恋だけは、嘘をつかないで

 昭和の二九年、三月のことである。

 春とはいえまだ少し肌寒い昼下がり、青木は相棒の木下と最近凝っている周辺の中央官庁食堂巡りの昼食を、今日は労働省で堪能して来た。二人で警視庁へと帰る途中の歩道、霞が関一丁目の交差点で前を反対側から来た人影に気付いた青木は、歩みを一瞬止めた。
「あれ、文さんどうしたの…!あ、その…さと、し」
 ピタリと止まった隣の青木を、一緒に躊躇区を取りに行けて嬉しい木下が脳天気そうな笑みを持って振り向いた。眉根を寄せて前を見据える青木の視線を追えば、凶悪な面相の公安がいた。せせら笑いながらこちらに来ると、小柄な方である二人を見下ろしてきた。
「なんだお前ら、もうすぐ昼時間終わるぞ。どこまで遠足に行ってたんだ」
「終わるから帰ってるんです。遠足じゃありません。休み時間に昼食食べに行っただけです。あんたこそ、昼休み終わりますよ」
「あの…最近、省庁の食堂巡りにはまっちゃって。今日はその…労働省まで、行ってきたんですよ…」
 とりつく島もない青木の答えに、ビクビクと木下が怯えながらも引きつった笑顔で付け足した。
 青木は郷嶋と会うたび、他の人間には見せないような、こんな攻撃的で冷たい言動になる。人当たりの良く、素直で柔和な人柄な普段の青木とは全く別の面を見せられた木下は首を竦めて驚くしかない。ごくたまに木下もされることはあるが。
 はん、と鼻で笑った郷嶋は眼鏡の奥から鋭い視線を寄越して、薄く笑みを作る。
「俺は時間ずらして休憩なんだよ。多忙だからな。昼飯食べ歩きしてる、坊やと狸小僧みたいに暇じゃないんだ」
「またたぬきって…」
 木下が眉を下げて情けない顔をした。
 去年の夏の初め、青木が本庁へ復活する切欠となった事件で郷嶋と接触があり、それから木下の相棒として復帰した青木にやたら絡んでくる郷嶋とは必然的に顔を合わせる機会が多くなった。木下は狸小僧だの、おいだのお前だの、名前すら呼ばれたこともない。
 青木はそんな木下の前へ、ずいと出て郷嶋にわざと顔を近づけて対峙した。
「僕ら殺人課が暇なのはいいことですから。それに、別に暇がある訳じゃなくて、定時通りの就業時間を守ってるだけですけれどね。僕らはまっとうな公務員ですから」
 青木はにっこりと殊更笑顔を作って見せた。その子供のような笑顔は普段の木下にしてみたらとても可愛らしく映ったのだけれど、今この情況で拝む童顔の青木の表情はその愛らしい口から発せられた言葉によって全く違う攻撃的なものと映り、冷や汗が流れた。
 もっとも郷嶋と青木にとって見れば、これが外向きのコミュニケーションなのだ。だから郷嶋は、平然と髪を掻き上げてせせら笑った。
「俺もまっとうな司法公務員だよ」
「まっとう?どんな基準の全うなのか、僕には見当も付きません」
 半目になって腕を組んだ青木が、小さく溜息をついて見せた。隣で木下が怯えてるのだが、気にしないことにした。
「舐めたこと言うじゃないか、坊や。大人舐めると痛い目に遭わせるぞ。…なんだ、お前もなんか言いたいのか、狸小僧」
「いいいいいいいえ!俺は別に!!」
 ぶんぶんと首と手をちぎれんばかりに振って否定した。明らかに、青木に向ける目とこちらを睨む目の温度が違うことに、毎回泣きそうになる。
「どうせ、なんにも言えねえような顔してやがるけどな」
 図星なので木下は肩を竦めて、頭を掻きながら愛想笑いした。それが癇に来たのか、青木は眉根を寄せた。
「ちょっと郷嶋さん。木下のこと、あんまり悪く言わないでください。これでも頑張って生きてるいいやつなんですから」
 木下はかばってくれたことに対しての嬉しさと共に、悪気無く言う青木の言葉に複雑な気分になってから笑いした。
「お前それ、あとに言った言葉でフォロー台無しだぞ」
「え?」
 青木は顔をしかめて小首を傾げた。判っていないらしい。
「ともかく。友達のこと悪く言われて、いい気分の人間がいますか?」
 更に言いつのる青木を止めるため、木下は彼の方を軽く突いた。
「なに、國!」
 あ、なんだかより不機嫌になってしまった。木下はその勢いに気圧されながらも、曖昧な笑みで青木に告げた。
「あ…俺、先に行ってる」
「ううん、僕も行くよ。さ、行こ。じゃ郷嶋さん、これで失礼します」
 ささっと横を通り抜けようとした青木の腕を、郷嶋が掴んで止めた。
「待て坊や、お前に用があるんだよ。タヌキ、先行ってろ」
「はあ?」
「じゃ、じゃあ俺、ゆっくり行ってるから。じゃ…じゃあ郷嶋さん失礼します!」
 木下は逃げた。青木ごめん!と心の中で詫びながらも、開放の許しを貰ってなおそこに留まる程、木下には蛮勇などなかった。

