音−yinー

阿文、来呵呀(アウェン、レーアヤン)


 異国の、小鳥がさえずるような言葉にたゆたう。
 青木は緩慢としためまいにくらりとし、甘く不可思議な渦に誘われて行く自分が、それを拒まないことに気付いて、ますます思いは乱れるのだ。


「おい」
 歌声は消え、レコードがかしゃしゃしゃ…と掠れた音を立てて、終わりを告げる。そこへ被さるように、低く傍若無人な声が掛かって来て、青木は夢から起こされたような少し不満げな表情で、緩慢にその声の主へと視線を向けるために顔を向ける。
 声の主はだらしなくソファに寝転び、目線を古びた洋書から逸らすことはなく唯けだるそうに紫煙を吐いていて、青木はそれにも少し柳眉を動かす。
「…はい」
「次。掛けろ」
「何をです」
「なんでも良いよ。お前が適当に決めろ」
「なんでもって…」
 生意気そうにも聞こえるような返答をしながら、青木はそれでも素直に読んでいた本をいったん置いて、溜め息をつきながら立ち上がると、ぺたぺた素足の足音をさせてスチームの聞いた暖かい部屋の隅へと歩いて行き、空回りする蓄音機を止める。
 無責任にも思える相手の言葉に口をへの字にして、身体を捻って相手を見ると可笑しそうな笑みを口元に浮かべ、軽く笑う相手が舶来ものの眼鏡の奥から青木を見ていた。その笑みを見た途端、青木はなんだか馬鹿にされたようなそんな気持ちがして、眉根を顰めて相手を軽く睨んだあとにクルリと勢いよく踵を返して蓄音機からレコードを取り、ケースに入れて仕舞ってから無造作に並べてあるレコードの群れを見るために蓄音機の置いてあるキャビネットの下に座り込んだ。

 ここにはレコードはたくさんあるが、全部舶来のものだ。横文字のものや大陸のもの、様々あったがどれも青木には判らない様々な異国の言葉で歌い、また異国の楽器で奏でられる音楽がひしめいていた。
 この部屋には、殆ど常に音楽が静かに流れている。主人の趣味なのだろう、直接聞いたことはないが。青木には初めそれは、自分の今までの人生の中で馴染みのない風習ではあったが、いつの間にか青木の身体に静かに音楽が染み込んでいったのか、居心地は悪くなかった。むしろ、音楽に包まれていることも今ではもう、心地よさと感じる。
 どれにしようか、わからない。
 ケースに書いてある横文字や漢字は、青木にとって馴染みのない単語や文字であり、中身の音楽を喚起させる手助けとは全くならない。なかには、もう口ずさむまで耳で覚えた曲も数曲はあるが、青木には異国の言葉や文字は判らないのでそのままである。
 仕方がないので、適当にレコードの群れから一枚取り出す。漢字だらけのカバーは、とりあえず青木には判らない言葉でさえずるものであることには間違いない。しかし、このレコードの群れはおしなべて、青木を心地よくさせる作用があることも間違いはないのだ。
 それだけに関しては、この人って見る目があるんだ。…いや、耳か。
 青木はちろんと、再び書へと目を落とし我関せずといった風情の相手を見やって、小さく溜め息にも似た息を吐いてからレコードをゆっくりと丁寧に置いた。今、心の中で思ったことは間違っても言ってやらない。青木は相手を褒めることになるであろう言葉を、心の中にしまい込むと、訳もなく頬が紅くなるのを感じて自分で吃驚し、思わず眉を潜めて首を振る。
 レコードが周り、つつ…と始まりを予期させる音が聞こえた後に音楽は始まる。そして、やはりといえばやはり、青木には意味をなさない言葉が歌となって部屋を包む。しかし、その響きは青木の心に見えない綾を織りなしてゆくのに十分な甘さと切なさと、不思議さを持っていたのだ。
 
