一期一会

1 内地編−そのに


 爆音と共に飛行機はあっという間に青い空へ吸い込まれていった。小さな機影をずっと眺めていると、不意に声をかけられた。
「おい。お前、どこまで帰るんだ」
 驚いて青木が振り返ると、少し離れたところに背広姿の若い男が立っていた。髪も長いし、日焼けもあまりしていない。軍人ではなさそうだ。兄たちと同じ、民間人だろうか。
 眼を瞬きさせて相手を見やると、向こうは眼鏡の奥から鋭い目でこちらを大儀そうに見ていた。睨まれたのかと思い、それに少したじろいでしまった。それでも気を取り直して、青木は少しだけ出してしまった訝しげな表情を相手に失礼かと一瞬後悔したが、そのまま隠すことなく男を見た。相手の不遜とも取れる態度に呑まれないよう、対抗したからだ。
 見知らぬ男だ。
 傍らに大きな革のトランクを置いていて、先ほどやって来た機に乗っていたのだろうと青木は判断した。少し長めの髪を風に煽られ、鬱陶しげにかき上げて青木の言葉を待っているようだったが、何と言っていいのか判らず、青木は言葉に詰まった。
「え…と。どこまで…って」
「市内のほうだろう。霞ヶ関までの間なら乗せてってやるから来い」
 有無を云わせない厳しい声で告げると、その男はトランクを掴んでカツカツと靴音高く歩き出した。
「ちょ、な…!」
 尊大な物言いと突然の提案に言葉を無くしてしまったが、それでも青木はどうしようもなくて男の後を小走りでついて行くしかなかった。

 飛行場を横切ったあと、整備兵たちの一団とすれ違った。男がその横を会釈して通ったので、青木もそれに倣ってぺこりと頭を下げた。油にまみれた、熟練そうな整備兵たちが敬礼で返したのを見ていれば、もう男は建物の入り口で青木を待っていた。
「おい、こっちだよ」
―あ、待っててくれたんだ。
 ほんの少しだけれどちょっとした男の配慮に気づいた青木は、ほんのすこしだけ男に対して警戒心を和らげた。そして、慌ててそばまで駆け寄る。
「坊や、よそ見してないで早く来い」
 立ち止まった途端の言葉だった。
 男の傍へ着いて、笑いかけようと顔をあげたときだった。皮肉っぽい笑みを片頬に浮かべて言い放たれた言葉に、青木は一瞬でも持った男への好意を即時撤回して、柳眉をひそめた。
 むっとした青木の顔を鼻で笑い、男は踵を返して奥へと入って行る。むっとした顔で青木も続いた。

 見知らぬ建物は軍隊のものとあって、青木は馴れない雰囲気に居心地が悪かった。男の後を付いてゆくと、事務室のようなところに来た。
「待ってろ」
 青木に短く云い捨てた男は、事務官に借りてどこかへ電話をかけ始めた。青木に対する、ぞんざいでからかいを含むような物言いではなくて、当り前ではあろうが非常にしっかりとした敬語を話すので、少しイラっと来た。確かに実年齢よりもはるかに若く見られる童顔の青木は、常より二つ学年が上ということも拍車をかけて学校では若輩者扱いされるが、それには慣れている。だが、この男の言い様にはいちいち角が立つ。青木は、澄ました顔で何事かを電話している男をちろんと睨んでから、両膝の上に手を揃えて肩をすくめた。
 男の電話している内容に興味もなかったし、手持無沙汰でぼんやりと周りを見渡していると、当番兵の若い兵隊が椅子を持ってきてくれた。礼を言えば、若い兵隊は雀斑のある柔和な顔で笑った。
―意外に軍隊って優しいところなんだな。
 などと思っていれば、それはなんのことはない、自分がお客さんの立場だからだ、と気づいた。
 電話が終わった男は、再び事務官と幾度かやり取りした後に鍵のようなものを貰って、隅っこに所在なく座っていた青木の前へとやって来た。
「よし行くぞ、坊や」
 あくまで失礼な物言いに青木は返事もせずに無言で立ち上がり、ことさら笑顔で先ほどの当番兵に椅子を返した。別にこの男についてゆく必要もなかったが、正直、帰りの手段がないので徒歩を覚悟していただけに渡りに船ではあったので、失礼賃代りに送ってもらおうじゃないかと青木は開き直った。それでも、なんだかよく分からないこの男を不思議に思いながらも後を付いていった。