 小走りにそこを脱出した木下は、肩を竦めて一息ついた。冷や汗が出た。すぐ近くの人事院ビルの前に煙草売りの少女がいたので、何となくひとつ煙草と燐寸を買った。
 ビルを背にしてもたれ、一服吹かす。青木の方を見やると、青木と郷嶋は別れた直後だったようで、ちょうど、木下と郷嶋の間ほどにいたのだが、歩道に立ち止まって向こうを振り返っていた。
-なんだろう?
 更に向こうへと首を巡らす。郷嶋の横に車が寄せられていて、その車に乗っていたであろう洋装の小柄な女性が立っていた。木下はそこまで目のいい方ではないし、かなり離れていたので顔の判別までは分からなかったが、遠目にも相当の美人であろうことはわかった。その二人を、青木は見ていたのだ。
 不意に青木が歩いてきたので驚いた。踵を返してやって来た青木は、何だか不機嫌そうだった。
「あ、圀。先に行ったんじゃないのか」
 木下に気付いた青木は、少し驚いたように一重の大きな目を丸くさせて、なんだか恥ずかしそうで、ちょうど教師に何かを見つけられてしまった学生のようだった。木下は、君を待っていたんだよなどとは言えず、言い訳じみたような説明をした。
「え…ああ、えーっと、その…煙草吸いたくなって」
「滅多に吸わないのに?」
「なんとなく…。ていうか、郷嶋さんの知り合い?あの女の人。俺、遠くかだからよく見えないんだけど、かなりの美人じゃない」
「知らないよ、どうでもいいだろ。早く帰るぞ」
 ずんずんと先に行く青木を追いかけるため、木下は慌てて煙草を消して着いて行った。 よっぽど厭味言われて腹が立っているんだろうな、などと思いつつ。

「で、なんですか用事って。…どうせあんたんちに今日行くんだから、その時でもいいでしょう」
 去っていく木下から視線を移し、青木は郷嶋を振り返る。素っ気なく云おうとしているものの、後半は少し頬を赤らめ、言いにくそうに呟く。郷嶋はそんな青木をほほえましく思いながらも、薄い笑みを貼り付けたままスーツの内ポケットから紙袋を取り出しながら答えた。
「その前に渡さないと、駄目だからだよ。午後に一課に行ってやろうと思ってたんだが、手間が省けた」
「どういうことです?」
 不思議そうに長い睫毛を瞬かせる青木の目の前に、郷嶋は紙袋から取り出したものをふらふらと揺らしてみせた。
「ほら坊や。お前にやるよ」
「え?これ…」
 鍵だ。
 見覚えのあるその形は、何度も見たことがあって青木も郷嶋に借りて使ったこともある。郷嶋の自宅の鍵だった。それをくれる、と言う行為に青木は瞬時にいろんな感情が湧き出て、真っ赤になった。
「さっき作ってきた。ないと面倒だろ」
 こともなげに言う郷嶋へ、青木は混乱していることを気取られまいと手で赤くなった顔を隠すように翳してたじろいだ。
「め、面倒ってことはないですけど」
「いやならやらんぞ」
 憎まれ口を叩く青木の目の前から、郷嶋は涼しい顔で鍵を引っ込めようとする。青木は慌てて思わず言ってしまった。
「ええ…ッ!いやじゃないですよ!誰もそんなこと言ってないじゃないですか…!」
 言ってしまってから青木は自分の言葉に恥ずかしくなり、両手で口を押さえ、ばつの悪そうに郷嶋を目元まで真っ赤になった顔で睨んだ。
「可愛いなあお前。…ほら。今日お前定時なんだろ、先に帰ってろ」
 可笑しそうに笑う郷嶋が再度青木へと鍵を見せるので、青木は気まずさのために少し逡巡してから受け取った。
「事件がなきゃ定時ですけど」
 あくまで青木は減らず口である。それさえも郷嶋にはほほえましく感じられて、短く息を吐いた。
「大塚署長が会議をねじ込みやがったからな、そうたいしたことじゃないだろうから1時間の超過勤務だよ」
「晩ご飯は」
「食べてていい。なんか買っておいてくれ。どうせお前の手料理なんか、期待してないよ」
 青木は壊滅的な料理の腕前であり、作るのは常に郷嶋の担当である。
「失礼ですよねあんた」
 むう…と青木は胸の前で鍵を握りながら、渋い顔を見せて上目で見上げた。
「ほんとのことだろ」
ぺしり、と青木の額を軽く叩いてやれば、いい音がした。

