慰め

  きばせんぱい。
 青木は、心の中で彼の人を呼び、ため息をついた。

 先輩に、恋い焦がれている。
 しかしそれは永遠に気付かれることもなく、青木の胸の中だけで秘められているものであった。
 木場は優しい。
 青木を目にかけてくれており、気に入りの後輩でもあることを、青木は自負している。
 しかし、それだけである。

 ただ、それを実際に体現してしまうと。
 辛いものがある。




 金曜の夜。
 仕事も定時に引けた。同じく仕事終わりの木場に、青木は心なしか浮き浮きとして声をかける。
「先輩。帰りますか」
「おう、あー疲れた」
 木場は伸びをしてゴキゴキと肩を鳴らす。
「おい青木」
「なんです?」
「帰る前によ、これ持ってくの手伝って呉れや」
 木場は傍らに置いてある多数の資料の山をたたいた。
「はい!」
 元気に答えながら、青木は後で一杯誘おう、と密かに楽しみにしていた。
 
「おい、埋もれてっぞ。大丈夫か」
「大丈夫ですよ!」
 木場が苦笑しながら青木を揶揄する。
 見下ろせば、小柄な青木は両手に自分の目線ほどの資料を持ち、背後には肩掛け鞄までくっついていて、荷物が歩いているのか運ばれているのかわからないものだ。青木にとって、これくらいの荷物も、
さほど苦ではないと判っているのだが、一生懸命に落とさないように運ぶ子供のようで、木場は可笑しかった。
「ちょっと待ってろ…っと」
「あ、先輩すいません」
 木場が器用に資料を支えた手で、資料室の引き戸を開けるため、手を伸ばしたとき。
 ガラリ。
「うお!」
「わあ!」
 自動的に扉が開いて、思わず二人は声を上げて驚く。
「…なんだあ?」
 そんな二人に対する訝しげな声が、二人を扉の中の人物へと視線を誘う。
 そこには、郷嶋郡治が立っていた。

「なんだ郷嶋、手前か。いきなり開けやがるなよ、ビビらすなっての」
「木場か、いつ開けようがどこにいようが、俺の勝手だろうがよ。お、坊やもお供かい」
「坊やだあ?」
「ぼ、坊やじゃありません、青木で…」
 むッ、と青木が言い返す間に、郷嶋は青木の抱えていた資料の大部分をサッと持つ。
「あ、あの」
 もしかして、手伝ってくれた、と言う意味にとって良いのか?
 青木は面食らいながらも、少し郷嶋に対して凍る感情が、少しだけ溶けた気もした。
「木場ァ、大ァ事な坊やにこんな重たいモン持たせちゃあ、殺生ってもんだぜ。なあ」
 前言撤回。
 青木は眉間にシワを寄せて、ムッとした。
「失礼じゃないですか!あんた」
「うちの坊やは、これくれえ持てるくらい鍛えてんだよ」
「せんぱ…!」
 意外な木場の応酬に、青木は驚きを持って木場を見上げた。
 苦虫を噛み潰したような木場は、大儀そうに鼻から息を吐き、郷嶋を睨んだ。
 青木はなんだか、居たたまれないような気になって下を向いてしまう。
 木場の言った『うちの坊や』という言葉に、密かにではあるが、淡やかに心泡立ってしまったことと、すぐさまそれを撤回しなければならない現実の鋭い切なさとと。そして、対して『坊や』と郷嶋に言われることの嫌悪感ではないが、言葉に出来ないモヤモヤとした焦燥感にも似た感情が、こころへ靜かに靜かに淡雪のごとく降り積もる。

