一期一会

1 内地編−そのよん


昭和18年2月1日

 週に二時間かっちりと必修科目に入っている、理科文科合同の軍事教練が終わり、その場に殆ど全員が尻もちをつくようにして崩れ落ちた。大の字になって四肢を放り出し、解放の喜びをかみしめている。
 青木も例に洩れず、ほうっと安堵と疲労のため息をついて、背負った背嚢の重みで後ろにのけぞるようにして座り込むと、その背嚢の上に寝そべるようにしてぐったり弛緩した。背中が蒸れて不快だったが、とりあえず脱力感に酔っていた。
「おおい、文蔵。おつかれー」
 呼ばれて、青木が声のした方へと見やれば、装備を打ち捨てたどころか、上半身ほとんど裸で汗をぬぐいながら友人の実方廉がやってきた。
 ああ、疲れたこんちくしょう、などとぼやく割には笑顔である。青木のすぐ傍にしゃがみ込んだ実方の体は、細身ではあるが青年に相応しく引き締まっていた。逞しく発達したしなやかな筋肉を細身の肉体に浮き上がらせ、綺麗に均整が取れていた。青木は自分が年齢的に一歳下とはいえ、子供じみた自分の薄い体と知らずに比べて、内心少し自身を恥じたと同時に、少しだけ羨望の交る感嘆の目で見つめた。
 実方にはまだまだ余力があるらしい。それを見ると何だか余計疲れた。窮屈な詰襟を外し、冬の冷たい外気を服の中に入れると、火照った裸の薄い胸に冷気が清々しくて気持ち良かった。少し気怠げに、それでも笑顔で返事を返した。
「ん…お疲れー」
「大丈夫か?」
 寝そべったままの青木の頬を、可笑しそうに実方が突つく。正直、青木はそこまで体力のない方ではない。中学から五年間ずっと週二回の教練を熟してきたのだし、体練科の授業だって取り立てて良いわけではないが、そこそこの成績だ。確かに頭角を現している方では全くないにしろ、部活動で合気柔術を―あまり熱心ではないのだ―嗜み程度に身につけてもいるのだから、人並程度の体力は出来ていると思っているし、事実ある。体力の回復は早いほうだと自負している。怪我こそ頻繁にするものの、それは不注意で起こる周の怪我ではないし、治りが早いのは取り柄だ。
 けれど、やっぱり初めがいけなかったのだ、と青木は頭を掻いて照れ笑いするしかない。
 中学に入って初めての軍事教練でのことだ。張り切りすぎたのか緊張したのかもわからないが、ともかく気負いすぎたせいだと思う。殆どが小学六年を終了した同級生の中、少数派であった一年下組の青木は自分の体力以上の消耗すら気付かずに、中学から始まる本格的な軍事演習の洗礼として、ひと際厳しく行われた流れへ、ただただついていこうと懸命になっていた。成長過程にある子供の一年差は大きい。結果、限界を超えて派手にぶっ倒れてしまった。息も絶え絶えであった青木を保健室に運び、ずっと心配そうに看病してくれたのが、隊列に並ぶ青木のすぐ後ろにいた小六卒組の実方だった。
 そこから彼との交友が始まったので縁は異なものだと思っている。最も、倒れたのはなにも青木だけではなく、受験勉強に明け暮れていた多くの子供たちは何人もいたのだが、すぐ前の人間が前触れもなくいきなり倒れてしまった記憶は実方にとってよほど強烈であったのか、ずっと青木を思いやってくれる。だからといって、青木のことを侮っているわけでもないし、また未だ体力がないと思いこんでいるわけでもない。ただただこの友人の気性と言うか気遣いが有り難いし、それに包まれていることを自覚するのは面映ゆくいけれど、嫌ではない。
 頬を突かれて青木は困ったように笑いかけてから、擽ったそうに片目を瞑った。そしてその指から逃げるように背嚢をそのまま下ろし、起き上がると胡坐に座り直す。
「だけど廉、君まだ余裕みたいだけど」
 青木は、両手で両の足首を握って首をすくめるような格好で、あっけらかんとした笑みを見せる友人に向かって苦笑した。
「そう見えるかあ?とんでもないよ。僕ァお前たちより、一周余分に走らされたんだぞ」
「走れ、って言われて走れるような体力があること自体、余裕ありまくりなんだよバッキャロー」
 実方の怪訝そうな反駁に、青木の近くでへたばっていたはずの木山がぼやいた。
「うわ、木山こわい」
 ずるずると匍匐前進の要領で青木達のそばへやってくる恨めしそうな形相の、疲労にまみれた木山を見て、青木は吹き出す。
「まだだ…まだ終わらんよ…!」
「死にそうじゃねえか。大丈夫かあ?」
 実方も突っ込みながら肩を揺らし、木山を覗き込んだ。
「歩くのも嫌なくらい、お疲れなんだよ俺はさ。青木だってもう回復してんのかよ」
「してはないよ。廉みたいにしゃがむとか無理」
「だよな。そう言うとこが余裕ありまくりでむかつくわあ」
「いやいやいや。やっと校庭十周終わったと思ったら、オイ早いじゃないか、他の奴と合わせろ空気読んでやれホラもう一周追加、とか吉川大佐殿、気楽に調子いいこと言ってくれちゃってさ。便所行きたくて早く走ってたんだよ僕は!」
「むしろ、お前の空気読んで貰えてないなあ」
 憤慨して語る実方に、木山が大の字になって楽しそうに答えた。
「だよなあ」
しゃがみ込んでいた実方は、顔を支えるようにして肘を両の膝につくと、大層な溜息をついた。
「ああ、なんかめちゃめちゃ笑われてたの、それか。大石中尉殿の馬鹿笑いで僕、驚いて後ろの奴とぶつかったよ」
 青木は先ほどのことを思い出して頭を撫でた。いつの間にか、周りには何人かの友人達が集まっていた。誰もが親しい友人で、多くは中学からの馴染みであったけれど高校からの者もい。いずれにせよクラスを跨いでウマの合うものたちだ。青木は皆を見上げて、挨拶代わりに手を振った。
「あの人、声でかいからすぐ判るよな」
 ひらひら手をあげながら挨拶を返した喜多野が、ネコのように喉を鳴らして笑う。
「文蔵、誰とぶつかったの。絡まれなかったか?後で講堂裏に来いとか」
 少し心配そうに実方が尋ねる。その言い様に青木は苦笑しながら答えた。
「ないない。さあ…分かんない知らない人だった。多分、理科の人だと思う。でもいい人でさ、転びそうになったとこを支えて貰った」
「おー紳士だなそいつ」
 両腕を上げて、うんと伸びをしながら西尾が声を上げた。
「て言うか青木。君、転ばなくて良かったな。あの装備背負って転ぶとか死ねるわ」
「ああ、ホントにな。助かった」