 
 青木が郷嶋の家にいる時間は、確実に多くなっていた。
 初めて郷嶋宅に訪れた次の朝、青木は枕を抱えて渋い顔でベッドにちょこんと座っていた。寝起きで 上手く回らない少し大きめの頭を傾げ、うう…と小さく呻いて苦悩する顔は紅い。昨夜何があった訳でもないが、ただ相手の言葉に今更ながら目眩のする程に羞恥を覚える。相手の腕の中が信じられないことに居心地好かったことに焦りを禁じ得ない。今まで考えたこともない相手に今まで考えたこともない程、安心と居心地の良さを感じたことに驚き、その相手が郷嶋郡治であったことに、納得がいかなくて恥ずかしくて、青木は枕に顔を埋めた。
 しかも…そのまま、寝ちゃったなんて。
「なんだ、起きるなりどうした坊や」
 その声に慌てて顔を上げると、既に床から出ていた郷嶋がタオルで頭を拭きつつ、上半身裸の格好で含み笑いを見せて寝室へ入ってきた。
「…坊やじゃないです」
「はいはい。おはようさん」
 軽く手を振っていなされてしまい、青木は拍子抜けしたような気分で律儀に挨拶を返す。
「…おはよう、ございます」
 それでも昨日から失態を見せ続けてきた青木は、まともに郷嶋を見られなくてすぐに顔を伏せる。そんな青木を見て、郷嶋は可笑しそうに口をゆがめ方を小さく上下させる。
「朝風呂、入って来いよ。頭すっきりすんぞ」
 青木の腕を掴んで立たせるように軽く引っ張りながら言う言葉に、青木は素直に頷き立ち上がる。
 なんだ、優しいんだ。
 顔を伏せたまま、青木は心の中で思う。
「坊やじゃないなら、一人で入れるよな?…なんなら俺が入れてやるぞ?」
 次の瞬間、笑みを含むからかいの言葉を耳元で囁かれ、瞬時に前の呟きは撤回される。
「けっこうです!」
 眉根を寄せてズンズンと洗面所へと向かい、仏頂面を洗面台の鏡に映した青木は、己の首筋に散る紅い痕に言葉を詰まらせ、声にならない叫びを上げ。その痕以上に顔を紅くした。
 そっと、その痕を撫でるように手を置く。
「…どうしよう」
 弱ったように眉根を寄せて、小さく呟くその声が狼狽しているのは、跡をつけた主が青木を昨日の夜更けに甘く痺れさせたことを思い出し。その痺れは思ったよりも青木の深部まで麻痺させていっていることを、青木は知らずの内に感じたからだ。
 その日を境に、青木を半ば拉致してゆく郷嶋、と言う構図が出来上がった。青木の抗議にも耳を貸さない郷嶋に、明日も出勤という日にも業務終了後にすぐさま構わず持ってゆかれる青木は、少しずつ着替えと言った自分の私物を郷嶋の家に置くことに始まって、自分自身もその家に置くことが少しづつ多くなったことに、気付いていたが気付かないふりをした。気付くことはとても恥ずかしかったからだ。
 郷嶋はそんな青木を、始めの頃こそは強引に引っ張っていたものの、今では事件等何もなければ週に2日程の定刻業務終了後、自分の車の前に不満顔で立っている青木を満足げな笑みで一瞬見てから、何も言わず同乗させるためにキーを取り出すことが自然になっていった。

 そうして、今に至る。
 回るレコードから、女性歌手の甘く切ない声音が奏でられ始める。その歌の波にたゆたうような気分になって青木は暫く蓄音機の前で静かに回るレコードを見つめていた。
 自分にとって全く意味はわからない。だが、その言語は小鳥のさえずるような音に聞こえて青木の心を擽って、静かに痺れさせる。
 まるでなにか魔法に掛かったような気分に、青木は感じる。だが、イヤじゃない。

「阿文。…来呵呀(アウェン。…レーアヤン)」
 その声に、青木はぴくんと顔を上げ、郷嶋を見つめる。
 なんと云ったか判らない。ただ、音だけ「アウェン」という発音は判った。なぜだか青木には、自分を呼んだように聞こえたのだ。
 そうか…郷嶋さんの。
 やっと青木はその音が、郷嶋の生まれた大陸、上海の言葉であることに気付く。
 
 歌と同じ、発せられた大陸の異国の言葉は、もとより青木は判るはずもない。けれどその言葉は言葉としての意味をなす前に、青木の心に優しく降りて来る。
 なによりも心地よさを、感じた。
 そっと、蓄音機を後にする。
 