 別れてすぐ、青木が外務省方面を背に、警視庁舎へ続く道を少し歩いたところだった。それを立ち止まったまま郷嶋が眺めていれば、一丁目の交差点で信号待ちをしていた車が、左折後すぐに路上駐車した。昼の官庁街で、あまり車もなく徐行していた車だったので、郷嶋の目についた。そちらの方へと首をめぐらす。路肩に止まりった車の後部座席から、一人の女性が出て来て郷嶋を振り返った。

「まあやっぱり…あの、郷嶋さんじゃありません?」
 背後で綺麗な女性の声が、意外な呼びかけを発したので青木はそれに驚いて立ち止まった。
  ボブカットの黒髪をカールさせた、洋装の女性が交差点の隅に立っていた郷嶋の方へ駆け寄っていくのが見えた。
 遠目にも目鼻のはっきりした、吃驚するほど素晴らしく美人で、青木は目を瞬かせた。映画女優のなんとかと言う人に似ていた、華やかな美貌だったことは間違いがない。女優の名も思い出せなかった。それでも刑事の端くれである青木は、大体三十歳くらいの女だと推察した。青木は見覚えがあるような気がしたが、知り合いにそんな人はいないし、第一すぐに手に持っていた、つばのある帽子をかぶってしまったので、誰か推察できるほどそこまで顔を見ていなかった。
「ん…ああ。珍しい方がこんなところにいらっしゃる」
 煙草を吹かそうとしていたのだろう、内ポケットにやろうとした手を引っ込め、郷嶋は笑った。二人は知己のようだった。青木は思わず見入ってしまった。
「おひさしぶりですこと」
「まったくです。一昔前と言ってもいい」
「まあ嫌だ。そんなに昔でないでしょうに」
 殆ど後姿のような横顔だったが、ころころと口元に手を当てて笑う女性の仕草は、あくまで上品だった。なんだか、銀幕を通した映画の中のワンシーンを見るようで、青木は郷嶋を非常に遠く感じた。
「どうしたんです貴女、香港にいたんじゃ」
 郷嶋の発した、香港と言う単語に青木は先ほどから感じる『遠さ』の一片を見た気がした。二人は異郷の映画の中での外国人が話しているような、普通の日本人とはどこか違う雰囲気を作っていたからだ。郷嶋の、昔の知り合いならばそうなのかもしれない。
「あたくし、ついさっき日本へ帰って来ましたのよ。それでまず外務省に書類を…」
 青木は馬鹿のように突っ立って、二人を眺めている自分に気づき慌てて踵を返した。
 なんだか心がちくちくと締めつけられるようだった。
 郷嶋は、どこに行っても異様だ。外見の美醜と言う意味でなく彼の持つ、どこにも属さないような雰囲気が、他の人間とどこか違っていて、少しばかり浮いているのだ。
 だけれど、あの女性とは本当にしっくりくるくらい自然な雰囲気で、青木は驚いたと同時に、入り込めない疎外感を感じた。別に郷嶋が女と話していようと、特に青木は今までなにも思わなかった。
 蠍と二ツ名をつけられていることもあり、滅多に無いのだが警視庁内でも婦警と話していることもあるし、あまり行かないが盛り場で酌婦に話しかけられて、ちょっとしたやりとりを目の前でされることもある。だから、郷嶋が女と話していて、すぐに嫉妬めいた気持がもたげてくるわけではなかったのだが、なぜかあの似た雰囲気をお互い出しているその様子に、目を背けずにはいられなかった。
 
