若無其事ー何事もなく

 引きこもっている訳ではないのだけれど。
 なんだか結局、こうなるのだ。


「おう、良く来たな。あがれよ」
 素足に下駄を突っかけて、玄関を開けた木場はブザーを押して来訪を告げたその客を見て、笑いかけながら歓迎した。
 良く晴れた初夏の土曜の午後、玄関ではにかんだ笑顔を見せるのは年下の部下で相棒。毎日顔を合わせている相手…どころか、つい昼間まで顔を付き合わせて、半ドン後にも昼食の蕎麦を共に掻き込んでいたというのに、一度木場と別れて着替えてきた私服姿で鳥打ち帽を脱いで笑いかける姿に、新鮮味を覚えるこの感覚は一体何だ。
 そんな腹の奥がくすぐったいような気分を抑えて、顎をしゃくりながら踵を返す。
「おじゃまします」
「おう、お邪魔されるよ」
 くくくと喉を鳴らして、どうでも良いような応酬を楽しみながら玄関に上がって振り向いた。つまりは、木場は上機嫌であったのだ。
「なんです、酷いなあ。…あ」
 軽く握ったこぶしで口元を押さえて、こちらもくすくすと可笑しそうにしていたが、ふと何かを思いついたのか、青木は肩に斜め掛けしていた雑嚢型の布鞄を開いてごそごそと何かを取り出す。
「はい、先輩。来るついでに見つけたんで」
 玄関先のたたき。まだ靴も脱がぬままに、青木は子供がするように少し得意そうに笑ってそれを差し出した。まるでお使いに行ってきた子供が喜色満面で報告するようである。
「なんでえ…?」
 受け取ったそれは冊子で、非常に原色の色彩豊かであった。『Señor Fusion』と書かれた英語の雑誌は、木場の家にあったアメリカンコミックと同じシリーズで、この間青木がそれを興味深そうに何度も捲って眺めていたのを思い出した。
 そう言えばコイツ、こないだウチに来て主人そっちのけで読んでたな。
 あのとき確か、「先輩って意外に、こういうの読むんですね」などと失礼なことを真面目な顔で言いやがったっけ、それで「意外たぁ失礼なガキだな。まあ、読むってェか眺めてるだけだけどな」なんて答えれば、「見てると楽しいですもんね。僕も先輩に同じです」と行って屈託なく笑っていた、と木場の記憶に残っている。
「セニョール・フュージョンの最新刊。先輩、これのシリーズ読んでたでしょう」
「良く覚えてたな」
「やっぱ、腐っても刑事の目と頭ですから」
 覚えてますよ、と少し得意げに言う青木にとって、それだけでないことは秘密だ。
「バァカ。本業にそれ使え」
「使ってますよ」
「どうだかな。ともかく、ありがとよ」
 軽口を叩きながら階段を上がる。先導していた木場は、肩口で雑誌を揺らしながら少しゆるんだ自分の顔に気付いて、雑誌で軽く顔を煽った。それは多分、軽口となっていても自分のことを覚えていてくれたことに対しての、嬉しさと恥ずかしさだと言うことは解っていた。
「いえいえ。あ、先輩。まだ読んでないから後で読まして下さいね」
 青木の言葉に、ちょうど階段を登り切って自分の部屋の襖に手を掛けていた木場は振り向き、苦笑した。
「じゃ今、一緒に読みゃいいだろ」
「あ…はい!仰っしゃるとおりに!」
 自分の言葉を聞いて嬉しそうに笑いながら、戯けて敬礼さえしてみせるものだから、青木がどれだけ嬉しがっているのか木場には手に取るように解り、だから恥ずかしくて青木の脳天に一発拳骨を落とす。
「煩瑣エよ。ニヤニヤすんな」
「あいた…!」
 首を竦めて両手で頭を抱え、青木はしゅんと項垂れてしまう。嬉しかったのに…木場が「先に読め」と言わずに、一緒にと言ってくれたことが、なんだか心躍ったのだ。だから、怒られたことでその全てが否定されたような気がして、反動のように心がなにか曇ってしまったのだ。振り子のように、とても嬉しかった分、同じだけ哀しくなる。
 入り口で立ちすくんでしまった青木を見て、木場は少なからず動揺する。
 なんだ、いきなり。
 自分がした恥ずかしさのごまかし紛れにした何気ない事が、青木にとってはあまり愉快ではなかったらしいことに気づいて、すこし後悔した。
 だけれど、それはおくびにも出さずに、代わりに大儀そうな溜め息をついてから座布団の上に胡座を掻いて、実に不機嫌そうな顔で頭を掻きながら声を掛けた。
「…おい、しけた顔してねェで、ちゃんと襖閉めろ」
「あ…はい」
 項垂れたまま、襖を閉めた青木は浮かない顔で木場を見た。だから木場は、より一層眉間に皺を寄せて視線をずらし、手招きした。
「なにしてんだ。…早く、こっちこい」
「あ…は、はい!」
 慌てて青木が肩に掛けていた鞄を置いてやって来る。その顔に憂いなど無く、先程の嬉しい表情に戻っていた。それは木場の表情が照れ隠しであることと、自分を本当に気に掛けていてくれていることが解ったからだ。
 うわ、先輩ってばかわいいなあ。
 青木がそんなことを思っているとは露知らず、木場は大きな溜め息をしつつ無意識に頬が緩むのだ。   
 泣いたカラスがもう笑ってやがんな、こいつ。
 
