隧道



 夢で気持ちが悪くなる感覚を、青木は初めて知った。
 気がつけば、白い天井が視界に入った。
 酷い寝汗だ。
 自分の息が荒いことに、やっと気付いた。
 背中の蒸れた感覚と、体温が全部氷水に変わってしまったかのような奇妙な感覚が最前の夢を思い出させて-酷く厭な気分になった。目を開けたものの、網膜の水分が足りないのか少し沁みたように痛かったが、もう一度目を瞑ってしまうと、またあの夢の続きが瞼に再生されてしまうかも知れない、そんな滑稽な考えが湧いた。しかし今の彼にはとても笑い飛ばすことなど出来るような、そんな気分では全くなく至極真面目な考えとして認識され、青木は暫くぼんやりと二三度瞬きをした後は、ただその画像を網膜に移していたがそれは始め、全くと言っていいほど彼の意識に何の刺激も与えなかった。
 ただ、自分は仰向けに寝ているのか、くらいしか把握することが出来なかった。
 …あれ。
 数瞬の後に、やっとその違和感に気付いて飛び起きようと体重を移動させて身を半身起こしたところ、全身に激痛が走った。燃えるような痛みが胸を中心に弾け、反射的に丸まろうとするが更に痛みに追い打ちを掛けて青木は半ば条件反射のように自分の意図は反してビクビクと悶絶し、ベッドから転げ落ちた。掛かっていた蒲団と共に落ちたので、落下自体はそんなに酷くはないはずなのに、予想以上の負担が掛かったらしく、その傷みに青木は目を見開いた。
「ッあ、痛…いたッ!!」
 ガタン!と大きな音がして、点滴台もろとも倒れた。肩口に響く痛みが更に胸の痛みに反響して、青木は声も上げられないくらいに息が詰まった。耳元で自分の早鐘のようになる鼓動が響く。
「ぶ、文さん?ちょ、大丈夫か?!」
 殆ど間髪を入れずと言ってもいいくらい、扉が開いて慌てた足音が聞こえたが自分の呼吸音や血流音、キーンと言う耳鳴りにかき消されて殆ど聞こえなかったし、痛みに意識が遠のく減少に伴って視界が狭くなり一度完全に目を閉じてしまえば瞼は今までにないくらい重かった。瞼が閉じると、あの悪夢が再び意識上に蠢き始めて、青木は恐慌状態になった。だから、自分の体を抱え上げてベッドへと戻してくれた人物など、その時全く解らなかった。
 青木は-。
 少しだけまだ痛む頭に手を遣りながら、木下は青木の病室へと歩を進めていた。その頭には包帯が巻かれている。かすり傷とはいえ、脳には血管が多くて思っていた以上に血が出ていた。検査の前にやって来た大島警部の話では、青木は全治一週間だと言う。肋の殆んどにヒビが入ったらしい。丁度、後一歩で青木の病室の前に立つところで、がたんと何かの倒れる音苦しそうな呻きが聞こえ、慌てて扉を開いた。ベッドから落ちた青木を見た瞬間、木下は走っていた。
「大丈夫だから!ゆっくり息して!」
 そんな声が遠くから聞こえる。いやだ、いやだ。苦しさと恐ろしさとが青木を支配し掛かる。その気持ち悪さから抜け出ようと暴れれば、余計物理的な痛みが増す。ボロボロと涙が出るどころか、全身から厭な汗が噴き出ていることも解らない。悶絶して小刻みに痙攣す青木を、木下は慌てて抱え込むようにして抑える。非常に荒い息が木下の耳元を、火のように熱く灼く。
 -多分、寝てられないんだろう。捕まえに行きたかったんだ。それで体を起こしたら、痛みがぶり返したんだろう。
 木下は青木の行動をそう考えた。
 -俺の所為だ。
 奥歯を噛み締めて、木下は反射的に丸まってしまう青木の体を壊れ物を扱うように細心の注意を払いながら、なんとか抑える。それでも振りほどきたくて暴れる青木が仰向けに寝かされた後、必死で乱れる呼吸と痛みに耐えていたときに、鎖骨の辺りをそっと撫でていてくれた手に、青木は鬱血した痣だらけの腕で思わず縋った。
「き、ば、せんぱ…」
 青木の苦しげな息の元で、掠れて聞き取りづらかったもののしっかりと聞いてしまった。呼ばれた名前は、自分じゃない。木下は唇を噛みながらも暗鬱と心の奥に泥濘のような重みが広がる感情を無視した。
「っ…は、あ…。き、のした?」
 ようやく呼吸も傷みも誤魔化せるようになった頃、瞼が開いた。そこには、泣きそうな顔をした木下がいた。頭に包帯をしている。急激に、現実の明るさに戻されて悪夢は霧消した気がした。
「うん、俺だから。いいから、ゆっくり息して?」