 建物の横手にある駐車場へ行き、一台の車へと進んでいくので男の背を追った。後部座席にトランクを放り込んだ男は、助手席の鍵を開けてくれた。
「まず一服させろ。滑走路近くじゃ吸えなくてな」
 そう言いながら助手席の脇に立ち、背広の上着から煙草の箱とライターを取り出した。煙草の箱、といっても煙草を吸わない青木にとってそれは左右のふちが焦茶で真中がクリーム色の長方形の小箱だった。女性のコンパクトのように上下に開いた中から一本取り出すと、さっと慣れた手つきで火を付け一服する様子をつい見てしまった。青木の周りにライターを使う人間は少ない。父も兄もマッチ派であるし、学校の友人たちも殆どがそうだ。なので特に、煙草と縁のない青木にとって、珍しいものであった。もっとも、マッチもこのごろは配給制なので、みんな大事に大事に温存しているわけだが。
 ふわり、と紫煙が広がりきつい煙草の香りがする。
「なんだ坊や。…吸うか?」
 青木の視線に気づいたのか、男は灰を落として銜えなおすと青木の鼻先に煙草の箱を開けてよこした。
「…貰います」
 からかわれていると感じ、青木はあえて一本取り出した。楕円柱の形のそれは、近づけるだけでまさに煙草と言った香りが鼻をくすぐった。外国煙草のようで、GELBE SORTEと書いてあった。いったん車に乗り込んだ形で、ちょうど車の進行方向に体を向けていた青木は、大きく開いた扉の方へ足を向けて横向きの恰好で座りなおした。そしてわざと慣れているように銜えてみたが、さてライターをどうやって使うのか知らない。火をどうやってつけようか、この男に聞くのも癪だしと内心思案していた。
「ほら、火」
 ふっ…と顔に影が来たと思ったら、男が上体をかがめて青木の顔近くまで寄せていた。酷くびっくりして固まってしまった。
 銜えられた煙草を小刻みに振っているのと、数年前読んだベストセラーの表紙にも兵隊同士が煙草の火を移しあう絵だったのを思い出したので、男の意図をやっと察することが出来た。確かマッチが尽きたときに友人同士が火を移していたのを見たことがある。あれだ。青木は赤くなり、やたらと瞬きを繰り返した。
 だけど、こんなこともしたことがない。たんに煙草同士くっつければつくのかと思い、男の煙草の先にそれをつけてしばらく待ってみた。つかない。
 青木の挙動を無言で見ていた男は、ほんの少しだけ片頬で笑うと銜えた煙草を落とさないようにしながら言った。
「やったことないのか。…そっち、すうっと吸え」
―あ、そうか。
 言われてやっと理解し、すうっと深く吸い込んだ所。
「ッ…ゲホッ!ゲホゲホ…!」
 まともに灰に煙が入ってしまい、青木は噎せた。苦しくて、ケンケンと苦い咳を必死に繰り返す青木の手から煙草を取り上げると、空いている手で背中をさすってくれた。
「おいおい、大丈夫か坊や。無理するな」
「む、りなんてしてません…」
 あまりにも急き込んだので涙目になりながら、青木は男を見上げた。男はおかしそうに笑っていた。恥ずかしくなって青木は下を向き、こんこんと咳いた。もう一度青木が咳いた原因の煙草を一本持たせ、もう吸うなよ、と言い置いた。車の灰皿で消しておけ、と指示しながら後部座席を開け、男はトランクの中を探りながら青木に声をかける。
「お前、吸ったことないんだろ」
 青木はその言葉に焦って返す。
「あ、ありますよ!」
「どうせ吹かしてただけだろう。無理するな」
 図星なので黙るしかない。
「これ飲んでろ」
 渡された小瓶は、中に黒い液体が入っていた。ぷつぷつと気泡があるので、炭酸系なのだろうか。
 喉の奥が苦い。だから飲み物は嬉しかった。だがこれは見たこともないものだった。ラベルは漢字と横文字の羅列で、大きく「克瓦斯」と書いてあった。
「…かつ、ガス?」
 ガスは飲めない。青木は素っ頓狂な声で呟いた。
「クワス、って読むんだ。ロシアのサイダーみたいなもんだよ。昼飯にもらって忘れてた。それ、気が抜けるとめちゃくちゃ不味いから、早く飲んだ方がいいぞ」
 甘酸っぱく今まで飲んだことがないような味だったが、なんだか不思議な味がした。ぴちぴち炭酸が口の中ではじける感覚がくすぐったかった。
 はあ、と一息ついた青木と男の目線が合った。
「…変な、味がします」
「馴れると病みつきになるらしいぞ、俺はよくわからないけどな」
 ふうん。
 青木は飲みほした瓶を眺めてから首をかしげた。
「…行くぞ。ドア閉めろ」
 男はまだ半分近く残っていた煙草を消し、さっさと運転席に回りエンジンをかけた。


