T市四月叙景(四)


 まだだろうか。
 風呂上がりの和寅は、濡れた頭を拭きながら探偵社の事務所兼溜まり場に一人、浴衣がけで暖まった身体でやって来た。彼の主人はまだ帰ってこない。チラリと時計を見れば、後少しで日が改まる。慣例として、基本的に彼は日が改まるまでは主人の帰りを待つが、それ以降はさっさと就寝することにしている。それは明日の雑事を考えるとギリギリの線ではある。しかし、本人は言わないが待っていることも楽しみではあったのだ。
 それは待つ相手が、待っている自分を期待しているからだ。もちろん、それは明言されたこともないし、むしろ彼がそれをまともに尋ねられれば「下僕が待っているのは当たり前だ!」と放言するだろう。しかしかつて一度「なんだ寝てなかったのか」と驚いたように呟いた主人の目には確かに、待っていた自分に対する驚きと共に、安心したような笑みがあったのを見つけてから、和寅は自分の楽しみとして主の帰宅を待つことにした。
 だから勿論、ソファの上にはこれから湯冷めしないように着る羽織と、読みかけの講談本が置いてあるのだし、深夜だというのに灯りが煌々と灯っている(それは戦後の日本の今において、深夜まで電気を点していることは、とても贅沢な電気の使い方だったが、本人は元元家族の家に仕えていたことから、少し一般庶民とは感覚がずれているので何とも思っていないのだけれど)。
 それから少ししか経っていない。羽織を着込み、ソファに寝転んでゆったりと本を読んでいた和寅の平穏を破ったのは、大音量の何かがぶつかる音だった。
「う、うわあ?なんだなんだ」
 どうやら階段の方だ。一瞬、物取り強盗の類を懸念し、自分が全くの戦力にならないことに絶望したが、すぐに聞こえた怒声に少し安心した。
「なんだまったくもう!!」
 ああ、先生だ。
 そう思ったときには既に和寅は立ち上がっていた。榎木津はああ見えても、目が悪い。真っ暗の階段では危ないのだ。本をほっぽり出し、慌てて探偵社から飛び出し、和寅は駆け足で墨を流したように真っ暗な廊下にあった階段の電気をつけた。途端に白熱灯の柔らかな光が、ビル全体に広がった。
「おお!明るくなった!」
 下の階から榎木津の脳天気な声が聞こえたが、階段を上がる音がしないので和寅は心配になって階段を駆け下りた。普段、和寅は走らない。否、走れないと言っていい。怪我をした足首に負担を掛けると後で熱を持ってしまい、なかなか厄介だからだ。それでも和寅が今、何のてらいもなく走って階段を駆け下りた。もしやなにかあったのかも知れない、どうしたんだろう。和寅は非常に困ったような顔をして、降りてゆく。草履が滑らないように、少し用心しながらも気は確かに焦っていた。
「うわ!」
「おお、和寅ーかえったぞー!」
 一階の踊り場が見えたところで、出し抜けに榎木津が姿を見せた。それに驚いたのではなく、榎木津の持っていたものに驚いた。
「せ、先生、何持ってきてんですよう?」
 上機嫌の榎木津が肩に担いでいたのは、見事な枝振りで満開の花を咲かせる桜の枝だった。しかも結構大きい。
「お前これを見て、物干し竿だとか思うのか?桜だろう」
「そりゃ解ってまさあ、一体どこから!」
「なんだその言い方は。ちゃんと許可を貰ってきたんだからな。帰りがけに出会った親父の家が近くでな、その桜を貰ったんだ」
 ホラ、と確かに無断で折った訳ではなさそうな、キチンと鋸か何かで切り落とした痕が切っ先にあり、榎木津が鋸を携帯するような人間ではないことからそれを一応信用した。偉そうに答える榎木津はフンと鼻を鳴らして、担いでいた桜を少し揺らした。ふわふわと花弁が、黒い石の踊り場に待って、非常に綺麗だったが、和寅はそれどころではない。
「うわ、先生散らさないでくださいや!散らかる…ってまさか、ちょっともう…!」
「なんだ、鍵はキチンと掛けたぞ」
 慌てて階段から下の玄関ホールを覗くと、案の定、桜の花びらが転々と広がっている。溜め息をつきながら和寅は、榎木津の見当はずれな言葉に首を振った。
「そりゃありがたいですけどねえ…はあもう散らかってるわ…」
「そんなことより、もう帰るよ」
 ハイ、と言って榎木津は担いでいた桜の枝を和寅に渡した。そんなに重い物ではないが、同じように肩に担いだとき、仄かな桜独特の薫りがした。それに気を取られていると、和寅は突如自分の身体が宙に浮いたことに面食らった。
「わわわわ!?ちょ、先生?」
 軽々と抱きかかえられ、自分の足の指から草履が落ちないように慌ててギュッと力を入れて挟む。桜の枝を抱き締めて、面食らったまま榎木津の顔を覗き込むと、少し不機嫌そうな顔があって意外なことに目を丸くする。
「お前、さっき走って降りてきただろ」
「へ?あ、ああ…そりゃ先生の声がして、なんか先生にあったかと思って」
「バカだなあ。何かあったら僕が呼ぶから良い。お前が走ると、後で足痛がって、僕が負ぶうハメになるのは分かり切ってるだろう」
「はあ…先生、すみませんよう」
 結局迷惑を掛けるのは自分だった、そう思って和寅は肩をすくめて俯向きながら謝る。すると、軽く揺すられて顔を上げると、榎木津が更に呆れた顔でこちらを見ていた。
「バカ。僕が自分でしたくないことや納得出来ないことをするか?」
 今日2度目の罵声だ。何がなにやら解らなくなってきた。
「はは…そうですねえ」
 苦笑いして、それはそうだと頷く。その辺りは自分でも解っているらしい。榎木津は同意を得ると、満足そうに笑ってから和寅の耳元に囁いた。
「だから和寅が心配したり、焦って走るようなこと、しなくて良いんだ。僕が全部ひっくるめて背負ってやるってや即しただろう。だから、お前はここに居るんだ」
 その言葉に。和寅は恥ずかしくなって自分の胸に顔がつかんばかりに俯向いて、一度だけ小さく頷いた。その様な和寅を見て、榎木津はもっと笑みを濃くして階段を上がっていった。さわさわと、桜の花びらが黒い階段に残った。

