていた。これが、私たちの出征なのか、と二人で泣いた。本当なら、この駅から故郷に帰るはずであったのに、反対の方向だ。文緒は、流れる車窓を陰鬱な目で眺めた。
 横浜の駅に降ろされた。同行してきた軍人に促されて、到着していた軍用自動車に乗せられる。
 笹川と名乗った軍人は、軍人臭くなく、まるで近所のお兄さんのようだ。だが、あまり心を開く気になれなかったのは、この男がどこか人買いのように見えて仕方がなかったからだ。
「あと少しでつくからね。今日はそこで泊まって貰うから。明日の午後、船に乗って目的地に行くよ」
「はあ…」
「君たちの他にあと二人、合流する予定だよ」
「あの、いったい私たち…どうするんですか」
 ためらいながらも文緒は尋ねた。
「うんあのね…。君たちには、ある部隊を結成して貰うんだ」
「ぶ、たい」
「ああ、特別女子挺身隊。君らは、内地から出征してゆく部隊のあとを埋めて貰う。暗号解読が主な任務だよ」
 それと。
 笹川は一息ついで、続けた。
「君らの部隊は、女性を軍に入れるテストケースとして結成されたものだ。通称を、桜桃部隊というんだよ」
「テストケースってなんですか」
 みすずが訝しげに聞く。みすずは、聡明で美人だが少し気が短い。美しい眉根が寄り、凄味がある。
「そんなに睨まないでよ。この大戦、多くの将兵が必要だ。そのために今、日本中がしていることは判っているね」
 十八年には徴兵猶予とされていた文系学生が戦地に赴き、学業期間自体も中学四年制・高校も二年制と短縮され、どんどん男という男は兵隊に取られて行っている。
「それでも足りないから、女も使おうって事ですか。使えるなら何でも使おうってことね」
 みすずが挑戦的な口ぶりで言う。
「み、みすず…」
「だってそうでしょ。飛行機のねじ作りに使ってるだけじゃ、もったいないものね」
 ばさりと、豊かな長い黒髪を掻き上げた。
「まあ今更言いつくろっても仕方ない。そう言われると耳が痛いが、平たく言っちゃえばそう言うこと。将来的にも、婦人兵士の必要性が軍上部から案として出て居るんだ」
「だからって」
「そうでもしないと、もうダメな時期なんだよ」
 笹川の言葉に、みすずも黙った。その声は悲痛で、もう何も言えることがなかったからだ。
 東京の大空襲で、何もなくなった焼け野原を見て、私たちはもう悟っていたから。

 横浜から船に乗せられた。その時、黒地で白で「挺身隊」と書かれた腕章を貰った。みすずは小鼻をならして、颯颯とそれを着けた。文緒には、それが喪章に見えて仕方がなかった。
 見も知らぬ軍港に降ろされる。
 引き続き、トラックに乗せられた真っ暗な山道を登っていった。全ては秘密裏の行動だから、と始めから同行してきた軍人は何も教えてくれなかった。到着した時、看板には「海軍警備隊砲射空戦指揮所」とあった。おそらく両親にさえ知らされていないであろう、秘密裏の場所だ。こんな所で死ぬのか、と文緒はげんなりした。
 一室に通され、他二人の女学生と合流、計四人で桜桃部隊の結成となった。
「よろしくね」
 そんな風にお互いを紹介しあっていると、なにやら扉の外が騒がしい。
 訝しそうな顔でみすずが皆に合図をし、そっと扉に近づいて。一気に扉を開けた。
 とたん。
「わあああっ」
 大勢の兵隊が雪崩となって落ちてきた。
「なんなんですか、あなた方!」
 みすずが怒る。
「い、いやぁ、失敬失敬」
「俺らの代わりに、女学生が来るって言うんで拝んでおこうと思って…」
 兵隊達は頭を掻き掻き、白状する。
 その夜私たちを迎えてくれた何十人かの兵士たちは、日本を発つ最後の日なので、と宴会に彼女らを誘った。

 細やかな宴会が、その夜の兵舎を明るくさせた。
「おまえら、しょうがないなあ」
 例の笹川は、呆れた顔でその宴会に参加していた。彼は、この部隊の参謀官だったのだ。
 文緒ら女学生は、その宴会に参加した。それもまた、彼らと彼女らの運命が合わさった縁なのかも知れない。