 装備は完全武装で30キロもある。今回はそこまで持っていないにしろ、相当の重量であり、加藤の言葉に青木も頷いた。潰されること必至である。
「しかし、そいつ偉いなあ。俺、支えてやるとか多分そんな余裕ないわ」
「木山、ホント体力つけろよ」
「無理無理。俺、基本的に肉体労働向いてないから、出征しても絶対主計になろうって思ってるもん」
 嫌そうに顔の前で手を振る木山の、ひょろ長い身体で見ただけでもそれは判る。
「軟弱者」
 西尾が笑いを堪えながら木山を小突く。剣道で鍛えた体格の見事な彼の言葉は尤もすぎて、素直に木山は頷く。
「おう、自他共に認める軟弱者さァ俺は。しっかし、どうせならこんな愛想のないゴツいやつに言われるより、綺麗なお姉さんに『軟弱者!』って平手とかで殴られてみたい」
「ちょ、なに言ってんだ」
「馬鹿だなァお前!」
「あ、でもその感覚わかるかも。ちょっときつめの美人とかが良い」
「間違っても髭の、ごつい筋肉おっさんじゃなくてなー…」
「従軍看護婦も良いんだけどさ、やっぱ女軍人の導入の必要性も、軍部考えた方がいいよな。士気の向上的に」
「別な意味でも女軍人要るよ絶対。おばさんとか、絶対俺たちより戦力あるって」
 楽しそうに下らない妄想を吐く木山と喜多野の会話に、加藤が加わってぼやく。彼は十二人兄弟の六番目で、母親に頭が上がらないらしい。
「あー食堂のおばちゃんとか、勝てる気がしない。口も力も強いし」
「空き巣も余裕で捕まえてたことあるしな」
 青木が感心しきりで付け加えると、喜多野や加藤が驚いて尋ねた。
「え?あの人そんな武勇伝あるの?」
「そっか、喜多野たちは高校入学組だから知らないのか。伝説だぜ。俺らが中1の頃の話。職員住宅に入って逃げるとこだった空き巣に、杓文字ブン投げて怯んだ所をとっ捕まえたって。一緒にいた学院長、手も出せなかったってさ」
「しかも後日談があってな、警察から感謝状貰った時にそこの署長から、空き巣を一人で捕まえた人の中で女性に贈るのは初めてだ、って言われたんだってよ」
 木山と佐竹が教える。青木も幼心に、食堂のおばちゃんはすごい人、食堂の掲示通りにご飯のお残しはやめておこう、と真っ先に刻みつけたものだった。
「うわあすげえ。またそれを普段感じさせないところが、おばちゃん格好いい」
「手練って感じだよな」
 西尾を皮切りに感嘆の声を皆であげ、食堂の方を向いて畏敬の念を払った。
「で、結局は便所行けたんだろ。漏らさなくて良かったな実方」
 加藤が先ほどの話題を掘り返すと、実方は溜息をついてようやく座り込む。
「いや本当、死ぬかと思った。この歳になって、公衆の面前で漏らすのは戴けないからさ」
「即行、チビリってあだ名つけられるな。て言うか俺が付ける」
「あはは、敢闘精神溢れる名誉のチビリかあ。正直、戦場なら非常時だし仕方ないとか思うけど、教練中に漏らすのは先に便所行っとけやって話だからな」
 勘弁してくれよ、と空を仰ぐ実方に、佐竹が眼鏡を掛け直しながら尋ねる。
「やけに飛ばしてんなーって思ったら便所行きたかっただけかよ。じゃあお前、射撃の時から行きたかったのか?」
「だけかよって佐竹お前さあ〜。相変わらず冷たいのな。ん…射撃の時?いや、そん時はまだ催してなかったけど」
「じゃあ三八貸しとけ。こないだより右に逸れてただろ。便所行きたくて焦ってたんじゃないなら、また銃芯がぶれてたんだな。どっかぶつけたか、落としただろう」
 銃器マニアの佐竹は、技術将校である父親譲りの見識と技術で周りの友人達の武器手入れをしてくれている。一丁一丁職人の手による手作りの三八式歩兵銃は、メンテナンスが難しく性能に差がかなりある。それを嬉々として改造調整する佐竹は、他の友人達の射撃にも詳しい職人気質である。
「あーそう言えば今日持ってくる時、階段で落とした。調整頼むよ、ありがとう。って云うか、よく判るなあ」
「なんとなく、だけどな」
「好きこそものの上手なれ、かあ」
「便所行きたいから速く走るのも、それ系に準じないか」
「だからもう便所ネタから離れろ」
「チビリってあだ名つけられなかっただけマシだろ」
「ちびってねぇし」
 そんな下らない話をしていると、向こうから高垣がやって来た。
「あー。なんだァ。もう教練終わったのか?」
「ん…?お、高垣お疲れさーん」
「お仕事お疲れさん」
 加藤がぶんぶんと手を振り、西尾も背を反らして高垣を見上げ、声をかけるのを皮切りに皆が迎える。それに片手を挙げて返答した高垣が隣に座った木山は、ようやく座り直して不思議そうに尋ねた。
「なに、衛生兵が出動してたって事は、誰か怪我かなんか?」
 高垣は青木のクラスメイトであり、寮で同じ部屋の住人である。彼は保健委員なので教練の時は衛生兵代わりになっている。青木も先ほど、誰かを運んでいたことは見ていたが、誰かまでは分からなかった。
「うん、男爵が脱水症状。今はもう大丈夫だけど」
 苦笑いしながら高垣は答えた。男爵は加納と言って、中学生からの同級生の一人だ。中四の時に父親が亡くなり、地方の小藩の家老を代々務めていた家の家督と爵位を継いだため、男爵と呼ばれている。華族の子弟なので学習院へ無試験で入る事が出来る資格があるというのに、敢えて私立の学校へ受験して来た潔さや、穏やかで物腰の柔らかい性格で人望が厚い。青木のクラスである二年文乙の級長なのだが、いかんせん体が弱い。しかし学校生活が営めないほどではないという微妙な病弱で、荒事が出来ないところがこの時代では生きにくい人である。
「男爵、木山以上に弱いからなー」
「丙種合格は間違いないよな」
「いい人なのにな。俺、徳川時代に浪人だったら絶対、男爵の藩に仕官する勢いだもん。そんで男爵家老の部下になりたい」
「お前、仕官するのは殿様にだろうが。殿様無視かよ」
 けらけら笑いながらどうでもいい話をしている喜多野と佐竹を尻目に、高垣が真面目な顔で実方に尋ねる。
「で、誰か漏らしたのか?」
「だから漏らしてねえって!」
「そりゃあ、泣く子も黙る我が校の花形、全猛者連メンバーにちびられちゃ困る」
 青木達は憤慨する実方を見て笑った。仕方ないな、と肩をすくめて実方も笑う。
冷たい冬の空の下だったが、自分たちの日常に確かに侵食し忍び寄ってきている戦争と言う黒い影を、今このときばかりは見ないふりして、馬鹿笑いに花を咲かせたおかげで寒くなかった。