「もういいですよう。この桜、とにかく活けなきゃ。先生はお風呂入っちゃってくださいよう。まだ暖かいから」
 探偵社について降ろして貰えば、和寅はそっとソファの前の机に桜の枝を置き、納戸へ向かう。
「ん。入ってくる。なあ和寅」
 素直に返事した榎木津が上着を脱ぎながら、もう既に納戸に向かう途中の和寅に声を掛ける。
「なんですよう?」
「和寅の部屋で寝るから、先行ってて待ってて」
 子供が母親に言うような口調に、振り返った和寅は大きく頷いて笑った。
「はいはい。解りましたよう。じゃあ先生、お風呂上がるときに栓を抜いてから、ちょっと湯船擦っといてくだせえよ?」
「お。お前、主人に命令するんだなあ。良い度胸してるな。それに免じて、しょうがないからやってやろう」
 けらけらと笑いながら手を振ってみせる榎木津が去るのを見て、自分も納戸へと改めて向かった。
「ええ…っと、ここらに確か…」
 納戸の内部をゴソゴソ漁ってみれば、予想通りの物を発見した。少し大きめの壺である。これならば、安定良く桜を活けることが出来るだろう。鋏を腰紐に差し、台所で水を壺に入れてから、ソファへと向かう。根本の方の小枝を幾つか切って剪定してやり、大きな枝を差した。意外に見場は良く、和寅は自讃してから少し考え、ついたてとソファセットの間に設置した。すると、なかなか位置的にも桜がしっくりきて、満足した。片付けている間、切り落とした桜の小枝をどうしようか、このまま捨てるには忍びない、と和寅はそれを眺めた。何か思いついて、和寅は探偵社の片づけを済ませてから、再度台所に向かった。

