一期一会

1 内地編−そのいち

 あれは、本当に偶然の羅列だったのだ。
 でもそれを只その一言だけで済ますには、あまりにも感情がついて行かない。



 昭和19年10月の下旬、暦の上では冬を指しているのに未だ時折袖をまくることも多い亜熱帯の台湾、台南海軍航空隊に青木は分隊士として所属していた。去年の9月に時局法の関係で東京の私立持堂院高等学校を繰り上げ卒業した青木は、その慌ただしい卒業の直後、第十三期海軍飛行予備学生として採用されたのだ。

 青木は好戦論者ではない。
 かといって、なにか信念を持った非戦論者や共産・自由主義者やアナキストと言った人間でもない。死ぬのは厭だし、戦争なんて自分から参加などしたくもなかった。でもそれは、死を厭うのは生きる動物の本能だと知っているし、社会構造の必然性として満州事変を勃発とした戦争が起こった世界情勢もそれなりに判っている、学生として世の中の矛盾を少しかじっただけの若造であり、それを比較的自由に思考をめぐらすことの出来た恵まれた立場の学生であった青木にとって「あたりまえ」の反應であった。

 ただ、近代日本が当世の時流に乗って執ってきた帝国主義を標榜した国家の中で、大正15年生まれの男子として生を受けてからこちら、ほとんど自我が芽生えてからずっと、日本とどこかが戦争をしていることが通常であった状態の国の中で、ごくありふれた一市民として生きてきただけであって、漠然と「自分も成人したら徴兵されて戦争に向かうのだろう」という程度の意識で学生時代の半ばまで過ごしていた。
 だから、小さい頃―それは何かの記念だったろうか、青木自身がまだ四つか五つの頃だったため彼自身は覺えていない。郷里の家族に尋ねれば答えが帰ってくるはずだが、性急に聞くような事でもないので延ばし延ばしにしていたため、判らないまま今に至る―家族で撮った写真には、背広姿の父と着物姿の母、そして子供用に仕立てられた小さな陸軍将校の格好をした小学校低学年の兄と同じように、もっと小さな海軍将校の白い第二種軍装に身を包み、つけられた肩の飾緒を片手でいじり、少し緊張した面持ちで写真に写っている青木がいた。
 そのように、戦争という現実自体が当たり前のことでもあったわけで、自分も小学生の時分あった南京陥落のお祝いには殆どその意味も知らず、ただ日本が勝ったというお祭り騒ぎで湧いた賑わいを楽しんでいたし、学生時代には日々流れるラジオ報道や新聞などで知る戦況に友人たちと昂揚したりもした。学校での教科の一つに入っていた軍事訓練は、普通の体育の授業に比べ大変だったけれど、それでもなんとかこなしていた。
 その一方で、学生という世間の一般社会と比べて非常に自由な立場であり、その牙城でもあった学校という場において様々なことを彼なりに学んできた。だから、戦争という事象を考えるとき、青木はどちらかというと、彼の高い感受性の共鳴によって、戦争という人と人との殺人行為が国と言う大単位に飲み込まれて正当化されている世間の矛盾に対して、ただただ暗鬱な気分になることが多かった。
 しかし、当時の青木はその心理を「現実を見つめて、迷わない」ということで固めて納得することで、こころの安定を保つことを無意識化で身につけていたし、それは多かれ少なかれ誰しもがそうしているだろうと、青木は思っている。だから、いやだけど戦争は仕方ない、と自分の意思を作っていたのは確かだ。



 青木の兄・文介は中学の一年で陸軍幼年学校の試験を受けた。
 頭のいい子は、その出生如何に関わらず日本中の秀才が集まる陸軍の中学校である幼年学校に行って小さな軍人になり、そして士官学校へ行って偉い将校さんになり、軍を率いて大将になる。昭和初年当時、世界的な軍縮風潮と大正デモクラシーの色濃く残ったモダニズム都市文化に席巻され、それを地方へと伝播させつつあった近代都市国家日本の中でも、軍人という地位はそれでも一定の地位を保っていたし子供たちの中でそれは当然のあこがれであった。
 そのあこがれをもっと現実味を付加させていたのは、少年兵の中でもっともエリートであった幼年学校生(兄の受験時には地方の幼年学校はなくなり、東京の一校だけに吸収されてはいたものの、その存在感は変わらなかった)で、彼らは一三から一五という未成年―もしくは少年であったにも関わらず、そのエリート性を大人たちが証明するかのように、自分よりも一回りも上の成人であっても相手が兵隊であれば敬礼も成人からされるし、下士官であれば同等の地位として扱ったし、もちろん軍人以外の地方人はなべて相手の小さいながら選ばれた存在に、尊敬と感歎が混じるほほえましさの視線を送ったものだ。