「おい、これ全部返しちまっていいんだろ」
 郷嶋の声に顔を上げる。返却口の前に、積んだ資料の山をパンパンと叩く。
「あ、そうです」
「じいさん、これ返しに来た」
 木場が資料室付きの老警官に声を掛けながら、郷嶋の積んだ山の隣に置く。
「ほいよ。ここに日付とサインな。きっちり全部確認しながら書けよ」
「めんどくせえなあ」
「なんだ、老い先短い老いぼれの仕事を、少しでも少なくしてやろうってえ、孝行心はないのかね」
「ボケ防止に動いた方が良いんだよ」
 木場がブツブツぼやきながら、管理帳にペンを走らせている。
「坊や疲れたなあ」
 にやにやと郷嶋が青木の顔をのぞき込む。
 青木は実にイヤな顔をして、冷たく返す。
「僕は坊やじゃありません。青木です。それに、あんたに労って貰う覚えもないし、
そんな関係でもないし、程度でもないです」
 ぴしゃりと言ってやった。
 青木は心中、すこしだけ晴れやかになったが、相変わらず郷嶋はニヤニヤとしている。
「ひでえなあ、先輩が労ってんのになあ」
 先輩、と言う言葉に青木は引っかかって、眉間にシワを寄せて言い返した。
「そりゃあ警官って意味では先輩でしょうけど、郷嶋さんの後輩じゃありません。
…僕は、木場さんの後輩です」
 それが青木にとっての誇らしい事の一つだ。
「それに、郷嶋さんは間諜でしょう。刑事じゃない」
 付け加えて、寄り自分と郷嶋は違うのだ、と青木は主張した。
 そんな青木の真面目な顔を見て、郷嶋は面白可笑しそうに吹き出した。
「な、なんなんです」
「おい、うるせえぞ郷嶋」
 木場が振り向いて、怒鳴る。明らかに、細かい記入作業に困難していて苛立っている顔である。
「かまやしないよ。こんなとこ」
 老警官は鷹揚に笑う。
「俺だって一応刑事だよ、公安なめんなよ」
「なめてません」
 意地になって言い返す。
「それにな、先輩と可愛い後輩ってのは、そう言う意味じゃあないよ」
「はァ?」
 青木は訝しげに、ことさら困惑顔をした。
 何を言っているのだ。この男は。
「おい青木」
「は、はい」
 反射的に返事をしてから、今日初めて本名を呼ばれたことに気付いた。

 郷嶋は、にやりと笑って人差し指を青木の鼻面へ指し、リズムを取るように振りながら、こう言った。
「持堂院第一桜豪寮寮歌ーぁ、アインス・ツヴァイ・ドライ」
「あ、青いー春ッですー おのおーのがたよー…って、ええ?」
 これまた反射的に歌ってしまった青木は、一節歌ってから突っ込んでしまった。
「なんでぇ、青木?」
 木場が面食らった顔でこちらを見ている。
 面食らったのは青木の方である。
 今の歌は、青木の母校である持堂院高等学校で良く歌われた寮歌だ。持堂院の学生だった者なら、音頭を取られたら条件反射的に歌ってしまう。青木はこの学校に中高併せて、時局法の関係で繰り上がり卒業するまで7年ほど居たのだ。数ある校歌の中で、この歌が一番歌われていた伝説的歌である。今も3番までアカペラで歌える。旧制高等学校生だった者ならば、学校学校の寮歌をそんな風に思わず歌ってしまうものである。あの健忘さんと呼ばれていた程の、記憶の覚束ない関口でさえも、問われれば覚束ない曇った声で、「あ…ああ玉杯に、花受けて…」ぐらいは歌えるのではないだろうか。

 なんでこの歌を。
 青木は瞬時に頭が回る。聡い青木は、郷嶋がわざわざこの歌を出させたと言うことは、郷嶋も同窓生である、
と言う考えがいち早く浮かんだが、青木的にそれは却下の対象であった。
「…この歌−」
 間抜けな質問である。
「そうだよ、後輩」
 郷嶋はポンポンと青木の頭をなぜて、似合わない爽やかな声で決定打を繰り出した。
 ああイヤだ。
 青木はがっくりと項垂れる。なんだか、イヤだ。
「お、なんだその態度はよぉ。俺ぁ泣く子も黙る全猛者連OBだぜ」
 くい、っと青木の顎は郷嶋の指によって上げられ、目を合わされる。
「えーッ…」
 全猛者連は他の学校で言うところの生徒会に当たる、学内統治機関である。文武両道・才力兼備は最低条件、眉目秀麗・容姿端麗・剛胆不敵、ともかく学校内で一目置かれる人物しか入れない狭き門であり、青木達一般の学生にとって羨望の的であったのだ。青木は全猛者連の友達がおり、良く入り浸っていただけに、青木は学生時代を思い出すと、目の前の郷嶋を見て落胆の声も、ひとしおであった。
「可愛い後輩がいて嬉しいよ」
 言いつつ、青木をがっしりと抱きしめる。
 不意に、郷嶋の胸に包まれて、青木は煙草の匂いを意識する。
 でもそれは嗅いだこともない煙草の匂いで、嗅ぎ馴れた木場の匂いではない。
「な、なにするんですか!」
 青木は真っ赤になって、もがくが外れなかった。
「よくわかんねえけどよ、お前ら同窓なんか?」
 木場が聞く。
「おーう」
 楽しそうな郷嶋に、青木は噛みつく。
「だ、だいたいホントなんですか!?あんた何期です」
 何期かと聞いたところで、本当に席があるかどうか確かめようもない、意味のない質問である。
 青木は、混乱していたのだ。木場の前で、他の人間に抱きしめられるという行爲に。
「俺かあ?四十三期文乙(文系英語専攻)。坊やは高校五十期文甲(文系ドイツ語専攻)だろ」
 …なぜ青木の事まで知っている。
 青木本人はおろか木場も、話に入っていない老警官も、心の中で突っ込むが黙っておいた。
「しっかし酷いな、坊や」
「なにがです」
「俺ぁ一高蹴ってまで持堂院入るために、わざわざ日本に来たんだぜ」
「郷嶋、お前、外地人か?」
 帳面を書き終えたらしい木場が、背を窓口横に持たせてこちらを向きながら尋ねた。
「おう。生まれも育ちも、東洋のパリ・魔都上海だよ」
「そうなんですか」
 青木はようやく身体を反転させることが出来、郷嶋の腕からひょっこり出るような形で、自分のすぐ上にある郷嶋の顔を見上げた。
「ああ、Intelligence Cosmopolitanってな」
 可笑しそうに笑った。
「いんてりげんちゃ…?」
 木場が訝しげな顔をする。
「インテリジェンス・コスモポリタン。知的な国際人、って感じですね。インテリゲンチャはドイツ語です」
 青木が生真面目に通訳する。これくらいの意味は朧気ながらわかる。
「煩瑣エよ。いちいち訳すな」
 ふん、と木場は鼻にシワを寄せた。バツが悪いらしい。
「すいません…」
 しゅん、と青木は頭が下がる。
「まあいいじゃねえの、この真面目なとこが可愛いんじゃねえか、なあ木場」
「ヘッッ、青臭くてかなわねえよ」
 言いつつ、木場は頭をガリガリと掻く。
 そんなとき、やはり青木は切ない気分になる。