 翌朝、ざわざわとした雰囲気に、文緒達は目を覚ました。身支度をし、昨夜知り合った兵隊らがたむろしていた前庭へ行った。
「兵隊さん!」
「お、お見送りしてくれんの?」
「え?」
「今から出陣だよー。行ってくっから」
「俺たちのあと、よろしくね」
「帰ってきたら、また遊ぼうねー」
「っていうか、映画でも一緒に行こうよー。帰ってきたら!」
「お、集合ラッパ。じゃあねー」
 あっさりとした別れの言葉を口々に、皆が隊列を組みに行ったのを、彼女らは見ているしかなかった。
 笹川が、彼女たちを見つけ、指揮官に何事か耳打ちをした。
 すると、号令が下り、見事に整列した兵隊が一斉に彼女らの方向へ向いた。
「行って参ります!」
 大声で、彼らは言い。敬礼した。
 それが彼らを見た最後だった。戦地へと向かったのである。総勢六〇人が出征していった。

 昨夜までその兵士たちがやっていた任務を、今日から文緒達四人がやることになった。隊長はみすずである。
 始めに通信訓練を受けた。モールス信号、海軍音読唱、手旗信号と覚えることは膨大だったが、付け焼き刃であろうが必死に覚えた。このあたりには数十か所の見張り所があり、最新鋭の電波探知機などが其処此処に配置されていた。それらの見張り所や砲台からの情報をい司令部へ伝え、司令部からの命令を送電する役目を彼女らが行った。
 訓練を受けながら、すぐ配備につけられた。みすずと二人で、最前線電送基地勤務だった。
 
 そしてあの日がやってきた。
 大々的な空襲の日、それはまさに実戦、それも激戦だった。B29は軍港に停泊している艦艇を標的にしていたのか、それより前にある幾つもの小島にあった基地からの被害状況、敵機の進路情報などが、怒濤のごとく電信されてきた。その間、文緒らは防空壕にはいることもなく、雲霞のごとく飛んでいる飛行機から落とされる爆撃の衝撃に揺らされ、照明弾の閃光に目をまぶしく照らされながらも、通信を続けた。
「なんなのよもう!」
 みすずは躍起になって打電を繰り返す。
 照明弾の音、味方の砲台の弾を撃つ音。それらが反響し、もの凄い音と衝撃となって文緒達を襲う。見晴らしの良いここから、市街地に続く空にも敵機の銀色が光っているのが見え、文緒は背筋に汗が伝う。受話器を持つ手に、力が入る。
 途端、衝撃が襲った。
 巨きな地震に巻き込まれたように、建物全体が揺れ、文緒は蹲った。傍らの本棚から、バラバラと暗号票やら何やらが落ちてきた。
「っ…、みんな大丈夫か!?」
 基地の小隊長が声を張り上げる。絶え間ない爆撃が、この基地にも始まったのだ。この基地は艦艇が停泊する近くにあり、敵機の進路上にあるのだ。
「だいじょうぶです!」
「ぶじでーす!」
 辺りにいた兵隊が声を上げる。文緒もみすずも答えた。
「怪我ないかい?」
 文緒に声がかけられた。
「はい」
 立ち上がり、作業を続けた。文緒の任務は、敵機進路を司令部に伝達することである。それを止めることは出来ない。 途端、もう一度激しい爆撃が落ちた。
 近くに着弾したのか、建物も少し崩壊が始まっている。
 それでも伝達を再開しようとした文緒は、司令部宛の電送が壊れたことに気づく。
「小隊長!電送が故障、送れません!」
 爆撃が激しく、大声でないとお互いの声が聞こえない。
「なんだと!」
 小隊長がこちらに駆け寄ってくる。何度か試してみるが、やはり壊れたようだ。
 しかし、敵機進路が確定し、また後続部隊の発見を司令部に知らせねばならない。他の基地から、暗号も数件届けられている。
「青木、今集まっている情報を全件もって、司令部に走ってくれ!」
 モールスか無線ででも送っては見るが、電気系統が全体的にやられたようだ。とにかく走ってくれ。
「裏の細道から迂回すれば、敵機はあまり来ないだろうから。ここは俺らに任せて行け!」
「は、はい…でも」
 文緒は躊躇した。ここから離脱することは、自分だけ助かると言うことだ。だけど、確かに情報は届けねばならない。
「文緒、早く行ってきなさい!ここは、大丈夫だから!」
 みすずが叫んだ。頭から血が流れている。爆撃で何かが当たったらしい。
「み…!」
「終わったらさ、あんみつでも食べようよ」
 そう言って、みすずは笑った。
「行ってきます!」
 走った。