 自分の声が思いの外嬉しそうだ。木下は自分でもそう思って滑稽なやるせなさを自覚する。余り胸を上下させない程度に、と首の付け根を壊れ物を扱うように優しくゆっくりとしたリズムで触れる。それに習って、青木は落ち着きを取り戻す。
「ん…ありがと。圀。助かった」
 一人でベッドから転げ落ちるという醜態が気恥ずかしくて、青木ははにかんで笑った。それには「もう大丈夫」というアピールも含まれている。それを見て少し安心したのか、木下も少し笑った。そっと手を抜いてから、深呼吸をするように息を吐き出す。床に落ちた点滴チューブを拾い、くるくると丸めて割れた点滴瓶の口についたゴムへ、先端の針を刺してからサイドボードに置き、青木を見つめて笑いかけた。
「いや、落ち着いたみたいで良かったよ」
「ちょっと…夢見が悪かったんだ。木下がいてくれて本当に、助かった」
 青木は目を伏せて呟くと、小さく息を吐いた。顔色が少し悪いことに気付いた木下は、敢えて夢の話題を聞こうとはしなかった。青木が久保の家で発見したもののことを大島から聞いていたから、反射的にそれを考えたのだ。匣の中身は-木下は少し想像した。しかし、どうしても竹子姉ちゃんのあの半分だけ見える顔しか像が結べなかった。少しだけ返事が遅れた。木下はそれに気付くと、少し焦り気味に答えた。
「ああ…。あ、大島警部から、話聞いたんだったか?」
「え?あ、うん久保、指名手配かけたって」
「俺のせいで、逃がした…すまん」
「気にするなよ。圀も怪我したろ?」
「俺のは掠り傷みたいだ。頭だから一応検査だけやってけって言われて。さっき結果出て問題なかったから、お前の見舞いに来た。すぐ戦線復帰するよ」
 木下は指で軽く包帯を巻かれた頭を突いてから、神妙な顔になって言う。そして暴れて乱れた青木の浴衣を直してやる。薄い胸板に巻かれた白い包帯に、木下は暗い気分になった。それを隠すように浴衣の合わせをキッチリと合わせた。床に落ちていた蒲団を青木に被せた。
「点滴割れちゃってたから、咄嗟に抜いたんだけどもう一回やり直して貰った方がいいな。ちょっと待ってろ」
 言うが早いか、その点滴瓶の破片を持って木下はまた扉の向こうへと消えた。一連の手際の意外なほどの良さに、青木は驚いていた。そうか、点滴の針は抜いたらああやっておくのか、等と感心していれば暫く後、医者と看護婦を連れて帰ってきた。医者から絶対安静にしておくこと、と説教をされて点滴と共に鎮痛剤を打たれる。看護婦が割れて飛び散った点滴液の始末をして出ていった。律儀に扉の前で頭を下げて礼を言う木下をぼんやりと見つめていたら、振り返った彼と目が合った。なぜか向こうが少し動揺を見せた後、また泣きそうな顔で青木のもとへと駆け寄って来た。
「あ、青木…こんな怪我させて、本当にごめんな」
 木下は青木の枕元に来ると膝を折り、ベッドの上に寝た青木と同じくらいの目線になると、まるで叱られた犬のような顔で謝罪の言葉を口にした。
「え…?いや、圀が謝ることじゃないだろ」
 ひとえに自分に隙があったからだ。あのとき血が上っていた自分が、軽々しく久保に慎重に言うべき言葉をぶつけてしまったから、だからあの急襲があったのだし、それに堪えられなかった自分の体力のなさを悔いこそすれ、この怪我に関しては木下が謝ることではない。目を丸くし、青木は慌てて否定した。
「謝ることだよ。あのとき俺は…怖くて」
 大島の話では、木下は階段に背を向けていたという。確かに、昏倒した木下を見たときには後頭部に怪我があり、その話と一致する。怖かったから、背を向けていたのか。青木はそれまで、後ろを向いていたのは木下が無線を使うために向いた途中だと思っていた。青木はあの箱の中で見た箱を思い出して-目を閉じた。
「ああ…あんな酷い、ひどい場所なんて、直截見なくても怖いよ」
 這入る前に『犯行現場かも知れない』と木下に語った記憶と、直截見てしまった匣の中の事実が青木の脳を誤作動させて混乱させている。木下に話した時点では、あの階段の向こうにある異空間の『怖さ』を青木は知らなかったから、『犯行現場』が怖い、とはイコールにならない。つまり、木下の『怖い』は、この会話の中では理解出来ないはずなのに、青木はそこが混同してしまっている。それだけ、青木の受けた精神的衝撃は大きいのだ、と木下は理解した。罪悪感が、何倍にも膨れ上がって、木下はブンブンと首を振った。
「違うよ、文さん。俺が怖かったのは、這入っちゃ行けないところに文さんがいっちまって、あの殴られる音も怖くて、だから俺は助けに行けなかったんだ…!ってえ…!」