 しばらく車窓を眺めていた青木だが、走り出してからこちらずっと無言のままで気まずい。
 礼ぐらい言った方がいいのか、と青木が逡巡している所へ、男の方から口火を切った。
「お前、なんて言うんだ」
「青木です。…人にものを尋ねるときは自分から名乗るものでしょう」
「俺はお前を車に乗せてってやるんだから、尋ねる権利があるんだよ、坊や」
 屁理屈を言う。
「坊やじゃありません。物忘れも激しいんですか」
「青木だろ。敢えて言ってんだよ。ぼ・う・や」
きゅん、とハンドルを切りながら男は『坊や』と言う単語を歌うように発音した。楽しんでいる。余計癇に障り、青木は思わず声を少し荒げた。
「わかってますよ!だからあんた名前は!」
「郷嶋だよ」
 あっさり返答されたので、少し毒気を抜かれてしまった。だが一つため息をついてから、青木は低い声で相手の横顔をキッと睨み、意識的に静かに話しかけた。
「…郷嶋、さん。坊やっていうのやめてもらえますか」
「俺から見れば坊やじゃないか。まだ中学生そこそこだろ」
「違います。高二です」
「は?」
 相手の見くびるような物言いを撥ねつける様に重ねて告げてやると、郷嶋と名乗った男は運転中にもかかわらず青木の顔をまじまじと見た。最初に睨まれてひるんでしまった、郷嶋の蠍のような眼は眼鏡の向こうで大きく見開いている。鋭い瞳が、綺麗なアーモンド形になっていた。ほとんどだれも走っていない田舎道だが、一度路端に止めてから、再び青木の方を向くと目を細めて眺めた。
「どう見ても中学生…頑張って再来年高校に入ります、って程度だろうが」
 言うに事欠いて、再来年とは何だ。
 14歳くらいと思われたんだと思えば、青木は首に巻いていた長いマフラーを取り、持堂院高校高等科の校章を見せてやった。反対側の襟章はクラス編成の文乙二とある。
「ほら、証拠です」
 ようやく納得したらしい郷嶋は眼鏡を人差し指で押し上げた。
「は…本当に高校生だったのか。見えないな」
「よく言われますけど。僕は七年制高校ですし、五修で中学に上がったから人より年齢が下なんです」
 憤慨しながら青木はつんと澄まして答える。
「だから見くびられるのは慣れてますし、若いのは仕方ないんです」
「じゃあお前、よけい苦労したろ」
 いきなり予想外の言葉を掛けられて、青木は驚いて目を丸くさせた。
 確かに若輩者であり、もともとも顔立ちも童顔の青木は特に初対面の学生に子供扱いをされることが多々あった。何浪も留年を重ねた猛者や、すでに実社会を経験してから入ってくるものを尊敬することが学生内での伝統的な風潮であるから仕方ないと、割り切ってはいるので正直、青木自身はそんなに気にも留めていなかったのだが。どうせ成人し、実社会に出たらそのようなこともなくなるのだろう。教養としての読書量も絶対的に足りないし、人生経験もない上、格別優等生でもない自分の位置はそういうものだ、と思っていれば、それはそれで納得していた。
 それでも一般的な学生の風潮を、郷嶋も理解した上での言葉であることは間違いない。ぞんざいで小馬鹿にしたようなことばかり言っていた男から、思いもよらない言葉を掛けられて驚いたのだ。
 一重の瞳をぱちくりさせて郷嶋を眺めた後、何だか急に顔が熱くなった。気恥ずかしくて毒気が抜けてしまった。この男はなんでこんなに絶妙なタイミングで、こういうことを言うのだろうか。
「あ…え。そ、んな別に…」
 視線を外して下を向いてしまった青木は、もごもごと呟いて、無意味に肩をすくめた。そして、窺うように下から郷嶋を上目で見つめた。彼の真意がよくわからなかったからだ。
「なんだ可愛い反応するなァ坊や」
 青木の視線がおかしかったのか、満足そうに笑った。
「まだ言うんですか」
 一変して顔が曇る。少し睨みつける。
「お前が幾つだろうが何だろうが、坊やだ坊や」
 手を軽く振って青木をあしらった郷嶋は、再び車を発進させた。