 
「おい、なんだどうした」
 郷嶋の声が頭上で、した。ここは郷嶋の自室である。
 青木は重いまぶたを気怠げにあげ、少し驚いた顔をした郷嶋を緩慢な動きで首をめぐらした。やるせなげな瞳で見上げてから、少し睨んだ。郷嶋の帰ってきた物音にも気付いていたが、青木はつけっ放しにしていたラジオのせいにして、気づかないふりをして無視していたのだ。
 ソファで寝転がっていた青木は、郷嶋秘蔵のラム酒を開けて飲んでいたらしい。青木が日本酒派だと知っている郷嶋は、訝しげに眼鏡の奥の目を細めた。
「…なんだよ」
 上着を脱いでソファの端に掛けた郷嶋が、緩んだネクタイを更に緩めながら見下ろしながらも、少し伺うように尋ねた。
「遅かったですね」
 声が固い。棘もある。起きあがろうとしていたので、手を貸そうとしたらさっさと起きた。ご機嫌斜めのようだ。郷嶋は西洋人が『さっぱりだ』と言うのを示す、肩を竦める仕草を密かにして、ソファの手すりに座って郷嶋は答えた。
「会議が少し遅れたからな。飯は」
 髪を掻き上げながら、青木は溜息混を付いた。その仕草が、頑張ってやさぐれようとしている子供のように見えて、郷嶋は心の中で笑った。
「買ってないです」
「お前、頼んでおいただろうに」
 思わず情けない声が出てしまった。
「…嘘。コンロにシチュー。裏で買ってきましたから」
「なんだよ。あるんじゃねえか、お前は食べたのか」
 このアパートの裏にある行きつけの麺麭屋兼洋食屋は料理も持ち帰りが出来る。郷嶋は安心して肩を落とした。
「まだですけど」
「じゃあ暖めるぞ」
「あんただけどうぞ。僕、食べる気分じゃないですから」
 そう言って青木はコップをあおり、けんけんと咽せた。
「飲みたい気分って言うのか。お前、弱いんだからまず腹に何か入れてからにしろ」
「弱くないです。ただ眠くなるだけですから」
「そうかいそうかい。さっきも寝てたもんな」
「寝てません!ラジオ聞いてただけです」
 機嫌が悪いらしい。子犬が噛みつくのをあしらうように、手首にスナップを聞かせて笑って振れば、青木の言葉に何事か思い出して壁に掛けてあった時計を見やった。そして立ち上がる。
「ああ…ちょっとラジオ聞きたいのあるから、替えるぞ」
 付けっぱなしになっていた、壁一面に作りつけてある本棚の間に置いてあるラジオへと向かい、チューニングに手を伸ばした。すると青木が険のある言葉で止めた。
「なんです、僕ニュース聞きたいんですけど」
「明日新聞読め」
 振り返りもせず、郷嶋はラジオを合わせている。その背中に青木は噛みついた。
「一課は忙しいんですから、新聞なんて呼んでる暇ないんです!」
 郷嶋が振り返って笑った。
「言うじゃねえか坊や。ともかく、ちょっと三〇分だけは譲らんぞ」
 替えられたラジオから済んだ女性歌手の歌が聞こえ、青木の癪に殊更障った。
「だからニュース聞いてるんでしょうが!」
 ばん、と机に何か固いものが置かれた音がした。郷嶋が盗み見れば、それは昼に渡したばかりの鍵で、青木は今までそれをずっと握りしめていたことになる。
「聞いてなかったろうが、だらだら寝てやがって」
 郷嶋は立ち上がって柳眉を逆立てる青木の傍までやって来て、人より少し大きめの頭を撫でようとした。
「うるさいなあ!」
 バシン、と手を叩いて肩を怒らせた。はあはあと荒い息で郷嶋を睨む青木の腕を、ひょいと掴む。ガツンと一発やられるのかと思って青木が身をすくませると、そっと座らされた。両肩に手を置かれる感覚がして、青木が躊躇いながら顔を上げれば、郷嶋が青木の正面にしゃがんで溜息をついていた。
「…なんでそんなに今日はお冠なんだよ」
 怒っている割には、郷嶋の与えたカギを使って律義に夕食も買ってある。だから、深刻な意味で危険であるわけではないだろうが、それでも郷嶋にとって大事だった。青木は上目で居心地悪そうに郷嶋の目を気丈に見つめていたが、ふいと顔を背けた。頬が上気していて、ますます子供のようだった。
 青木は顔に似合わず頑固である。郷嶋は少し苛立って凶悪な顔になったものの、その顔とは裏腹に、勉めて優しく青木の頬をすくい上げてこちらを向かせた。
「言えよ。なんだ」
 少し強く言って、青木をその蠍のような目で睨め付けた。一瞬たじろいだ青木だったが、暫く睨み合ったあと、逡巡するように形のいいその朱唇を開いて、溜息をついた。
 そして、至極言いにくそうな小声で尋ねた。
「…僕と別れたあと、あんたと話してたあの女の人。…誰なんですか」

 間が開いた。
 ラジオは誰かのインタビューが始まり、綺麗な女性の声とアナウンサーが談笑していた。
 郷嶋は物凄く面妖な顔をして二三度瞬くと、青木から手を離して頬を掻いた。

