T市四月桜景(三)


 カラカラと鉄様の音をさせて、ベランダの窓を開けた。普通の家では木枠というのに、ここは違う。と言うことは、ここは異境なのか。いやまさか下らない。首を小さく振って下らない考えを吹き飛ばし、肌で感じた夜の温度は、酒で火照った身体にほどよく冷えていて、青木は思わず吐息をはく。不意に吹き込んだ夜風と共に、眼にも鮮やかな白淡い桜の花びらが迷い込んで入って来た。思わずその行方を振 り返って目で追えば、この部屋の主が飲んでいるグラスにも一枚ふわりと迷い込む。この部屋の窓からすぐ見える、桜からの贈り物だ。青木は思わず頬がゆるんで感嘆の吐息をつけばその後に、気付いて口をへの字に曲げた。
 あ、やだな。窓開けるんじゃない、って怒られるかな。
 厄介な相手に…と、青木はこれから小言を言われるかとシュミレーションして首を竦めた。すこし興が冷めてしまった。窓を閉めようかと手を伸ばしたとき、彼の言葉に驚いて手を止めて振り向いた。
「…花を浮かべて桜酒。ってな」
 郷嶋は、グラスを目線まで片手で摘むように持ち上げていて、琥珀色の液体の上に一枚浮かぶ花びらを見ていた。だらしなくソファに凭れているその様は、まんざらでもないふうで、イヤそうに取り去るかと思ったら楽しんでるのがわかった。意外に思った青木は、窓をそのままにして先程座っていた郷嶋の隣へと帰り、ひとくち酒を煽ると呟くように言った。
「あんたが風流を解すとは。少し驚きました」
 こんなふうにしか言えない自分が、自分じゃない。この男の一挙手一投足が自分と異質だからななのか。口を開いてから、少し棘のあるような言い方だったと反省したが、この男の前ではいつもそうだと思う。未だに何でなのか解らないけれど、と心の中で言い訳のようにつぶやいて、机の上にグラスを置いてチーズをひとつ囓る。
「坊やより、俺は粋だよ」
 くくく、と可笑しそうに返してカランとグラスの氷をならす郷嶋は、青木の言葉など意に介さないようで、またそれは少し青木の苛立ちを針で突くように刺激される。
 彼の言い分は尤もで、言い返せない。
 青木は言うほどと言うよりもハッキリ風流人ではないし、むしろ無粋に近い方だ。嗜み程度に遊び心は理解するが、それを積極的に解する方ではない。対して郷嶋は洋風の瀟洒なものを好んでいて、言うなれば非常に粋ではある。木場が見たら、スカしやがってこのインテリ野郎が、位は吐き出すだろうか。
「…日本人ですから。桜の情緒くらいは僕でも」
 すこしムッとしながら応える。そんな青木をせせら笑うような吐息が聞こえたが、青木はそれを無視した。それ以上はなんだか自分でも自信を持って言えないからだ。うう…と唸ってから、青木は両手を自分の身体の横のソファに添えて、首を回し隣の郷嶋を下から睨めつけた。そんな子供じみた青木の仕草に、郷嶋は一瞬きょとんとしたように舶来ものの眼鏡の奥で目を丸くしたが、ほろ酔いの青木の目はほんのりと朱が差していて、全く迫力のかけらもない。むしろ、仇っぽくてその童顔とは全くアンバランスであり、それ故に危ういような雰囲気を纏っていることが、郷嶋の眼を細くさせて口の端をあげさせた要因である。
「おい、こっち来い」
「も…もう隣に来てるじゃないですか」
「もっとこっちだ」
 どこまでも上から目線で言われる。年上だし階級だって上だし、その他諸々あるけど、もともとがそう言う性質だし。それでも一番大きいのは、なんだかその言葉が僕を絡めているようでむしろ僕が網へ掛かりに行っているような気さえもする。…否否否、混乱している。違う。違うはずだ。
 そんなふうにぐるぐると思考が交錯して少し躊躇う青木を、郷嶋は黙って見ていた。
 興味深い。
 一番の理由をそう挙げて。だがしかし、それは彼の形而下に置いて張り出された建前に過ぎないことは、自分でも解っている。自分とは似てもにつかない、真っ直ぐで聡く、かつ少し直情的ではあるけれど柔軟性のある、この少し頭の大きな童顔の青年に溺れているのだ。青木を認めたときから、欲しいと思った。今までにない感情だった。そんな真反対の性質の人間を、今まで特にどうとも思っていなかったし、恐らく意識をしていたなら疎ましく思っただろう。だけれど大磯の事件において、真っ向から噛みついてきながらも、単純そうな学生じみた青臭いその幼い顔に隠した冷静さと激情さを持って、郷嶋と対峙していた。だからこそ、その顔をよく見たかった。その心を覗きたかった。そのこころを、欲しがったのだ。