「お、何暗くなってんだ坊や。ご主人様に邪険にされたのが傷ついたのか?」
 郷嶋がからかうのを、青木は今度ばかりは冷たく返すことが出来ない。
「な…なんですか!違いますよ!ご…ご主人様って」
 木場のいるこのタイミングで、そんなことを言うか!
 青木は心中、怒りと混乱で真っ赤になる。青木の心中を、郷嶋が知っているはずもないだろう。だが、青木にとっては、爆弾発言である。
「おーおー。取り乱しちまってまあ、可愛いなあ。お前」
 くいっと顎を救われ、青木はのぞき込む郷嶋とまともに対面する。
「な…ッ」
 にやにやと笑う眸の奥に、青木は真相を見た。
 このオヤジ、知ってる。
 青木は、自分で出来うる限りのきつい目で睨み付ける。
「木場、どうよ」
「なにがだよ…おい郷嶋」
「あん?」
 郷嶋が木場の呼びかけに顔を向けた途端、ジリリリリリン!と電話のベルがした。
 話しかける途中の口を、木場が閉じて黙る。
 老警官が内線を受ける。
「はいはい…。ああ、昭和四年の…はいはい」
 仕事中の老警官に軽く一礼しながら、一行は外に出た。

「っかー疲れた」
「せ、先輩」
「あんだ」
「早く帰りましょうよ。疲れたんでしょ」
 途中でどっか寄って景気づけでも、と言いたいところだったが、青木は黙った。
「んだなあ…いや、今日はちょっくら神保町の馬鹿探偵のとこ寄ってっくかな」
「あ…そう、ですか」
 あそこの給仕の料理は、料亭の板前張りだからな。そう言うモンが喰いてえ気分なんだ。
 木場はそう言いながら、青木の顔を見、少し意外そうな顔をして苦笑した。
「なんでえ。置いてけぼりされた顔しやがって。小僧は明るいうちに帰んな、今度飲みィでも連れてってやるよ」
 なんで、なんでわかるんだろ。
 青木はビックリして目を丸くさせた。
 そして、真っ赤になった。
 彼自身、考えていることがバレバレだと言うことを自覚していないのだ。
 郷嶋、お前も帰るんだろ。うちの小僧、送ってやって呉れよ。先輩よ。
 木場は郷嶋を見据え、こんな事を言いはなった。
「き、木場さん…」
 自分でも、情けない声が出たと、青木は思った。
 一瞬ぱちくりと、目を見開いた郷嶋だったが、すぐにいつもの不敵な笑みに戻り。眼鏡を掛け直しながら言う。
「任されたよ。聞いたか坊や、ちゃあんと送ってってやるよ」
「んじゃな」
「せん、ぱい…」
「情けねえ声出してんじゃねえよ」
「そりゃあご主人様だからなあ」
「郷嶋さんは黙ってて下さい!」
「お前もそんなに突っかかるなよ青木」
 木場に諭されてしまい。青木は、衝撃を受ける。
 木場はそのまま、郷嶋とすれ違う。そして、ぽん、と郷嶋の肩に手を置くと一言声を掛ける。
「郷嶋よお」
「ん?」
「あんま小僧をからかうんじゃねえよ」
 そう言って、かつかつと跫を鳴らして地階の資料室から階段を上がっていった。