「お前、軍人の子か?」
 先ほど兄とともに飛行機に乗って行った年配の将校のうち、誰かの子供だと思われたのだろうか。青木は首を振って口を開いた。
「え…いいえ違います。さっきのっていったのは兄ですが、兄は満州に住んでる大学生です」
「満州…なら建大か、法政か医科大あたりの学生か。優秀だな」
「あ、そうです。建大です」
 郷嶋のすらすらとつけた見当に、大きく頷いた。
「軍属ってわけじゃないんだな」
「はい、普通の学生ですよ兄さんは。たまたま関東軍の将校さんと知り合いで、同時期に飛行機を使って往復するから、帰りだけ一緒に乗せて貰えたって言ってました。その見送りに来ただけです」
 尋ねられた郷嶋の声音に、少しばかり相手が訝しく思っている気色を感じ、特に隠すこともないので事情を説明した。もしかして郷嶋が軍人か特別高等警察かなにかで、なにか誤解されたら厄介だから、と判断したからだ。青木は根底で、この男に少し警戒はしていたのだ。
「へえ、陸軍の飛行場からなんで民間人が乗って行くんだと思ったら」
―友達は広く持っとくもんだな。
 青木の説明を一応は納得したらしく、そう付け加えて感心したような声を出した。
 民間人、と軍人以外の人間を呼ぶ時にその言葉を使った。軍人なら彼らの用語である地方人と呼ぶので、やはりこの男は軍人ではないのかもしれない。それでも確証はないので青木は、それに関しては黙ったまま警戒していた。不用意なことを言って、厄介なことになるのはだれしも嫌だからだ。
「はあ。よくわかりませんが、僕も不思議です」
「だろうな」
 郷嶋はハンドルを持ちながら、背を少し反らしてせせら笑った。青木はその笑いに気づいたのだが、よくわからないし深く尋ねないことにした。軍人ならば、軍人だけにわかる内情があるのかもしれない。代わりに、さし障りのない程度のことを聞いた。
「あなたは、軍人なんですか」
「いいや。俺は内務省の役人だよ。陸軍に出向中ではあるがな」
 少しためらいがちに尋ねた青木に、男はさっぱりと答える。
 特務機関の軍人かと少し気を張っていたが、青木は少しだけ安心した。
 特別高等警察の内務省と軍人は仲が悪い、と言うのは昔から言われていることで、共同の協力なんてするはずがないのは子供でも知っている。小学生のころ、当時新聞で話題になっていた大阪のゴーストップ事件を思い出した。だから青木は、この男が思想犯などを取り締まる特高でもないと認識し、普通の役人であることにその点では警戒を緩めたのだ。そのせいか、話題を広げようと、相手に重ねて聞いてみた。
「出向、ですか。あの機は上海から帰ってきたって聞きました」
「ああそうだよ。大陸に出張しててな、予定が繰り上げになって急いで帰って来たんだよ。大日本航空の路線は福岡経由で遅くなるってんで、無理くり直行の軍用機を捻じ込んで来やがった。俺が間借りしてる側だとは云え、軍人だらけの閉鎖空間なんて息が詰まる」
 郷嶋は面倒臭そうにため息をついて説明する。青木には全く分からない世界であったけれど、とにかくこの男が多忙だと言うことはわかった。
「よくわからないけど…大変だったですね。官僚の人が軍に出向なんて、あるんですね」
 はあ、と感心した青木が素直に思ったことを尋ねれば、眼鏡を人差し指でくい、と押し上げて、顔を隠すように調整しながら郷嶋が答えた。
「軍も省庁も元は同じ、国の官吏だからな。洒落になってない文字通りの共同作戦だ」
 昭和六年の満州事変からこちら、軍官民一体で戦争に突入している御時勢である。その中心ともいえる省の役人の発言としては、本当にシャレにならない。何があると言うのだ。
「きょうどう、さくせん…」
「何だ聞きたいのか。やめておけ、今のお前には関係ない。俺にとっても只の業務にしか過ぎん。勿論、軍内規のことだからな。少なくとも内地で普通に暮らしてる奴にはあまり関係のないことだ」
 青木のつぶやきを好奇心のためととったのか、少し硬い口調で言い捨てた。それで察した青木は大きく頷く。
「はい。僕が知っても仕方ないですから聞きません。知らぬが花って言いますから」
 つんと澄まんで答えた。
「いい答えだな。賢明だ」
 青木の反応にうなづいて、郷嶋はにやりと口の端をあげて笑う。そして、片手で髪をかき交ぜるようにして頭をかきながら、幾分ため息の混じったような話を始めた。
「もっとも、そのおかげで俺はちょうどお前の兄貴が行った満州の、哈爾浜から北京経由で上海まで帰ったばっかりだって言うのに、今日も朝早くに起こされてな、もう午後には東京だ」
 日本から出たことのない青木は、本やラジオ新聞でしか聞いたことのないような地名にほとんど実感も沸かなかった。いまいちピンとこないが、頭の中の地図帳を確認すれば、とにかく遠いところを移動してきたことだけ十分にわかる。北海道から長崎あたりまで移動のあと日本に来たのか、と見当づけた。だから青木はため息をついて、その距離に嘆息した。
「ハルピンからですか…そう言えば確か、ものすごく寒いところだって兄が。内務省って仕事大変なんですね」
「そりゃあな。と言うかな、大変って言えば日本全部が大変だから仕方ないさ」
 だろ?と、郷嶋は目線を投げてよこした。同意を促されるまでもなく、青木は頷いた。