 けれど郷嶋にとってそんなものは元元興味の無かったものであり、だからこそ屈服させて得られるようなものではないと解っていた。意外に常識染みた答えであるが、だからと言ってその行動もまた常識じみているとは限らない。時々、押さえきれないくらいに屈服を強いてやりたくなる。そしてあの心の強い瞳がきつく自分を見つめて、己の自我を保とうとする時に、郷嶋は喜びと後悔と清々しさと、傷ついて唾棄するような不快な気持ちになる。壊したい、と思う。けれどそれを達成した時点で恐らくそれは全く別のものに変化してしまうのが解っている。そんな手段では、決して望むものには変化しないと。それがどこかで非生産的(この言葉は適当ではないだろうが、他に言葉が見つからない)なことだと解っているのだろうか、だからこそ彼を傷つけている自分が彼に溺れていることに、蓋をする。そうして、従来の自分を取り戻して彼を翻弄させてやろうと思うのだけれど、結局は自分も迷宮に嵌っている気もする。故に、慎重にならざるを得ない。
 この、一見は丈夫そうで実はもろく壊れかねないような繊細な(本人は全くそう思っていないので、例え訊ねたところで強く否定されるのは目に見えているから、決して確認しないのだけれど!)、童顔の青年は、確実に郷嶋の弱い部分だけに作用して、だから言動は酷く横暴になるけれど、確実なところには臆病者のように全て郷嶋は青木に委ねるのだ。
 卑怯だけれど、それだけに弱くて専横で理不尽だ。青木は、その生殺与奪を預けられていることを、十分承知している。だからこそ、この人に腹が立つし情が湧く。なんて、巧妙なんだ。けれどそれは青木にとって、不可思議なことに×××じゃない。
 はあ、と大きく溜め息をついてから、少し躊躇いがちに青木はもう少しだけ身をずらして郷嶋に寄る。すると郷嶋は皮肉っぽい笑顔を満足げに浮かべて囁く。もしくは郷嶋が一人で呟いたのかも知れないが、二人にとってどっちでも良かった。
「好、可以呵。ロ阿文」
 その理解不能の言葉は、音の響きにだけ青木に作用して耳の奥を擽るような感覚を受けた。それは皮肉っぽい言い方ではあるものの、確かに僅かながら安堵の溜め息が隠されていたことに、青木が気付いたから。
 …このひと、また解らない言葉を。
 一瞬だけ怯んだものの、すぐに気を取り直して言われた異国の言葉に首を傾げる。最後のアウェンと言う一言だけは、幾度か呼ばれた異国語での自分の愛称だと言うことだけは理解した。それは、郷嶋が名付けたモノであり、坊や同様言霊の罠にはまっている、とでも中野の陰陽師は言うだろうか。ふっと、頭の中に仏頂面が思い出され、青木にとって教師に講義を受けている気分になるのだろう、と思う。
 少し訝しげに問おうと口を開けたとき、郷嶋は持っていたグラスを一気に煽っていた。発声するタイミングを失した、と思ったときには、青木の顎はグラスの水滴で冷やされた郷嶋の濡れた指で捉えられていた。瞬きをする間もなく、強引に唇を重ねられる。
「ん…ッ、ン−…!」
 ぬめって青木を愛撫する暖かなモノと共に、少し温度差のある液体が青木の口腔に満たされる。口移しで、アルコールが入ってきた。少し零れたのか、青木は首筋に水が零れてゆく感覚に気付いたときには反射的に郷嶋を押していた彼の片腕は最早、縋るように郷嶋のシャツを掴んでいた。
 唇が離れる間隔がして、青木は零さないようにと固く口を閉ざす。そして目元を赤く染めた瞳を閉じたまま、こくり、こくりと何度かに分けて嚥下する。二人の口の中で転がされ、柔らかくなったアルコールがそっと染み入るように青木の内部を侵入してゆく思いが突然過って、青木の喉が動くする様を見つめていた郷嶋は、ぐいと自分の唇を手の甲で拭った。
「あ…れ?」
「どうした、坊や」
 上あごに何か、ひっついている。青木は舌を動かしてそれを捉えると、舌を突きだしてみたが当然見える訳はない。そんな仕草に気付いた郷嶋が覗き込んでみると、赤い舌の先には一枚の淡い桜の花弁が載っていた。
 さっきのグラスに入ってたやつか。
「そのまま舌出してろよ」
「え…」
 そう言うが早いか、青木がその言葉を理解する前に舌の粘膜に熱い粘膜が触れた。そっと顔が離れて見てみれば、郷嶋の出した舌の先に、桜の花びらがついている。青木にとってそれはとてつもなく扇情的に見えて、目を丸くした後は真っ赤になって俯向いた。恥ずかしさに身を震わせている青木を満足げに一瞥し、郷嶋はその花弁を噛んでから飲み込んだ。まるで、目の前の青年を××しているような気分になって、もっと満ちたような感覚に近くなった。
 