 木場の姿が見えなくなるまで見つめ、見えなくなって青木は。下を向いた。
 やり場のない感情がわき上がる。
 悔しい。
 何に悔しいのかも明文化できない。木場に置いてゆかれること、郷嶋にからかわれること。小僧、坊やと言われる自分の未熟さ。そして、木場の最後の言葉が、後輩に対する先輩としてだけの言葉でしかないことが、いたいほど理解できる。なにもかもが、ないまぜの感情になる。
「庇ってもらえてよかったじゃないか、坊や」
 郷嶋の言葉が、振ってきた。
 その言葉は青木にとって、残酷な言葉で、胸に突き刺さる。
 ぼろりと涙があふれ出た。
 なんで、なんでこんな人に。
 悔しくて、悔しくてたまらない。
 袖で目元を拭った青木は、もう、一言しか答えられなかった。
「…ほっといて下さい」
 その声は少しかすれて。拭ったそばから熱い涙が零れ、頬をまた濡らしてゆく。
 郷嶋がその声に、驚き慌てたように覗き込んでくるのを、見られたくなくて青木は意地になってもっと下を向く。
「おい」
 ふい、と顔を背ける。涙が頬を伝うのを感じて青木は尚更、切なくなる。
「こっち向けよ」
 意地でも向かない。
 青木は心で答え、鼻を啜る。
「今度飲み連れてってくれるってよ、木場」
 黙ったままだ。
「おい…人来ちまうぞ」
 うるさい。どうでもいいよ。青木は、そんなことすら思う。
「ほら。もう、手ェ握んな。白くなっちまってるぞ」
 拳を握りしめて、青木の手は血が引いて、真っ白になっている。色白の青木は、透けるように白い手で、顔は朱を指したように鮮やかに染まっていて、そのコントラストが、ビックリするほど対照的である。
 手をほどくように郷嶋が手を出す。けれど青木は強情に握りしめた手に力を入れた。
 郷嶋のため息をつく声が聞こえた。
「参ったな…」
 青木は唇を噛んで、固く結んだ。
 そして、無言の時が二人を包む。
 突然、青木は郷嶋の胸に抱き寄せられ、ぽんぽんと頭を軽くなぜられた。
「…悪かったよ。俺が悪かった」
 予想外の、優しい低音の声で、青木の耳元に囁かれた。
 青木はビックリして、目を見開いて。その郷嶋の声に、青木の心が震えたから。
 堰を切ったように、ぷつんと緊張のヒモが解けるごとく、青木はわんわんと声を上げて泣いてしまった。

 何のことも考えず、ただ泣いてしまった。
 青木は、なにもかも、なにもかも吐き出すように泣く。
 ひっく、ひっくとしゃくりあげる青木の背を、優しく大きな手が摩ってくれる。
 その手の感触を、青木は酷く違和感を持って感じる。

 この男の手がなぜだか、凄く落ち着く気がして、青木はビックリしているのだ。この状況だから、かも知れない。
 馴染みのない煙草の匂いが、青木の脳を痺れさせる。
 けれど、なんだか「郷嶋に救われてる」というこの雰囲気が、青木にとってはすごく気に入らないのも確かだ。
 ひくひく、と上がってしまう息を無理矢理押さえ、青木は小声で呟いた。
「…あんたなんか、嫌いだ…」
 その言葉に、摩っていた手が止まった。
「そうかい…?」
 ぽつりと郷嶋が呟き、そしてぎゅ、と強く抱きしめられる。
 青木は、されるがままに抱きしめられ、だまって天井を睨んだ。

 ようやく離された青木の顔は、ふてくされたようだ。
「おーお、びっちょり」
 青木の縋っていた郷嶋のYシャツの胸の部分をつまみ、郷嶋は笑った。
 しかし青木の顔を、さらにブスくれた顔にさせるには容易だった。
「…悪い」
「…」
 青木は黙ったまま、そっぽを向く。
 そんな青木を、郷嶋はバツが悪そうな顔で眺めて、ポケットからハンカチを出した。
 青木の顔に、ふわりと押しつける。反射的に青木はそのハンカチを持つ。
「これで隠してろ。なるべく人のいない通用口から出るぞ」
 青木は驚いて、泣いて真っ赤になった目で郷嶋の顔を見た。
 だが、すぐに下を向いて、渡されたハンカチで顔を隠す。もう片方の腕を捕まれて、階段を上がるのに、青木は無抵抗でついて行った。
 優しいとこ…あるんだ。
 ハンカチで顔を押さえながら、青木はほんの少しだけそう思った。