「―お前、高校二年だったな。来学期で三年なら、もう夏には卒業だろう」
「あ…そうです」
「進学するのか?」
 青木は少し大きめの頭を傾けて、逡巡しながら答えた。
「いえ…平時なら進学していたと思いますが、僕はそんなに優等なわけでもないですから、今は」
 途中で言葉を切った。先ほどの川島との会話を思い出した。
「遅かれ早かれ、軍に行かなきゃならないからな。どこ行くつもりだ」
 郷嶋の乾いた声が、俯いた青木に届く。
「特に決めてもいませんけれど、飛行科の予備学生…を受けようか、って。ともかく軍隊に行かなきゃなりませんから」
 それも単に先ほど思ったに過ぎない。学校には各種軍学校や制度のビラが溢れるほどに張り出してあり、学生たちはほとんどその制度を使用して軍務に就く。高等教育を受けた学生には、半強制的に指揮官たる将校への無言の要請がある。二等兵のまま出征する人間もいるにはいるが、それは将校にならないと言う本人の意思があってのことで、少数派のケースだ。
 だから青木も、結局は陸軍の幹部候補生なり海軍の予備士官なりに志願するのだ、と自分でもほとんど自然に思っている。
 ただその意識に、ささくれのように少しだけ引っかかるのは、殺人行為と言う戦争自体の罪に対する慄き、そして死にたくないという動物としての本能くらいだ。だが、結局青木は昭和18年現在の大日本帝国に日本人として生を受け、社会的生活を営んでいる以上、戦争に行くことは当たり前のことだと認識している。
 だからこそ、上記二つの理由は心のしこりとなりこそすれ、結局は自分を自分で今の時代の流れは正しいのだ、と思い込ませているにすぎないし、もっと言ってしまえば、理由なんか探しようがないくらい、学行が終われば軍隊に入り、戦地に行くのも当然のことだと思っている。この国が置かれている情勢だって彼なりに理解し、逼迫した情勢を肌で感じている。現実、そのために3カ年の学校生活も半年も短縮されて繰り上げになっているのだから。青木の親類だって、年若い従兄もすでに戦死している。戦局だって終わらない。現実に生きている青木は、現実を根底にしか生きていけない。世間−事実にあわせて、思考は作られるべきだと青木は思っている。
「飛行科か。そりゃまた」
 少し驚いたような口調で郷嶋は、相の手を打つ。
「飛行機、好きか?」
 尋ねられて青木は頷くが、それでもさっき何となく思っただけなので、そこまで何か意志めいたものがない自分が恥ずかしく、無暗に両の指の腹を軽く当てた。
「ええ。そりゃ大空を飛べるって言うのは憧れますし。…でも、正直よくわかりません」
 少し言葉を選んだため、舌足らずになった。
「ああ…このご時世だ、別に飛行兵だろうと戦車兵だろうと、兵科なんか何でもいいだろうよ。死ぬリスクを少しでも減らすんなら、主計とか医官あたりの技能持ちがいいぞ」
 最初から飛行機に乗りたい、潜水艦に乗りたい、という強い希望があれば悩んだりしないであろうが―それどころか逆様に、戦争がれっきとした殺人行為であることに疑問を感じなければ―、とにかく戦争に駆り立てられる学生の中には、手当たり次第に各種学校制度へ志願を出すものも少なくない。それが、ともかく戦争に行って役に立ちたい故に手段を選んでいないのか、はたまた、特に希望もないどころか行かざるを得ないからどこでもいい、と思っているのかなんて、結局は本人にしかわからない。
 社会生活を営んでいるうえで、建前さえ何とか繕っていればスムーズに事が運ぶことも、青木は知っている。ただ、知ってはいてもそれがいいのか悪いのか、青木にはわからない。
 ともあれ、郷嶋は青木が実務的にどこに志願したらいいのか迷っているのだ、と受け取った。けれど返ってきた返答に、青木は少し違和感を持った。別に郷嶋は例にあげた主計や医官を批難しているわけではないと、わかってはいるのだが。
「死ぬリスクを回避―ですか。それってちょっと」
「卑怯、か」
 言葉を引き取った郷嶋が、確認するように尋ねた。青木はそれを肯定するように言葉を紡いだ。
「だってそうじゃないですか。どうせ死ぬなら―」
「結局、お国のために役に立とうって将校になるのも、どうせ死ぬんなら偉い方がいいってのも、将校になれば少しはしごきが無くて楽かもしれないって言うのも、全部同じだよ」
 今度は青木の言葉を遮って、郷嶋はあくまで乾いた声で呟いた。
「同じ、ってそんな」
 そんなことは。
 ないはずだ。青木は心の中で一度呟いてから顔をあげた。