 木場は傍らに来た青木を認めると、胡座を掻いていた足を広げたまま崩した。青木はそれを見て、少し大きめの頭を僅かに傾けて少し考えるような仕草をしてから、すとんと彼の足の間に丁度すっぽりと木場を背もたれにするようにして座った。
 これが普通になっちまってんだからなあ。
 青木の背の感触と体温を自分の胸板で布越しに感じながら、木場は今更恥ずかしがることでもないが、意識してしまうと幾分開き直りのような気分になって、赤くなった顔を青木の肩に乗っけると、彼の膝の上に雑誌を置いた。
 どうしようもねえやな。
 誰に対してのか分からないつぶやきを心の中で噛み殺して。

 ぱらり、と青木が表紙を捲ると、原色の煌びやかな色の洪水である。登場人物はどこから見ても西洋人と解るバタくさい風貌で、主人公と思われる闘牛士風の男を始め、全てが英語で話す。木場にとって、それは横文字=英語であって、主人公のセニョールが示す通り、時たまスペイン語が混じっているのであるが、それは木場の理解の範囲外であるし、どうでも良いことだ。日本語で聞こうが外国語だろうが、同じに聞こえるであろう擬音までアルファベットで書かれているのも当たり前なのに、それがなんだか木場には可笑しい気がした。
「読んだら適当にめくってって良いぞ。俺ぁ英語なんざ読めねえからな」
「僕だって読めませんよ」
 青木に伝えれば、意外な言葉は返ってきた。木場は「何を言ってるんだ」と言うような口調で訊ねる。
「あ?お前、海軍の元少尉だろうが」
 海軍の予備学生を経て、青木は零戦に乗って特攻隊員というコースで敗戦を迎えている。だから木場は、海軍の将校なら英語がわかるんだろう、適当なイメージで考えいたのだ。自分は叩き上げの陸軍下士官なので、英語はおろか、陸士で教えていたドイツ語、フランス語だのにもまるで縁がなかったから、余計漠然と認識していた。なので、青木のその言葉に意外な気がして訊ねた。
「そりゃそうですけど…別に英語の授業があった訳じゃないですよ。航空機用語で使うくらいでしたし」
 青木にしては少し素っ気ない言い方で話す。木場はなんとなく気付いたのだが、今更止めるのもわざとらしく、木場は鈍感な素振りを演じた。
「そうなのか?てっきりなあ。榎木津の馬鹿が昔、海軍時代に英語がどうとか言ってた気がしてな」
「榎木津さんって学徒出陣の将校組ですよね、帝大の。なら英語くらい出来ますよ、だって帝大生ですもん。へっぽこ高校生の僕と一緒にしないで下さいよ」
 木場の言葉に両手を振って、青木は慌てて偏見まみれな事を口走りながら、きっぱり全否定する。程度の差こそあれ、木場にとってはどちらもインテリという括りには間違いないので、よくわからないが違うらしい。
「海軍で英語…兵学校とかならキッチリやってたんじゃないですか?でも僕は即席の予備学生でしたし、ともかくなにより飛行機飛ばすことが目標でしたからね、座学で一番多かったのって数学とか物理だと思いますよ。僕、文系だったんで苦労したなあ。それだって、もう殆ど忘れてますよ。ベルヌーイの法則とか、弧度法とか…うわあ、思い出した」
 ずるすると木場の膝の上に殆ど寝転がるように前に滑った青木は、立てた両膝の上をちょうど鍵盤を弾くように指を弾ませながら、些か渋い顔をして思い出していた。暗記科目を思い出している学生のような顔で呟かれた言葉は、木場にはわからない。
「べるぬー?なんだそれ」
「飛行機がなんで飛ぶかとか、どれくらい飛んだかとかを測る話ですよ」
