一期一会

1 内地編−そのさん


「…おい、着いたぞ。おい」
 夢さえも見ない、灰色ののったりとしたまどろみをたゆたっていた青木の耳に、そっけない男の声はうつつか幻かさえも認識できないまま届いた。
「ん…」
とんとん、と肩をつつかれる感覚に気づいて寝ぼけたままで重い瞳を開けようとしたとき、片頬を引っ張られて仰天した。
「う、ひゃ…!ひゃにふんへすか!」
 ぐい、と頬を引っ張って顔を上げさせられるものだから、青木は寝ぼけ眼もすっかり覚醒してしまった。
 引っ張られたまま抗議の声をあげるが、何だか間抜けな発音にしかならなくて、それすら恨めしく思う青木は思わず郷嶋の腕を掴んだ。可笑しそうに、せせら笑いながら郷嶋は漸く離してくれた。
「よく伸びるな、お前」
掴んだ郷嶋の腕を投げ捨てる様に離せば、つねられた頬を両手で押えて睨みあげた。少しじんじんする。
「いたァ…。痛いじゃないですか」
 本当はそんなに痛くはなかったが、殊更痛いようにしてやった。
「そんなに痛かねえだろ」
「いたかった、です!」
 涼しい顔でそっけない返答をする郷嶋に、両こぶしを握って青木は言いつのった。
「そりゃ悪かったなあ」
 すると、そっと大きな郷嶋の手に頬が包まれ、青木は吃驚して反射的に少し肩をすくめた。
 思いのほか温かな、しかし有無を言わせない強い力を感じさせるその手で優しく撫でられる感触に、青木は気恥ずかしくなって自然と顔が赤くなる。それでも、怯んだことを見せるのはどうしても厭で、青木は心中を悟られまいと訝しげな視線を作って郷嶋を見上げた。
 やっぱり不敵な笑みで男はこちらを見やっていたのだけれど、郷嶋と言うこの大人の、節くれて細長い指をつけた手は大きくて、頬を撫でる男のその手に包まれた自分の存在を青木はとても小さく感じた。
 彼のこころはそれを意識することで、自分がまだまだ未成熟の、ちっぽけな少年であることを自覚したのだが、その認識は青木自身が否定しなかった。
 ばかりか、羞恥の中で確かに心地よささえをも感じてしまっている自分に気付いた。
 そして、ただただ困惑する。
 面映ゆいような居心地の良いような、恥ずかしくて逃げ出してしまいたいような、それでも自分より大きな力に抑えられる感覚に満更でもないような、相反する気持ちが芽生える。この感情の正体は今まさに直面しているにも関わらず、青木はそれを滞りなく処理することはできなかった。こんなような感情は青木の中に元来芽生えており、時折顔を出すのだ。だが今、それをこの郷嶋から感じているという事実が青木を赤面させる。青木にとって、それが理解不能な心理にさせられるのは確かだし、またそれは羞恥してしまうことだとしか判らないことだと、青木は自分を自分で強制的に納得させる。
 青木は、己の頬が赤く熱をもっていることに気づいているであろう相手を直視することが出来なくて、体が固まったまま硬く目を瞑るしかなかった。
 本当にわずかな時間の中だったが、青木にはとても長く感じられた。