 通用口の守衛に郷嶋は何事か声を掛け、守衛が電話を掛けるのを青木は茫漠と見ていた。
 暫く立つと、タクシーが一台やってきた。
「ありがとよ」
 郷嶋が守衛に声を掛け、青木の手を引いてタクシーに乗るように促した。
「…なんて言ったんです」
 ドアを開ける前、青木は少し睨みながら聞く。
「風邪引いて熱出てるから、車寄越せって言ったんだよ」
 郷嶋は涼しい顔で答え、青木を車の中に押し込んだ。

 車内は無言だった。
 あえて、どこに行くのか、とも聞かなかった。
 郷嶋がボソボソ行き先を言っていたが、聞かなかった。
 もう、どこにでも行ってやれ、と言うふてくされた考えが青木の建前だったが、あの「落ち着く手」から離れたらまた辛くなるかも知れない、そんな怯えにも似た不安が、青木の中にあったことを、青木自身は気付いていなかった。
 ただ、ひとつ。
 これじゃ、拾われたみたいじゃないか。
 それだけは確乎り判っていて、青木の心を泡立てさせる。
 車窓は既に夜景となって、夜の灯が綺麗だった。
 キン、と金属的な音がして、煙草の火が付けられる音がする。青木はその、独特の煙草の匂いを嗅ぎながら、泣いた後特有のぼんやりとした頭を、煙の中に揺らめかせた。

 車が止まる。
「おい、降りろ」
 無言で降りる。意外にも寒くて、青木は思わず外套の襟をかき合わせた。
 いわゆる同潤会系アパートメントの前だった。青木は、その建物を見上げる。洒落たその建物は、どこか外国の風景のようで、青木にはとても非現実的に見えた。
「おい坊や」
 車を送り出した郷嶋に声を掛けられ、緩慢に振り向くと、無造作に何かを放られた。
 受け取る。チャリン…と音がした。皮のキーケースに入れられた鍵だ。一つだけ、ケースから鍵が出ている。
「くいもん調達してくるからよ、先入ってろ。三階の、301号室。階段向かって左だ」
「え…」
「早く行け。冷えるぞ」
 ひらひらと手を挙げ、郷嶋は大通りを歩いていった。煙草の紫煙だけが残る。
 確かに、師走の夜は底冷えがする。
 残された青木は、鼻を擦ると階段を上る。肚はとっくに決めたじゃないか。そう思いながら。
 踊り場に灯るランプ、一つとっても西洋的な気がする。
 不思議な気分で階段を上った。
 
 三階に上がる。こつん、と青木の跫だけが響いた。
 表札に、乱雑な筆記体で【Satoshima】と書いてある。それも日本からかけ離れているようで、青木はこそばゆいような氣持ちに感じる。
 鍵を開けて入ると、冷えた青木の鼻を暖気が迎え入れた。
 中は暖かかった。それはスチームが通っているからなのだが、青木はスチームを知らないので、なぜだか知らないが、壁側の金属から暖気が来ていることを、不可思議に思っただけだった。
 大きな窓から入ってくる月光で、存外部屋の中は明るかった。電灯のスイッチの位置も判らなかったので、青木はそのまま、灰色の外套を脱ぎながら中に入る。
 意外にも、部屋はすっきりと整頓されているが、数冊の本や紙切れが落ちている。
 中は広く、板敷きのリビングの窓際にソファがある。青木はそこに座った。見回すと、前のテーブルにはソファの向こうにあるのは簡素な食事用テーブルと、仕切代わりの棚の奥にはキッチン。奥にはバスルームだろう扉がある。
 反対側には窓際に机があり、幾冊もの本が乱雑に積まれ、紙類も酷いことになっている。
まるで研究者の机のようだ。その横から壁づたいに本棚である。一段目はスチームが走っている−青木にとっては見知らぬ金属の機械であるだけなのだが−、その上には本棚が組まれ、びっしりと本が詰まっている。ざっと背表紙を見てみると、和書・洋書問わず入っている。一瞬、京極堂を思い浮かべたが、青木にとって一致しなかった。どこか、洋風であるのだ。
 壁の一番端には、開け放たれた大きめの扉があり、その丁度間に、蓄音機とレコード盤が置いてあった。
 青木は、そっと立ちあがり、その扉の向こうに行ってみる。
 ちょうど、昔小さな頃に「冒険ごっこ」をしたような気分があったが、やはり大人の今では罪悪感がある。行儀の悪いことだと知りつつ、青木は見てしまう。独特の煙草の匂いが、この部屋に染みついている。
 扉の向こうは、どうやら寝室のようで、奥の方には作りつけのベッドがあった。手前の壁にはクロゼットで、そこもやはり、それ以外は本棚が占拠している。ベッドの前には小さなテーブルとイスが、そこにも本を載せていた。
 入った扉の向こうにも部屋がある。つまり、この真ん中の部屋を通らないと、向こうの部屋に行けない作りになっていて、青木は初めてこんな作りの部屋を見た。訝しげに奥の部屋を覗く。そこには扉はなく、ただ他の部屋より微昏い。
 どうやら書庫のようである。日焼け予防に、カーテンが引いてあるのだろうが、びっしりと本が詰まっているようだった。
 青木はなんだか、この部屋の主である郷嶋がわからなくなる。本には埃一つ被っていなく、良く掃除されているようだった。