「あー。…ありゃお前。そっか、お前ってそう言うの疎そうだもんな」
「何がそう言うんですか」
 カチンと来た。すると又、郷嶋ののらくらと話すことにさらにカチンと来た。
「お前が思ってる【そう言うこと】ァな、おそらくまったく的外れだよ」
 青木の隣にソファへ深く沈んだ郷嶋は、振り返ってきた青木に手を振って笑った。
「だから、何が的はずれなんですかってば」
 ぶう、と頬を膨らませた。
―結局そう言う顔をするのだから、性質が悪い。
 郷嶋は心の中で呟いて、笑みを濃くした。そして端にあった上着を取り寄せ、ポケットから煙草の箱とライターを取り出しながら口を開いた。
「あの女な、人妻だぞ」
「人妻だろうが、あんた気にしないと思うんですけど」
 少し不機嫌そうな、じとりとした視線を向けられた郷嶋は、コンパクトのように上蓋が開くゲルベゾルテの箱から一本取り出してそれを弄ぶように指先でくるくると回しながら、涼しい顔で嘯いた。
「俺は常識人だからな、そこは気にするよ。それにな、昔―戦前に甘粕正彦と暫く上海にいたことがあってな、それで知ってるんだよ」
「なんで甘粕正彦なんて関係あるんですか」
 いきなり予想もしない人物の名前が出てきて、青木は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で何度も瞬きした。
「あの女の上司だったからだよ。満映の」
 甘粕正彦は満州映画協会理事長だった。彼は有名人であったから、青木もそれは知っている。映画会社から女優という言葉が連想され、青木はそれくらい綺麗な女性だったと、一瞬だけの印象を思い出した。
 ラジオからは、朗らかに笑って語る女性の声が笑った。『…では、山口さんはいかがお思いですか』とアナウンサーが尋ねていた。
「…え。満影って…あの映画会社の?ちょっとしか見えなかったですけど、女優さんみたいに綺麗でしたもんね…て、あの人、李香蘭!?」

 言葉にしていく最中に、判った。
 ラジオの声の主も判った。インタビューされているのは山口淑子だ。青木が昼間に垣間見たあの女性本人だ。戦前の日本と中国大陸を席巻した、満州映画協会の映画大スター、李香蘭だ。山口淑子とは、中国では中国人と信じられ、日本では中国人か日本人かはたまた朝鮮半島の人間かと新聞にまで書かれて噂に噂を呼んでいた李香蘭が、戦後になって初めて日本人と明かした本名である。

 青木は、今やっと一瞬にして、今日の女性とラジオの声の女性、そして銀幕のスターが一本の線で繋がった。
 どこかで見たことあるのは映画館のスクリーンでだった。銀幕の向こうの人のようだと思ったら、本当に映画に出ている人だった。女優にいたような、などと呆けたことを思っていたら、大物女優そのものだった。
 そう言えば去年だったか、木場と一緒に李香蘭の出ていた映画を観に行ったではないか。
「ようやくわかったのか。かなりの有名人だぞ」
 郷嶋はせせら笑って煙草を銜え、かちりと堅い音を鳴らして火を付けた。ふう、と郷嶋が息を吐き、紫煙が漂った。
 彼女は有名人どころではない。稀代の美貌と美しい正確な歌声、そして堪能な語学が併せ持ったエキゾチカルな雰囲気は伝説でさえある。戦後は、中国人であるにもかかわらず日本人に協力した漢奸と誤解され、ようやく日本人であると証明が出来て日本に帰ることが出来、そして日本とアメリカなどで女優活動を行う数少ない国際派女優であり、つい三年程前に結婚もしていた。逐一新聞でも報道される程だったが、芸能ゴシップに疎い青木は、言われてみて初めてそう言えば…と思い直した。
 おそらく神田の探偵社にいる探偵秘書兼給仕の安和寅吉なら、瞬時に顔を見ただけでわかっただろう。

「だ、だって、そんな突然会ったって有名人に会うなんて心づもりも、僕が会えるなんて考えたこともないんだから、選択肢の中に出てこないです!って言うか、なんで郷嶋さん」
 そんな有名人と!と、慌てて青木は言いつのった。
「だから言っただろ。甘粕正彦と関わりがあって、撮影所の方にも少し通ったことがあったからな、だからだ。俺は一応下っ端とはいえ役人で行って多少接触があったから、覚えてたんだろう」
「そっか…郷嶋さんあんた、内務省の」
「下っ端だからな、雑用係みたいなもんで色んなことやらされてたんだよ」
 とは行っても、青木は郷嶋が戦前の昭和一七年度に内務省入省した、高等文官試験合格者の奏任官であることを前に教えて貰って知っている。所謂、国家公務員のキャリア組の中でも東大卒組で、内務省解体後に警察庁から流れて警視庁の公安へ来ていることを思えば、なにも下っ端ではないのだろう。
 青木は、また遠い錯覚がして淋しそうに無言で小首を傾げた。

