一期一会

2 海軍編−そのいち


世界の一日一日が、音を立てて流れていった。
 それでもまだ、僕らは濁流の中でも川の岩に囲まれた緩やかな世界にいたのだろう。

 二時限目の心理学の授業がやっと終わり、青木がクラスメートと下らない談笑をしていた時のことだった。廊下の向こうが何か騒がしい、と思ったら突然数人の学生が昂揚した面持ちで飛び込んで来て、皆がそちらに注目した。
「おおい!玄関に海軍の、予備学生の募集要項、出てるぞ!」
「さっき貼り出したばっかだ!」
 おおおっ!とクラス中が響動めき、立ち上がった。知らせに来てくれた学生はもう走っていってしまった。各クラスを回っているようだった。
「な、青木。見に行くか」
 普段温厚で冷静な高垣も、この知らせに少なからず気分が高まっているようで、既に立ち上がっていた。白皙の面が紅潮していた。
「う、うん…わ、ちょっと待ってよ!」
 ぐい、と青木は突然手を引かれるので驚いたものの、心中は知らせに対して穏やかでなかった。慌てて立ち上がり周りの友人達と玄関へ急いだ。
「うお。こりゃ大人気だな」
 玄関前の掲示板前は活気に満ちた学生達で溢れている。西尾が感心したような半ば呆れ声を上げた。
 大勢が大挙してやって来ているので、飛行機と弾丸が描かれた大きめのポスター下部に躍る大文字「海軍豫備學生募集」しか見えない。それでも青木は、その八文字を見ただけでも胸に大きな圧迫感が圧し掛かるのに気づいた。
「見えねえよ」
「突撃していこうぜ」
 はしっこい加藤はピョンピョンと跳び上がり、喜多野と共にポスターの要項を見ようと躍起になって人混みを分け入っていった。あちこちで熱を帯びた歓声が上がっている。
「あっちすげえなあ」
「血沸き肉踊っちゃってるな」
 西尾と高垣がひと際盛り上がる一団を指さした。その時、ポスターの前から人を掻き分けて後方の青木達のところへ、白衣姿で小脇に教科書を抱えた実方と彼の理甲クラスメイト達がやってきた。
「文蔵!来てたのか。ああ、お前ら見たか?ポスター」
 一番先に見つけられた青木は、振り向いて手を振った。
「いいや、今来たところでまだ見てないけど。廉、読んできたの」
 青木が尋ねると、実方は大きく頷く。
「ああ。俺らのクラス、丁度一限目が実験でさ、化学室からの帰りにここ通りかかって。用務員さんが貼ってるの見たんだ」
「何が書いてあったんだい?あれ」
 加納が問う。白衣姿の学生が答えた。
「募集要項自体は特に変わったことはないけどな、今年度卒業の俺ら宛だよ。主計と技術の見習尉官も併願可能だってさ」
「へーえ、そりゃ本気だなあ海軍さん」
 その茶化したような言葉とは裏腹に、木山は人混みの向こうで鮮やかに刷られたポスターを凝乎と睨んでいた。言葉だけ聞こえ、眉を顰めて振り向いた西尾も、その視線の厳しさに気付いて口を閉じた。加納も佐竹、理甲クラスの学生も溜息をついて腕を組んだ。皆、何事かをこころに灯したような顔だった。
 青木はこころにこみ上げる感情を表すために何か言いたかったのだが、気だけが急いたのみで何を言いたいのか自分自身でも明言化出来なくて、言葉を紡げなかった。だから青木はとても困った顔で、熱を帯びてざわめく人混みの中、すぐ両隣にいた実方を見て、そして高垣へと視線を移した。二人ともなにも言わなかったが、そっと青木の両手を二人が手を握った。青木にはそれが返事のような気がして目を伏せた。強い力で握られるから、青木も強く握り返した。まだちっぽけだった中学生の頃から、彼らはそうやってお互いの揺れるこころをお互いで収めようとしていた習慣だった。二人の手の感触にほんの子供だった、中学に入って知り合った頃のことをなんだか思い出した。それは現実に青年の大きく固い、けれどしなやかな手であったが、暖かさは変わっていなかったし、己の手も同じだと青木は思った。
「チャイムだ。青木、行くよ。…青木?」
 高垣が握った手を軽く振った。青木は、次の授業へと促されるまで俯向いて、いつのまにか喧噪も聞こえていなかったことにようやく気付いて顔を上げた。