 小学校時代のある時―確か、兄が受験をする前年のことだったから小学校の五年の頃であったと思う。一年前の中学校受験の時よりも大わらわであったし、普通の中学校よりも陸軍の中学校の方が上なのだと、認識していた―、一家で兄の幼年学校、そして自分の中学受験合格のために東京の大きな神社―おそらく明治神宮あたりであったろうが、記憶にはない―へ詣でたことがあった。といえども、青木の場合はまだ五年生であったし、今回落ちても六年でまた受ければいいと云ういわば慣らしのような軽い気持ちでもあったので、自然、家族は兄の方に力が入っていたし、青木自身も自分そっちのけで兄の合格を祈っていた。
 初めて来た土地のもつ不可思議さと、学校を休んで来た平日にもかかわらず大勢の人間のひしめいてる状況は、地方の片田舎育ちの青木少年には初めての体験であり、あまりにも多い人の波に酔った。
 手を引いていた父を引っ張ってそれを告げると、参道の脇にある注連縄の掛かった大木の根本に青木は座らせてもらい、父は兄と共に青木に飲ませるための水を取りに行った。隣に正座し、優しく青木の背中をなでてくれる母の膝に被さるようにしてぐったりとしながら、延々と続く人の流れを朦朧と見ていた。
 そこへ、二・三人連れの少年たちがやってきた。少年といってもやっと一〇歳を越してすぐの青木よりも上の、十代前半の面持ちである。
 彼らはカーキ色の折襟式軍服を身につけ、目深に軍帽を被り、みな神妙にしていたが得意げに歩いていた。
 青木の母には、一見して彼らは幼年学校生徒であることが判ったし、未来の自分の息子―今はとりわけ来年まさしくそこを受験する長男―の姿をも想像させた。
 よく晴れたその日は春といえども日向では少し暑くもあり、丁度いい木陰を発見した少年らは青木たちのいる木陰へ少し早足でやってくると、青木の母に対して全員が制帽をとり微笑む。その中で、革の鞄を小脇に抱えた一人が少し緊張した面持ちで話しかけた。
「失敬、お隣を使わせていただいてもよろしいですか」
 ぼんやりと彼らを見上げていた青木は、短く刈られた髪のおかげではっきりと見える、彼らの額にあった小麦色の日焼けした顔と、軍帽で隠されていた元々の皮膚の彩の白さが作った境界が際だっていたことを覚えている。
「まあまあ、どうぞ。かわいらしい軍人さんたちだこと」
 話しかけられた母は、彼らの大人びた発言とまだ少年というギャップにほほえましさを感じて微笑んで答えたが、相手に失礼かと思い直しすぐに言葉を継いだ。
「あ…ごめんなさいね、星の生徒さんたちに失礼なこと言って。お暑いのに皆さんでご参拝にいらっしたの。本当にご苦労様ですこと。さあさあ、お座りになって」
おっとりとした母の『かわいらしい軍人さん』との言葉に少し紅くなって黙ってしまった彼らだったが、その後に続いた母の言葉に悪気とからかいがないことを知ると、一瞬安堵した笑顔を見せたものの、すぐに引き締まった顔を見せて、先ほど声をかけてきた少年がまた大人びた口調で返した。
「は、ではお言葉に甘えて、失礼します」
 彼らはきれいな所作でお辞儀をした。入ってきた木陰の涼しさに一息ついた彼らが、以前ぐったりとしている青木を心配そうに見やった。その気配は感じたが、青木はなんだか恥ずかしくて顔を伏せたままにした。
「その子、どうしたんですか。体調悪いんですか」
「人波に酔ったようで、疲れたんですの。少し休んだらよくなりますわ」
「水でも取りに行ってきましょう」
「あ、大丈夫ですわ。今、夫が取りに行っているんです。ご心配ありがとうね」
 皮鞄の少年が座ったそばから機敏に立ち上がろうとするのを母は止めた。そして相手の気遣いに微笑んだ。
「あ、いえ…。でも、ここは特に人が多いですからね。正直、平日でもこんな混雑とは思いませんでした」