 午後の授業が終わって、図書館へ寄ってから自室へ帰っていくと、高垣が丁度着替えをしている最中だった。実方もそこにいて、学生服からカーキ色の作業服に着替えた恰好だった。
「お、お帰り」
「文蔵おかえりー」
「ただいま。あ…そうか二人とも今日、畑当番だっけ」
「ああ、さっき高垣に教えて貰うまで忘れてたけどな」
「忘れんなよ、お前良く喰う癖に。青木、ちょっと労働してくるよ」
「いってらっしゃい。そう言えば…少し小松菜に虫が付いてたから、注意して見てたほうがいいかもしれないな」
 食糧が配給制となったものの、育ち盛りが一日定量の米で満足するはずもない。勢い、自主的に園芸部の畑を拡張して農作物を皆で育てている。冬の今は温室で野菜を栽培中であり、その成果は食堂に届けられ、日々の食糧増加に多大な貢献をなしている。その当番が今日、高垣だったことを青木は思い出しながら、自分の机に教材を置いて返事をした。青木はこの間、木山や西尾たちと当番を済ませたばかりだ。その時に気になったことなどを話しながら、傍らの、外出用に使っている雑曩型の鞄に財布などを入れ始めた。
「文蔵、どっか行くの?」
 隣に並んで置いてある机の高垣の席で雑誌を読んでいた実方が気付き、手元を覗き込んで来た。
「うん。ちょっと家行ってくる。この間、こっちに持ってくるもの全部置いて来ちゃってさ、図書館に返す本も忘れてきちゃったから」
 青木が説明すれば、農耕スタイルの高垣が腰のベルトに手ぬぐいを掛けながら顔を上げた。
「ああ…なんだっけ、飛行場から内務省の人が送ってくれたって言ってたな」
 その言葉に渋い顔をして青木は頷いた。数日前のことを思い出したのだ。
「そうそれだよ。厭味ばっか言って来てさ、変な人だった」
「そんな嫌な顔すんなよ。わざわざ送ってくれたんだから良い先輩じゃないか」
 雑誌を置いて、青木の表情に気付いた実方がくすくすと笑いながら諭す。
「どこがさ」
 訝しげに反論する。
「悪い人ではないだろうよ」
「いや。悪い顔してた」
 憤慨したように腕を組んで否定した青木は、助け船を求めるように高垣へと視線を移す。
「青木。拗ねた子供みたいな顔になってる」
「う…」
 微笑ましそうに笑いながら指摘してきた高垣に、青木は言葉を詰まらせた。その青年らしい落ち着きのある笑みを見て、自分に対し軽い羞恥を覚えた。顎を引き、窺うように二人を見やった。
「そうそう、怒ると血圧上がって身体に良くないぞ」
 立ち上がったついでに実方の指が、青木の鼻っ面を軽く摘んで軽く左右に振った。そしてすぽんと鼻を摘みながら指を離すので、青木は鼻を押さえて焦った声を上げた。
「ちょ…!なにするんだよ、廉」
「可愛い顔してたからつい」
 青木の頬をその大きな両手で包み、座っている青木の顔を持ち上げるようにして、立って少しかがむ自分の目線と合わせる。ね?とこちらの眼を覗きこんで笑う、青年の精悍な顔を間近に見て、青木は実に悩ましい顔をした。不意に、この間の郷嶋の手と実方の手とが重なって、ひとりで少し混乱したからだ。
「文蔵、顔がちんくしゃだよ」
「君がさせたんじゃないか」
 実方がより一層笑った。
「青木はそうしても十分可愛いのに、実方は全然可愛げないからなァ」
 鼻で笑う高垣の言葉に、青木は困ってしまう。
 別に、自分はきゃらきゃらした愛嬌があるわけでも、取り立てて目を引くような見目の良い方でもないから、特段可愛くはないと思う。確かに、年上や教師などからなぜか受けがいいのだが、それは地味で人畜無害に見えて安心できるような童顔だからだろう、と自分ではそういう意味で「可愛い」の理解を―皆が皆、そんな好意だけを持って、自分を見ているわけではないだろうことも含め―している。
 ただそれは、少し侮られているような気分もどこかでするのだけれど、それでも相手が好意を持ってくれることは嬉しいし、少なくともこの友人たちからは、そのような雰囲気はなく、きちんと対等の友人として認識した上での話だということは、彼らの青木に対する接し方からでもわかっていた。それより、むしろ相手の庇護欲を満足させることを密かに自分が楽しんでいる気もするのだ。
 自分はこのような人間なのだ、と立ち位置が出来ることに対する安心感かもしれないし、頼りないと思われていても案外きちんと出来るんだ、と言う自己満足に過ぎないが、確かにこころの中で芽生える自意識へのほくそ笑みも得られているからかも知れない。また、それ以外の喜びなのかもしれないが、敢えて理由づけることは意識的に目をそらしている。ただそんな感情は、本当に秘密であったけれど。
 だが、他人が自分を判断することと、自身の認識との差異があると言うことは分かってるつもりだったが、どうも尻の座り具合が悪い気分になるのだ。だからと言って、殊更否定して強く打ち消すようなことでもないので、黙ってその立場を享受しているのだ。
 そんな青木の心中を知るはずもない二人は憎まれ口を叩き合って、実方は高垣の方を振り仰ぎ、彼も鼻を鳴らして笑った。
「お前に可愛く思われてたまるかよ」
「俺が愛でるのは青木だけで十分だからな。お前なんてでかいしごついし、愛想もないし煩いし愛せない」
 自分の寝台にどっかと座った高垣が、腕を組んで真剣な顔で神妙に答えるのを青木は横目で見た。下らないことを真面目に言うものだと呆れ、無言で空笑いした。
「僕もお前に対して、全くもって同意見だ」
「気が合うな」
「まったくだ。って言うか、僕は年相応だけど、むしろお前なんて若いけど既に子持ち会社員っぽく見えるくせに」
「お前の場合は若いんじゃなくて、バカいって言うんだよ。俺の場合は、落ち着き払った沈着な青年なの。―ほら、放してやれよ。青木困ってる」
「あーごめんごめん。つい、さ」
 友人達が可笑しそうに言い合うのを聞いていると、高垣のとりなしで漸く手が離れた。ぶんぶんと顔を振って、青木は自棄に目を瞬かせた。寒い外から入ってきて冷えていた自分の頬へ、実方の手から熱が移っているみたいだったからだ。
「な…にがつい、だよ。そんなことはともかく、帰るついでになにか食べ物貰ってくる」
 照れ隠しに、青木は少し早口に言いながら立ち上がって、コートを着て鞄を肩にかけた。
「おう、期待してるよ」
 高垣が微笑んで自分も座っていたベッドから立つと、青木のマフラーを手渡してくれた。どうやら青木の準備を待っていてくれたようで、その気遣いに青木は嬉しかった。
「ありがとう、高垣」
「夕飯はどうするの文蔵?」
「うちで食べてくるよ」
「あ、腹ちょっと空けて帰って来いな。さっき荷物が来ててさ、小豆入ってたから夜食にみんなで汁粉作ろう」
「汁粉いいな。判った、そこそこにしておくよ」
 三人で部屋を出て、寮の玄関で別れた。
 