 でも、一度飛んじゃったら、そんな難しいこと吹っ飛んじゃうんですけどね。
 青木は肩をすくめてひとり可笑しそうに笑った。木場は何故かその笑みに、安心を覚えたのだ。くしゃくしゃと頭を撫でてやると、さらさらとした直毛の髪が手に気持ちよかった。その手はとても大きくて暖かで、青木は目を閉じて、心地よさを持って受けた。自分にとっての戦争中の過去は、あまり気持ちの良い物ではない。でもそれをなんでもないようにサラリと話せたのは、なんでもないように離してくれた相手のお陰なのだ。そんなことを思って、少しだけ心が軽くなった気がして、嬉しかった。一息ついた青木は、頭上にある木場の顔を仰いで、困ったような笑みを見せてから口を尖らせた。
「第一、むかし勉強したことなんて忘れてますよ。学生時代からもう何年経ってると思ってんですか」
「だってよ、おまえこないだ横文字の押収物件読んでたじゃねえか」
 そういえば、と思いだした木場は食い下がる。
「ああ…医者の連続殺人解剖魔の奴ですか。あの日記はドイツ語ですよ。ドイツ語は高校の第一外国語でしたから、ビシビシ年季入れて扱かれましたもん。いやでも覚えてますよ。しかし、ホントにあれは読みたくなかったなあ…。いちいち細かくやり方とか書いてて…」
「おいおい、大丈夫か。それァ思い出さなくても良いよ。横文字の話だ」
 思い出したのか、だんだんと暗い顔になって俯向いてしまってゆく青木の頭をポンポンと軽くはぜるようにしてから、頬を撫でてやる。意外にも感受性の強いこの後輩は、しかし丈夫でしなやかな性根を持っているのだ。そして、起き上がると木場に向かい合うようにして座れば、溜め息をひとつついて心を整理すると、顔を上げて少し照れくさそうに笑った。
「ん…すみません。そうそう、英語ですよ。まあ、中学でやったし、ドイツ語と似てるから全く判らない訳じゃないんですけどね。でも、この本の話って言葉の言い回しとか、表現が難しいんですよね。真剣に読んでも、いくらもわからんです。辞書がなきゃ」
 気を取り直したものの、青木は難しい顔でぺらりとページを捲りながら、苦笑の顔で笑いかける。
「辞書お?」
 木場は頓狂な声をあげて、口をへの字に曲げた。そして苦笑い混じりに言いつつ、手をしっしっと追い払うように軽く手首にスィングを聞かせて振った。
「うちにそんなもんあるわけねえだろ、近所の古本屋ででも行って買ってこい」
「ん…面倒だなあ、買いに行くの」
「お前、欲しいって言っといてその言い草ぁなんだ」
 呆れたように木場は溜め息混じりで、頭を軽く掻いて小首を傾げる青木に小言を言うもそれが終わらないままに、自分から可笑しくて笑ってしまう。そんな木場を見て、青木も屈託なく笑った。
 仕方ねえガキだなあ。
 心の中で毒づきながら肩をそびやかし、木場は座り直してから青木を呼ぶ。
「おい、続き見せろ」
 はあい、と嬉しそうに返事して、再び青木の体温が木場に伝わるのを、どちらもが意識して互いの会話が途切れる。
「…ページめくるの、ゆっくりにしろよ」
 木場がボソリと言った言葉に、青木はドキリとして思わず振り向く。まん丸くさせた瞳が、ふんわりと笑みを湛えて変化するのを木場はまじまじと見てしまった。
「早く終わっちゃうの、もったいないですもんね」
 たぶん、相手にその真意は判られている。
 木場はひたすらに照れくさくって、強面の顔が更に怖くなってしまう。
 青木は照れくさいけれど、嬉しくて仕方がない。
 