「自分らは任務で陸軍省に参った帰りでして、せっかくだしと足を伸ばして神宮参拝に来たんでありまァす」
 どっかと隣に座り込んで嵌めていた白手袋をはずしながら、別の少年が人なつっこく話しかけた。まだ、幼さの残る彼の笑顔は少し得意げでもあった。
「こら榊、軍行動は秘だろうが!」
 先ほどの少年が少し太めの眉を寄せて窘めた。大人びた顔をしていても、ほんの少し、成人の真似をしているような少年らしさも隠れて滲み出ていた。
「あ、いけねえ」
 榊と呼ばれた少年は、肩をすくめて青木の母に向かって舌を出して見せた。
「いけねえじゃないだろ。ねえおばさん、申し訳ないですけれど、今聽いたことはなしにしてください」
 三人目の少年が、可笑しそうに笑みを零しながら話しかけてきた。
「ええ。軍人さんのお願いですもの」
 母は笑って頷くと、その会話を顔を上げて聽いていた青木の頭を撫でながら、文蔵も軍人のお兄さんのお願い聽きましょうね、といって頭をなでた。その言葉に、彼らは擽ったそうな表情をした。同行者を窘めた少年すらその表情であったことから、彼らの自尊心が『軍人さん』と認識されたことでまんざらでもないと擽られたからだ。しかし、いち早くそれから気持ちを切り替えた。
「全く、貴様らはカデたる自覚が足らんのだ。なんだその地方人じみた、だらけた態度は。それにやたらとにやにやするな、常に淡泊であれ。これは軍人精神の基本だろうが」
 リーダー格の少年は苦い顔をして、ほかの少年に対し説教を始める。汗をぬぐいながら苦言を呈するその声量は抑えられていて、自分たちが衆目の耳目を集める存在であることを自覚していることが判る。
「うわ、模範生徒殿はお堅いったら」
「そうそう。臨機応変にその場の雰囲気や状況を読み取るってえのも、優秀な軍人として必要な才覚の一つじゃあないのかね」
「おーまーえーらー…!」
 そんな年相応のやりとりをしばらくしていた彼らは、時局の話を始めた。すると一変してその少し幼さの残る顔立ちからそれが消え、一個の軍人としての顔に変わり、幼い青木や一般の主婦である母にすら判らぬ話題をしばらく展開していた。青木の母は、彼らの大人びた表情を見るともなしに眺めて、微笑むような泣きたいような判らない顔で目を細めつつ、小さなため息をついた。時計を確認して、彼らは再び立ち上がった。
「ではお先に失礼します」
「あらお早いんですのね」
「は、常に心意気は戦場にあれ、であります」
 先ほど榊と呼ばれた少年がまじめくさった顔で言えば、模範生徒と言われていた少年の後ろで、もう一人の少年が笑いをこらえた顔で口元をあげた。どうやら真意がわかっていないのは、模範生徒少年だけらしい。
 彼らが沿道に出ようとしたときであった。
 二十歳そこそこから半ばと思われる兵隊の一群−五・六人はいただろうか。伍長の肩章をつけた軍人が二人と、あとは二等兵や上等兵であった−と、少年らはかち合うかたちとなった。そのとき、まず最初に、伍長二人を除いた兵隊の方から敬礼した。そして少年らはそれに答えるように自分らも立ち止まって敬礼を返せば、彼らと同時に伍長が礼をした。そして二組はまた流れに乗って行ってしまった。ただそれだけのことであったが、幼い青木にとって、それは成人の兵隊よりも偉い子供の軍人の存在を実際に見た原体験であり、母にとってもこの軍事国家の一端を担うシステムに子供であっても組み込まれていること、それが現実であるということを直視した体験でもあった。来年、彼らの学校に入れさせたいと思っている親として、それは酷く印象に残った。そして、もっと幼いこの文蔵もまたそのシステムの一端となるのだろうか、と思いついてしまえば、膝に寄りかかる幼子を強く抱き上げずにはいられなかった。