 そのときラジオの流れが一旦止まり、中の司会が「では、次の曲は【ふるさとのない女】でございます」と曲名を告げた。
「あ…これだ。ちょっと待ってろ」
「え?…う、わわ」
 郷嶋は顔を上げて青木を制すと、振り返って上体を支えていた彼の腕を引っ張って自分の方へと引き寄せた。バランスを失って、青木は郷嶋の胸の上に被さる恰好となった。
「な…!」
 なにするんだと抗議しようと顔を上げれば、ぽんぽんと少し大きめの頭を撫でてなだめられてしまった。そのまま青木は釈然としないまま、郷嶋の胸に顔を埋めて息を潜めた。
 そして始まる、少しさみしげだけど優しい曲。青木は、先輩と観に行った時にこの曲を聞いた、と思い出してもう少し郷嶋の胸に顔を埋めた。僅かに身じろぎした青木に気付き、郷嶋は暫く彼の素直で綺麗に光の反射する髪を見つめたあと、ぎゅっと抱きしめる腕へ力を込めた。

 始めに鳥がさえずるような異国の言葉で歌われた。
―天地茫茫 風冷雨又狂 何處是家郷。看不見影光 望不見爹娘 我的心像海冷浪。
 江南江西 四處飄蕩 家郷在何方。就風似的寂寞 就雨似的悽涼。
 親愛的情郎 你就是我的家郷 我的家郷。
 你的笑 你的沈黙 你的頭髪 你的眼睛 就像我的故郷一様。
 給我安寧 給我熱 給我光 你比太陽還要輝煌。
 啊啊 輝煌的太陽 照亮我的心房 帯給我故郷的芬芳。
 意味は全くわからないけれど、青木は心の中に綺麗な言葉が降り積もるような感覚がして、とくんとくん、と言う郷嶋の心音と共に目を閉じた。
 短い間奏のあとは、これも綺麗な日本語で歌われた。

―私はふるさとの、無い女。灰色の真昼の雨に濡れながら 私のこころが呼んでいる。 
 ふるさと、ふるさと…。
 恋人よ、私は貴方を待っていた。貴方のそっと、私のこころに 忍び入る夜を。
 貴方の燃えるような、口づけを。
 ああ、ただじっと。ただじっと。切なく待っていた。
 恋人よ、私は貴方を待っていた。ふるさとに似た、貴方の匂いに 抱かれる夜を。
 貴方の髪の中で眠る夜を。
 ああ、恋だけは。恋だけは。嘘をつかないで。

 最後の歌詞は、酷く青木のこころに沁み行って来た。
―恋だけ、は。嘘をつかないで。かあ…。たった一つ、本当であって欲しいことなんだ。
 はあ、と小さく溜息をついている青木に、郷嶋の僅かな呟きが届いた。
「―ふるさとなんて、俺のも…もうねえよ」
 相変わらずの皮肉っぽい声色であったが、さみしさというか哀しみをたたえたような、そんな響きだった。だから青木は慌てて顔を上げた。
「え…」
 郷嶋は窓の向こう、黒い東京の夜景を見つめていた。顎を上げたそのラインに、青木は精悍さの中に寂寞感を垣間見てしまい、胸の高鳴りが激しくなることに自分で気付いてもいなかった。
 青木の視線に気付いた郷嶋は、こちらを向いた。相変わらずの鼻で笑ったような顔をしていたが、それでもなぜか青木には孤愁の匂いが感じられて、今日何度目かの、郷嶋が遠いような間隔に、眼を細めた。
「この山口淑子だって満州生まれだ、今はもうどこにも無い国さ。俺と同じ、ふるさとがないんだよ」
「郷嶋さんの…上海も」
 そうさ、と郷嶋は笑って短くなった煙草を一服付け、灰皿に押しつけた。
「昼に会った時、ちょうど今晩このラジオ番組に出て、今の曲を歌うから聴いてくれって言われてな。…俺に聞けって云う筈だよ。同じだからな」
―ああ、だからこの人僕とチャンネル争いしたのか。
 青木の長い睫毛が瞬いて、視界が少し歪んだ。
 上海という街や、満州国の中の大連や奉天、そして新京と呼ばれて今は元々の長春―満映のあった街だ―と言う名になっている街々は、今だって形を変えて、存在する。その街に住んでいる人間が、変化の中で日々を生き、時代の中でうねる街という生活を形作っている。
 けれど郷嶋や淑子達が生きたあのふるさとでは、もう無くなっている。
 当時の東洋一の国際都市であった上海も、満州も人種のるつぼであり、全ての混沌を背負い込んだ街々はもうあの夏を境にして、永遠に還らない。数々の痕跡を残しつつも流れていった。
 新しい街にいくら立っていようとも―もっとも、普通の日本人は日本国以外から出ることは現状出来ないのだけれども―もう、ふるさとそのものではないだろう。新しい時代の街を、今すむ人間が未来へ繋げて作り上げているからだ。だから、もうふるさとはない。それだけのことである。
―ああ…だから同じに見えたのか。ふるさとのないディアスポラだ。
 青木は、自分とは全く正反対の位置にいる郷嶋を意識して、そっと起きあがる。そして、ちんまりと所在なく項垂れてソファに座った。