「ただいま、文蔵です。帰りました」
 がらりと家の玄関を空けて入る。玄関先に父親の革鞄が置いてあったので、もう帰宅しているのだと思った。三和土で靴を脱いでいると、奥から小学二年生の妹が嬉しそうに走ってきた。ぱたぱたと軽い跫をさせ、肩揚げされた着物の袖を翻してやって来れば、青木の脚にしがみついた。
「ちい兄さま、おかえりなさい!あやねェ、お留守番でつまんなかったの」
「あれ…?文ちゃんだけかい?」
 留守番と言う意外な言葉に、青木は少し目を丸くさせた。母はともかく、鞄があるので父は在宅だと思っていたからだ。父の鞄を持って、妹を促した青木は共に居間へと足を進めた。
「そうなの。藤山さんちのお手伝いに、母さま行ってるの。父さまはさっき帰っていらっしたのだけど、母さまのお手紙読んで、藤山さんちにおちゅうやの準備に行くからって仰ってお出かけになったのよ」
 裏の町内の藤山さんの家の前は通らなかったので、判らなかった。小学五年まで仙台の郊外にある郷の田舎で育った青木とは違い、物心ついたころから都会育ちである妹は東京訛りのおしゃまな口ぶりで答えた。小学校の友達からの影響もあるのだろう。少しばかり、こましゃくれているようで、こましゃくれ切れていないところも愛らしいと思った。そんな文から子供なりの説明を聞くが、一瞬首を傾げる。
「おちゅ…?ああ、お通夜だね。文ちゃん。母さんの手紙さ、僕にも見せてくれる?」
「はあい」
 居間に共に入って行った。ほのかな火鉢の温かさが、冬の夕暮れを歩いて冷え切った青木の紅顔を撫でる。ほう、と一息ついて外装を解いていると、文が小走りで卓袱台の上に置いてあった紙を取って来て、青木に差し出した。
「ありがとう。読むからちょっと待ってね」
 座布団を引き寄せて卓袱台の前に座り、渡された手紙を読む。どうやら母親は、通夜の炊き出し手伝いに行っているようで、父親にそれを知らせる手紙だった。父親も、通夜設営の加勢に行っているらしい。忙しい時に帰って来ちゃったな、と青木は頬を掻いた。青木が机の上に紙を置くと、傍に座って待っていた文がようやく、とばかりに口を開いた。
「ん。父さまがね、すぐ帰ってくるから待ってなさいって。お留守番なの。そしたら、父さまじゃなくて兄さまが帰ってきたのよ」
「そっか。えらいね、文ちゃん」
 兄妹揃っての少し大きめの頭を撫でてやる。長目のおかっぱに切り揃えてある、綺麗な髪が嬉しそうに揺れた。