「…良い子だ、坊や。よく判ったな」
 ふらふらと誘われるままに相手の前に立つ。
 目の前の男は、笑みを見せている。いつもの小馬鹿にしたような笑みではなく、青木にとってその笑みは心地よいものと感じた。
「…なんとなく、ですよ。あんたはよく分かんない言葉使うから…面倒です」
 恥ずかしさを隠そうと、紅い顔を下に向けて青木は言い訳がましそうにぶっきらぼうな答えをする。
 心を擽られるような感覚のまま、まさに言葉に誘われるように青木はふわふわとソファにだらしなく座る郷嶋の元へ歩いていった。そばに来る青木を郷嶋は目を大きく見開いて驚いた顔をした後、柔らかな笑みを見せて、今まで読んでいた本をそのまま放ると煙草の火を消して座り直し、青木の腕を優しく掴んで座らせ、横からあやすようにそっと抱き締める。それを、青木が固くなりながらも誘われるままに大人しく受けたのは、郷嶋の笑みに心が熱く痺れてしまったからだ。


「…なんて」
「ん?」
「なんて、言ったんです?」
 声が掠れた。悟られまいと、次の言葉は少し早口になった。
「アウェンおいで、って言ったんだよ」
「あ…うえん?」
「阿文。お前の名前」
「…僕は青木文蔵です」
「俺の生まれた上海じゃお前のこと、そうやって呼ぶんだよ」
 こう書いてアウェンな。…なんとなくあっちの言葉で呼びたくなった。
 そう笑みを含んで宙に文字を書きながら言い、どこか寂しいような懐かしいような困ったような顔で短く息を吐いて最後に自嘲気味に笑う。そんな顔を、青木は瞬いて目を丸くして見る。首を少し傾けて見つめる青木の鼻を、軽く郷嶋がつついて柔らかい声で続ける。
「俺だけが呼ぶお前の呼び名さ」
 いささか予想外の言葉に青木は思わず聞き返す。
「あんただけの?」
「不満か?」
 それにはこたえず、青木は眼を彷徨わせる。
 郷嶋の眉根が少し寄ったのを見たが、怒った訳ではないしむろん悲しんでいる訳でもないと感じて、それを見なかったふりをした。

「…もういちど」
 蚊の泣くような声で、青木は言葉を紡ごうとしたが恥ずかしさのために俯向き、言葉がとぎれる。
「ん?」
「もう一度、言って下さい」
 問われれば寧ろ開き直りに近い気持ちになって、それでも羞恥の残る不機嫌な声で続けた。
「気に入ったのか?」
 意外そうな声が聞こえ、青木は拗ねたように答える。
「別に…」
「…ほう?」
 いじわるそうにニヤリと笑って、顔を覗き込まれる。顔を少し逸らした。自分の顔の熱を悟られまいとして。
「ただ…慣れなきゃな、と思って」
「そりゃ偉いな。ま、イヤなら良いぞ」
 眼を瞬かせつつ感嘆の声を上げ、次にはあまりにも素っ気なく言い放つ。だから青木は、思わず焦ってうわずった声を上げた。
「い、イヤじゃないです…!」
「お…?そうか」
「あ、その…嫌じゃないだけですって」

「可愛いな、お前」
「別に可愛くないです」
 郷嶋は笑って眼鏡を外した。ことんと、幽かな音がした。そっと自然に頬へと郷嶋の大きな手が寄せられ、その冷たさに軽く目を瞑った青木は、自分の顔の熱さが郷嶋に判ってしまわれないかと恥ずかしく思ったところに、キスをされて幽かに震える。辛いような苦いような、郷嶋の煙草の味がする。その味が自分にしみてくるような錯覚に青木は身体の奥が痺れた。その奥で、郷嶋の無精ヒゲが当たってくすぐったかったのがやけにリアルな気がした。
 しめった音とともに唇が離れ、ボワンと紅くなって硬くなった身体を抱き締められて、耳元で囁きとも呟きともとれない、吐息を聞いた。
「…愛儂、阿文(…エノン、アウェン)」
 青木にとって意味をなさないその音は、けれど明確な意味を持って届き、紅くなって郷嶋の方に強く額をこすりつけた。
 ぽんぽんとあやすように頭を撫でられて恐る恐る顔を上げると、もう一度キスが降りてくる。軽い放心状態になったように、青木がぼんやりとしている間に郷嶋は青木の膝に頭を乗せて、放った本を拾い読書を再開した。それはあまりにも自然になされた行動で、青木はそれに少し焦ったものの真っ赤な苦い顔でぼさぼさの郷嶋の髪を掻き混ぜるようにわしゃわしゃと撫でる。
 その感触に郷嶋は驚いたように顔を上げて青木を見るも、すぐに顔を戻して不逞不逞しい笑みを浮かべて横文字に目線を戻す。
 紅い顔を撫でて溜め息をついた青木は、眉根を寄せてぎごちない手つきで先程まで読んでいた本をたぐりよせて、文字を追うように努力する。
 