 急にしおらしくなった青木を暫く眺めていた。
 自分も起きあがった郷嶋は、その俯向いてさらりと流れた髪を、愛おしそうにそっと、撫でた。そして机の上に置かれて、鈍色に光る鍵を手に取ると、わざと聞いた。
「これ、俺はお前にやりたいんだけど、お前…要らないか」
 突然の言葉に青木はばっと顔を上げ、狼狽した顔でせっぱ詰まった声を上げて否定した。
「い、要らないなんて言ってないでしょう!」
 本音を言ってしまってから、それが本音と気付いた。青木は真っ赤になって、居心地悪そうに顔を伏せ、じろりと唇を噛んで郷嶋を上目遣いで伺い見た。
 その顔に、郷嶋は非常に満足感を得た。
「けどお前、嬉しそうじゃないし」
 あえて、素っ気なく言い捨てると、悔しそうな顔で逡巡していた青木は意を決したように、怒ったような顔で隣に座る郷嶋の上に乗り上げて、彼のYシャツの胸部分を両手で掴み、その勢いのまま叫ぶように言葉を発した。
「…嬉しかったです!鍵作ってきてくれてそれ貰えて、すごく嬉しかったんです!でも、すぐ後にあんなに綺麗な人と一緒にいて、しかも二人ともなんだか雰囲気なんて同じような感じがして…僕なんかと全然違う、あんたにお似合いだって思って…!」
 最後の方は俯向き、嗚咽のような呟きになってしまった。ぽんぽん…と、郷嶋の大きな手が頭を軽く撫でてくれる感触がした。そっと顔を上げると、いつもの舶来眼鏡のむこうで、いつもの蠍とは思えないくらいに穏やかに笑う瞳が、青木を映していた。
 すん、と青木は小さく鼻をすすった。それに小さく郷嶋が笑って口を開いた。
「…お前って、こんなに嫉妬深いの?」
「ち、違いますよ!別に他の人なら、何とも思わなかったですよ!話してるくらいなら。ただ…あの人とは…すごくしっくりしてて、郷嶋さんとあの人が同じように見えたから…。なんだか、僕とあんたとは、全く違うように感じたし、違うんだって思い知らされたんです。大きな壁みたいなのがあって…入っていけないのを、感じたんです…僕」
 自分で何を言っているのかわからない。
 んんー…!と、唸って青木は困惑して両手で髪の毛を混ぜ返した。郷嶋には、自分の感情を上手く表現出来ないらしい童顔の青年が、酷く愛らしいものに映った。青木の腕を掴んで、それを止めた。驚いた青木は、潤んだ一重の大きな瞳を丸くして郷嶋を見つめた。
 青木のうなじに手をやって引き寄せて、優しく、酷く優しく、口吻をしてやった。
「…は、あ」
 焦点の定まらない瞳で息継ぎを青木がしている間、郷嶋は眼鏡を外した。そして、再び呼んだ。
「おい、坊や」
「はい…」
 ぐっと青木の顔を持ち上げ、驚いている青木の額に己の額とをくっつけて、まっすぐ至近距離の瞳を見据えた。己を映す瞳が、少し揺らいでから強い力を持ってこちらを見たことに笑みを濃くした。
「―そりゃな、お前の感じた俺らの同じような雰囲気って言うのは、おそらく大陸的な…文化って言うバックグラウンドが同じようなもんから感じる―そう言うもんだろうし、それはお前にゃわからんもんだ。生まれた場所や時代が違うからな、当たり前だよ」
 青木の眉根が、少し哀しそうに寄った。だから郷嶋は、それを無視して続けた。
「だからってな、同じがいいわけじゃねえぞ。違うから良いってのもあるんだぜ、坊や。少なくとも、俺と坊やは違うから―違うところがあるから、俺は良いって思うんだよ」
「ほん…とう、ですか」
「俺は無駄なことなんざ、やること以前に話すこともしないよ」
 可笑しそうに、青木は少し笑って口元を軽く握った拳を当てた。
 「…ほら。持っとけ」
 改めて鍵を握らせた。そしてもう一度眼鏡を掛け直し、立ち上がった。目を見張った青木は、慌てて呼びかけた。
「あ…あ、あの。郷嶋さん!」
「なんだよ。腹減ったから、飯暖めるんだよ。お前、食べるか?」
「え…あ。はい。やっぱり一緒に、食べます」
 振り向いた郷嶋に予想外のことを言われ、一瞬あっけにとられた青木は少し気の抜けた返事をしたものの、朱唇の端を上げて頷いた。そして、再び呼んだ。
「郷嶋さん、これ。ありがとうございます。…あの、僕―あなたのこと」
 そこまで言って青木は視線をはずした。顔を赤らめて言いにくそうに、青木の恥ずかしさが喉につかえてしまいながらも、紡ごうとした言葉を止めたのは、郷嶋の一言だった。
「待てよ。先に言わせろ」
 青木が顔を上げた。その顔がとても気に入ったので、郷嶋は青木の顔に手を伸ばし、顎のラインをそっと擽るように撫でる。そして、ありったけの愛おしさを顕すように囁いた。
「給我安寧、給我熱、給我光。…阿文」
 安らぎを俺にくれ、愛情を俺にくれ、光を俺にくれよ。―アウェン。
 それは郷嶋の本心だった。だから、軽く口に乗せたはずのこの言葉は、自分が思った以上に真剣になってしまった。
 郷嶋が口ずさんだ先ほどの歌の一節は異国の言葉だったから、青木には言葉の一つ一つはわからない。けれど、最後の阿文は郷嶋だけが青木を呼ぶ名前だったから、単純に嬉しくなった。
「―愛しているよ、可愛い俺の坊や」
 今度こそ青木は、真っ赤になった顔で子供のように笑って、しあわせそうに大きく頷いてみせた。