「ただいま。文、ちょっと早いが晩ご飯にしよう。…ん?この靴、文蔵か?」
 柱時計が五時を刻んで暫く経った頃だった。文の宿題を見てやっていると、玄関の開く音がして父親の声がした。今まで宿題に唸っていた文が明るい顔になって身軽に立ち上がり、走って行くのに続いて青木は顔を出した。
「お帰りなさい、父さま!」
「ただいま。いい子にしてたか?」
「うん。ねえねえ、ちい兄さまがお帰りなさってるの!」
 マフラーを父から受け取った文が元気に、玄関に上がりコートを脱ぐ父親へ報告する。傍らには手ぬぐいを被せてある盆が置いてあり、何かの料理のようだった。仕事帰りのまま、通夜の設営を手伝いに行ったらしく、まだ普段の背広を着ていた。
「おかえり、父さん。藤山さんのお婆さん、亡くなったんだってね」
「ああ文蔵…帰ってたのか。ただいま。お婆さん、九十二の大往生だそうだ」
 父の説明に、盆を持った青木は目を丸くして聞いた。
「きゅうじゅうに?あのお婆さん、僕が小さい時からおばあさんだったけど…えっと、維新前生まれだったの」
「御一新前どころか、安政の大地震前生まれだってさ」
「へええ」
「無事に天寿を全したからな、息子さん、赤飯か紅白まんじゅうでも出したいって言ってたが、このご時勢だからやめたよ」
 最近の葬式と言ったら、戦死者の無言の帰還ばかりである。あの家も、実際数ヶ月前にひ孫の一人が広東で戦死したばかりだ。だから余計、長寿を生き切ったお葬式は故人にあやかりたいという意味で慰撫のお祝いとしたいのだろう。ただ、ここのところの食糧事情がそれを許さないのだ、と青木は理解した。
「息子さん…って言っても、確かあの人もお爺さんだよね」
「はは、確かに当人も相当の年齢だな。仙台の、うちの大伯父さんくらいじゃないのかあの人。それでも久々におめでた葬式だからな、準備もみんな和やかなもんだ」
 皆で居間へ移って来た。
 文が湯飲みや急須を持って来たので、青木は火鉢にかけてあった土瓶から急須へ熱湯を入れて茶を淹れる。脱いで衣紋掛に掛けた背広の内ポケットから、煙草を取り出して来た父は、卓袱台の前に座ると燐寸を擦った。ちっ、と小さな音とともに燐の幽かな匂いが、傍らにいた青木の鼻先を霞めて消えた。早速一服する。とん、と灰皿を軽くたたいてから口を開く。
「今日が通夜でな、帰ってきたしなに聞いたもんだから、とりあえずさっき段取りだけ聞いてきた。香典係になったから、八時頃に行かなけりゃならん。母さんは炊き出し班で手伝いに出てるんだよ」
「みたいだね。文ちゃんに、母さんの書き置き見せて貰った。そう言えば父さん、今日帰ってくるの早ったんじゃない?」
「ああ、久しぶりに仕事がひと段落ついて早めに帰って来たんだが、タイミングがいいのか悪いのかわからんね」
 はい、と淹れた茶を父の前に置きながら青木は頷いた。文の前にも置いてやると、ありがとう、と笑ってから熱い茶をふうふう吹き吹き、真剣な顔で慎重に飲んでいた。
「お前はどうしたんだ?」
 父に尋ねられ、青木は一口飲んだ茶を置いた。
「ん。僕、こないだ家に帰らなかったでしょう。それで図書館の本をうちに置いて行きっぱなしになっちゃってたから、取りに来たんだ」
 あの日、郷嶋に学校まで送ってもらった後に、家にいったん戻ってくるとばかり思っている母親に連絡しようにも青木家は金持ちでもなければ、商家でもない一般家庭なので電話を引いていない。そのため、ご主人が逓信省にお勤めの関係で電話線を引いている向かいの家へ学校から掛けたのだった。その話を父も聞いていたようで、納得したように何度か軽く頷いた。
「ああ…それでか。さて困ったな」
「どうかした?」
 父は頭を掻いたが、言葉で言うほどあまり困ってはいない風である。
「いやな、通夜始まる前に炊き出し貰って来たんだが、文と私の二人分しかなくてな。少し量が足りないから、飯を炊かなきゃならんなと思って。食べるのが少し遅くなるが、良いかな」
 ひょいと付近を捲り、盆に載せたまま卓袱台に置かれた数種のお惣菜と玄米飯を覘いた父は、煙草を灰皿に押し消す。そして立ち上がろうとした父親を、青木は慌てて制した。
「ああ、いいよ父さん。突然来ちゃったしさ、今帰っても寮の食事時間には間に合わないから、どっかで食べて帰るよ。明日も学校だから、どのみち早く帰らないと行けないし」
 それを聞いていた文が顔をあげて、少し淋しそうな顔をしながら見上げる。
「兄さま帰っちゃうの?」
「うん。御免ね、忘れ物取りに来ただけだからさ」
 肩をすくめて謝る兄に、しょうがないわねえ、と可笑しそうに笑う。気のいい笑みを見せる妹に青木も釣られて頬が緩んだ。
「そうか、すまんな。お前、外食券ちゃんと持ってるか」
「あ、持ってないや」
「じゃあ、私のをやろう」
「いいよいいよ。饂飩でも食べて行くから」
「育ち盛りなんだから、きちんと食べなさい。…ほら」
 結局身軽に立ち上がった父は、背広から財布を取り出し、そこから外食券を取り出すと二枚千切って卓袱台の上に置いた。ついでに晩飯代だ、と少しばかりくれた。
 食糧統制が当たり前のこの昨今、ご飯ものを扱う食堂に行っても、国民一人あたりに定量の米配給が決まっているため、外食券がないと食べられない。券とともに料金を払い、初めて米の付く外食が出来るのだ。
「でも父さんはいいの?父さんだって外食券いるんじゃない?」
「子供が余計な心配するんじゃない。それくらいは都合つくさ。と言うかな、仕事で招かれたりしたときは要らないから余るんだよ」
 立ち上がりついでに、ラジオを弄ってチューナーを合わせていた父は振り向き、鷹揚に笑った。だから、青木はありがたく頂くことにした。
「ありがとう、父さん。ついでに何か、食べ物貰って行って良いかな」
「構わんが…母さんいないと、良くわからんのだよ。私がこないだ買ってきたスルメなら把握してるから、二束くらい持って行くと良い。また改めて取りに来なさい」
 