 結局、兄は軍人にはならなかった。
 何十倍もの学科試験を合格したにもかかわらず、後日行われた体格検査で結核のしこりが発見されたからだ。兄は酷く落胆したものの、身体を治すことに専念した。快癒したのち、それからは軍人になる道を諦めた。
 受験の翌年、青木はなんとか東京にある私立の持堂院高等学校尋常科(旧制の中学と同等)に小学五年時で合格することが出来て、自分が一番驚いた。父の仕事の事情により、春に一家で揃って上京してからは、兄の方は東京府立五中へ編入して中学を五年修めた。府立五中は、他の四中や六中の特色である軍隊式スパルタとは対極の、自由で穏やかな校風で知られていた。青木は、編入先に五中を選んだ理由を何となくだが、推察したりした。
 青木の学校の制服は濃紺の海軍型詰襟だったが、東京での兄の学校の制服は当時珍しかった灰色の背広に黒のネクタイで、それが子供心にもスマートに見え、優しい兄にとても似合っていたことを覚えている。それでよかったのだと、思った。言わなかったけれど、兄には軍服なんかより、背広の方が似合うと思っていた。
 その間、大陸開拓へと視点を移した兄は満州国の建国大学予科へと進学した。農業林政関係への官吏となる志を持ったらしい。それもまた、日本の帝国植民地主義下における人々の典型的な生き方であったし、それを誰も声高に疑問視しなかった。青木にとっても身近な話題でもあったし、至極普通のことだったのだ。
 青木自身は兄のように軍学校を受験すらしなかった。慥かに他の子供のように軍人さんという職業は憧れの職業ではあったが、自分とは遠い存在のものだと思っていたからだ。中学へとあがった青木は、そのころの彼自身、将来は漠然と父親のように役人にでもなって役所勤めでもするのだ、と思っていたし、中国戦線できな臭い匂いが立ちこめ始めていたものの、まだまだ戦争は今ひとつぴんと来ない状態でもあった。しかし中高七年(私立の中高一貫教育校は7年制)の間、転がる坂のように事態は進展していってしまった。