 く、と可笑しそうに低く喉を鳴らす声が聞こえた。同時に軽く優しくはずませるように、ぽんぽんと大きな郷嶋の手が頬の上を撫でてから離れる。
 そうっと窺うように眼を開けた青木は、自分の胸中を掴んだ今の不可思議な感情はなんだったのか判らなくて、それを与えた郷嶋を酷くまじめに見つめた。
 小首を傾げ、まっすぐ澄んだ瞳をこちらへと向ける青木の視線に気付く。郷嶋は、この高校生と言っても実年齢よりも色濃く幼さを湛えた童顔の表と裏腹に、言葉の端々から感じる、相応の学生らしい利発で理知的な雰囲気を覗かせる相反した面をもつ少年を、独り占めして仕舞い込んで愛でたいような、酷く傷つけて汚して壊したいような矛盾した気分を同時に抱いたが、どちらとも意識的に無視した。己にそうさせた、控えめだが真面目そうな優等生然とした相手の顔を興味深く眺めたものの、郷嶋は青木の澄み切った瞳の中に自分が映っていることに気付くと、自分の左の瞳が少しだけ痙攣して細くなるのが判った。
 だからそれを契機に視線を反らせて俯向き、眼鏡を外すと目を瞑った。少しだけ、心がざわめいたことを気付かないふりをして。青木は、そんな郷嶋の一挙手を無言のまま見ていたが彼が何を考えているのかは判らなかったし、推し量ることは自分の裁量ではないと考えて止めた。そして、ただ心の中に湧き上がる感情を言葉にしようと努めた。
「なんだ」
 一度強く目を閉じた後、ゆっくり開けて眼鏡を掛け直しながら、何か言いたそうにわずかに開いた青木の唇を一瞥して尋ねた。
 再び青木の瞳に映った郷嶋は、出会った初めと同じような鋭い瞳だった。少しだけ躊躇してから青木が口を開く。
「いえ…。貴方の仰るとおりに僕は、坊や−子供のような気がします」
「どうしたお前。しおらしいな」
 少し笑う郷嶋に、青木は恥ずかしさを含んだ神妙な顔で少し唇を噛んだ。笑われて恥ずかしいからではなく、先ほどの感情を思い出したからだ。けれど頬に赤みが差した変化を、自身のことなのに−だからなのか−青木は気付かなかった。意味もなく己の前髪を一房、軽く引っ張って小首を傾げる。
「…結局、よく判っていないことしか、僕にはわからないな…と思って」
 視線を自分の足下に揺らめかせ、小さく呟いてから口をとじた青木の表情は生真面目で、ふむ、と鼻から息を吹き出した郷嶋はハンドルに組んだ両腕を置いて、それにもたれ掛かりながら口を開いた。
「そりゃ−そこが。坊やだからさ」
 青木は顔を上げた。
 改めてこの男から坊やと断言されて少し心が苛ついたものの、文句は口にしなかった。胸の中に渦巻く感情をどう表していいのか判らなく、ただねっとりと肚の中に溜まってゆくのを不快に感じた。けれどその不快の澱に絡められることを望むような自分も確かにいて、青木はおぞましさと魅力を吹っ切るように少し首を振った。
「−郷嶋さんは、大人…ですね」
 自分の身の置き場の話と、先ほど感じた感情とがそう結論づけた。ぽつりと殆ど無意識で、何とはなしに呟いた声だったが、相手にはしっかりと聞こえていた。郷嶋の片口角が上がって、可笑しそうに笑みを作る。
−さあな、どうだかァな。
 煽るように笑いを含んだ声音で嘯くようにして返事した彼は、いささか吐き捨てるように、へ、と片頬で嗤った。それは青木に対してでも自分に対してでもあった気がするが、細かいことは考えなかった。驚いたように目を丸くして、ぱちぱちと綺麗な瞳を瞬きさせた青木はそのあと、少しだけ苛立ったような−哀しそうな顔をした。
 その顔に、郷嶋は少し満足したような−心を小さな針で僅かに突かれたような、どちらでもあるような無いような気分になった。
「−お前は十年後、どうなってんだろうな」
 可笑しそうに喉を鳴らし、郷嶋は呟く。ごく自然になにも考えずに口から出たその言葉に、青木はたちまち柳眉を曇らせ瞳を伏せた。
「そんなこと−十年後の事なんて、考えたこと…小さい頃しか…考えたことがない、ですし−今こんな時期にそんなこと、考えられませんよ」
 苦笑混じりの返事をしつつ、未来を思い描くことすら無くなっているのが当然となっていた自分を見つけたのだが、それ以上この話をしたくなかった。今の自分の未来なんて考えられなかった。だって近い将来必ず青木は戦争に行き、暴力と非日常の世界へ埋没してゆくだけなのだ。それから後は、死しかない。いっそその流れに浸りきって麻痺してしまえばいいとさえ青木は捨て鉢に思ったが、彼の理性と感受性がそれを拒否する。現実を捨てることなど、彼の中に選択肢として存在しなかった。とすると、考えられる先は一つしかない。そこまでは今は考えたくなかった。意識の隅から暗く覆ってくる澱を青木はただただ、厭だなと素直に感じた。
 郷嶋はそんな青木を、鋭い目を細めて無表情のまま見ていた。