 結局、藤山さんの家に線香だけ上げに行ったところで母親と出くわした。一緒に家へ一度戻れば、ついでにこれ持って来なさい、と兄が食糧統制などない満州から送ってきてくれた砂糖の小袋を渡してくれた。今晩の汁粉にちょうどよく、青木は嬉しくなった。
 食べ物のことでこんなに嬉しくなるほど逼迫しているのかと、自分でも少し可笑しく思いながら。

 夕間暮れ、都電を乗り継いで学校近くの停留所で降りた。もうすっかり冬の夜はやって来ていて、はあ、と吐いた息が暗い宵の入りの濃い黒の中に、くっきり白く綿飴のような輪郭を見せてから、ほわりと消えた。
 ちらほら明かりが見える。灯火管制とはいえ、商店の連なる大通りはそれなりに明るい。どこで何を食べようか、と思案しながら青木が歩いていると、横断歩道にやってきた。近くに省線電車の駅があるので、そちらの方が店が多い。信号を待っていると、隣で年配の女の声が聞こえてきた。
「なあなあ、海軍さん、すんまへん。…聞こえてへんのかいな」
「え…ええ?お、俺ですか?」
「あんた以外に海軍さん誰おんねんよ。いややわぁ」
 突然声を掛けられ、やっと気付いた若い男がしどろもどろになっているのを、旅支度に身を固めた年配の女が可笑しそうに手首にスナップを聞かせて何度も振り振り、けらけら笑っている。青木は何となくそれを眺めた。
「あんな、この辺りに大川商事ちゅーミシン会社あらしまへんか、海軍さんアンタお知りでっか?あてなァ、その裏手の三橋さんちゅーお宅に行かなあきまへんのですけど、あて初めて東京出てきましてん、迷うて迷うてホンマによう言いまへんのですわ。三橋さんのお宅に息子がお世話んなってましてん。息子が今度出征しますのんよ、ぎょーさんお世話してもろたご挨拶に…」
 女は、道を聞くのか自己紹介するのか世間話なのか、最早すでに判別出来ないくらい饒舌に語り始めた。話しかけられた黒い詰襟の男はその女に気圧されていたものの、持っていた革鞄を脇に抱え直し、両手を振りつつ慌てて女の言葉を遮った。
「ちょ、ちょっ…!すいません、海軍さんって…俺、軍人じゃないですよ」
 微昏い街頭の下、青木は男を眺めた。ガッシリとした体格だが、少しばかり気の弱そうな顔立ちの若い男は五つ釦の黒い詰襟と言う恰好から、海軍の下士官か警官かと思った。しかし、襟に階級章らしきものを付けているのがよく判らない。海軍なら二の腕に臂章があるだろうし、警官なら肩章があるだろう。
「ええ?その制服、海軍さんやろ。いややわー」
「あの俺、消防官なんです。すいません」
 男の言葉に目を丸くした女は少し訝しげに問うた。頭を掻いて、男はなぜか低姿勢で女を伺うように答える。青木も男の説明を聞いて、ああそうなんだ消防官なのか、と心の中で納得した。
「アラ、そうかいな。えらい鈍なこと言うてもたわな。まあ、なんでもええわ。そんでな大川商事、アンタ知りまへんかいな」
 もっとも女にはどうでも良かったようで、あっさり切り捨てた。
「ああー。すいません…俺、ここら辺初めて来たもんで…」
「なんやあ、はよ言いや消防はん!」
 色よい返事を出来ず、男は更に腰が低くなる。そんな消防官を、女はケラケラと笑い飛ばした。青木はそんな二人を可笑しそうに少し笑ったあと、控えめに声を掛けた。
「あの、道をお尋ねですか?」
「え?」
 消防官が首を伸ばして青木を見た。面食らった狸のような顔をしていた。
「へえ。学生さん、知っとりますかいな。大川商事」
「あ、いいえ…僕もそこは判らないんですけれど、近くに省線電車の駅があって、その横に交番があるんです。そちらの方で教えて頂けると思いますよ。この道をまっすぐ行って二つ目の交差点の脇が駅ですから」
「あらァ、交番なんてあったんやね。いややわァ。あて、その駅から出てきましたのや。全ッ然見えてへんかったわあ。そうやね、ともかく交番行ってみますわ。どうも兄さん方、おおきになァ」
 女は何度も頭を下げ下げ、からからと一人で笑いながら行ってしまった。気のいいおばさんなのだろう。青木は少しその押し出しの強さに気圧されてしまい、少し放心した。
「あ…ありがとう。おかげで助かったよ」
 話しかけられ、青木は男の方を向いた。先ほどの消防官が、浅黒い顔に済まなさそうな笑みを浮かべて白い歯を見せていた。少し背は低めだが、ガッシリとした体格をしている。歳は青木と同じくらいかと思ったが、消防官だと言っていたので官吏ならば二十歳から採用年齢だったはず、二十歳くらいか、と見当をつけた。
「いえ、別にいいですよ。たまたま耳に入ったので。差し出がましいと思ったんですけど」
 消防官の笑みに釣られた青木は、はにかんだように微笑んで、たいしたことではないと肩をすくめて見せた。
「そんなことないない。ホント俺困っちゃって、親切に声かけてくれて本当に有り難かったんだ。いやあ俺、今日初めてこの近くの消防分署に用が合ってきたんだけどさ。東京に住んでても、来たことがないから全然知らないんだよね、この辺り」
 とんでもない、と首を振って慌てて否定する消防官が可笑しくて、少し大きめの頭を少し傾げ、なぜか釈明するような口調になってしまっている彼へ笑いかけた。
「それなら良かった。僕も、自分の住んでるところくらいしか、あんまり詳しくないですよ」
 青木の反応に、消防官がホッと一安心したような安堵の笑みを浮かべた。そして青木をのぞき込むと、ふと気付いたように尋ねる。
「君の家はこの近所なの?」
 中学生くらいだと思っているらしい。
「いえ、あそこの持堂院の高校にいるんです」
「へえそうなんだ…って高校生?!同い年くらい?」
 むこう、と指さしながら答えた青木の言葉を一瞬鵜呑みにしてしまいそうになるも、消防官は目を丸くさせて驚いた。
「え、消防官なんですよね、二十歳以上でしょう」
 なんだその驚きようは、と少し鼻白んだ青木だったが、次の『同い年』という言葉に驚いた。逆に質問で返してしまった。
「え?」
「ええ?」
 二人とも狐に摘まれたような顔を見合わせた。ぱちぱちと瞳を瞬かせる青木を、額に手を当てた消防官が弱ったように見やる。腹具合の悪い狸のようだと青木は思った。
「…幾つ?」
「十七です。大正十五年生まれだから」
「あ、本当に同い年だ」
「でも消防官って。官吏なんでしょう、貴方」
「俺さ、成人して出征しちゃってる本職消防官の穴埋め枠なんだよ。来年の四月一日(いっぴ)から正式に採用なんだけど、もう雇員で働かされてんのさ」
 へへへ、と少し気恥ずかしそうにして含羞みながら己を指さす。大人が出征してしまうので、結局もう少し下の世代がその代役をするのが当たり前になっているのだ、と青木は改めて自分が恵まれた学生という身分であることを思い起こした。
「そうなんですか。だから」
「ああいいよ、敬語なんて使わなくたって。俺、命令されたりするのに慣れてるから、逆に丁寧に言われると困っちまう。…えっと、じゃあ高校一年くらい?」
「いいや、今は二年だけれど、今年の夏に繰り上げ卒業する予定になってる」
 首を横に振り、青木はさっそく砕けた口調で返す。
「へええ」
「なに見てるんだよ」
「え?あ、いや、その…ごめん」
 消防官は感心したようにうなづき、青木の顔をまた覗き込んで来た。なんだよ、と青木が指摘すると、彼はしどろもどろになって特に謝るようなこともなかろうに、済まなさそうに肩をすくめて謝ってきた。
 ふと気付くと、周りの大人達が二人を見て、微笑ましげにくすくすと笑っていた。途端に居心地の悪く恥ずかしげな気分になった青木は、同じように閉口した顔の相手へ小さな声で伝えた。
「とにかく…ここ動こうか。ねえ、君…」
「木下」
 どう呼ぼうか少し逡巡していたら、それを察して名前を教えてくれた。勘はいいらしい。
「木下君はどこに行くの?」
「え、えっと駅まで行って、どっかで飯食って本庁に帰るんだけど」
 木下はなぜか少し動揺しながら答えた。消防は警視庁の一部門であるので、本庁は桜田門の警視庁である。ふうん、と青木は頷いて微笑んだ。
「ああ、僕もご飯なんだ。…なんだい?」
 答えている間も、なんだか座り心地の悪いような顔をしている木下に、青木は顔を覗き込みながら尋ねた。
「くん付けってなんか…あんまされたこと無いから変な感じだなって。木下でいいよ」
「えぇ?そうなのかい?じゃあ僕も青木で」