 裏道を抜けると、一本の山道に当たる。ここを真っ直ぐ突っ切ってゆくと、司令部の裏門に至るのだ。
 文緒は走った。
 初夏の日照りは、文緒を照らす。
 くねった道の向こうに、司令部裏門が見えた。
 途端。
 爆音が聞こえ、文緒は振り返る。
 その眼の先には。
 一機の敵機が間近に見えた。その窓から一線、文緒のすぐ足下に何かが飛び込んで、弾けた。
 撃たれる。
 瞬時に文緒は理解し、身を翻して走った。
 白い服は目立つ。文緒は白地の夏のセーラー服を着ていたのだ。これは桜桃部隊の制服でもあり、彼女ら女学生の可愛いわがままだった。せめて、制服をスカートで着させてくれ、と。もんぺではやりきれない。
 ぱん、ぱん!
 乾いた音を立てて、走る文緒を弾が追う。
 獲物に見立てた、狩りをしている。
 文緒はぞっとした。
 パン、と三回目の音がしたのかそれより早かったのか。
 文緒の左頸筋に、衝撃が走った。
 そして鮮血が弾ける。
 倒れる瞬間、左の三つ編みが落ちているのを見た。撃たれたときに、ちぎれたのだ。
 敵機は、そのまま上空に上がり、消えていった。
「ッ痛…!」
 文緒は撃たれた首筋を押さえた。息が、上がる。紅い血がどくどくと心臓の鼓動とともに流れる。どうやら、弾は命中せず運の良いことに擦ったようだ。その際、撃ち抜いたのは彼女の髪だったのだ。
 いかなきゃ…!
 よろよろと立ち上がり、走った。
「お、おい!誰だ!大丈夫か」
 司令部の門前にいた兵士が、走って血塗れになった文緒を見つけ、駆け寄ってきた。
 既に、息もし辛いほど文緒は状態が悪い。夏なのに、寒い。
「警備隊砲射空戦指揮所第一中継地から…来ました。特別、女子挺身隊、桜桃部隊所属…青木、文緒です…。電送が故障のため、重要情報、持ってきました…ッ」
 文緒の腕章は「挺身隊」の文字が、彼女の血で紅く染まっていた。
 耳に、細かな機械音のような雑音が、いっそう強くなる。
 そう言って、雑曩の中から紙片を取り出そうとするところで、その日の文緒の記憶は止まっている。

 文緒が持ってきた情報は、直ちに司令部に届いた。
 しかし、文緒が再び意識を取り戻したときに知ったのは、多数の基地の全滅。桜桃部隊の他の二人が居た中継地も、彼女の居た第一中継地もその一つだった。みすずも、爆撃の中で亡くなった。