 再び、ソファに戻り温和しく待つことにした。
 窓辺に近づくと、東京の夜景が見える。
 それを見、青木は少し驚いた。青い月光の街は、青木の知っている日本の東京ではない気がして。
 もちろんここは日本であり、東京である。
 しかしそれは青い月光の所為だ。
 青木は思い直して、ソファに座ろうとしたとき、床に万年筆が落ちていたのに気付く。しゃがんで拾うと、黒い万年筆が、月光に煌めいた。きらめきが、青木の眼に滲みた。そっと、テーブルに置く。そのテーブルには、書きかけのレポート用紙が置いてある。漢字と英文で埋め尽くされた青いインクの跡に、側に置いてある灰皿の吸い殻の山。不意に、木場の机に置いてある灰皿も、常に一杯であることを思い出して、青木は奥歯を噛みしめた。
 やっぱり、拾ったんじゃないか。あの人。

 ドンドン、とノックの音がして青木は立ち上がる。
「は、はい」
「開けてくれ。手が一杯でよ」
 郷嶋の声だ。
 慌てて青木は玄関のドアを開く。
 鍋と紙袋を抱えた郷嶋が、苦笑しながら立っていた。
「どうしたんです、それ」
「今日の晩飯だよ。話は後だ、とりあえず入らせろ」
 鍋と紙袋を青木に渡して、郷嶋は中に入る。慌てて青木はそれを受け取る。紙袋には、麺麭とアルミホイルに包まれた、何か暖かいものが入っている。
「なんだ、明かりも付けずに。坊やは暗いところ平気なのか?」
 にやりと笑いながら、郷嶋はパチンと電気を付ける。
 パッと突然明るくなる。青木は顔を顰めて、不機嫌そうに答えたのは、何も突然明るくなったからだけではない。
「…平気です。場所が判らなかっただけです」
「そうかいそうかい。まあいいよ」
 可笑しそうに笑いながら、ネクタイをゆるめる。その余裕さが青木には、イライラとさせる。
「なんなんです」
「そうカリカリつっかかんなよ。まあ飯だ飯」
 肩を軽く叩かれ、青木は軽くいなされてしまい、気が抜けてしまった。

「どうした?喰えねえか?」
 郷嶋が顔を上げる。
「い、いいえ…」
 青木は人生において二度目か三度目に使う、ナイフとフォークに手こずっているのだ。
「使い慣れてねえのか…ならそう言えよ。しょうがねえ坊やだな」
 郷嶋はそう言いながら立ち上がる。
 日本人だもの。お箸の国の、人だもの。
 青木は、ぶうと膨れて、そんな郷嶋を見た。
「だから坊やじゃないで…」
 こちらに寄ってくる郷嶋を、青木が何事、といぶかしむと、郷嶋はその青木の背後に回る。意外に広い胸板の中に、青木はすっぽりと収まる。どきり、とした。
「ほら、肘張ると逆に切れねえぞ。そう、こうやるんだよ」
 そっと手を重ね、青木の後ろからレクチャーする郷嶋の手は、優しくて青木は意外な一面に驚き。不意に自分の鼓動が早くなったことに気付き、もっと驚いた。
「どした?」
「い、いいえ。なんでもないです」
 手を添えて、大降りのソーセージを切り分けながら言う。
 青木は、その手の繋がりを、意識せずにはいられなくて、一人で赤くなる。
 そして、それを必死で取り消そうと独り相撲する。
 そんな青木を知ってか知らずか、郷嶋は暢気な話を始めた。
「これなあ、麺麭のオマケで貰ったんだよ」
「あ、そうなんですか?でも麺麭のオマケでソーセージ?」
「おう。ここの裏によ小さい麺麭屋兼洋食屋あんだよ。そこのオヤジがドイツ人でよ、麺麭とドイツソーセージ売ってんだ。で、女将はロシア人で小料理出してる」
「ああ…だから」
「いやそんだけじゃねえぞ。シェフはフランス人とイタリア人の混血で、女給はスペイン人だからよ、洋食全般なんでも出るんだ。こうやって持ち帰りも出来るからな、重宝してんだよ。このスープ、ロシア料理でボルシチって言うんだよ」
「へえ…ボルシチ。初めて食べました。でも、すごい国際的な店ですね」
「ああ、その店に限らずともよ、ここら辺は外国人多いからな。…ほら、全部切ったぞ」
「ありがとう…ございます」
 よし、素直じゃねえか。
 言いながら、青木の少し大きな頭を撫でた。その言葉に、すこし胸が弾んで。そのことを相手に悟られぬよう、青木はことさらぶっきらぼうに憎まれ口を叩いた。
「わ、やめてくださいよ」
「可愛いなあ、お前」
 なんなんだ、もう。
 青木は憤慨して、ぱくぱくと食べ、葡萄酒をあおる。洋酒はあまり好まない日本酒党の青木だったが、意外にもこの綺麗な白金色の洋酒は飲みやすくて、ぐいぐいと呷った。