「お題目は違ってても、損得を考えてる以上みんな同レベルだ。お前がそれに優劣をつけること自体が、損得なんだよ。考えなきゃお前、何の試験も受けずに兵隊になりゃいい。だが、今の時代まっさらの学徒兵がそうするのは難しい風潮だ。だからお前らは予備士官に行く雰囲気なんだろ。けど、そりゃ別に批難されることでもないし、別に褒められることでもない。努力したにしろ、流されたにしろ、その立場にたまたまいただけだ。それに見合った自分であればいいことだろう」
 ぐるぐると思考が揺らめく。
「仰りたいことは、何となくわかります。でも、人が死んだり―自分が殺すかと思うと、厭な気分です」
 本音が、出た。言ってしまってから少し後悔したが、今更ごまかすことも出来ない、と開き直った。一つ深呼吸して、唇を噛んだ。社会的責任を理解して「こうするべき」と意識を制御し通すには、青木の感受性は豊かすぎたのだ。郷嶋が前を向いて運転したまま、口を開いた。少し、かすれたような低い声だった。
「誰だってそうだろ。異常快楽者以外。なっちまわないよう、国挙げてこの戦争の正しさ理由付けして、自分たちの自意識を守ってるわけだ。正しいことなんだ、って思えば罪悪感も持つ必要がないことだけは、確かだ」
 だから鬼畜米英なのか、と今更ながら納得する。そうやって自分の正常な思考を保護するのだ。死ぬのも殺すのも、すり替えるのも嫌だな、と思えば自分がどこか中途半端であることに気づかされた。
「結局それって―そんな風に思うのは、僕はあまりしたくないです」
 これだけしか言えなかった。することは、おんなじだ、からだ。
「青木、お前が考えてそう思うなら、そうなんだろう。―直接、戦地に行って人を殺さないだけで、俺の立場だって戦争って意味で言えば殺人行為に加担してるし、お前だってそれに片足つっこんでその気にもなりかけてるんだ、同じだ。瞞してる方も瞞される方も一緒だし、どこの国だってやってる」
「それは…」
 青木は黙った。どの道、逃げ道はないのだ。 少しの間、無言の重苦しさが車内を包む。飛び去ってゆく車窓の景色を、青木はもの悲しく感じて目を閉じる。じいんと鈍く沁みた。自分の名を初めて呼ばれたと、今やっと気付いた。染み入る靜かなさざ波をやり過ごしてから郷嶋を見上げ、そして再び口を開いた。
「共犯者に代わりがないから、って事なんですね。なんと思っているかより、現実やっていることとして」
 話す言葉を換えた。それならば、なにも考えずなにも気付かない方がマシだ。とさえこころの中で叫んだ。だがそれは、こともなげに返された返事に怯んだ。
「少なくとも俺はそう思うってだけだ。…だから俺はまるきり考えるな、なんて云ってはいないよ。自分の考えなくしちまったら、ただの馬鹿だろう」
 自分の考えが見透かされたような返答は、先ほどの会話と噛み合っていない。どころか、何か突き放したような言葉でもあったが、その逆とも取れた。いずれせよそれでも言いたいことは、青木に鋭く刺さる。
「…損得考えたってみんな一緒って言うのは、みんな死ぬ―から、でもあるんですか」
 青木はどこか捨て鉢な気分で言い捨てた。
 死ぬことを前提に、話をしているのだと今更気付く。けれど、それが当り前なのだ。
「死ぬかどうかはわからん。結果、戦死するやつが多いから、その理由付けを万葉集だのなんだのから総動員して、国単位で意味づけしてるのは否定しないよ。だがな、少なくともみんな死んであとは野となれって御上の御考えなら『すめらいくさ』に勝つため、俺らはこんな仕事していない」
 がしがしと頭を掻きながら、郷嶋は云う。歩行者を見つけて停車した。
「自分の立場をわきまえていればいいだけのことだ。お前には出来そうだと、思うんだがな」
 どうせ同じなら、気の向いたことやれよ。 結局俺らは、やれることをやるだけさ。
 兄と同じ事を、云った。
 その言葉に少し驚いて居れば、急に郷嶋の片手が伸びてきた。何事かと肩をすくめたら、ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜるようにして頭を撫でられた。
「うわ、ちょ、なにするんですか」
「撫でてるんだよ。坊や」
「だからなんで。って云うか、また坊やって」
「撫でたいからだよ」
「意味がわかりません」
「面白いな、お前」
 言い合いになってしまったが、そんな郷嶋の言葉は深く胸の奥に沁みた。髪を両手で殊更直した後に、目を閉じてとりとめもなく言葉に明言か出来ないけれども確かに渦巻く思いの中でたゆたっていれば、単調な自動車の揺れからなのか、青木はゆっくりと帳が落ちるように眠りの中に落ちていった。