「やっぱり辞書、ほしいなあ。フェミハタリってなんだろう…」
 一服していた木場に青木の呟きが聞こえてきた。
見終わってひとしきりこの話題で盛り上がったあと、ごく自然に自分たちのやりたいようにして無言でいた。それは至極自由で安心感のある、居心地の良い空間だった。不意に呟かれた言葉に、木場は首を巡らしてみる。ちゃぶ台の前に足を伸ばして座り直した青木は、両手で雑誌をちゃぶ台の上に立てるように持って熱心に雑誌を眺め、ううんと唸りながら至極真面目な顔である。
「ならよ、いっそ京極堂にでも行くか。晩飯あっち方面に食いに行きがてら、覗いてけばいいだろ」
 学生が難問を解くような顔で呟いているものだから、可笑しくなって木場は紫煙を吹きながら声を掛ける。本当は、あんまり乗り気ではないのだけれど、木場は自分でも甘やかしているな、と自覚ぐらいは持っていたが、気付かないふりをする。
「あー…それは明日が良いかも」
 予想に反して、青木は煮え切らないような表情で頬を指で掻きながら笑って答えた。
「明日?別に良いけど、なんでだよ?」
 不思議そうに尋ねる木場に、青木は照れくさそうにはにかんで言ったのだ。
「出かけるのも良いんですけど、でも今は木場さんとこうしてるのがなんだか、いい感じですから」
 かああ、とその言葉に真っ赤になった木場は溜め息を大袈裟についた。
「ば…っか野郎。…しょうがねえから、メシまではわがまま聞いてやらぁ」

 結局いつも、そうやって部屋に二人いるのだ。







                                                             end.

Afterword

 木場青!
 塗仏でのアメコミを読む木場がなんだか愛しくて。
 下宿に何度も行ってる、とか青木が言ってたので、行ってもらおうと思いました。
 こいつら絶対、平日ずーと顔つき合わせてても休日も普通にいるよね!的な。土曜のお昼食べた後に、青木はいったんおうちで着替えしてお泊まりセット持ってく間に、木場ちゃんは下宿に先に帰って待ってる、見たいな。その後、日曜の昼過ぎまでずーとなにする訳でもなく一緒にいるんだぜ。どっちもインドア派っぽいからな。まあ、自宅待機の警官だし。
ふたりきりだと、あえて膝だっことかフツーに出来ちゃうといいなあ。で、木場がそれにたまに気付いて気恥ずかしくて、何とも言えない気分になる、見たいな。
お互いの感情の変化を敏感に捉えるんだけど、それなりにしか表現出来なくても解る、とか。

 『セニョール・フュージョン』シリーズは実際にありませんよー。
「リセス」と言うアメリカのアニメに出てくる、ゴールデンエイジから連載の続いている(つまり超長寿)アメコミで、主人公がこのフュージョン・フリークだったので、そっから借用。
 フェミハタリはスペイン語かフランス語の「フェム・ファタール(?)」を英語読みした奴だったが、意味忘れた。愛しい人とか運命の女性とかそんな感じの。

 木場は小学校高等科出で、17で志願兵になった後に頑張って出世って感じ。横文字と縁のない人。
もしあのまま平和な時代だったら、木場ちゃん40で軍人定年なんだけど、士官学校行くつもりだったんだろうか(将校になると定年のびる)。そしたらフランス語話す木場とか…うわあ。
 ここでも青木インテリ説を。中学四年次に高校に上がる七年制高等学校(中学に当たる尋常科4年・高校の高等科3年の計7年)に行ってて、高校を繰り上げ卒業後に13期海軍予備学生の飛行科と言う感じ。なんとなく、そこそこの学校を手早く行ってそう。中5や浪人して一高行くとかじゃなくて、中4でそこそこの私立高に入る人みたいな。ドイツ語は趣味です。なんたって警察の偉いさんになるらしいですから、文蔵もそこそこの学歴で頭良いとと思ってますよ。
 つか、予備学生って勉強凄いんですね。弧度法とか…短期で分かれって言われて判る人たちってのが凄い。パイロットの飛行科にも、文系や音楽・芸術系の学生さん達も多く在籍したと言うんですが(神主・僧侶もいたよ…)、それみんな解る人たちだったんですかー。なんか試験は「受験者を信頼して学科試験なし」の口頭試問と面接だけだったらしいて。
 









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