「入ってきた。ちゃあんと風呂も擦ったぞ」
「あ、どうもですよう」
 寝具に寝転がって、腹這で居た和寅は今まで見ていたものから視線をずらし、振り返ってやって来た湯上がりの榎木津を迎えた。緋襦袢を引っかけている彼は、なんだか可笑しくて和寅は肩を揺らした。
「何だ、ここにも飾ったのか」
 和寅の隣に寝転がった榎木津は、今まで和寅が見ていたものを少し意外そうに見つめた。手元のスタンドの柔らかい明かりに照らされたのは、白磁のぐい飲みに活けられた、先程の小枝だった。
「さっき大きいのを生けたときに切ったんですけどねえ、なんか捨てちゃうのもなんだしと思って」
 剥いでいた掛け布団を榎木津に掛け、自分もそれに潜り込みながら答えた。
「でも先生、なんでまた…桜の枝なんかお持ちになったんです?」
 不思議に思って尋ねる。すると、和寅の方へ身体を向けて頬杖をつき、にんまりと笑って語った。
 探偵社への帰り際、ある家の庭に見事な桜を見かけた。足を止めて見ていると、たまたまその家の主人が帰ってきた。ほろ酔いの親父に、桜を見ているのかと問われて頷いた。すると親父が言うには、この桜を見なければ春が来たと思えない。空襲にも堪えて生き残ったこの桜は、時を象徴する物だ、と。ふうん、うちには季節なんか関係なく生きてる奴がいるよと言えば、お前この桜もってってみせてやれ、と物置から鋸を持ってきて突如下の枝を切り出した。親父の豪快さに好感を持って、榎木津は礼を言ってその枝を貰ってきた。これを見せて、今が春だって教えてやろう。
「お前に見せたいから、持ってきたんだ。お前はここにしかいないからな」
 今までの経過を話した榎木津は、欠伸をして伸びをした。そんな榎木津の言葉に、苦笑して和寅はクスクスと肩をすくめた。実際は、和寅だってなにも探偵社からでない訳では全くない。買い物にだって出るし、実家のある榎木津宅内に帰ることもある、気晴らしに外で遊ぶことだってする。ただ、なんだか探偵社という“家”が心地よくて、和寅はここを守るべき場所だと思っていることは確かだ。だから、あまり外に出ないイメージがあるのかも知れない。けれどなにより、もっともっと大きな理由があるのだ。
 ご自分で結界張って、ここから私を出さないくせにねえ。
「そりゃあねえ、わたしゃここでしか生きてけませんですからな」
 ネコのようにクククと可笑しそうに笑って、榎木津の顔を下から見つめた。
「だから、持ってきてやったんだぞ。お前のために!もう春なんだからな」
「ええ、もう春なんですねえ」
 そう言って仰向きになってから、和寅は暗い天井を見つめながら静かに尋ねた。
「先生」
「なんだ?」
「わたしゃここにいて、先生にお仕えしてていいんですかねえ」
 がばりと榎木津が起きた。和寅の顔の両脇に手をつき、丁度覆い被さるようにして、下の和寅を見下ろした。呆れた顔をしている。
「なんだか、当たり前にこんなに居心地の良い場所、先生に作って貰ってて。いやね、わたしゃ先生にお仕えするのは一生モンのことだと思ってるんです。でもね、礼二郎様にあまりにも…気ィ遣って頂いて」
 その顔に苦笑して、それでも思っていることを訥訥と語った。今日今夜のことだけでも、和寅は嬉しくって申し訳ない。黙って聞いていた榎木津は、片手でくしゃりと和寅の癖っ毛を掻き混ぜてから額をぺちんと叩く。
「あいた!」
「だからお前はバカだって言うんだ。愚問だな。僕が気を遣ったことなんぞ髪の毛筋ほどもないぞ。お前が僕の傍にいることが決まってるように、僕がやりたいことをやることも決まってるからな。それに、お前がイヤだったらとっくに追い出してるだろうさ。だからお前は、そんなこと考えなくて良いんだよ」
 目を丸くして和寅はその言葉を、口を開けて聞いていた。何か言わなくては、と思って和寅は声のない声を一息出した。
「ここにいろ。わかったか?」
「は、はい」
 畳み掛けるように念を押され、和寅は慌てて頷く。すると、そっと和寅の頬に榎木津の大きな手が触れた。反射的に目を閉じれば、唇に柔らかい感触があって口付けられたのだと気付く。それに答える和寅には、榎木津の体温は暖かくて、気持ちが良かった。
 唇が離され、はあ、と深呼吸する和寅にいたずらっ子のような笑みを見せて、榎木津が言う。
「桜、すごいだろう」
「すごかったですねえ。先生、ありがとうございますよう。明日、頂いたお宅にお礼に行かなきゃいけませんや」
「覚えてない」
「ちょっと、だめじゃないですかい!」
「じゃあ明日、一緒に探しに行くぞ!」
「探偵社どうすんですかい」
「明日は休業。…いや、依頼主はお前だろ」
「で、私もご同行ってなんだか割にあってないじゃないですかい」
「ぐだぐだ言わないでついてくるんだ!」
「お、横暴ですよう…!」
 講義する和寅も楽しげに笑っていた。その笑いは再度のキスに吸い込まれてしまい、和寅は榎木津に縋ったまま片手を伸ばし、枕元の電気を消した。
 一枚、桜の花びらが音もなくひらりと散った。







                                                             end.

Afterword

 桜がお題。榎和編。
題名だけは中島敦リスペクトですが、中身全く関係ありません。
T市のTは東京…。

 酔っぱらいって気が大きくなりがちですよね。的な。
 うーんとこれは姑獲鳥前な感じで。

 和寅の足が悪い説は捏造設定です。









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