 眠い。
 青木はふわふわと、頭が揺れる。
 ここは暖かくて、それにこのお酒はいつもより酔いが早い気が、する。
 テーブルにほおづえを付こうとしたとき、その手を掴まれて、優しく引き寄せられた。
「ここで寝るなよ、坊や。せめてソファ行け」
「…ここでいいです」
 ワイシャツ越しに感じる郷嶋の体温を頬に受けて、青木はそれに一瞬縋りたい気持ちがあったが、止めた。それは意地だったのか、理性だったのか、青木には判らない。
「おいおい、わがまま坊やかよ…」
 少し困ったような、それでも楽しんでいるような郷嶋の声を、青木はもう既に遠くに聞いていた。

「ん…」
 夢を、見ていた。
 大好きな優しいあの人が、撫でていてくれた。嬉しくて、しっぽを振った。…しっぽ?身体をひねってそのしっぽを見る。なるほど、柴犬のようなくるんと巻いた巻尾がある。
 そうだ、自分はイヌだった。
 そんなことよりも、その撫でてくれる手が嬉しくて嬉しくて、思わず飛びつくと。
 その人は、笑ってそんな自分を離し、頭をひと撫でして、去っていってしまった。
 自分は。
 残されてしまった。
 しっぽも、止まる。
 大好きだったのに。
 下を向いた。ぽろりと涙が出た。
 あの人は、悪くない。だって、そんな気はなかったのだもの。
 勝手に期待して、喜んだ自分が、ダメだったのだもの。
 不意に、影が落ちてきた。
 慌てて上を振り向く。誰か、立っていた。
 何か言っているが、聞き取れない。
 訝しげに見ていると、不意に抱き上げられた。びっくりする。さっきと違う、煙草の残り香を感じた気がする。
 そして、思った。
 かわいそうだと思ったから、拾ったんですか?
 そうなら、なんて−。
 なんて、腹の立つ。
 だから吠えてやろうと思った。