 靜かになった。
 ひょいと隣を覗いた郷嶋は、すうと寝入っている青木を眺めて少し口の端をあげた。そして、市内に入った標識を見つけて右折した。
 

 実際には、青木の説明した彼の兄の事を全面的に信用したわけではなかった。
 郷嶋は数年前、スパイ養成機関である中野学校創設に関するプロジェクトの一員として、内務省側からかかわったことがあった。
 当時の郷嶋は、高校生だった。
 生まれも育ちも上海のフランス租界であった郷嶋は、中学の二年秋に父親の都合で内地の日本本土へやってくるまで、小学生時代は上海の西洋人子弟をはじめ多国籍の子供の多い学校へ通い、中学も英国系パブリックスクールであるブリティッシュ・カテドラル・スクールへ進学している通り、日本に来たことが無かった。父は満鉄の上海支社の人間であり、美術品等の関係の仕事をしていたことは確かだが、とにかく調査部の人間であることしか知らなかったし、父も言わなかった。
 残りの中学時代を日本で過ごした後、再び上海に戻り、上海市郊外にある東亜同文書院へ進学した。
 当時二年であった郷嶋は、1937年の第二次上海事変に巻き込まれた。前々日の8月12日から共同租界にあった友人の実家で、貫徹麻雀を呑気にやり込んでいれば明けて13日、午前中には突然の国民党と日本軍との交戦が始まってしまった。今みだりに外に出て何をする必要もなし、とそのまま友人たち数人とで連泊した方がましだなどと話していた次の日、上海沖に停泊していた日本の船艇を目標に、国民党軍機が空襲を始めた。
 その零れ玉が上海の街中にも落ちてきたからたまらない。フランス租界や共同租界にも多数爆弾が落ちてきて、運悪く友人の家のあった建物にも直撃したのだ。幸い横に長い建物であったうえ他に住民もたまたまおらず、唯一その時屋内にいた郷嶋たちは隅の部屋にいたので、死んだり重症ではなかったが、彼は崩れた壁に怪我させられた。その時に負った傷の静養治療のため、休学して東京にやってきた。幸い傷はすぐに快癒したものの、経過観察に半年欲しいと言う医師の言葉もあって、一度とってしまった休学期間中にやることのない郷嶋は、日本の東京支所と上海を行き来しており人脈も多い父親の勧めで、内務省警保局図書課の顧員としてアルバイトを始めた。図書課は出版物を一手に検閲する業務であった。なにしろ発行禁止を決めるのはこの課であるので、発禁前の本が読み放題であるとして、本当に軽い気持ちだった。
 検閲の仕事を始めて一週間も経っていない頃だ。正確に言えば五日目の午後である。