 一週間後、青木は願書を提出した。大半のクラスメイトや実方ら友人達と共に。
 他の各種学校に併願して申し込む者も少なくなかった。佐竹や高垣などは父親や親族が揃って陸軍の将校と言うこともあって陸軍行きを元から決めており、高垣はそちらの特別操縦見習士官、佐竹は甲種幹部候補生から平気学校から技術将校へと志願を考えていた。加藤や喜多野、木山も一応は願書を出したものの、おそらく落ちると考えていて併願した他の学校や、せめて陸の幹候には食い込みたいなあ、などと戯けながらも自分で自分に覚悟させるように話していたし、青木自身も実際そう思っていた。
 六月中に学校内で選抜された十数人かが、霞ケ浦の飛行場へ一泊二日の体験入営に行くらしい。おそらくそう言う優秀な学生が受かるものだし、それが当然だろうと思っていた。だから青木は、どうせ入るなら誰だろうと初めに兵卒から絞られる陸よりも、即将校になって行ける海軍の方がいいなあ、飛行科は花形で僕には無理だとしても第二志望と書いた一般兵科で受かればいい、などと漠然と思っていたに過ぎない。
 どの道、青木の前に開かれている道は一緒だからだ。どうせ一緒にしても、その道のりを選ぶことが出来る立場であるだけでもありがたいな、と嗤った。
 それでも、自分でも僅かながら何かのために何か出来るのかもしれない、そんな気持ちが高ぶっていたのは確かだったし、何かをしなければならないのは当然であるとも考えていた。むしろ、青木の心の中で少なくとも半年前よりも大きく傾いてきていることは確かではあった。
 刻一刻と、本当に戦況は変化して行っており、ラジオや報道での華々しい戦果を青木は疑うと言うところまではいかなかったけれど、単純に、なぜ戦果が挙がっているはずなのに、こんなに長く大量の人数が必要なのだろうか、と思うにつけ、肌がピリピリするようなそんな感覚とともに時代の厳しさによる自分たちへの要求を感じていたからだ。
 一連の各種軍学校への志願は、当時の高等教育を受け、高校生という社会ステータスを持った人間が担うべき役割を皆が甘受したからだし、それは青木をはじめ皆が公共への責任感や使命感を感じていたからだった。
 第一志望が大学への進学組は、西尾が工学部の航空学科に入ってそこで陸軍の委託生になることを目指していたし、更に少ない文科の法学部を志望している加納は身体が弱く、自身が二十歳になっても兵隊になれないであろうことを言葉には出さないものの、辛そうな微笑みで皆のこれからの話を聞いていた。彼はせめて別の方法で役に立ちたい、と外交官を志していることを友人たちは知っている。

 入隊予定日から二週間も切った頃になると、どうなるのだろうと言う不安がクラス中に広まっていた。
 青木も、もうこれは駄目だろう、と何となく思い始めた。
 どのみち今年十八歳である青木は、世間一般の同学年の者は二十になるので否応なしに出征するのに対し―実方や高垣たちは一年後に徴兵年齢である―進学した年齢の関係で二年の猶予があるものの、むしろ、二年後には必ず出征するわけである。戦争がそれまでに終わるのか、まだ続くのかなんてわからないが、そのまま続けば確実である。そう思うと、なんだか無駄なような気がしていた。理由はやはり、近い未来である戦争は考えられても「十年後」なんて未来を考えることはできないからだった。
―あまり気が乗らないけれど。
 御座成りに学校に出した大学進学希望願書を思い出していた。青木の第一志望に書いた志望大学の学部学科は、毎年定員割れしているところだったので無試験で合格出来たものの、それは青木にとって【命の食い繋ぎ期間】としか思えなくて―だからと言って嫌なわけでなくありがたいはずなのに、なぜか焦燥感が止まらなくて―受かっても正直嬉しくはなかった。
 それでも青木には、もし今回海軍に入れなかった場合、進学しないでどこかに就職するような気もなかったし、なによりどこにも属さない、などと言うような考えはもともと無かった。結局、青木にとって出口のない閉鎖的な運命と矛盾するのが多様な未来性と言う選択肢であって、それは他人のものであり、決して青木のものではなかった。