「じゃあ…」
 あれから何分経ったのか、何十分かも知れない。
 がちがちと身体が鳴るような緊張と動機に、青木は悩まされながら言いにくそうに切り出した。なぜか、気になっていたのに聞けなかった言葉。今なら聞ける、と自分で自分を励ましたのは何故なのかそれは判らないまま。
「どした」
 ぺらりとページを捲りながら郷嶋が訊ねる。
「坊や、ッてのも…僕だけですか」
 少し声が震える。郷嶋は一瞬固まり、がばりと起き上がって目を見開き、穴の開く程真面目な顔で青木を眺めた。かっと真っ赤になった青木は、震えに気付かれたのかも知れないことや、自分の言った言葉に対して酷い羞恥を覚えてクッと唇を噛んで顔を逸らす。
 そんな自分を見て、くく、と可笑しそうに笑う郷嶋の息づかいが聞こえて来た。青木は失言だったと酷く後悔して固く目を瞑った。
「はは…なんだ、坊や。そうして欲しいのか?」
 からかい混じりの声に噛みつくように顔を上げ、思わず周章した声を上げる。立ち上がろうとした。
「な…ッ!そ、さとし…!」
「阿文が望むなら」
「…え?」
 酷く真剣な顔で腕を掴まれ、全てが止まる。
「お前が望むなら、お前だけにしか使わないよ。坊や」
 そんな目で見るから、イヤなんか言えないじゃない…か。
 青木は息を呑み、心で悪態を付いて声も出せずにコクリと頷く。ふ、と郷嶋の吐息のような笑みを聞いた。そして、手首に柔らかな感触がした。郷嶋の唇の感覚と認識した途端に、身体の線に痺れが入った。一度唇が離され、もう一度唇の熱さを感じた後に更にちりり…と熱い感触を受けて眉を潜める。噛まれた。そのままの格好から上目で見られる。知らず、熱い吐息が零れた。眉根が下がり、とろりと瞳が潤むのが自分でも判った。口を離した郷嶋は可笑しそうにニヤリと口角を上げて至近距離まで近づき、囁く。
「…良い子だ」
 なんだか無性にくすぶるような熱い悔しさが襲ってきた。青木は熱さを纏ったままにそっと郷嶋の首筋に唇を寄せ、軽く噛みつく。
「なんだ。…おあいこだな」
 一瞬意外そうな声で驚いた郷嶋は、次の言葉を嬉しそうに零した。そう青木は思って、更に紅くなる。
 そうだよ、しかえしだから。
 ふて腐れたように心で呟き、口を上げると転々と浅く痕が付いている。
 
 なんて、ことを。
 瞬時に青木は今までの言動を思い出してビクリと姿勢を正し。
「あ…?ちょ、おい…!」
 ニヤニヤと笑いかける郷嶋の頭を乱暴に倒して自分の膝に置き、放り出していた本を投げ与えれば自分もサッと本を取り、先程の形を作り上げて固まる。

「あ…あはは…!可愛いなあ、坊や」
 腹を抱えて笑う郷嶋を睨み、紅い顔を本で隠す。
 くすぐったくて不思議な、けれど甘く痺れるのはこの男の操る不思議な言葉、のせいだ。
 そうやって必至に弁解しながら。






                                                             end.

Afterword

郷青!
ここはどうしたって同棲的話が出来てしまうのはなんだろう。