 大陸外地育ちという多文化を経験し、その出自から日本語のほか、中国語の標準的な言語である北京語のほかに地元の上海語、上海や植民地で使われるその土地の言語と英語の混じったピジンイングリッシュと習ったきれいなイギリス英語、片言のフランス語とロシア語のいくつか、と言ったマルチリンガルであることなどを買われ、内務省の某特務機関から協力要請―という名の業務変更と配置変更が行われた。それが「後方勤務要員養成所」―のちの陸軍中野学校―を次の年の四月に開設するために突貫で工作中の内務省特務機関・山辺機関への異動であった。

 復学してのちもそれが縁で雇員を続けた。そして大学まで無事終了して後、高等文官試験を受けて及第、正式な官吏として内務省入りを果たした現在でも、今こんな仕事をしているのだと思えば、わざわざ直行チャーターの軍用機に乗る必要のあった青木の兄に、なにか似たような匂いを感じた。
 家庭的に何か強力なコネがあるわけでもなさそうであるし、軍属でもない。そう言うあやふやな立場の人間を推定する一つの仮定に、自分と同じような立場ではないのか、と思ったに過ぎないのだが、その勘は確信に近い。

―兄な。…匂うな。何となく。
 だからといってなんというわけでもない。
 どのような立場かも知らないが、もしそうであるならば「大変だろうな、ごくろうさん」と、そちらに対しても同業者に対するお互い様、と言う意味で軽く笑っただけだった。
「…寒い時代だな。全く」
 ぽつりと口を歪めて嘯いた。

 目指す場所にもうすぐ着く。
 郷嶋は、未だ眠っている青木の少し頬に紅の差したような紅顔を見やれば、子供のような童顔と先ほどのきな臭い話が不釣り合いに感じたものの、それは全く嫌な感情でも驚きでもなかったことだけは確かであった。
 アクセルを踏めば、エンジン音が悲しいほど軽快に低く唸った。



                                                            …next→

Afterword

郷嶋のターンです。
なんか…真面目な話にしようと思ったんだけど(いや、至ってまじめに書いたんだが)…これって誘拐+教師の説教みたいだな。

趣味全開な上に、なんだかよく分かんない感じなので、すいません。邪魅から見た郷嶋のポリシーは「わきまえること」っぽいので、頑張って解釈したつもり。
どうせなら特務機関っぽくしたかったので、郷嶋には強行軍のスケジュールですね。真冬の一月にハルピンから上海行って東京、て温度変化激しすぎて風邪引くよ…。

青木は現実問題として、これからどうすべきかは「当然」として判ってるんだけど、根底にある嫌悪感がそれをスムーズにしてくれない。なんなのか分かんなかったし、分かんないままだけど、それでもなんか全く考えの違う話を聞いたり、悩んだりする青臭い学生、っぽい感じ…と思ってんですけど。
ううん…今のところこんな感じにするのが限界。不適切な事書いていたらすみません。
あと、青木はいまんとこ「昔、車に乗せて貰った内務省にお勤めの郷嶋さん」と「元特高って噂がある公安のサソリの郡治」は全く別人だと思ってるといいです。

長くなりすぎたおかげで、木下のターンが入らなかった…!!!
次続きます。郷嶋のターンの続きちょっとと、木下。
って云うか、未だ最初の時間軸に戻ってないよ…。

あ、裏テーマ「名作の名ぜりふを使ってみよう(リスペクトと言ってくれ)」の今回は一つ。
2はマッケイン少将の「寒い時代」を郷嶋に言わせました。どっちかって云うと、漫画版のORIGINでの用法。ガンダムだよ。










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