 彼の視線に気付かないまま、ふと、それ以前に自分たちは今どこにいるのかと青木は今更気付けば、慌てて車外を見渡した。
「そ、それより着いたってどこに…!」
 一体どこに連れてこられたのか、と起こされる時に言われた「着いた」と言う言葉を不審に感じて窓越しに見える景色を確認すれば、そこは青木のとても見慣れた風景だった。
「ここ…。うちの学校?」
 眼前には通い馴れた母校の、持堂院高等学校がその門を開いていた。
「え、え?」
 驚いて、校門と郷嶋とを何度も見てしまった。そんな青木を楽しそうに嗤いながら、郷嶋は髪をかき上げた。
「なんだどこに着いたのか、今まで分かんなかったのか。まあ、あんなに眠りこけてやがったからな」
「そ…それは。なんだかヤケに眠くなっちゃって…」
 車の心地よい振動があったとはいえ、そんなに寝穢く眠ってしまったのか、と青木は顔を赤くして恥ずかしそうに肩をすくめた。郷嶋を伺うように下から見つめるその目は、まるで教師に悪戯を見つかった学生のようだ。郷嶋は口の端を愉しそうに歪めると、煙草を取り出しながら言った。
「お前、酒弱いんだなあ」
「さ、け?」
 きょとんとした青木は、本当に子供のようだった。
「さっきのクワスな、あれ少しばかりアルコール入ってるんだよ、坊や」
 涼しい顔で説明した郷嶋は、ふう、と紫煙を青木の顔に吹きかけた。
「え…わ、ゴホッゴホ!ちょ、な、にするん、ですか!」
 一瞬に広がった弾幕をまともに吸い込んでしまい、青木はケンケンと二度目の咳き込みに涙目で郷嶋を睨んだ。
「可愛いからなァ、お前。からかいたくなるんだよ」
「理由になってないですよ!なにが可愛いですか、やめて下さい!…だから、なんでここに」
 涙を拳で拭い、キッと睨んでくる青木だったが、全く凄みが無くて郷嶋の唇を楽しそうにもっと歪めさせるだけだった。
「なんでって、お前が校章見せたんだろ俺に。だから親切に送ってやったんじゃないか」
「それにしたってなんで場所まであんた知ってるんです」
 地図もないようだし、一学校の位置など大体の地名くらいは知っているだろうが、細かい住所など知っているものだろうか。だから青木は不審に思ったのだ。
「−へるめす教授は、相変わらずお元気か?」
「え、え…最近は芋料理も教えて頂いて…って、え?なんで知ってらっしゃるんです」
 紫煙をくゆらせながら窓を少し開けた郷嶋があまりにも自然に尋ねるものだから、青木も思わず普通に答えかけてしまった。慌てて青木は問いを問いで重ねた。
 へるめす教授は持堂院一の紳士として名高い、成熟した男のダンディズム漂う物理化学教師だ。青木は文科ではあるが、化学を教えて貰っている。最近では食糧事象が悪化したため、校庭に芋など農作物を作り、教授は趣味の料理を学生たちに講義している。
「むかし世話になったんだよ」
 しれっと答えた郷嶋の言葉に、眼を丸くして青木は驚いたが合点はいった。
「先輩…だったんですね郷嶋さん。だから」
 郷嶋にとっても母校だったから、自分をここまで送ってこられたのか。青木はその点については納得したものの、偶然には驚いたままだ。
「何年も前だし、俺は中学だけだけどな。お前が校章見せた時ァ、俺だって驚いたさ」
 中学と高校は同じ敷地内にある。それに、高校を他の学校に進学するのは珍しいが、いないわけではない。
 郷嶋のしれっとした答えを聞いて、青木は脱力感と、どこか不思議な偶然の一致に溜息をつきながらマフラーをグルグルと巻いた。