 九月の四日、その日は土曜日で、午前中の一限目の授業が終わりにさしかかった頃、教務主任の教授がとかく興奮した表情でやって来た。
「授業中すみません教授!わ…若林、吉村、山下、竹田、結城、青木、有馬!すぐ校長室に行きなさい!」
 突然やって来た教務主任は授業中の流伴教授に詫びるのもそこそこに、持って来ている間に握ってしまったであろう、ぐしゃぐしゃになった紙を開いて何人かの名前を呼んだ。
 だしぬけに呼ばれて青木は目を丸くした。何かやっただろうか。特に目立つような人間でもないし、成績も体力も標準な、地味な学生だと自覚している青木は驚いて目を丸くした。ざわざわと教室中がどよめく。
「え?俺?」
「なんだなんだ?めっちゃ急いで来たよ、教授」
「おい、呼ばれたぜ」
「吉村ァお前なにやったん?」
「なんもやってねえよ!…たぶん」
 青木も隣の高垣に問われて、首をかしげた。訳が分からず視線を巡らすと、同じく呼ばれた、前方の席の結城が不思議そうに立ち上がっている。後ろを向いた結城と視線が合い、俺もわからん、と結城が肩をすくめて見せた。
「きょ、教授これ!私、他のクラスも回らなきゃならないんで」
 慌てふためいて教務主任は、流伴教授に紙片を見せている間、生徒らは何事かと囁き合った。
「わかりました。…はい注目。若林と吉村と山下、竹田は兵科。結城、青木と有馬は飛行科の予備学生の採用予定者に残ったそうです。おめでとう。さ、校長室へ行って行きなさい」
 わああっ!と歓声が上がった。
「おい、やったな青木!」
 慌てて皆と校長室に行けば、一般兵科と理系の整備科に飛行科合わせて20人はいただろうか。その中に何人か見知った同期生の顔があり、その中に加藤と実方がいた。少しだけ安心して、ちょっとぎこちなく笑った。青木と実方のほか3人が三重の航空隊で、加藤と他の者は土浦だった。またどこかの戦地で会えるかもな、加藤はそう言って振り返ると殊更笑みを濃くして見せた。

 早く親御さんに連絡をしなさい、と教師たちが急かして学内に数個ある電話へと学生たちが散った。電話のない田舎へ知らせるため、近くの郵便局へ電報を打ちに行った者もいた。外出許可を貰うどころではなく、年若い教師の方が浮かれてそれに附いて行った。青木は職員室の電話を借り、まず父の仕事場へ合格の旨を報告すると、一瞬だけ電話の向こうで父が声を詰まらせた。その一拍の間に滑り込んできた、既に先に連絡した他の学生が感極まって泣いている声が耳についた。
「…そりゃすごい。そこまで選ばれたんだ、気をつけてしっかりな。それだけ、だよ」
「ありがとう父さん」
 どこか押し殺したような低い呟きのような父の声に、青木は大きな感情がやってきてそれに耐えるよう大きく頷いた。
「文介には私から電報を打っておくよ」
「あ…うん、お願い。また詳しいことは、明日の昼に一度帰るからその時に」
電話口の向こうに聞こえるざわめきから父の仕事場は忙しそうであったので、青木はそれだけ言って電話を切った。続いて母へ知らせるため、電話線を引いている実家の向かいの家へと電話を掛けて母を呼び出してもらった。急いで来たのであろう、少し息を弾ませた母が出た。
「なあに、どうしたのこんな時間に。授業中でしょ」
 のんびりした母の気分をぶち壊しにするような言葉を、青木は抑えた無表情の声で伝える。
「母さん。採用予定貰った。海軍の予備学生。飛行科だよ」
 電話の向こうで、母が悲鳴とも歓声とも取れぬ声を上げた。
 母は受かるとは思っていなかったようだ。
「文蔵…それ、本当なの、ね。だってあんた、こないだ大学受かったばっかで…」
 声が戦慄いていたが、青木はそれに気づかないふりをして手短に今後の予定を話して切った。次の学生に電話機を譲ってそこを離れると、背後の騒ぎをよそに少し強張った顔の実方が来ていた。
「加藤は?」
「あいつは電報組だよ」
 実方の家は地元東京の商家なので、実家に電話を引いている。電話先の嫂が知らせを聞いて動顛し、電話の向こうの父母をはじめ居合わせた人たちで大騒ぎになってしまった、と苦笑した。
 実方の嫂なら青木も知っている。彼の実家へ遊びに行くと、綺麗で気さくもいい、世話焼き気質で涙もろいの彼女が旦那である実方の大人しい長兄を尻に引いて、いつも忙しそうだけれど旦那と仲睦まじく、数人の店員と共に本当に楽しそうに仕事をしていたのだ。二年ほど前に旦那を二等兵として軍隊へ送った―今は主計伍長になっているそうだ―時も、赤紙が届いた知らせを聞いて卒倒してしまったそんな彼女が、続いて本当の弟のように世話をしてきた実方の海軍入りと聞いて、どれだけ仰天して大騒ぎになったのか、想像に難くない。
 ふうん、と少し微笑んで青木は相槌を打った。そして少し大きめの頭をこてんと横に倒し、両手を後ろで組んだ青木は自分の足下を眺めながら、そのまま実方の名を呼んだ。
「なあ、廉」
「どうしたの、文蔵」
「僕…すごくびっくりしたし、今でも動揺してる。なんで僕なんかがって思ってるし、でもやらなきゃならないことだから、って正直そう思ってるんだけど…軍に行くって今きっぱり決まって、なんかホッとしてる気もするんだよ」
「…ん?」
「ちゃんと、これで役に立てるんだって、さ。変なかんじ」
「そだな。…俺も同じだよ。複雑だなあ」
 へ、と実方が皮相的な笑みを浮かべたような気がしたのだが、次の瞬間には授業を終えた高垣達つまり大勢の学生がどっと押し寄せてきたので、本当にそうだったのか、確かめようが無くなってしまった。