 昭和の18年つまり去年の正月に一時帰国した兄と会った際には、幼い頃から見ていた、少しおっとりしたところのあった顔が消え、年に不相応な落ち着きを持った青年に変わっていたことに驚いた。知り合いの関東軍の軍人がちょうど同じ頃に満州へ帰るので、その連絡飛行機に乗せてもらうという兄の言葉に驚いたものの、青木はこのご時世だからそういうこともあるのか、と納得した。
 飛行場へと送り出すため、兄の荷物整理を手伝っていた時のことだ。
 東京はずいぶん切迫した気分だな、満州は空襲もないし暢気なものだ、と家にいる間ずっと話していた兄は、不意に青木へ声をかけた。
「文蔵」
「ん?なに、兄さん」
 自分を振り仰ぐ弟は、学生服姿であったが足にゲートルを巻いた姿で、そのゲートルが否応にもこの国が交戦状態であり、国家総動員であることを判らせる。街々に立てられた看板や人々の服装などが、二年前に旅立った祖国の情勢が急展開していることを物語って余りあった。
「こないだな、兄さん、満州は内地みたいに誰もゲートルなんか巻いてないし、徴兵もされてない。戦争中なんて雰囲気がないって言ったの覚えてるか?」
「うん。言ってたね。大陸だし、それに外国なんだし、それは仕方ないでしょう。それにソ連との国家間条約も続いてて国自体の整備が一通り出来てきたからだ、って言ってたじゃない」
 頷いた青木は、そのとき兄が話してくれていたことを思い出しながら答えた。不思議そうに見上げる弟は、まっすぐこちらを見てくる。兄は、なぜか耐えきれなくて目をそらした。相手が小首をかしげた気配に、ゆっくりと弟へと目線をやると、少し長めの髪がさらりと揺れたのを視界に認め、兄は笑って顔を上げた。そして、改めて弟の目と直面した。
「そんなの、違うんだよ」
 兄の顔に、青木は目を丸くさせて驚いた。
 微笑んではいた。けれど泣きそうな、晒うかのような、哀れんでいるのか、愉しそうなのか、諦めたのか。青木には理解不能な感情を見せていたのだ。
「あの国――いや、大陸はね、戦争なんて春秋戦国の大昔から当たり前だからさ。麻痺してるんだ。だからみんな表向き知らんぷりして、いたずらに騒いだりしない。日本人は満人のそういう態度に当てられて、平和きわまりないって思ってる。ソ連が条約なんて守るはずがない。ただ時期じゃないから、攻めてこないだけさ。満州国の国家の整備なんて砂の城守ってるみたいなもんだ。みんな、自分がやることをやってるだけで精一杯で、それで食い止めてるだけさ。兄さんの満系の友達がこの間、治安維持法で捕まった。大学の友達で、本当に好い奴だよ。…抗日スパイだった。日本人の兄さんたちから見たら王道楽土を壊す酷い話だ。でも、満人のあいつから考えたら当然の行爲だ。満州国民なのに当然っておかしいだろう。けどね、あの国に国民なんて誰もいないんだよ。だって、満州国籍なんてあの国に住んでる日本人は誰も持ってないし、満人だって持ってやしない。誰もいない空っぽの国を維持するために、みんな必死だ。そうやって、あの地に足のついてない国はバランスがとれているからね、いつか本当の自重で立てる幸せのためなら、ぞれぞれの役割で何だってしてるだけだ。でも他は見ないふりをする。見やしないんだ。そうやってみんなが見ないふりした片付けも甘粕さん――」
「あ、まかす、さん?…甘粕正彦?」
 兄がはき出すその言葉は、満州なんて遠い国であるという認識しかない、内地人の青木にとって全く判らない。ただ、兄の言った言葉が本音であることは判った。それでも真意がわからなくて、なにより兄の昏い瞳は自分に向かって話しかけているはずなのに、青木本人を通り越したどこかを見ているようだ。饒舌に語っていた兄は、ある人物の名を零したが、それに気付くと黙ってしまった。とぎれた言葉を促すように、青木は姓だけ聞いたそこから連想される人物の名を確認するように尋ねる。
 甘粕正彦は有名人だ。満州で甘粕といえば、満州映画会社社長にして満州の裏の帝王、元憲兵大尉の彼が一番に人々の膾炙に上る。片付け―大変なお片付け―から、青木は彼が有名になった事件を思い出した。青木が生まれてもいない前の話だが、なんとなく兄の言う言葉がわかった気がした。だがなぜ兄が突如と甘粕の名を出したのか判らなかった。
「あ、ああ。この間、うちの大学へ講演に来たからね。あの人ほど、良くも悪くも仕事に真面目な人はいないよ。僕らは―そう、自分のやれることをせいっぱいするだけさ」
 兄は言い包めるようにして、この話題を終わらせた。