「じゃ僕はこれで…。郷嶋さん、送って頂いたことだけに関しては感謝しています。ありがとうございました」
「言うなあ坊やが。ああ…おい」
 礼を慇懃無礼なまでに深々と頭を下げて言ってやった青木は、ばたんとドアを開けて外へ出ようと足を踏み出した時に声をかけられる。振り向いて青木は尋ねた。
「なんです」
「またな、坊や」
「十年後に、ですか」
 両足で大地に立ち、青木はくるりと振り向いて渋い顔を見せながら続けた。郷嶋の言葉の選び方で、彼が何を言わんとしているか、何となく判ったからだ。正解かどうかは、彼の片眉が上がったことで判る。
「その時はもう、坊やじゃありませんよ僕。…もし、生きていたらですけれど」
「どうだかな。確認しなきゃわからんな」
 紫煙の向こうで、蠍のような瞳が可笑しそうに嗤った。
「その言葉、絶対に撤回させてやりますから」
「そりゃ楽しみなことだ」
 ぐりっと灰皿に煙草を押しつけ、せせら笑う郷嶋に青木は苦虫を噛み潰したような面持ちのまま声をかけた。
「それじゃ郷嶋さん。…また」
 言葉を意識的に選択した。青木は身軽に身を翻してドアを閉めた。


 走り去ってゆく車が、小さく見えなくなってゆくまで青木はそこにずっと立ち尽くしていた。
夕焼けが青木を包んでいた。

 なんだったんだろう。不思議な男だった。
 青木はこてんと首を傾げて、溜息をついた。
「…いままで十年後なんて未来、考えたことなかったんだな。僕」
 ぽつりとこころの呟きが漏れて、乾いた風に散っていった。
 そうして、ふらふらとどこか現実感を伴わないような、そんな頼りない足取りだと自分でもわかるような歩みで校門を潜り、学舎へと入っていった。酷く疲れていた。
 住み慣れた桜豪寮へと向かうため、近道をしようと校舎を横切るために中へ入った。
 放課後で、誰もこの時間は使っていない特別教室が並ぶ廊下は少し微昏く、しんとしていた。こつこつ、と青木自身の跫だけが響く。夕暮れの光溢れる窓の下までやってきた。全て、茜の色に熔けていきそうな気がした。
 ふと立ち止まり、振り返る。

 微昏く闇との境界線が曖昧になっている向こう。
 戦争が、廊下の奥に立つてゐた。



 昭和一八年一月三〇日の夕刻のことである。


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Afterword

郷嶋のターンつづきです。
文蔵の心理情況とかは、ちょっと純文学(というか、加賀乙彦先生)の少年思春期的な感じを目指してみたです。
強い力に征服される快感以前のこそばゆさと居心地の良さとか、そう言う感じ…。精神科医の先生が全年齢向けの純文学でそう言うの書くんだから、有りなんだろう!
文蔵は年上の人間の多い環境に育ったっぽいイメージがある。いくら同学年や友人って言っても、そこは青木の中できちんと分かれてるみたいな気もする。

郷嶋と文蔵の母校を、どうしても持堂院にしたいらしいわたし。
でも学年がかなり違うので、同じ時期に学校に在籍したことはないとかそう言う微妙な感じの。

さて。この続きものの裏テーマは「名作の名ぜりふを使ってみよう(リスペクトと言ってくれ)」です。一話に一個入れる自分目標。
今回の3では2つ。
「坊やだからさ」はやっぱり基本というか。郷嶋が邪魅で青木のことを坊や呼ばわりしたとこ読んだ瞬間から、密かにシャアのあの名台詞を使ってやりたかったんで。でも今回はイレギュラーな学生時代なので、いつか昭和28年現在の郷嶋から、文蔵に言わせたい。
もうひとつ、一番最後の「戦争が、廊下の奥に立つてゐた。」ってのは渡辺白泉の俳句。この俳句有名ですね。引用なので旧かなのまま。

あ、日付の一月三〇日は土曜日なので、文蔵は土曜の半ドン(いま…若い子この言葉知ってるかな?)後、家に帰って兄ちゃんの見送りに行ってたことになりますw









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