 日曜の昼、家に帰った。玄関先に、ちょうど母がいた。
「よかったわね」
 そう言って静かに笑う母を見ていられず、青木は無言で頷いて佇んだ。残暑の太陽が、背中に熱かった。
「飛行機、安全運転して…ちゃんと、帰ってくるのよ」
 そう言い残して先に家の奥に入って行った。夏の終わりで、家じゅうが風通しのために開け放たれている。ゆっくりと玄関で靴を脱ぎ、二階に上がろうとした青木は廊下の端から、奥の座敷で母が一人、座って泣いているのを見てしまった。泣いているかどうかは分からなかったが、たぶんそうだと思った。家の梁がモノクロームのフレームを作っていて、縁側の硝子障子越しに見える萌えるような緑の背景の中、母は背を丸めて淡く小さな点を作っていた。
 母は、青木の志願にあまり賛成ではなかった。
 幼いころ、兄の幼年学校受験には賛成していた―であっただろうから、兄が受験したのだと思う―母は、時代が坂道を転がってしまった現在の、もっと死に肉薄する状況へわが子が旅立つこと―受験当時も戦争が始まった矢先とは云え、こんなに泥沼になるとは誰もが思っていなかっただろうし、一口に将校になると言っても選択できる道はいくらでもあった―を、言葉にこそしないものの、眉をひそめて彼女なりの心配をしていた。それでも納得してくれたことに、青木は少しこころがつきつきと痛む。知らずに胸に手を当てた青木は、母がいつか青木に話した言葉を思い出した。
『だって戦争行って、終って帰ってきたら、また普通の暮らしが始まるのよ』
 青木が顔をあげると、母は妹が小学校から送る為の慰問袋を縫っていた。傍らで、その妹は一生懸命に見も知らぬ皇軍の兵隊さんへお手紙を書いていた。
『…うん』
 終わって帰って来れたらね、とあの時、こころの中だけで呟いたが、青木には母親にその言葉を聴かせるだけの蛮勇も残酷さもなかった。ただ、彼女と青木の中では戦争という現象に対する認識が違っていただけのことなのだ。母親にとって戦争とは一時の陥没点であって、きちんと過去と現在、そして未来に続く戦がある。だが青木には、あれは断絶でしかないのだ。
 今、改めて考えてみたのだけれど、終わって帰ってくる自分の姿が全く想像出来なかった。
 そのとき、不意に思い出した。
 蠍のような鋭い目。半年程前に出会った、郷嶋との会話の中をふと思い出した。そして、こころの中で呟いた。
「十年後、なんてやっぱり約束果たすの無理だろうな」