 木下の言葉は後になるにつれて最早悲鳴のようだった。目を丸くしてその言葉を聞いた青木は、一体何のことか解らなかった。余り急激に振ったのが行けなかったのか、木下は後頭部の痛みに思わず蒲団へ顔を突っ伏す。
「え?這入っちゃ、いけない?うわ…圀、大丈夫か?無茶すんなって」
 目を白黒させながらも、青木は慌てて木下の包帯を巻かれた頭を撫でる。しばらくたつと痛みも少しは和らいだのか軽く頭を振って、木下は痛みに顔を顰めながら溜め息をつき、独り言のようなことを呟いた。
「そうだよ。しちゃいけないことすると竹子姉ちゃんと同じになる…」
 明らかに会話ではない幽かな言葉だったのだが、青木には確かに聞こえた。這入っちゃ行けない、とは久保の家のことだろうか。それならば何故、木下が『這入っちゃ行けない』と言うのだろうか。それに暴力の音を聞いて足が竦んだのならば、それは悪口になってしまうがむしろ『臆病な』木下らしいとも言えるだろうし、だれでも意思とは反対のことを実際に行ってしまうこともある。そこまで青木は考えてから、「しちゃいけないこと」と「たけこねえちゃん」の言葉に首を傾げる。
「たけ、こねえちゃん?」
「あ…いや、違う。それは忘れてくれ。ともかく、俺はお前を助けられたのに出来なかったんだ」
 小首を傾げて尋ねる青木の言葉に我に返ると、木下は慌ててそれを否定した。まだそれは、木下の中で整理・理解出来ていないもの-もしくは理解したくないものの範疇だったからだ。そっと、本当に遠慮がちに青木の頬へと手を伸ばして、殴られて少し腫れている口元の痣を包むように触れた。少しだけ青木の顔が動く気配が手に伝われば、彼の目線が真っ直ぐ不思議そうな色を讃えて木下を見ていることに気付いて、慌ててその手を離した。
「だからごめん。本当にごめん」
 打ち切るように木下は立ち上がると、頭を垂れた。その拳が震えていることに青木は気づき、そっと手を触れされた。木下が顔を上げる。泣きそうな顔だと思っていたら、泣いていた。
「木下、なんか鳩ぽっぽ取り締まりからずっと、お前疲れてたもんな。…僕だって咄嗟に動けないことなんかたくさんある。だから次からお互い失敗を生かそうな」
 そっと木下の拳に手を添えて片手で柔らかく包み込みながら、青木は木下の悔恨にどこかありがたさや嬉しさを感じ、言い聞かせるように言った。
「文さん…ありがとな。俺、もう行くな」
 青木の言葉にどこかすれ違いを感じながらも、木下はそれ以上言うことを止した。それでも青木の言葉に温かさを感じて余りあったからだ。
「ああ、気をつけてな。そうだ、出来れば…捜査の進展とか出来ればで良いから、余裕があったら教えて欲しい」
「…うん。いいよ。俺もそのつもりだったし。文さんこのヤマこだわってるもんな。出来るだけここ来るよ」
 青木の目は非常に真剣で、絶対安静を医者に言い渡された期間全て守るとは到底思えなかった。けれど、木下はこの一度決めたら頑固な童顔の青年には何を言っても無駄だと言うことも解っていたので頷いた。もともと、逐一報告はしようと思っていたのだが、本音の所はもう余り動かないで安静にしていて欲しかった。
 願いの内部に、「木場が復帰するまでにヤマを上げたい」と青木が思い詰めていることもわかっている、だから余計に動かないで欲しいという自分自身の汚いエゴが混ざっていることも解っているのだ。ドロドロとした腐敗物のようにそのエゴを腹肚の内に堆積させて知らない顔をしている自分も自覚している。それを、体のためにも安静にして欲しいなどというきれい事で包み込んでいるのだ。何重にも卑怯だ。
 それでも、夢見の悪い-悪夢を思い出してそこに囚われるよりも、まだ事件に向かう刑事としての流れる進展に没頭する方が青木にとっていいのかも知れない、等と思えば青木に殊更何も言えなくなった。ならばせめて、と木下は総動員態勢の非常下の中、ことあるごとに淀橋の病院へ逐一報告に行き、大島警部もそれを黙認していることに感謝した。









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Afterword

 木下青、ちょっとシリアス風で。
 木下が個人的に熱いので!!
 続きますー。









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