 結局、よくわからないままに会話が終わったが、立川の飛行場へ見送るために共に乗った車の中でこの話の続きをする気にはなれなかった。

 飛行場では特別に、飛行機の目前まで見送ることが出来た。
 初めて本物の飛行機を間近に見た青木は、彼の年代の子供時代の常として、誰しもがあこがれを持って模型作りにいそしんだ記憶ももちろんある。だから飛行機を眼前にして目を輝かせた。
タラップの前に待っていた兄の同行者のひとり−関東軍の友人とはまた違う友人らしい―は見上げるほど大きな男で、川島新造と名乗った。
 兄が、満映―満州映画会社―の人だよ、と教えてくれた。撮影技師か何かだろうか。剃り上げた頭が容貌魁偉に見えた。しかし、意外にも目は優しい。青木は挨拶しながら、そんなことを思った。
 その川嶋は、興味深そうに飛行機を覗く青木の反応を見て可笑しそうに微笑んで、声をかけてきた。
「弟さん。あんた、飛行機好きなのかい」
「ええ、まあ人並みには。小さい頃って、遊び仲間での憧れといえばパイロットだったですから」
 熱心に見入っていたことを指摘された恰好で少し恥ずかしくなり、青木ははにかみつつ答えた。
「じゃあ航空兵志望かい?」
 言われて青木は笑って首を横に振った。すでに半年の繰り上げ卒業が決まっており、青木たち高等教育を受けた高校生らの卒業後は、陸海いずれかに軍人として大部分が『志願』することになっている風潮だ。だから川島もそれを受けて尋ねたのだ。
「いえ、特には考えてないです。でも、どうせ徴兵に行くなら航空科って希望出そうかなあ。倍率高そうだけど、でも空を飛んでみたいですし」
 肩をすくめて、青木はいささか暢気なことを云いながら微笑んで答えた。
「眼は良いんだろ?どうせ戦争に行くなら、少しでも希望が叶えられたらいいな。がんばりなよ」
「あ、はい…!ありがとうございます」
 どの道、みんな戦争に行くのだ。既に学校も半年短縮で卒業することが決まっている。それは出征を合法化する目的だなんて、確認するまでもない。だから敢えて、そんな風にして励ましてくれた相手の優しさに笑みを零し、青木はぺこりと頭を下げた。兄は黙ってそれを見ていた。
 関東軍の兄の友人はまだ来ない。
 パイロット搭乗員以下、地上整備の者をはじめ、これから満州国の首都・新京経由で佳木斯(ジャムス)へ向うと言う年配の満州国軍少校(少佐にあたる)ら数人の同行者―兄と川島以外、全員軍人であった―などと、みんなで機体の陰に座り込んで雑談しながら最後の一人をぼんやりと待っている間、一機空から降りてきた。
 上海から帰ってきたと整備兵が教えてくれたその小型輸送機が着陸し、中の搭乗員が出てくる頃になってやっと、とんでもないスピードで軍用のベンツが飛行場へすっ飛んできた。
「すまなくあります!別れ際に母親に泣かれて遅れました!!」
 盛大に遅刻してきた若い関東軍軍人はかなり気さくな性質のようで、車から文字通り飛び出ると、手には大きな鞄を持って腕に零下40度をも耐える毛皮つきの軍用コートを引っかけ、空いた方の手を拝むようにしてすまなさそうに謝りながら大慌てで走ってきた。
 みんなその姿に笑みが漏れてしまい、和やかに支度準備を再開した。
 
 最後の別れの時、タラップの一段目に足をかけた兄へ、青木は少し躊躇いがちに声をかけた。
「ね、ねえ兄さん!」
「ん?なに文蔵」
 振り返った顔は優しげだ。
「さっき家で言ってたこと…その、いつか本当の重みで立てるようになる幸せのために、みんなが自分の役割を果たしてる。って、言ってたよね」
「あ…ああ。言ったね」
 振り返った恰好のままの兄は、青木の言葉に少しばつの悪そうな表情で、苦笑いしつつ頷いた。青木は、それを笑うことは出来ずに緊張に顔を強ばらせながら、無意識にコートの上に巻いたマフラーの端を掴んだ。
「兄さん、もなの?兄さんも」
「幸せのためなら、なんだってやってやるさ」
 大きく兄の言葉が響いた。どこかやけっぱちのように言い放った言葉に、川島が振り向いた。
「…かっこいいこと言ってみたけれどね、ただ自分にやれることはやろうと思う。それだけだよ。だから文蔵。これからおそらく大変な時代になる。心して生きなさい」
 生真面目な兄は、青木の顔を凝乎と見つめながらそう言い残して機上の人となった。青木は真意はわからないものの、心にせり上げてくるものを感じて大きく頷くふりをして、顔を伏せた。
 そうしないと、兄に涙を見せそうだったからだ。

 そして、飛行機のハッチが閉められた。









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Afterword

戦争話です。
青木を中心として、絡められる人はがんがん絡ませますよ!

いきなりオリキャラばんばん+自分設定とか激しくてすいません…。
青木の兄ちゃんの設定の細かさに、我ながらきめええ。
兄ちゃんと青木は4つ年が違いますが、青木が小6と中4を飛び級するので学年は結局2つ違いということになります。
中学生とかのあたりのエピソードは、オリジナルの話を書くはずだったキャラ設定を使ったのでこんなことに。まあでも、ああいう受験失敗経験の人はたくさんいるのでいいか。なんか愛着がわいてきた…。
川島が甘粕のところでなにやってたのかまったくわからないので、やりたい放題です。

青木の学校以外は実在の学校です。木原敏江「摩利と新吾」の舞台が地堂院高等学校です。あそこは高等科(高校にあたる)だけで、尋常科はないので名前を借りただけっぽくなりましたけど。

★5/20に、ちょこちょこ直して、あの人のターンを2に持って行きました。









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