 いつくらいそうしてただろうか。不意に立ち上がった母親に少し驚き、青木はそれを気取られないよう、無意味に手で顔を煽いだ。生ぬるい。
 「さ、ご飯にしましょう。文蔵、あんたしっかり食べるのよ」
 

 急いで出発の支度をし、他の生徒たちよりも早く期末の試験を受けて息を継ぐひまもなく、青木達は十日にはもう三重の航空隊へと到着していた。卒業証書も貰っていない。
 受付で貰った番号入りの木札を掛けて、青木と実方は駅から歩き通しでやっと汗を拭くことが出来て一息つきながら、他の採用予定者を見回した。物凄くたくさん居る。
「すごい人数だなあ」
「ああ…あ、陸軍の兵隊さんがいる」
「え、ホント?」
「うん、あの人。あの横、水兵さんと話してる…そうそう。ある意味、陸の軍人で海軍に入りに来るのってすごいな」
「陸の特別見習士官って募集が遅かっただろ。だから、こっち先に出したんだろうな」
 大部分は学生服であったが、時たま和服や国民服などの者もいたなかに、現役軍人の少数派もいた。そんなことを話していると練兵場への集合が掛かり、慌ててそちらに移動する学生の波に、青木達も付いていった。
 一般的な注意と宿舎の割り当てが終わり、支給品を貰って兵舎の中で確認していると、部屋に兵隊がやってきて夕食だと告げた。外を見ると、いつの間にか夕暮れに染まっていた。山盛りの麦飯とシチューは若者の学生たちを歓喜させ、瞬く間に夕食は綺麗に無くなってしまった。
 その日はもうやることがないので、各々、各部屋ごとに早々の自由時間となった。あの番号札で分けられたのか、青木と実方は同じ班で兵舎も同じ部屋だったのは嬉しかった。知らない者同士、二段ベッドの下に毛布にくるまりながら何人も集まって座り、いろいろなお国訛りそのままで談笑して夜は更けていった。青木も、東北出身の学生達から懐かしい言葉を聞いて、嬉しくなって自分もいつの間にか訛って話しているのを、実方に指摘されるまで気付かなかった程だった。

 次の日から半月程、青木達採用予定者は身体検査と飛行適性検査、それから体力作りの海軍式基礎訓練が徹底的に行われた。十年程ずっと学校の軍事教練でやってきた陸軍式から海軍式に替えねばならなくて、敬礼の仕方から号令や名前の呼び方まで覚えることが沢山あった。検査も流石に綿密に行われ、青木はただただ次々に行われる椅子に俯向いて座ったところをグルグル何重にも回されたり、次々に現れて瞬時に消える六桁の数字や矢印を発見記憶していかされたり、その間に挟み込まれた体力錬成の訓練にへとへとになりながら、ついて行くのが精一杯だった。科学的合理的と言われていた海軍で、手相判断のために手形を墨で押したものを提出したり、人相判断まであったことには驚いた。同じ班の学生が、統計学の一環と思えば逆に純粋な科学的判断だろうね、と肩を竦めた。

 ようやく正式な採用が決まる、最終合格発表の九月二十五日になった。合格者は飛行科へこのまま残留、飛行機操縦者に不適格だとされた者のうち、一般兵科や整備課に振り分けられる。それでも全く不合格になったものは、一度故郷に帰って再び陸軍の兵として押収されるか、海軍の水兵に志願するか、運命がかなり違ってくるので、青木も前日からあまり眠れなかった。自分の番号が合格者として呼ばれた時、驚きと喜びで一瞬声が出なかった。慌てて大きな声で返事した。
 