 二人で駅前の食堂に入った。
 外から見える明かりは薄暗かったけれど、焦点様に目張りや遮蔽がしてあっただけで中は明るかった。混み具合も盛況で、ざわざわと戦時下といえども活気があった。
 通された席は店の片隅にあり、机の一端を箸にくっつけて三席椅子が置いてあった。向かい合わせで座ろうとしたが、隣の席の者が椅子を大きく引いて座っているので、九十度の角度で座った。
 貰った外食券を二枚出した。丙小券の外食券を出す木下を見て、青木は笑いながら言う。
「へえ、さすが消防官だ。たくさん食べられていいな」
 青木の甲小券は一枚につき、学生や会社員や主婦などに割り当てられた一食分の分量として茶碗に一杯分、一合の三分の一である110gの米を食べることが出来るが、丙小券は190gである。
「その代わり、重労働だよ。俺、伝令とか物担いだりするの多くてさ、一日の殆ど走ってる気がする」
 「だろうね。君はお国のために働いてるんだもんな。おつかれさま」
「いやいやいや…全然大したことしてないよ。それより青木、二枚も使っちゃっていいの?」
 結局労働の程度で決まってくるので、多く食べられることは肉体的な激務と比例している。木下は眉毛を下げて笑ったので、青木はそれにうなづいて微笑み返した。
 木下が心配げな顔で尋ねてくるので、手を振ってため息をつきながら言う。
「今日だって軍事教練があってさ、一度にこれくらい食べないと体持たないよ。だろ?」
「育ち盛りですから、お互いに」
 へへへ、と二人揃って肩を揺らした。
 すると掛かりっ放しになっていたラジオから聞きなれた音楽が鳴り響くと、皆静かになった。軍艦行進曲なので海軍だな、などとぼんやり思っていると、大本営発表、大本営発表、と二回大きな声で繰り返された。
 ラジオが悪いのか、少し割れたその声は、1月29日に行われたレンネル島沖の海戦において、米戦艦二隻を撃沈、一隻中破のほか、巡洋艦三隻撃沈せり云々と声高に報じた。
 うわあ、と周りは歓声に包まれた。青木がその歓声に一瞬気押されて黙っていると隣に座った木下が、そりゃすげえ、と呟いた。その声に慌てて顔を上げたのだけれど、表情は見えなかった。木下は運ばれてきた料理を早速頂きながら、青木に向かって尋ねた。
「レンネルってどこ?南洋なのはわかるんだけど」
「えっと…確か、ニューギニアの東で、ソロモン諸島のどこかじゃなかったかな」
 顎に人差し指を当て、青木は上を向いて思い出す。すすけた黒い天井がどこかぼやけて見えた。
「へえ、さすが学生さん。頭いいなあ」
 正直あまり詳しくは知らない。情報としてニュースや報道で盛んに言っていたり、熱心な学生が教室の後ろにある世界地図に日本の勢力範囲へ小旗を作っていたのを、覚えていたからだけだ。だから、青木は木下の感心したような返事に、いささかばつが悪い。
「いや、そんなことないよ。頭もいいわけじゃないし」
 ずず…とみそ汁をすすりながら、青木は顔を隠すようにして呟く。
「またまたあ。俺にとっちゃ、学生さんってだけで既に頭良いんだよ」
「なんだよそれ。な、木下は東京生まれなの?徴兵されて陸行くなら玉師団?」
 この話題から話を逸らそうと、青木は少し急いて尋ねた。
「ん、俺んちの実家の辺り、麻生連隊区内だからそうだと思う。青木は?東京出身なの?」
「今は西池袋の狐塚ってとこに一家で出て来てるけど、元は仙台の出身さ」
「へえ。じゃあ第二師団…勇兵団か。確か今、ガダルカナルだっけ。おんなじ原隊で、青木が俺のとこの小隊長になってくれると良かったけど」
「あはは。そんな偶然、偶然すぎて逆に怖いよ。あ、これちょっと喰っていいよ。僕、ご飯の量ちょっと多かったから、おかず食べきれないかもしれない」
「まあなァ。え、いいのか?ありがとな。…だけどさ青木、怖ェ上官より優しそうな方がいいし、殴られたりするの俺やだよ」
 青木は箸を止めてまじまじと相手を見つめ、不思議そうに言った。
「木下、強そうなのに意外なこと言うな」
 見た目なんて別だよ、と木下は苦笑いして玄米飯を掻き込んだ。そして顔を上げると、総菜を箸で切りながら青木の顔を見ずに呟いた。
「それにさ、全く知らない人より知り合いの方がいいだろ。分かんないのは怖いよ」
 って言っても、今日会ったばかりだけどな。
 青木に向かって木下は補足するように呟いて、薄い出涸らしの茶を飲んだ。
「そりゃそうだけど。…分かんないのは怖いって?」
 茶を飲む木下に尋ねると、彼は眉を下げて情けない顔で自嘲の笑いを零した。
「だってそうだろ。相手が何なのか、わからないのは気味が悪いだろ」
「理由があると、安心感がある事は確かだな。だから僕らは遅かれ早かれ、八紘一宇の大儀に基づいて王道楽土を脅かす鬼畜米英に立ち向かうため、大本営の采配を拝命し奉り陛下の御ためにいつか戦地に行って−いくのさ」
 それは、正論としての屁理屈であったかもしれないし、だからと言って一片の本心も入っていないか、と言われれば青木はどちらも否定しきれない。言葉の締めに少し迷い、青木は言い換えた。行って戻ってきた従兄弟が入った白木の箱は、哀しい程軽かったのだ。そんな記憶が、いささか早口に口から滑り出てくる言葉を吐き出していた、青木の脳裏を掠めた。木下が流れ出る青木の言葉に少し目を丸くして青木の顔を覗き込んできたので、笑ってやろうと思ったらなんだかぎこちなく歪んだだけだった。
「やっぱり優等生の発言だなあ」
「…なんだよ」
 感心したような呟きが聞こえたので、すこし睨みながら茶碗を掻き込んだ。すると、木下は慌ててぶんぶん両手を振り、弁明し始めた。
「いいいいいや、そう言うんじゃないんだ!ご、ごめん!」
 追いつめられた狸のような顔だ。なんだか、木下に一番しっくり来るような表情だと思った。
「そういう言い方、やめてほしいもんだな。違うんなら、なんなん…」
−今の時期、そういう風にしか言えないんだよなって思ってさ。
 青木が訝しげに下から見上げ、唇を突き出した拗ねたような顔を作って重ねて問おうとすれば、抗議の言葉が終わる前に木下が身を乗り出し、青木の耳元で素早く呟いた。喧噪の店の中、青木以外に聞こえないくらいの小さな呟きだった。
「皇国の興廃この一戦に在り、だからなあ。すげえよ」
 そして素早く体勢を戻した木下は、今の呟きを掻き消すように少し大きめの声で笑って言った。壁に耳あり障子に目ありのこのご時世、どこに特高や憲兵がいて治安維持法その他諸々の容疑で引っ張られるかわかったものではないのだから、木下の言動は妥当な判断だったと思った。
「そうさ。レンネルでも勝ったって言うんだ。この勢いだよ」
 青木も相手に合わせて大きく頷き、表情をゆるめた。
−そうやってみんな、世間を瞞して、自分を騙して納得させて生きているんだ。
 心の中にのったりと澱が溜まるような感覚を無視して、それから二人はもっとたわいもない話に興じはじめ、その会話もざわざわと戦勝に沸く店の騒音に融けていった。