 そこで、目が覚めた。
「起きたか、坊や」
 いつの間にか次の間の、ベッドに移されていたらしい。ベッド脇に座っている郷嶋が振り向いた。
「…はい」
 読んでいた洋書を脇に置いて、仰向けになっている青木の耳元に両手をつき、青木の上から覆い被さるようにして覗き込む。
 小さな明かりは、郷嶋の顔を影にして、良く表情が判らない。
「酒、弱いんだなお前。弱いなら、弱いって言やあ良いのに、あんなに呑んじまって」
「ほっといてください」
「ほっとけるかよ。こーんな可愛いの。ほっとくなんざ勿体ねえし、可哀想だろうがよ」
 頬を軽く指で挟まれ、ふにふにとつつかれる。青木はその手を掴み、睨んだ。
「…だからですか」
「あん?」
 郷嶋の声が、若干訝しげになる。
「可哀想だから…僕を拾ったんですか?」
 声が震えたが、青木は構わず言った。
「捨てられたイヌが可哀想だから、それだけで拾ったんですよね」
「犬?何言ってんだ、お前」
 本当だ、何を言っているんだろう。だけど、青木は溢れる言葉を押さえられない、奇妙な苛立ちが青木を支配していた。
「あんたの可哀想だ、って気まぐれで、みじめな僕を拾ったんでしょ…」
 後は、声にならない。
 悔しくて、悔しくて、青木は涙が溢れ出る。
 もう、見ないで欲しい。
 身を捩って、顔を覆う。夢と今が、混在となって青木の頭を駆けめぐる。そして、先ほどの木場。
 郷嶋は驚いてその樣を見つめていたが、一つため息をつくと。ベッドの上に座り直し、そっと青木を起こさせると、ぎゅっと抱き寄せる。まともに顔を見られたくない青木は、身を捩るがすぐに押さえられてしまう。武道の嗜み程度の筋力と、この男の力とでは、こんなにも違うのか、と青木は唇を噛みしめる。
 郷嶋の、煙草の匂いが青木の頭を痺れさせる。
「馬鹿だな、坊や…犬だかなんだか知らないがな」
 そう言うと、郷嶋は青木の顔を己に向かせ、酷くまじめな顔で見つめる。
「俺は、可哀想だからお前を拾った訳じゃないよ」
 涙に濡れた青木の眸が、二三度瞬きする。
「そもそも、俺がお前を今日ここにつれてきたのは、チャンスだったからだよ」
「…え?」
「いや、泣かせたことは…悪かったよ。けどな、お前を俺が気に入ってんのは前からで」
 そこで郷嶋が一息置いて、言ったことには。
「お前が欲しいからだよ」
 あまりの言葉に、青木は目を大きくさせ。驚いた。そこに郷嶋のキスが降ってきて、さらに驚く。
「どうした」
「…え?え?」
「…可愛いな坊や」
 もう一度、キスが降る。ちゅ、と小さな音を立てて唇が離れた。青木は、思わず己の朱唇を押さえた。
「でも…なんで。ホント…に?」
「言ってるだろうが。そういうとこも俺の好みだよ、坊や」
 言われて、青木の顔は朱を差したように鮮やかに染まる。
 そっと頬に触れられ、青木は弱い電流が流れたように、ビクリとする。
「で、でも僕…」
 それでも、青木は憎まれ口を叩かずにはいられない。恥ずかしくって、決まり悪くて。
 ふい、とそっぽを向いて呟く。
「…あんたなんて、嫌いですよ」
 こんなにどきどきしてるから。こんなに頬が熱くなっているから。こんなに、この手が温かく感じられるから。
 恥ずかしい。
 そんな青木を、可笑しそうに見つめた郷嶋は、青木の頬に残る涙の跡に、舌を這わせる。一瞬身を固くした青木の身体が、力が抜けてゆき自分に縋り付くのを、郷嶋は見逃さない。
 そして、耳元で囁く。
「ゆっくり、向かせてやるさ」
 低音の、その一言は、青木の身体を甘く痺れさせるのに、十分だ。
 一つ、熱いため息をついて、青木は小声で尋ねた。
「できますか…?」

「させる自信があるから、言うんだぜ。坊や」
 からかうような声が、青木にとって溺れていくようなそんな錯覚を起こした。





 そんな青木に、溺れている自覚のあるのは、郷嶋本人だ。
 だから自嘲めいた笑いを含み、青木の白く細い頸筋に紅い花を散らしながら、呟きを漏らした。
「サソリの郡治は、執拗いんだよ」





                                                             end.

Afterword

郷嶋×青木!!やった、やったよおっかさん。すごいフィーバーしてます。さとしまぐんじ!!今回の目標は、「郡治の過去話」「郡治のプライベート」「郷嶋×青木の甘い話」がんばった。
過去は、京極同人でも1・2を争うほどの妄想酷いと、自覚してます。持堂院第一桜豪寮寮歌、私は2番まで歌えます!(歌詞は『摩利と新吾』文庫3巻に載ってます。CDもある)木原敏江先生、使ってごめんなさい。後悔してません。プライベートも同様。和のイメージ純日本人・木場に対して、洋のイメージにしたくて、上海生まれの国際人な郷嶋を。あのアパートの内装は、郷嶋本人がプロデュース。金持ち設定だから。あのアパートメントも外人ばっかね。高級中華料理店のオーナーとか、アルゼンチン人でタンゴの先生とか。
パン屋の主人夫婦にはドイツ国籍の息子が居て、成人してナチのSSに入ったんだけど消息不明になってるとか、そう言うメインに関係ないエピソードもあり。
郷青で、かつ「甘甘」なアホ話を書きたかったのです…。いやあ、難しいね!郡治、いっそ襲っちゃえよ!!みたいな。でもぐんじの「じゃじゃ馬馴らし」も見てみたい、みたいな。和犬って結構、ご主人様変わるときに馴れないらしくて大変らしいですよ(洋犬は比較的容易だとか)!文蔵=豆柴ですから。うちでは。
文蔵、ツンデレどころかツンツンだな!余計なことですが、「文蔵に気のない木場」を書くことが、もの凄い難しかったです!!←馬鹿!まあカプごとにパラレルの方向で。









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