 二十七日に親へ連絡するために手紙を書いて投函した。十月四日の入隊式まで、新しい分隊再構成と、最初に官給品の支給が数日続いた。
 持ち物の一つ一つに名前を書いてゆくのである。直接書き込むものと名札を縫いつけるものがあった。初めの朝、支給品を貰い、制服制帽に短剣など諸々を拝領してそれを部屋まで運んでいる間、青木は知らずに浮かない顔をしていたらしい。
「文蔵、どうしたの?渋い顔して」
「縫わなきゃ駄目だろ、襟の階級章と、帽章…」
金筋一本入った予備学生の階級章を襟に、桜に錨の士官の帽章を制帽に縫って、午後からそれを着用せよとのことだった。
 元来縫物は本当に苦手であった。あまりにも下手すぎて、ボタンすらつけられない青木は、そのつど実家に持ち帰ったり、よく友達の世話になっていたのだった。だが、ここは軍隊で苦手だの嫌だだのなんだのとは言っていられない。
「ああー苦手だもんな、縫物。ちょっとだし、これくらいやってやるよ」
「ん…いいよいいよ。挑戦してみる」
 だから青木は実方の気遣いをありがたく思いながら、へへへと恥ずかしそうに笑って見せた。
 午前中はそれだけの予定だったので、部屋に帰ると班の者で車座になって、皆で談笑しながら作業を始めた。先に名前を墨書で書く。字はわれながら綺麗に書けたと満足した。そして、改めて裁縫に取り掛かる。青木は無言になって真剣に針を持った。
「…いたッ!」
 青木の口から小さな声が漏れた。
 左手、人差し指の爪の間に激痛が走った。それに驚いてしまい、針でそれを更に引っ掻いてしまったのだ。正確に、特に痛い箇所を狙ってしまったかのようなその痛みは、先ほどからたかが数箇所、軍帽に徽章を付けるまでに、何度刺したやら知れない痛さよりも際立っていた。青木はその痛みにうっすら涙浮かべて針と制帽を放り出すと、手首あたりを反対の手で握り、無言で悶絶した。
「おいお前、どうした」
「ああ…文蔵、やっちゃったか?」
 隣にいた、島田と言う学生が気付いて驚いた。名前を書いていた実方も顔をあげ、予想通りの青木に何とも言えない顔をした。青木は気恥ずかしくて背を丸め、意外に出ている血の量に目を丸くしている年上とみられる島田はじめ、なんだなんだと顔を上げた学生たちにばつの悪そうな顔を見せた。
「あ…はあ、指に針刺さっちゃいました」
 なぜか敬語になってしまった。
「うわ、お前派手にしたなあ。あーあ、刺さったまんま引き上げちまってるもんだから、皮膚破ってるぞ」
「うわああ俺、血ィ苦手なんだよ。青木、大丈夫か?」
「誰かちり紙ちり紙!」
「あー待って待って、持ってくるから!」
「だから言ったろ文蔵、俺に貸せって」
「…ごめん」
「はいよ。ほら、これで押えてな」
「あ、ありがとう」
 貰ったちり紙で血を拭い、指を咥えた。
「おい、どうした。騒がしいぞ」
 ひょいと見回り中の分隊士が来た。学生が挙手した手を振って、分隊士を呼んだ。
「あー、少尉ー。怪我人発生ですー」
「ああ?ちょっとおい、何したんだ。誰か?」
「ここです、こいつ。青木」
「すみません…。大したことはないです。針差しちゃっただけなんです」
 ばつの悪い顔で青木は分隊士を見上げると、青木たちよりほんの少し年かさ―十も離れていないだろう、兄と言ってもいいくらいの年頃である―の上官であり先輩である分隊士は、苦笑いして大丈夫か、と問うた。
「あ、大丈夫です。舐めておけば治るくらいの程度です」
「ならいいが…。以後気をつけるように。裁縫苦手なのか…お前はもう誰かに手伝って貰え。おーい、誰かやってやれ」
「あ、はあい。文蔵、貸しな」
「ごめん…」
 青木は申し訳なさそうに指をくわえながら、ついついと手早く縫ってくれた実方が仕上げの糸を切るための鋏を渡すしかなかった。
 いいよいいよ、気にすんな。と笑う実方に、分隊士が声を掛けた。
「お前ら、もとからの知り合いなのか?」
 周りで同じく悪戦苦闘中の学生たちも顔を上げた。
「ええ、中学からの同期なんですよ。だからこいつが裁縫できないの知ってますんで、さっき貸せって言ったんですが、やるって言い張るもんですから」
 くすくすと笑いながら答える実方に、青木は恥ずかしくなって彼に言い募った。
「だって…軍隊なんだからさ、自分のこと自分でしないとって思って」
「その心根は偉いぞ。まあ俺は同期に頼み込んでるけどな!」
 なぜか胸張って言う分隊士に、あはは、と皆が笑った。それらを微笑ましげに見回してから、分隊士は少し眉を顰めて腕を組んだ。
「と言うかな、お前たち、その口のきき方はなんだよ。俺もお前たちと同じ予備学生出身だから、慣れた言葉遣いが出てきちまうのは分かる。だがいい加減、娑婆っ気を取れ。正式入隊までは大目に見るが、いいか、来週の入隊式以降は、即修正するから覚えておけよ」
「はあい」
「あー…そう言うのだよ。頼むよ、俺だって殴るのとか気分悪いんだからな」
 そうぼやいて、分隊士は頭を掻いた。