「みすずのあの顔は、とても綺麗で眠っているようでした」
 青木は、一筋涙を流してそう言った。
「だから私、生き残ってしまったんです」
 右手で、涙をぬぐった。
「それから私は軍病院に移送され、司令部附きとなりました。そのまま、終戦を迎えたんです。もう、それで終わりだと思ってました。宮城の故郷に帰った次の年、実家に東京警視庁の方たちが、お出でになりました」
「警視庁?」
 木場は黙っていたが、そこで声をやっと出した。
「はい。私が桜桃部隊の生き残りだと言うこと、その時の仕事ぶりを参考にして、今後の婦人警官育成の候補生としたいって、仰られました。その時の私は、二つ返事でお受けしたんです」
「なんでだ」
「もう一度、お国のために、死ぬことをやり直せるから、です」
 そういって、青木はため息をついた。
「凄く、背徳かったんです。どうせ生き残ってしまった私、せめて人に役に立つことのできる死に場所を探そうって、そう思ったんです」
 いいえ、人の役に立つことの最後が、死ぬことだったんです。
 悲しげに、眸を伏せた。
「おい。青木」
 木場は酷く、苛ついていた。正確に言えば、自身の心中に蠢く感情が判らなくて、それに苛ついていたのだ。
「はい…あっ!」
 俯向いていた青木の顎を捉え、木場は自身に向かせた。
「警官、それも刑事が死ぬ時ぁよ、失敗した時だ。ハナっから死にてぇって奴に、誰が背中任せられんだよ」
 至近距離で、睨んだ。青木の瞳に、木場が映り込んでいる。
「お前は、死ぬためのやりなおしをしたいから刑事なったって訳か」
「そう、です」
「なんだと…!」
 青木は瞬きをした。
「だから私、あのとき…木場さんと目が合ったときに吃驚したんです」
「ビックリ、だあ?」
「私が生きていて良いのか、って」
 ぼろり、と青木は涙を溢れさせた。
「お、おい」
 木場は困惑して顎から手を引っ込めた。
「だって私は一人だけ生き残ってしまったんです。それだけじゃない、新しい世の中になって古い忌まわしい出来事は皆、忘れてゆこうと−いいえ、むしろ唾棄すべき事として忌み嫌ってしまったじゃないですか。いえ、私だって平和が良いに決まってます。戦争が終わったことは嬉しいです。もう、殺されるんだって思いはイヤです。だけど…みんな同じだったじゃないですかあの時代。みすずだって、いやいや行って、戦って死んだんです。死んだ人達に泥かぶせて…それなら私も一緒です」
「青木…」
「だけど先輩、木場さんは私を止めた。あの声で私は−私は」
 ひっく、と青木は小さくえづく。
「馬鹿野郎が」
 木場の腕の中に、青木は包まれた。
「死んじまうっつう時に思ったことが、一番正直な事じゃねえのか」
「せんぱ…」
「いっくらでも、やり直したらいいじゃねえか。だけどな」
 木場は続けた。
「死ぬつもりで突っ走るのと、死ぬ気でつっこむのとは訳が違うんだ。死んでたまるかコンチクショウ、って時ぁここ一番の凄ェ事が出来んだぞ」
 だから、お前が捕まえたんだろ、あいつを。
 木場の言葉に青木は、弾かれたように顔を上げる。
「私…」
 火のついたように泣き出した青木を、木場は黙って抱きしめてやる。
「まだ、うしろめてえのか」
 泣き声は止まない。だが、青木はぶんぶんと首を横に振った。
 木場は、ぽんぽんとその頭をなぜてやる。
 ふ、と青木は顔を上げた。
 童顔の青木が泣きべそをかいている樣は、まるで少女のようで、とても果敢ない。
 小首をかしげ、木場を見る青木の頬に、木場は手を添える。
 くすぐったそうに、青木は涙を含んだ濡れた片目を閉じた。

 馬鹿野郎。そんな顔しやがると、クッチマウゾ。
 木場は肚の中で、毒づいた。それは勿論照れ隠しの声だと言うことも、木場自身判っているのだ。
 このくすぐったさも青臭さも何もかも、飲み込んでやろうじゃねえか。
 肚を決めた。

 そっと、青木が片目を開ける。
 至極自然に目が合い。
 木場は少し照れながら、でもそれを隠すために仏頂面をしていささか乱暴に青木の朱唇を奪う。
 そ、っと青木の手が木場の背に巡回った。
 
 
 顔を離した木場は、自分の柄じゃねえな…と、ひとり気不味くなった。
 そんな木場のネクタイを、青木は軽く引っ張る。
「…ん?」
「せんぱい」
 上目使いで青木は木場を見つめ、言った。
「先輩に、いつか追いつく刑事になってみせます…よ」
 いたづらっ子のように、青木は微笑みながら、木場をからかう。木場は一瞬見蕩れ、切り返す。
「まず一人前の刑事にならねえと、話にもならねえぞ」
 そう言い合って、青木と木場は笑った。


                                                             end.

Afterword

文蔵女の子化。ふみおちゃんて。一度やってみたかった実験。
そしてファンタジー「戦争へ行った女学生」。もうこれ、オリジナルって言った方が良いと思うよ。
いや、文蔵を萌えのままに女の子化したのは良いが、やっぱり文蔵の特性と言えば「特攻崩れ」。女の子化してもそれは譲れない!と言うことで、特別女子挺身隊を考えてみた。むだに全国的にしてみたが、無理がある。もともと、この挺身隊にはモデルがあります。実戦はもとより通信部隊などに女学生が徴用される史実は沖縄から北海道まで各地ありますが、これは佐世保の話を元に。こういう話は、つらいよホント。
まあ、こんな感じで文蔵女の子化=文緒ちゃんの紹介話。これでやっと、紹介が終わったという。私だけが楽しい話だな。続いたらどうしよう。いつの間にか、木下の前歴が査証されています。消防手かー。









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