 翌朝、恐ろしく上機嫌で仕事に張り切っている青木に、ほっとするやらギョッとするやらの木下がいた。






                                                         end.  2009,07,12

Afterword

 あまいあまいあまい!
「ラジオのチャンネル争いをする郷嶋と青木」って云う、素敵なネタを「叫んでごらん、その声で」の林檎さんに頂いちゃったので、うっはうはで書いてしまいました!よ、よろしければ捧げさせて下さい…!!
 ついでに、色んなネタも入れてみた。
 初めて合い鍵貰うとか、木下青木の近所の官庁食堂巡りとか、そういうの!
 やっぱね、甘くてしあわせなのが良いですよ!

 てか、自分設定満載ですみません。
 郷嶋が最後に言った阿文は、文蔵の中国語的愛称です。たまにそれで呼ぶ。

 あー…李香蘭はホントに『異国育ちの人』って意味で郷嶋と一緒…っつー意味でのなんで、ご本人とかには関係ないですよ!
李香蘭・山口淑子さんって言うキャラだから!!!一応ね!
 たまたま54年の3月17日に半年ほどヨーロッパからサイゴン・香港(中国の映画へ出演するため)へ行ってた旅行から帰ってきた、って云う当時の新聞記事を見たので使ってみました。ラジオ放送は勝手に捏造した。
 それから、戦後の一般日本人の海外旅行解禁は昭和39年(1964年)。オリンピックがあった年。だからそんな時代に海外へ行ける山口さんは、女優としても色んな意味で本当に特別なのね。知らない人はいないってのはマジで誇張じゃない位の有名人なんだけど、だからこそ芸能系の世事に疎そうな青木は、真逆そんな有名人を生で見るとは思ってないから本人と分かんなかった、って云う感じです。
 朝日新聞の縮刷版と記事検索サイト『聞蔵2』はわたしのおともだち!淋しい子だね。
 李香蘭=山口淑子の「ふるさとのない女」は、こちらから聴けますのでどうぞー!にこでもつべでもあるよ。
 (映像は『上海の女』 稲垣浩監督 1952年 東宝映画のなかの一シーンです。歌っているのは山口淑子さん本人。綺麗すぎる。
 一曲目の中国語曲は夜来香(イエライシャン)、二曲目が「ふるさとのない女」で、一番が中国語、二番が日本語のダイジェストになってます)
 物凄いこころに来る歌なんで、ぜひぜひオススメです!!
 いつか、郷嶋に使ってやろうと思ってました!


いろいろと勢いで書きました!!









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