 十月四日の入隊式を皮切りに、怒涛のような毎日が始まった。
 分隊士の忠告通り、次の日から学生じみた娑婆っ気溢れる言葉遣いや一挙一動するたびに拳骨が飛んで来た。青木などは持って生まれた性質か軍隊の言葉になじめずに、入学式当日から言葉使いがたるんどる、と殴られた一人であったのだが、それ以降、気をつけてはいるが青木が修正を受けるネタはほとんどそれだった。
 拝領した制服は、当時の若者のあこがれである海軍士官のそれで、青木も白いスタンドカラーシャツの上に詰襟型の制服を着込み、サスペンダーをつけた腰へ短剣を釣ってみると、なんだか誇らしいような気分になった。その制服自体は、青木には少し大きく―それは急ごしらえのためで、他の殆どの学生も合わない制服を着ていたが―肩口のだぶつきが気になったものの、訓練と座学に打ち込んで行けば、それも気になることもなくなった。
 否、気にするような余裕もなくなったと言っていい。
 基礎教程の基本座学にしても、三角函数に弧度法や制限予言の法則と言った数学、力学や相対速度にエネルギーの解説からベルヌーイの法則などの物理と言った純粋な理系知識を基礎から叩き込まれた。理系の学生はまだしも、青木のような普通の文系学生にとっては、高校二年から数学物理と分かれたものなだけに、教科だけでもついていくのがやっとであった。他にも化学、気象に始まり、各種兵器に航海術、海軍常識、陸戦、通信、軍制、精神教育に至るまで目白押しである。
 飛行科らしい教科としては航空の時間があった。飛行機の種類に始まって、各部の発動機や翼、動力減速気化の各装置の仕組みと制御方法を学ぶ。座学だけではない。実習としての陸戦、手旗、体操、棒倒し、相撲、短銃、武道など身体も使っての授業がぎっちりあった。棒倒しなどは、土曜午後の掃除あとに始まる恒例のもので、その壮絶な乱戦の中で死者まで出た。にもかかわらず継続された、この棒倒しの演習では毎回限界までもみくちゃにされたものの、青木のねばり強い根性はこれで体力的にも鍛えられたと言って良い。
 訓練中、これらの日課は授業外の自習時間も含め、朝五時一五分起床から二一時三〇分の消灯までの間に規則正しく詰め込まれていて、毎日毎日の繰り返しによる規律と時間に追い立てられたから、身の回りの些末なことなど気にする余裕すらなくなっていったのだ。楽しみは食事と日曜の面会か、制限された自由行動ぐらいのものである。
 そのおかげか青木は、部屋から部屋への移動の駆け足に階段の二番飛ばし、五分前行動を身につけた。もっとも、これは考えるよりも早く行動出来るようにならないと即座に“修正”の対象となるので、身体に刻み込まざるをえないたぐいのものであったのだが。

 そうして、瞬く間に三ヶ月を過ごした。






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Afterword

海軍にやっと入ったよ…文蔵!
進学と予備学生の進路関係で、青木が大学合格という高スペックになっていますが、当時の大学受験日と予備学生仮合格の日付が微妙な上に、高校生という設定上、大学合格くらいは普通なので仕方ないw
まあ、予備学生仮合格の時点で大学には辞退届出してると思います。
あー高校経由でどっちも受験手続きしているから、高校の事務員さんが自動的にやって置いてくれてて、青木自身は自分が大学進学辞退したことを後で知ったとかでもいいと思います。

募集開始や合格の日付、受験資格などの内容、それから海軍に陸軍の兵隊さん来てたwwとかそう言う、隊に関することは基本的にホントです。その兵隊さん、陸攻にちゃんと受かったのかなー。気になる。

入隊などの話で長くなったので、次に続きます。
あー。青木の学校の、流伴教授は「るはん」教授ですw 
あの先生ならギリギリ定年くらいかなー。「魔利と新吾」で大正15年あたりに40代はじめっぽい、物静かな先生として出てたので。









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