 無造作に置かれていた煙草を一本取って火を付ければ、ついと立ち上がって、郷嶋は開けられていたベランダへの窓辺に立つ。今日は満月で低く広がる甍の反射も手伝って、非常に明るい月明かりに桜の海がさやかに浮かんでいる。
「…俺にとっちゃ、むしろエキゾチックだがな」
 ぽつりとその窓辺を見下ろしながら、ソファにいる青木に告げる。
「え?なんです」
 躊躇いながらも、青木が近くにやってくる。そっと片手で押さえた顔が赤い。目の端で彼を認めれば、開け放った窓の端に寄りかかって、紫煙をひとつ吐く。
「俺は17で日本に来て、はじめて桜を見たんだよ。上海で桜は見たことなかったからな。物好きの日本人が植樹してたかも知れないが、俺は知らん」
「あ…そう、なんですか?大陸には桜がないから、だから日本の花なのか…」
 青木は学生のように目をぱちくりとさせ、新しい知識を聞いていた。酷く子供じみていて、郷嶋は薄く笑う。
「そうだ。だから正直、俺には異国的に見えて、不思議な感じなんだよ。だけどな、あれを見てると非常に変な気分になる。懐かしくないはずなのに、どこか懐かしくて、知らないのに知ってる感じ。丁度…そうだな、お前みたいな…」
 ここまで言って、口が過ぎたと我に返る。なぜか言わなくて良いことまで言ってしまった気がして、眉根を寄せて大きく煙草を吸った。
「は?それどういう…」
 案の定青木が不思議そうな顔で訊ねてきた。とぼけてやろうと、一息に煙を吐いたその時、ふっと場は暗転して暗闇になった。
「わ、停電…?」
「最近はなかったのにな。…面倒くさい」
 戦後10年ほどの間、電力供給が不安定だった時期に停電は良くあることだったので特に驚くことではない。目が暗さになれてくると、苦笑した青木が月光にさらされているのを見つける。それでもやはり、夜に文化的生活を営む上では圧倒的に香料がら足りない。
「おい、そこの燭台持ってこい」
 青木に指示を出し、自分も火を付けるためのライターを取りに戻ろうと銜え煙草で動こうとしたところを、青木が彼の袖を掴んだ。
「ん?なんだ」
「灯つけるの、ちょっと待って下さい。−あれ」
 そう言って青木は嬉しそうに月明かり溢れる窓の外に視線を見やるので、郷嶋も倣う。先程よりも一層、銀波に輝いてぼんやり浮かぶ桜の淡さが郷嶋の眼下に広がる。なんだ?知らず小さく嘆息する。
「ハッキリ見えるのじゃなく、ああゆうのを見たい。そう言う気分になりました」
 子供のような笑みを浮かべて、あくまで真面目に応える青木をからかうような目線で見下ろして、郷嶋は笑う。
「ふうん、思ったより情緒細かいな、坊や」
 その無神経な言葉に苛立ちを覚えて、青木は眉を寄せると噛みついた。
「だから言ったでしょう、無粋な事言うあんたよりは!あんたに、きっちり教えてやりますから」
「ほう、俺にか?」
 煙草を机の灰皿に消しに行き、そのままどかりとソファにだらしなく座って青木を見上げる。挑戦を受けた青木は、形の良い眉を上げてせせら笑ってから、郷嶋の前に立ちはだかって言う。
「そうです。何年かかってもね!」
「師匠が悪いからな、覚えるのは何十年単位かも知れないな」
「なにを…っ。性悪親父の生徒の方に手を焼くのは見越してますから、長丁場は承知の上です」
 下らない言葉の応酬に、自然頬が緩んできて郷嶋は青木の手首をとる。一瞬だけ、触れた手首が戦くもすぐに軽く引っ張ってやれば、そっと月明かりさえも郷嶋の前から遮られて暗闇になったことに笑みを深くしてから、不意に強く引いてやる。バランスを崩して、自分の膝の上に載った青木を強く掻き抱いて、愛飲の外国煙草の苦さを深く味あわせてやった。







                                                             end.

Afterword

 桜がお題。郷青編。
題名だけは中島敦リスペクトですが、中身全く関係ありません。
T市のTは東京…。

 こう、いちいちキザったらしい親父だと良いですよね郷嶋!!
 強引なやり口にいやいやながらも慣れて来ちゃっていることに気付かない青木と、そうさせるために水面下で聴努力したり焦ってたりするくせに内心は臆病なのを誤魔化すために強引になる郷嶋だったりしたら、泣きそうなほど萌えます!うわあ!!
 









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