 この半年とすこしあとに、青木は海軍に入ることも、青木自身決めてもいなかった。
 そして、レンネル島沖作戦に於て展開された戦闘はこの日、二月一日に開始された『ケ号作戦』すなわちガダルカナル撤退作戦の露払いだと言うことなど、青木や木下はおろか日本国の殆どの臣民は知るはずもなかった。




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Afterword

文蔵も人並みの学校生活営んでたのかね、と思って書いてみました。
そしたら意外に長くなった学校ターン。
高校生あたりの下らない会話を再現出来ていればいいな。
何人か友達出てきますが、親友の実方廉(さねかた・れん)だけ文蔵呼び。同室の友人の高垣は名前を芳春。って今つけた。
おうちのターンも日常っぽさを出したかった。父さんは普通の公務員で宮城県の出先機関のひと。父さん世代は戦争行ってない大正デモクラシー謳歌世代。
住所は適当に心当たりを選んでみました。隣に童話作家が住んでる。
あ、考えたら池袋署の所轄んときに元住んでた場所に配属されたって事になったり、雑司ヶ谷の事件も近所じゃん。まいいや。

名台詞リスペクト、今回多いなあ。
まだだ…まだ終わらんよ!とか軟弱者とか、そういう言い方、やめてほしいものだなとか。意外に使えるものだな。
あと、食堂のおばちゃんとか武器マニヤの佐竹君(外見は違うけど)は…うん、その辺り書いてる時に忍たまTVでやってたんだよ…。

木下は穏和と言うより、無駄に腰が引けてるといい。
そんで青木は同い年と判った瞬間から、木下に対してだけバシッとタメ語になったり上から目線をたまに発動したりするんだよ、他の人にはそれでもまだ微妙に敬語残ったりするのに。

次から出征ターンをちょっと書いて、やっと冒頭の時間軸に戻ります。正直こんなに長くなるとは思わなんだ。









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